朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり。

長門って文芸部員になった長門の世界の長門だと小説ばっか読んでんのって文学少女だからだよね。リアル長門が何でも読んだりするっつーか一般的に小難しそうなのを読んでるのってそういうのが長門の知性に対応しているからだよね。いや、まぁそれはおかしいか。そもそもあんなに超越的な知能を持った生物なら人間が書いたものなんかに興味を示すはずがないもんな。


それともまぁメタ的に読んでるのかな。「人間はこう考えるのか」的な。まぁいいや。んで長門が読んでたゲーデルエッシャー・バッハあるじゃん?まぁ長門が読んでたって関係無いけどさ、ようやく俺がこれを読む時期になったんだなって思ったのはさ、いや、邦訳が高いんで英語のやつを買ったんだけど、ここ半年ぐらいはゲーデル関係とか数学基礎論の本を読んできたってのもあってさ、一個の帰着点みたいな感じかな?って感じてるんだよねって読んでみてそう思ったわけね。ようやくチャプター1あたりまで行ったけど、雰囲気的に数学基礎論とかゲーデルの話とかパラドックスの話とか全部近い出来るようになってる気がするよね。


でも知らない人が読んでもやっぱ「は?」って感じなんで、やっぱこの辺の予備知識を得てから読んだほうが読みやすいんだろうなって凄く思ったねっつーか一年前ぐらいにあっちの本屋で見てみてもさっぱり分からないっつーか興味をそそられなかったんだけど今は全然違うね。ネバーエンディングストーリーに出てくる主役の男の子だかがネバーエンディングストーリーの本を読むときみたいなウキウキ感があるっていうか、俺にとっての小説とかファンタジーとかってのがつまりは科学とか数学とか物理学なんだよね。いや、科学なんでファンタジーではないんだけど、でもファンタジー系のものよりよっぽどファンタジックな味がするよね。


で、思ったのはさ、こういう知的欲求があるってやっぱギフトだと思うわけ。でもそれを知能指数とか頭の良さに繋げるとややこしくなるし、それじゃ「俺は頭が良い」って言ってるみたいでアホになるけどさ、GEBを読んでて思ったのはなんつーかもうこういうの読んでて楽しくてしょうがない感じってのがようは俺にとっての幸福の一つなんだよね。他はクソなことばかりだけどやっぱこういう瞬間があるからなんつーか生きてる気がするっていうかさ、楽しいんだよね。最近カントとかヘーゲルの本を読み終えてないってことで読んでたんだけどつまらなくてさ、なんかGEBで解放された感じだね。まぁ知識としてカントとヘーゲルは知っておきたいんだけどんでもまぁ知的刺激は俺にとってはないよね。それこそお勉強感覚かもしれない。だからつまらないんだね。


いや、んでこの楽しさってのを感じられるっていいなって凄く思ったわけ。まさしく神様からのギフトだよね。まぁそういう生活をしていられるというのもギフトだけどさ、んでもそれは必ずしもなんていうかギフトがあるから社会的に成功できるみたいな世俗的な意味じゃなくてもっとなんつーか個人的な意味だよね。それに対して長けていてそれをやっているのが楽しくてしょうがないという感覚というかさ、そういうのがあるって人はどんなフィールドでもいいよね。そういう人は幸福だと思うんだよ。それが社会的なものに帰結すればもう言う事なしだよね。まぁ感受性が高いってまぁ社会的には大変だけどさ、んでもまぁなんつーか良いところもあるよねっつーのがまぁ音楽とか映画とかアートでもいいんだけど、フィーリングが合うものに関して感じる感動の度合いが違うんだよね。恐らく。


自分で感受性が高いって言うのもなんだしさ、こういうこと書くと「なんでその程度で高いって言えるんですか?」っていうやつが必ずいるから嫌なんだけどまぁいいや。かといってまぁそれを認めないとかさ、たいしたことないみたいな感じで謙遜し過ぎるのって逆にダメだと思うんだよね。別に自慢しなきゃいいんだよ。客観的というか相対的に高いって思ってる分にはいいわけだ。そこに高いから良いとか低いから悪いなんていう価値判断は存在しないよね。んでもさっき書いたような「なんでその程度で・・・」的な文句を言いたいって人はなんつーかあれだよね、そこにもう価値観が介在してるんだよね。それ自体が良いことだと思っているので、だからつまりは「感受性が高いから」とかって書くと「俺は優れた人間だから」みたいに聞こえちゃって嫌味になっちゃうっていうさ、特にルサンチマンの塊みたいなやつは文句を言いたくなっちゃうんだよね。


感受性が高いってでも本当に特に今みたいな社会で言えばアドバンテージなんて無いよね。むしろ大変だよ。そういうのを活かせる仕事とかに就いている人はいいかもしれないけど大抵においてまぁ苦労するよね。精神的に。前にKazさんという人が彼のブログでさ、俺のことを「感受性が高過ぎて彼は社会でやっていけないだろうな」みたいなことを書いててさ、んで「凄いとは思うけど彼になりたいとは思わない」って言ってたのが本当に的確で凄く嬉しかった覚えがあるんだよね。それなんだよね!っていう。凄さは認めつつもそんなに繊細過ぎたら大変だから嫌だねっていうさ、そういうもんでしょ?感受性って。まぁ俺から言わせれば彼も結構やっていくのに苦労するレベルの繊細さの持ち主なんだけどね。あんまここで他の人のブログに対して色々書いたりはしないんだけどさ、勝手に彼のブログから引用させてもらうとさ、

こないだストレスで吐くという体験を初めてした。練習室でピアノ弾いてたらなんか人が集まってきて普段はそういう日本的な集団のもたらすべったり感みたいのは排除できるんだけど疲れてるとどうも入ってきちゃって、体が中心まで冷え切っちゃうんですね。家帰って熱い風呂入っても震えが止まらなくて、吐いてベッドにもぐりこんでも手足がしびれて体中がばらばらになるように痛くてこれこのまま死ぬんじゃないかなと少し思うくらいのしんどさで、いろんな言葉とか情景とかは走馬灯のように頭の中をぐるぐるぐるぐる廻ってるし胃はやぶけそうに痛いから眠れないしもうね、地獄でしたね。ほんとに地獄だった。


まぁ書くと長くなるんだが、彼はここ一年ぐらいピアノをやり始めてるんだけどさ、まぁそのコミットの具合が深いんだよね。凄まじく繊細なんだよね。俺もあんな感じで数学やれたらなって思うぐらい打ち込む姿がかっこいい。で、なんかこの彼の嘔吐なんだけどさ、俺が勝手に思ったのはさ、彼の元々繊細な感覚ってのがピアノをやることで研ぎすまされていて、それはまさしくなんていうか刀を研ぐような感じっていうかな?繊細さというマテリアルはあるんだけど、ピアノというデリケートなものをやることで感覚が研ぎすまされていって、それが結果的にというかつまりはそれは音に対してだけじゃないんだっていうさ、ピアノに向かうことで研ぎすまされている感覚ってのが下劣なものに対しての耐性ってのを下げちゃうというよりかは、まぁ繊細になる分、受けるダメージが強くなるんだよね。


それは俺も本を読むようになって客観的に見ればそうなったなと思って。特に留学直後なんて学校でふざけてばっかだったし「みんなのビル」だったからさ、すげー明るかったんだよね。まぁ渡米して弾けていたというのもあるんだろうけどさ、最初の2年ぐらいはそうだったかな。で、結構読書するようになってから色々と考えるようになってさ、そこからどんどん暗くなっていったっていうと言い方が悪いけど、やっぱ繊細になっていったんだよね。元々まぁ精神的にかなり弱いけど、それは精神的な弱さというよりかは感覚が研ぎすまされていく感じだよね。だってそれこそ「自我とは?」とか「意識って何なんだろう?」みたいなことを永遠と考えてたりしたらさ、それも結局はまぁ思索って意味でピアノと一緒なんじゃないのかな?っていう。それで感覚が研ぎすまされていくんだよね。で、研ぎすまされていった結果、例えば過去に面白いと思っていた本をくだらなく感じたりまぁ音楽や映画然りだけどさ、つまりはまぁレベルアップだとは思うんだよね。でも極度に敏感になるということで結構リスキーなことかもしれないね。


まぁ俺にとってのリスクなんてないけどね。これしかないんだから。いや、論理とか合理性とかに敏感になるってのもあるんだよね。論理的思考をちゃんとするようになると非論理的なことを言う人とか論理破綻している人の言うことが聞けなくなるっていうか、聞き流せなくなるというか堪え難いノイズみたいになるんだよね。うちの父がまぁそういう人でさ、んで俺が問いつめたり「いや、ここがおかしいでしょ」みたいなことを言うとまぁ結局最後は怒るんだよね。


だから母からは俺が正しいのは明らかだけど関係を悪化させないためにもまともに話し合うのはやめたほうがいいって言われてるんだけど、でもこれって悲しいよね。恐らく昔の俺だったら話せたんだろうなって。まぁ昔は仲が悪かったからね。で、留学後色々あってまぁ色々と話したりしてさ、あ、スカイプとかでね、んでまぁ仲は改善されたかに見えるんだけど、んでも恐らく俺のレベルが上がってるんで父のロジックとかに耐えられなくなってる俺がいるんだよね。「あーここはこうだからこうなんだよ」って優しく言えなくなってるわけ。「なんでこんな風に考えるんだ!」って仰天しちゃうんだよね。これがつまりは世間との乖離なんだろうな。別にうちの父は格別馬鹿ではないからね。まぁ普通の人だよ。母も。


これもある種の感覚と言えるんじゃないかな?ロジカルに考えるという癖があっちに行ってから身に付いたおかげで非論理的なものに耐えられなくなるっていうさ、元々でも俺はロジカルな人間じゃなかったからね。かなり感情的でそれこそうちの父に似てたと思うんだけど、今はもう凄く差を感じるというか距離を感じるね。もう対等に話せないなっていう感じがする。それはやっぱ5年近く離れてて俺が変わったんだよね。父が馬鹿になったわけじゃないよね。ようはだからさ、こういうことでそれまでは気にしてなかったこととかも敏感に気がつくようになって「これおかしいよね」って感じる事が増えるんだよね。で、結果的にもうそんなことだらけになって嫌になっちゃうっていう。


まぁなんつーかでもそう思うのね。たしなみ程度でやるんじゃなくて深いコミットを芸術とか楽器とか思想とかにすると感覚が研ぎすまされていって凄く色んな事にまでセンシティブになるってのはあると思うんだよね。ようはperceptionだよね。その感度だよね。溜まっているときのちんちんの感度と抜いてすぐのちんちんの感度って全然違うじゃん?そんぐらいの差ができるんだよね。だからこそあんま考えずに生きていったほうが逆に楽なのかもしれないよね。でもそれが出来ない人達ってやっぱいるのよ。それは不器用ということもそうだけどさ、いや、ようはそっちのほうが楽だから社会に適応しようとかって思って出来るみたいな器用さが無いということもあるんだけど、そうじゃなくてね、俺が言いたいのってそれが分かっててもそれがやりたくてしょうがないんだよね。


自分では感覚がどれだけ研ぎすまされていって世間と乖離するのか分かってないんだけど、んでもそんなことは気にしないで考える事とか読書に没頭したいとかピアノに没頭したいって人がいるわけだよね。で、そういう人達って生まれつきの繊細もあるけどやっぱ後天的なものが大きいんじゃないか?って凄く思ったねっていうのがようは後天的にピアノとか思索とか芸術とかそういうのに没頭することで感覚が鋭くなるっていうことでね、んでその感覚ってのはリアルタイムに作り出されているものなんだよね。だから例えばそういう生活を続けていてもある時毎日段ボールを朝8時から夜の20時までやり続けなきゃいけないという生活しかなくなるみたいになったらさ、そういう生活してたらどんどん感覚って鈍っていくと思うんだよね。知性然り。どんどん鈍るよね。


どちらが良い悪いではないんだけどさ、でも段ボール型の生活ってロボット型じゃん?で、ピアノとか読書とか芸術って人間らしいよね。人間型だよね。それこそ活動じゃん?そういう活動を通じて得られた感覚ってかけがえの無いものだと思うんだよね。俺は。まぁ勝手にKazさんの話をしちゃったけど、彼の嘔吐ってのがピアノへの深いコミットによってもたらされたんだったらさ、それって辛い事だけど凄いことだと思うんだよね。仮にピアノで感覚が鋭くなったという仮説を前提にすればだけどね。それってあまり社会性が無いことかもしれないけど、社会性だけが全てじゃないじゃん?むしろ嘔吐するなんて稀な感性だよね。それって俺は希有なものだと思っていて凄く貴重なものだと思うんだけどね。だからこそ彼みたいな人間が会社員とかになったらすげー嫌だなって思うわけ。


まぁ俺の人生じゃないから彼が決めるしかないんだけど、んでもなんかその感性を生かした何かをやってほしいなって凄く思うよね。そういう感性を潰さない社会っつーのかな?そういう感性を活かせる社会ってのがあれば文字通りそういう感性ってギフトってことになると思うんだよね。まぁでもやっぱあれなんだろうな、「そういう社会があればなぁー」じゃなくて活かせる何かを模索したり、常に研ぎすますっていうことを続けるしかないんだと思うよね。社会は変わらないからさ、かといってこっちが迎合して変える必要もなくて、自分が場を探すんだよねっつってもまぁ難しいんだけどね。「そんな場ありません」って言われたらそれまでだけどね。


んでもなんか孤独とかさ、感覚が研ぎすまされる事によるディスアドバンテージとかさ、そういうのにも全部耐えられるっていうか、そんな中でもやっていけるって人ってのが凄い人になるんだろうなって思うよね。やっぱ大抵どっかで妥協しちゃうと思うんだよね。食えないから迎合するしか無いとか適応するしか無いみたいなさ、そういうことでね。んでも俺に関して言えばそれは絶対やりたくないことであってさ、いつも書くようにそれって俺にとっての死だからそんなものを求められるときには死を選ぶよね。ゾンビ人間になるのなんか嫌だからね。いつも書くようにそういう意味での自殺って選択があるって思ってると結構楽になれるんだよね。「何もかもダメになったらどうしよう!」とか将来への不安なんて言い出したらキリがないじゃん?だからまぁ最終選択としてどうもこうもいかなくなったら死ねばいいんだってドライに思ってればさ、「あ、そっか」って思えて楽なんだよね。


そもそも生きてる意味が無くなるような状況になってしまったら生きてる意味なんて無くなるんだから死んだほうがいいじゃん?よくそんな中でも頑張って生きろ!みたいに言う人がいるけど俺に言わせればああいうのって余計なお世話だと思うし無責任過ぎると思うんだよね。それこそ感受性が高い人間のことを全然理解できてない。頑張って生きることが出来ればこんなに悩まないんだって。生きることに耐えられなくなるから死ぬんであってさ、そこで頑張るなんて選択は無いわけよ。まぁ人によってはまぁ追いつめられたりしたら感受性なんて関係無しにまぁもう死ぬしかなくなるけど、でもそれを終わりだって考えるのは間違いだと思うんだよね。死は終わりじゃないじゃん?そもそも誰にでも来るものなわけでさ、それが早いか遅いか?の差なんであってさ、別にいつ死のうが人の勝手だと思うんだよね。まぁ電車飛び込みとか硫化水素とか迷惑がかかるやり方は絶対やっちゃいけなくて、だから自分なりのすぐに逝ける方法ってのを持ってたほうがいいね。ダメになればこれがあるさって思うとすげー勇気が湧いてくるんだよ。暗殺者とかが歯の奥とかに毒薬仕込んでおくようなもんか。


死ぬ気になればなんでもできるってこれだと思うんだよね。俺は前からずーっと死ぬ気でいるからまぁやってこれたんだよね。あっちでも。まぁあっちにいたころは帰国=死だったけど、まぁあれはあっちにこだわりすぎていたんだよね。単純に学問をやるということでは場なんて関係ないわけでさ、ただまぁあっちの大学でやっていきたかったから、まぁこっちじゃ色々と話を聞いても本を読んでも日本の大学って本当にクソだからまず日本の大学でやっていくなんて無いなって思うんだけどさ、だからまぁまたあっちに大学院ぐらいに戻ってやりなおすっていうさ、とりあえずundergraduateはこっちで出ておくっていうのがあるけど、んでもまぁモチベーション下がってきてるよね。


そもそも今自分でやれているのにさ、そんなにリスクをかけてまで得られるか分からないようなアメリカでの大学のポストを狙うためにそれこそ10年近くかけてそれをやっていくって非現実的だよね。金銭的なリスクがあるからこそリアルに危険だなって思うわけで。かといって今どうしたらいいのかは分からないし、あっちの大学でやっていくプランをなしにしちゃうと当初の目標とかってのが一気に無くなっちゃうからさ、一気に「どうしようかなー」になっちゃうんだけど、まぁでもとりあえず今は本読みたいからそれでいいかって感じだよね。将来の事を考えないということではないんだけど、悩み過ぎてもしょうがないしさ、まずやりたいことをやれるうちにやったほうがいいなってのがまぁ今の実感だよね。完全に即死できる薬とかあれば手元においておきたいよね。


ダメになったら一瞬で現世から抜け出すことが出来るって考えれば楽じゃない?それって。そんなに悲観することもないんだよね。だから。地縛霊とかになるとかなんだとかスピリチュアル系の人は言うけどさ、それこそ般若心経とか完全に理解してそれこそ悟り開いてればいつでも入滅していいわけよ。何を悟りとするか?だけどさ、でもいつでも死ねるように覚者になるっていう選択もあるじゃん?俺なんかはそうだよね。孔子の「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」だよね。


まぁ生きられる道があれば当然それを選ぶし積極的に探していくけどさ、それこそなんかまぁ極端な例でね、社畜にしかなれないとかまぁその社畜にすらなれないって人も増えてるらしいけど、まぁなんかそういうのに巻き込まれるしかなくなっちゃったらまぁその前に死んだほうがいいじゃん?そういう選択が出来るぐらいの心になっていれば入滅なんでいつやってもいいんだよね。それは俺は自殺とは言わないと思うのね。だからそのために俺は確実に一瞬で死ねる方法を知っておく必要があるんだけど、まぁ前はずーっと首吊りだって思ってたんだけど、結構失敗すると痛いらしくてさ、痛いのは嫌だからやっぱ練炭かなとは思うんだけどね。


いや、俺は別に死なないとは思うよ。でもいつでも死を想定しているという意味でリアルに死を考えるって意味で死ぬ方法を考えておくってことなんだよね。これは正気であればあるほど自分にとって合理的な選択として選べるようになるんだよ。入滅ってやり方がね。やっぱ死って解放だと思うんだよね。みんな死ぬのが怖いから不安になるわけでさ、いつでも死ねるって思ってればいいんだよ。そんなの。それこそ感覚的にボタンを押してポーン!みたいな感じだよね。そんぐらいでいいと思うね。死を大げさに考え過ぎなんだよ。そんなたいそうなもんじゃないと思うんだよね。あれは。あ、苦しみが無ければね。上手くやれば最高だと思うんだよね。もちろん迷惑をかけずにね。正気じゃないから電車とかに飛び込んじゃうわけで、だから正気なうちに死ぬ方法は考えてたほうがいいと思うね。いや、ポジティブな意味だよ。だからこそ死を恐れないような生き方が出来るってことなのよ。


ってことでした。