狸さんへの返信。その4。

狸 2011/02/10 00:40


今回の返信は真摯の叱咤と思い、噛み締めながら読ませてもらいました。


前半は、今回の返信で思った自分の分析です。これは書かないと、耳蝉さんに対してあまりに失礼なので、書かさせて下さい。


まず、僕がネットに接続するのは、本の要約といくつかのブログとウィキペディアで情報をみるくらいです。基本的ネット空間でこうしたやりとすることはあまりありません。というか、ネットで意見交換をしたのは、この前の耳蝉さんのやり取りが初めてで、今回が二回目です。それで、僕にとってこのやり取りはかなりオフィシャルなものなのです。カフェテリアで耳蝉さんと話していたら、前回のようなエントリーは決してしない。やはり、二者だけのコミュニケーションと、そこにまぁこの記事を見ている人がどれくらいいるかはわかりませんが、第三者も入っているコミュニケーションでは僕にとって根本的に異なるのです。


それで、アマチュアリズムに関してなんですが、少し誤解してほしくないのですが、別に若いからどうとかはあまり関係はありません。僕より若くても、より高度な政治の議論をできる人もいると思いますし、逆に年上でも、できない人はいると思います。それで、僕はアマチュアリズムが正直、あまり好きじゃないのです。だから、野球同好会よりもプロ野球が好きだし、サッカーなら、Jリーグよりも、ブンデスリーガが好きです。美術サークルの展示なんかも、だからほとんど見ません。けれど、これは、僕のただの美意識です。それで、このやり取りが僕にとっては、居酒屋感覚なんかでなく、かなりオフィシャルであるがゆえに、耳蝉さんとの齟齬が生じてしまったように思います。そして、同時に今回の議論においては、明らかに僕の美意識は悪弊だと思いました。なので、そのへんは捨てて今回のエントリーは書こうと思いますが、やっぱりどうしても無意識に働いてしまう美意識的な振る舞いが出てしまったら、気にしないでください。


次に前回のエントリーの引用について


僕の思考スタイルというのは、基本的に二項対立をいくつもインプットして、より複雑な網目を作っていくことです。そうしたいくつもの、まぁ関門みたいなのを設置して、問題が出たら、それをそれぞれの要素に分解して、それぞれの関門にふるいをかけて、その結果でた数値の総合ポイントをみます。いくつもの二項対立があれば、何ていうんでしょうか、重心が安定するというか。より柔軟で臨機応変に対応できる思考の枠組みが最近欲しいと思ったんです。それで、今回出てきた固有名詞というのが、近頃取り入れた二項対立の一連なのです。だからラカンに拘っているとか全くないです。ただ今読んでいる本がラカンだっただけです。


ただ、正直これだけ固有名詞に頼るというのは、「知ったか」、という理論を扱う上で一番やっちゃいけない無自覚ですよね。知らないことを隠すために、固有名詞に代表させて権威を借りるというか。体裁だけ整えた文ができるだけで、そこにはほとんど空の容器だけがあるというか。だから、耳蝉さんが言う
「今回は狸さんの独り語りと概念の解説になってしまっていますよね。」というのは、本当にその通りです。なんというか、記事の上でどう考えたかをださなきゃいけないのに、僕はオナニーを見せてしまった。非常に申し訳ないし、見苦しいものを見せてしまった。と同時に僕の二項対立の思考が陥っている穴にも自覚しました。僕の思考って究極の「日和見」なんですね。常に決断を二項対立の中間で浮かせる。それで、なんとなく流れていくほうに合わせて流れていく。どうしてこんなに理論武装してしまったのかを考えてみると、どうやら僕は耳蝉さんに「決断」を迫られたときに、たくさん二項対立を出して、煙にまこうとしたんですね。「決断」することを回避するために。たぶん。


それで「変化」に関してですが、それは二番目のエントリーの冒頭の「狂気」のまとめにも、三番目のエントリーの「言葉」の説明なんかに出ていますね。これは、たぶん12月くらいに就職活動をやめて、本当に自分は大学というアカデミックなところでやっていかなきゃいけないんだな、と思い始めたからの気がします。それまで、愉しく好き勝手に空想に耽っていたが、何とかそれを“アカデミック”という体系に変換していく作業をしたからだと。それの是非はわかりませんが、大学でやるというのを戦略的に選択したからには必要な作業だと僕は思ったのです。たぶん、それが無意識にでてしまった。それで、耳蝉さんの「構造化されない位置」を無意識に学術的な体系にいちいち組み込む作業をしてしまった。


これが一応、僕の変化に対する自分なりの分析です。それで、このウォール伝という場の最たるものは、「純粋な思索」ができる、ということですよね。別にそれはアマチュアだとかそんなのは関係がない。それこそ「思ったことを言う」という。だから僕は引き付けられ、あの時コメントをしたのですから。そして「ウォール伝」というのは、耳蝉さんが心血を注いで築き挙げた空間です。そう思うと、前回の返信は、そうした場に対する冒涜ですね。気をつけます。本当に失礼しました。


で、ここから返信を書きます。


「悪人は一生悪人で過ごす」という言葉が、「善人は一生善人で過ごす」という言葉に聞こえました。僕はかなりの利己的振る舞いによって、「善」としか関わらなかったのかもしれません。そして、「悪」を周到に、確実に回避してきたのかもしれません。で、これは僕の悪に対する想像力の欠如だと自覚した上で聞きたいのですが、「僕は普遍的な凄くベーシックな善の必要性」というのが、どのような善のことをいっているのかよくわからないのです。「善」というのを維持したいというのは、徹底的に美意識的なものじゃないですか。それに立場が変われば善なんていくらでも変わる。耳蝉さんの善の普遍性の話で、気になるのは、善の欠如によって社会が疲弊するのは、「悪」にとってもマイナスである、と考えているように思えるところです。たぶん、「悪」というの、反社会的な連中のことです。はっきりいえば、猛獣です。腹が減ったら他人の獲物を分捕る。殺す。それが彼らの「利己的な振る舞い」です。


「なんの社会的・組織的メリットが無いような単純な「嫌なこと」をするのか?」という点でいえば、社会を壊して動物的な世界にすることが、彼らのメリットだと思うのです。だから、メキシコのギャングの例でいうなら、彼らは殺し合いによる生存競争こそ、彼らにとってのメリットであるという。だから、普遍的というのは全く違って、「悪」と「善」は同じ土俵での闘いでしかないと。その上で、「善」を選択し、かつ社会の維持を望んでいる僕がどうその善を強くしていくか。僕は自分のことを「一生善人で過ごす」と言い換えましたが、僕の人生での悪との戦いは、少なからずありました。そこで、「悪」であるより、「善」であるほうがメリットがあるぜ、というのを説得できたからこそ、今のような自分の善を維持している。だから、僕は善のメリットを説くということを、それこそ一番それが達成しやすい個人的関わりから始めるのがいいじゃないか、と言ったのです。が、これはもちろん非常にミニマムなことです。


それで、啓蒙の限界が見えた時点で僕は「個人の善」ともう一つの、「アーキテクチャ」を提示したわけです。一種のエリート統治です。善のエリート達による。これはまぁ、人間をほとんど動物的なものであり、自由意志を否定するような考えですけど、完全には否定しない。99%動物だけども、1%くらいは自由意志があるという。それが「個人の善」で僕は拾えると思う。で、これは前のやり取り(11月の)で少し俎上に上がった話題ですよね。そこでの耳蝉さんの反論は、「じゃあ誰がそれを設計するの?」という点です。この点は、何ともいえませんが、現在の問題にそくしていうなら監視カメラを至るところに付ける、ということです。それこそ、確実に犯罪の検挙率は上がるし、危険な目に合う割合も減る。例えば、車は全て全自動にする。アクセルと間違えてバックすることはなくなる。居眠りして運転できる。ただ、当然そうすると人は、「俺の自由、善はどこにあるのか」と考えると思う。僕はこうした反面教師の「善」が、今のところ「善」を最も最大化するんじゃないかと思います。この最大化というのは、結局のところ人間の生存を安定させるということです。人間が安定して、一箇所にとどまることができなくては社会は成立しない。維持もできない。だから、とりあえず「安心社会」を作る。という。こうした工学的な社会設計が、当然限界があるにしても、今のところ一番有効であるんじゃないでしょうか。


それで、もう一つ聞きたいのですが、耳蝉さんは善の啓蒙には限界があり、個人が個人に振舞うのも限界あると言っているけども、「善の必要性」というのは、モロ啓蒙的な行為ですよね。その啓蒙と、その前に耳蝉さんがいった「啓蒙の限界」の違いが僕にはよくわかりませんでした。補足していただければ幸いです。


最後に日本と「善」についてですが、日本に関しては先のエントリーで書いたように文化を外部からもらって回す国と僕は言いました。それは同時に、「善」を外部からもらって回すことを意味します。「何かの判断、価値というのは外にある」、という心境は今の日本人が割りと共有しているものじゃないかと思います。それこそ、僕があれだけ西洋の哲学を切り貼りするなんかその例です。自分の言葉で語らない。「あっちに価値があるぜ」という感じ。「ニーチェが言ってた」という枕詞一つで、ほとんどの障害がなくなるのです。というか、「ニーチェの考え方は間違っている」という思考をスタートさせることがかなり難しい。
それこそ、「ニーチェはとりあえず正しい」という前提から都合の価値を借用していく。日本の善の限界はその辺にある気がします。けれど、それは決してダメなことではない。日本という地政学的な条件を考えると、それが一番国を存続させるやり方にみえる。というのも、善を自国内で持つというのは、それだけ「闘う」可能性は増えます。「善」と「善」が対立することもある。それは善が悪と対立することと根本的には変わらないからです。そうした可能性をできるだけ低くする戦略が、日本のカメレオン的「善」じゃないかと。それが同時に、善の圧倒的な不在を感じる耳蝉さんの心境に繋がるのではないでしょうか。


*そうですね。「言葉」の話題は、今回のエントリーでやるにはあまりに大きい話ですからね。
いずれやりましょう。

色々失礼いたしました。
お返事お待ちしております。


基本的に狸さんの議論のプロ精神は凄くいいと思います。居酒屋感覚だと適当なことを言えますからね。狸さんの美学は捨てなくていいし、それは逆にあったほうがいいと思います。ただ僕はこの場においては居酒屋感覚でもいいし、プロ感覚でもいいし、その場に応じて色々なやりとりができればいいと思っているんですね。逆に僕が狸さんだった場合、それは僕が狸さんのような美意識を持ちつつ、ネットでやりとりをすることがあまりないという人間だったら、例えばこのやりとりってまぁ僕だったら凄くストレスフルなものになっちゃうと思うんですよね。毎回ドキドキしちゃうと思うんですよ。ヘタなことは書けないし、安易なことも言いたくない・・・みたいな空回りが生まれてしまうというか、その辺で僕が言っている居酒屋感覚は「もっと気楽に」なんですね。ここで繰り広げられているのは戦いではないし、対話だと思うし、気楽ながらも議論は真剣でいいと思うんですよ。


だから狸さんやここに何かを書いてくれる人は知識量とか議論の密度とか関係無く、とりあえず思った事を書いてほしいなって思うんですよね。かといっても安易な馴れ合いが生まれるのは嫌だし、そういう意味で僕は居酒屋的な敷居でも議論は僕なりのプロ意識というか、プロではないけどアマチュアリズムに甘んずるようなことはないようにしているんですよね。なので言わば凄く良い意味で場違いな場所でマジな議論をしているという感じですね。居酒屋なので何でも言えるんだけど、でも内容は真剣みたいな。そういう意味でやりとりの「場」に関する緊張感というのはそこまである必要はないと思うんですよ。それって議論がマジなら自ずと場も緊張してきますからね。場所が居酒屋であれカフェテリアであれ僕らのやりとりはマジなものになります。それでいいと思うんですよ。なのであまり場について深く考えないでほしいなぁーとは思いましたね。


でもそのオフィシャル感覚って必要だと思うし、否定しようとは思わないんですよね。あと狸さんの美意識自体は悪弊だとは思いません。ただそれを持つが故に言葉が少なくなったり自主規制してしまうとそれは狸さんにとっても議論にとっても良い影響は与えない気はします。まぁようはバランスですよね。それがあり過ぎると堅くなり過ぎちゃう気がするんですよね。それが勘違いであれ学術的におかしいことであれ、もっと自由に発言していい場なのにその自由が無くなってしまうというのは勿体ない気がしますね。繰り返しになりますが、僕は狸さんとのやりとりを居酒屋レベルのダベりだと思ってはいませんよ。僕は凄くマジですし、狸さんもそれは同じですよね。でも場は居酒屋なんでそんなに気張らなくてもいいのでは?ということですね。


あとあれなんですよね、狸さんがオナニーと言っていることなんですが、前にも書いたように狸さんって自分の言葉を持ってる人だと思うんですよ。固有名詞に天然で頼って語ったような気になってる輩って凄まじく多いんですよね。で、そういう人とは僕は最初から興味ないのであまり話そうと思わないんですよ。でも狸さんは僕が感じた限りではそういうタイプの人間ではないと思うんです。あと知識を吸収する過渡期みたいな時期には恐らく誰にでもそういう時期ってあると思うんですよ。でも僕が凄く勿体ないなと思ったのは、狸さんは一時的な過渡期に陥っているからこそ固有名詞に頼り過ぎたのではなく、狸さんの美意識が故に堅くなり過ぎてしまったのかな?という気がするんですよね。さきほど書いたことですよね。これは。


言葉が足りなくても自分の言葉で書けばいいし、ちなみに言葉で言えば狸さんのほうが優れていますよね(笑)というか所謂、ちゃんとした文章は狸さんのほうが上手いわけですし、議論の要約とかポイントを掴むというようなことも狸さん主導で行われてきた気がするんです。そこまでできる人なんだから「何もそんなに固有名詞に頼らなくても・・・」と思ってしまったんですね。あと狸さんが知ったかをして書いたとは思ってないのでポイントは得ていると僕は書きましたよね。そういう意味でよくあるインチキではないことは明白なのですが、逆にポイントを得ているからこそ自分の言葉で語ったほうがいいんですよ。最初から空虚な人は僕は分かりますよ。「いやぁーエンプティーだなーこいつ」って思って呆れます。僕の違和感は狸さんはエンプティーじゃないのに、エンプティーなやつらがよく取る手法に甘んじてしまったという気がしてそれが凄く勿体ないと思ったことですね。


あとはまぁだからこそ「なぜ?」と思ったわけですが、今回は理由というか、あとは狸さんが方法論的に取り入れている二項対立をいくつもインプットするという手法についても分かったので安心しました。それでもまぁそれに甘んずる事無く、それはあくまでインプットの手法なのであって、考える事は自分でやってほしいと思いますね。ちなみに僕は全然狸さんのことは日和見だとは思わないんですよ。そもそも日和見だったら狸さんが書いていたような美意識って生まれませんよ。日和見には日和見ならではの日和見感というか、マジじゃない感じってありますからね。でもここではお互いマジじゃないですか?日和見同士には出来ないやりとりだと思うんですよ。ちなみにその僕が「居酒屋感覚」と言った件については本当に誤解してほしくないのは、しつこいようですが、それはあくまで場に関することで、内容に関することではないということです。


あとあれなんですよね、狸さんが就職活動をやめてアカデミックに進もうとしているというのは凄く嬉しいニュースなんですよね。僕にとっては。でも大学ってまぁ場所にもよると思いますが、やたら理論武装しておけばオッケーみたいなマジじゃない日和見シンカーみたいな輩が凄く多いイメージがあるんですよ。だから引用と概念のコピペだけの論文やらが生まれてしまうんです。学術的な体系に無理矢理組み込もうとする作業も言わば僕が恐れている構造化の一つですよね。特にそれは思想においてという意味でヤバいものの最たるものだと思うんですよ。とりあえず学術的なものってそれっぽく語っていて学術的にあっていれば咎められないですから安住しやすい場所でもあると思うんです。


逆にラディカル過ぎるとめちゃめちゃに見えてしまったりして排除されるわけですよね。狸さんがどういう分野のアカデミックな分野に進むかは分かりませんが、基本的にこのラディカルさってのを自分の芯に持っておいてほしいと思うんですよね。で、構造化されずに、でも狸さんが言ってたようなA→A'→B的な感じで環境に適応していきつつ変化を促すみたいな。それが出来れば最高ですよね。でも変なアカデミックな日和見主義に陥ってしまうと、元々レッドピルを飲んでいたはずの狸さんがブルーピル側というか、マトリックス側に無意識的に取り込まれていってしまうと思うんですね。希有な人物であるからこそこれは凄まじくデカイ損失ですし、A→A'→Bを実行できる数少ないエージェントがマトリックス側に取り込まれてしまうというのは手放しで見ていられないわけです。


いや、アカデミックな方向に進むのはいいんですよ。ただ悪い意味での悪影響としてのマトリックス側の安易な思考に毒されないでほしいと思うんです。アカデミアに進むなら今みたいな狸さんの思考を持ちつつシステム側に就く事が出来れば最高ですよね。まぁようは大学で言えば大学教授になるってことなんですけどね。学生にこういうことが伝えられたら蜘蛛の巣派生効果って凄いと思うんですよ。勝手に期待し過ぎかもしれませんが、エージェントになれるなら、それを是非狸さんにやってほしいと思います。いや、これは僕にとっても人事ではないですからね。


あと書き忘れましたがアマチュアリズムに関して年齢などは関係無いというのはおっしゃる通りです。ようはプロ然りですよね。二十歳ぐらいで具体的な政治的戦略を練られる人だっているだろうし、あとは逆に20代であるということで、別に若さが故のアマチュアリズムみたいなのを正当化する必要もないですし。基本的に言論に関して年齢は関係ありませんね。あ、ちなみに狸さんがアマチュア的なのが全般的に好きではないと書いていましたが、実はこれは僕も同じです。僕自身も言葉というか言論一本でやっていけるぐらいのプロになりたいとは思っていますし、アマチュアだからなんでも言っていいみたいな立場に甘んずる気も安住する気もありません。プロ=食える事ではないんですが、アマチュアではないということ=プロと言えなくもないですよね。そんなプロになりたいですね。


では本編というとあれですが、ここからトピックに関する返信をします。


「「僕は普遍的な凄くベーシックな善の必要性」というのが、どのような善のことをいっているのかよくわからないのです」とありましたが、もしかしたら狸さんってめちゃめちゃ育ちが良いのでは?と思ってしまいました。いや、皮肉ではないですよ。なんというか根底から絶望に陥るような人間や組織に居た事がないから実感できないのかもしれませんね。いや、それを経験不足だと避難するつもりはないんですよ。もしくは上手く悪を回避してきたということならそれはそれでいいのですが、なんといいますか、世の中って僕が言うベーシックな善の感覚すらも持ってないサイコみたいなやつらが結構いるってことなんですよ。サイコって例えば快楽殺人犯とかって異常じゃないですか?


普通の人間だったら例えば人を刺したりしたら肉の感じとか血の臭いとか刺した人が苦しむ声とかを聞いて吐き気がすると思うんですね。気を失うとか吐いてしまうとか・・・。快楽殺人犯はそれが楽しいからやるわけですが、それを快楽にしなくても、別に人を刺すことに違和感を感じないって人達が確実にいるんですよ。それが僕の言う悪徳な連中です。そもそも人を刺しても何も感じないって人間的に終わってますよね。これに関しては議論の余地がないと思います。それと同じで悪徳なことをしても何も感じないというか、そこに合理性を感じるとか、金が稼げればいいとかって思える思考回路って相当サイコだと思うんですよ。全うな人間なら良心の呵責とかがあってもいいようなことを平気でやれる人達というか、それを気違いという意味での俗っぽい意味でのマキャベリアンとかっていいますが、これは一種のsociopathですよね。


でも資本主義的なシステムであるとか、金稼ぎは良いことだ!みたいな倒錯した価値観により、それはなぜか世の中的にもオッケーとされる場合があるんですよね。実際やっているのは悪どい商売なのに資本主義的な観点から見ると「賢い」とかって思えたりするわけです。僕は思わないんですけどね。で、狸さんが言う選択するものとしての善って凄く分かるんです。でもそれって頭が良いというと変な言い方になりますけど、やれる人は限られてるんですよ。そこまで思考して善を選択できる人は限られていると僕は言い切れます。でも実際の世の中って善であるということが不利に働くことが多いと思うんですよね。それは力学的に悪のほうが絶対的に強いからなんですよ。彼らは何でもできますし人を欺くこともできるし合法ならなんでもやれるわけです。


だから物理的にではないけど社会的に善を殺すってことは彼らにとっては簡単で、んで善の側はそういうアグレッシヴなパワーを持たないですし、それは美意識的なもの、つまりはイデアのようなものに依拠した、悪く言えば曖昧な概念に立脚したものであるので、弱いんですよね。狸さんが言う「立場が変われば善なんていくらでも変わる」というのはまさしく僕が超えなきゃいけないものとして書いてきたポストモダン的な価値観そのものです。まぁポストモダンという言い方が正しいかは分かりませんが、言わば相対主義ですよね。そんなのいくらでもコロコロ変わるから追求したってしょうがないという、それがつまりはニヒリズムシニシズムを生み出すというのは散々僕らも話してきましたよね。だからこそ繰り返しになりますが、そういった価値相対主義を経由した普遍性の必要性を感じるわけです。で、それは反相対主義でもないし古典に帰るというような原点回帰的なものでもないんです。実際は客観的に見れば価値は相対的だからこそ、そういった観点で諦めずに人々が善を選ばないと価値相対主義の世の中は永遠と続く事になりますよね。


でも善くあることって色々定義がありますし、これについて調べれば腐るほど色々あるんですよね。それでまず僕が言っているのはベーシックな善なんですよ。あからさまな悪徳を認めないとかそういうものを憎むとか、なんといいますか小学校の道徳の授業なんかで建前だけで教えられるようなレベルのベーシックなレベルの道徳です。で、相対主義的な価値観はそういうものに対して「それって建前だよね。世の中そんなに甘くない」と思考しますよね。世の中厳しいとか甘くないとかってクリシェじゃないですか?そのぐらい価値相対主義が蔓延してるって言えなくもないと思うんです。


もちろん「世の中厳しい」という意味は色々なものをさすとは思いますが、かなりナイーヴに見える当たり前の善に対して「理想論だよ。そんなの」って言ってしまうようなタイプの「甘くない」みたいな言い方ってありますよね?理想論も何もそれが理想的なのであればそれは人間として追い求めないといけないことだと思うんですよね。ナイーヴな善を「理想論だ」って思えるってことは、少なくともそう思える人にとってはその概念は理解されているわけですよね。理想論として理解されているわけです。なのにも関わらず世の中の価値観と照らし合わせたり、世の中の価値観ベッタリの思考回路がそれを「ナイーヴ過ぎるね」って否定するわけですよね。これこそがまさしくニヒリズムなんですよ。「じゃあ人はどうあるべきだと思う?」とか「社会はどうあるべきだと思う?」みたいな問いに答えられないんですよ。それはそこそこ暮らしていけば良いというような諦めのモデルを選択してしまっていて、結果的にそれが社会にも影響を及ぼしているんだけど、でも個人単位ではそんな風には思わないんですよね。


でもイデオロギーの蔓延ってそういうことなんですよ。蔓延してそれが通念となるわけですよね。これはつまりは諦めとかニヒリズムとかシニシズムといったある種の諦めの政治的イデオロギーなんです。「善なんて分からないから追求できない」と善を選択するとか求めることを辞めてしまうイデオロギーですね。そうなるとそれこそ狸さんが言う善VS悪みたいな二項対立の戦いすらも不可能になりますよね。善につく側が圧倒的に少ないし、力とか武力では明らかに悪が強いですし、悪に加担したほうがやっていきやすいというか、善を求め過ぎないほうが世渡り上手になれたりしますよね。


ダーティーになり過ぎなくても、ちょっとだけダーティーだとそれが「賢い」ってことになるんですよ。でもそういう風に生きてきた人間ってのはその彼らの行動原理自体がもう思考原理みたいなものを規定してしまうというか、影響が出てくるわけですよね。知行合一の逆バージョンみたいな感じです。行うことが思う事と同一になってしまうということですね。これは僕がマトリックスの魔の手と言っているものそのものです。構造化されてしまうとその構造内でしか物を考えられなくなってしまったり、それこそ学派だとか自分の立ち位置だとかなんだとか色々な制約が出てきてしまい、言うことにも党派性が生まれてきたりするわけですよね。


もうこの時点で思想の自由は無いんです。あとは食えるとか食えないみたいなのも構造化の一つですね。本当にいいものを作っていたり書いていたりするならば、つまりは自分がそれを信じているならそれで食える食えないとか関係無いわけですよね。よく「食えないから」と言って食えるようなものを作ったり書いたりする人がいますが、これこそまさしく構造化ですよね。自分では生きていく手段としてそれを選んだりしていても、段々それに毒されていくわけですよ。結果的に凄く思想家とか画家とかアーティストとしてポテンシャルが高かった人間が2流の商業画家とかライターに落ちぶれるわけです。


そんなんだったら自分が信じる表現なり創作なり思索をやり続けたほうがいいわけですよ。食い扶持は他に探すしかないわけですが、魂を売ってまで食っていく必要はないわけです。だったら食べていく方法は自分で考えるとして、自分が信じるものは突き通さなきゃいけないんですよね。マジモードと商業モードを使いこなせる器用な人とかたまにいますけど、ああいうやり方ができれば問題ないですね。あくまでマジはマジの中で生き続けていて、食う為に商業的なものを書いているみたいな。でもそこにマジモードは常にあるので商業モードに毒されないんですよね。それでもまぁ毒される可能性が無いとは言えませんけどね。


あと話を戻しますけど、本当はもっと最初に書いておくべきだったのですが「善人は一生善人で過ごす」というほど善って強くないんですよ。それはさっきも書いた悪が強いということなんですが、極端な例を出すと高潔みたいなのを生涯貫くって難しい事ですよね?悪か高潔じゃないことに日和る可能性は大いにあるけど、悪人が高潔な人間になるとかってよほどの宗教的体験とかでも無い限り無理だと思うんですよね。そのぐらい善ってレアで弱いものだと思うんですね。


ところで「善のアーキテクチャ」なんですが、それは僕はメタ的なものも含めた個人啓蒙のことだと勘違いしていたんですが、「善のエリート達による」ということで、まさしくプラトンの賢人統治ですし、僕もそれを考え続けています。というか恐らく色々と考えていくとこのぐらいしか帰結が無いような気がするんですよね。自由意志を完全には否定しないし、善と悪の選択権とかは与えるわけですけど、でもまぁアーキテクチャによって善を悪く言えば強引に促すってことですよね。それは僕はもうタカ派と言っていいぐらい善に関しては強硬であったほうがいいと思います。まさしくそのアーキテクチャこそが善の弱さを補うものになるんですよ。さっき書いた悪に負けてしまいがちな難点ですよね。でも権力を使えれば最強ですよね。


工学的な社会設計に関してですが、それは本当に言えていますね。ある程度縦軸で善の価値観を与えられているからこそのそれに対する懐疑が生まれるということですよね。ちなみに僕は善の統治といっても、凄くベーシックな、それこそさっき書いた小学校の道徳レベルの善でいいと思ってるんですね。で、もっとレベルの高い善に関してはそれこそ「安心社会」が出来上がった後に考えればいいと思うんです。まずはベーシックな部分として善のインフラを整えたほうがいいですよね。仮にそれで個人の善が拾えなくても、でも自動で与えるって必要ですよね。僕も人間が99パーセントは動物だって凄く同意できるんです。悪く言えばそんなに期待できない動物ですよね。ただの動物ですから。


だからエコノミックアニマルにもなるし、利己的なことしか考えない弱肉強食的な動物にもなるし、まぁそれは僕らが書いている「想像力の欠如」ですよね。でもそれはもう無い人間に言ってもしょうがないことなんで、やっぱり諦めるしかないなと思っていて、それがまぁ僕が言っている啓蒙の限界でもあるわけですが、全自動化ってすでに成されてると思うんですよね。ルーティン化された生活を送るだけの人間ってまぁようは利己的な経済活動しかしない人間がニートを批判するな!って僕が言っているのもまぁようは同じことなんですよ。ニートは全自動化的に寝て起きてを繰り返してるみたいなイメージが流布していますが、それが事実であるかはともかくとして、寝て起きて会社言ってるだけの人間だってそこに利己的な経済活動が介在しているだけで、根本的に寝て起きて食うだけの生活をしている動物と変わらないと思うんですよ。今は言論の自由もありますし政治の自由もありますが、そんな中で人類というと大げさですけど、まぁ世の中は相対主義に陥ってしまっていて、まぁとりあえず合理的で金が稼げればなんでもいいや的な価値観で動くようになるわけですよね。たまにそうじゃない人がいますが、そういう人が取り上げられたりするのもそういう人が希有だからでしょうね。利己的な動機だけで大成功しているわけではないという人達ですね。


「それで、もう一つ聞きたいのですが、耳蝉さんは善の啓蒙には限界があり、個人が個人に振舞うのも限界あると言っているけども、「善の必要性」というのは、モロ啓蒙的な行為ですよね。その啓蒙と、その前に耳蝉さんがいった「啓蒙の限界」の違いが僕にはよくわかりませんでした。補足していただければ幸いです」についてなんですが、相変わらず良いポイントですね。いや、これって本当に矛盾してるんです。矛盾するからこそ僕は例えばウォール伝で思想的にダサく見える善を説くみたいなことを啓蒙だとは思いませんし、読者は増えている気がしますが限られているのは目に見えているんですよね。それがどんなにもっと上手い文章であろうが頭打ちになります。なのでまぁそれはもう言論の限界ですよね。ウォール伝の限界というか耳蝉自体の限界というか。でもこれって普遍的に言える啓蒙の限界だと思うんです。ウォール伝が啓蒙的かどうかはともかくとしてですね。


それでも僕は来るべきときに備えて準備をしておきたいというのがありますし、まぁなんというか思考を研ぎすませておきたいんですよね。そのために書いているというか、まぁ基本的に書きたいだけだから書いているわけですが、まぁそこが「衝動」だけで書く問題でもあるわけですが、そもそも啓蒙に期待していない僕にとっては狸さんが言う「推進力」と言うのもまぁあったほうがいいとは思いますが、でもやはりこれも備えたところで限界があるので、やはりもう縦軸しかないよなって思うわけですね。もしくは僕がウォール伝を生涯続けたとして何千エントリーある中で一個でも後世に読み継がれるようなエントリーが書ければそれはアーカイブ化されますから、それが達成できれば特異点的な言論は達成されるような気がします。いや、でも今でも狸さんとかもそうですけど「影響を受けました」って言う人が多いのは嬉しいことなんですよ。だからこそ影響を受けた人には何かをやってほしい!って思うんですよね。


まぁだったら自分もやれよ!ってことなんですが、社会に対して何が出来るのか?というのは模索している最中ですね。でもまずやはり知識を身につけないといけないんですよね。それこそ緻密な政治議論や政治理論を組めるぐらいの知識とかオーガナイズ力があれば、例えば僕がさっき書いたような後世に読み継がれるようなものを書ける可能性って出てきますよね。簡単ではないですがやる価値はあると思いますし、それが僕の一番やりたいことでもあります。でも本当に知識が足りないんですよ。だから色んな知識を身につけたいんですよね。それが楽しいし自分の人生の強度にも繋がるし、一個の目的論的なやりたい事にも繋がると思うんです。あ、つまりはその「後世に読み継がれるようなもの」ですね。


あと最後に「日本と善について」ですが、「ニーチェは間違っている」と言うことの困難は何も西洋に理想を投影する東洋みたいな国の特徴だとは思いません。基本的にそれはみんな難しいことですよ。で、自分の言葉では語らないですよね。「ニーチェが言っていた」で障害がなくなるってまさしくその通りで、まぁようは日和見ですよね。むしろ僕は思想的に見れば西洋の思想よりも東洋の思想のほうが勝ってる気がするんですよね。それこそ言葉にできないような善を説くのはむしろ東洋哲学の十八番のような気がするんですね。なので純粋に思想という点から見れば、日本という国はまず西洋への憧れやコンプレックスから西洋スタンダードな西洋哲学とかっていうものがありつつも、その中から自国の思想や東洋思想を見つけることができるんですよね。歴史的にも西田幾多郎みたいな哲学者がそれをやっていましたよね。難解過ぎるのが難点ですけどね。


東洋思想のほうが西洋思想より勝っているというのはただの僕の持論ですが、僕の思い入れ補正みたいなのを修正しても同等ぐらいのものだと思います。それこそ東洋思想のコピペとオーガナイズで独自の思想を作り上げた天才空海みたいな人物が日本にいますよね。そういう意味で別に僕は日本であるということが西洋に対して善という点からも思想という点からも不利だとは思いませんし、限界があるとも思いません。むしろ逆にオリエンタリズム的に東洋思想を捉えがちな西洋人のほうが限界があるかもしれませんよ。少なくとも日本人は西洋スタンダードなので西洋人が学ぶかのように西洋哲学を学べますよね。でもその逆は難しいわけですよ。まぁ稀ですよね。それは西洋に東洋スタンダードなどというカルチャーはないからですよね。僕は西洋よりもむしろ東洋のほうにこそカメレオン的ではない絶対的な善を説けるようなポテンシャルを感じます。


ショーペンハウエルだって誤読があったにせよ影響を受けたのは東洋思想ですし、その影響を受けたニーチェだってそうですよね。ハイデガーなんかも鈴木大拙の禅に関する本を読んで「これこそが私が存在と時間で言いたかったことなのだ!」って感動してたなんていうエピソードがありますよ。まぁそれも研究者に言わせるとハイデガーの誤読らしいんですが、まぁでも言わば東洋思想っていうのはいつの時代も西洋哲学の先を行っていたわけですよ。まぁ個人的な解釈ですけどね。西洋的なフォーマットで理詰めなのでそれが体系的な哲学として西洋基準で哲学が評価されるのであって、それは基準が西洋にあるからですよね。東洋哲学は曖昧な言い回しとか抽象的な言い方が多過ぎるので西洋的な論文フォーマットには向きませんが、でも紐解くと西洋哲学で語られているようなことをずいぶんと前に言っていたなんてことがあるんですよってまぁ具体的にそれは何なの?って言われれば例はすぐ出せないんですけど、でも別にようは思想にせよ哲学にせよ価値基準を西洋に置く必要はないんですよね。


むしろ思想や哲学というものに対する見方こそ相対主義的でいいと思うんですよ。西洋哲学は絶対じゃないわけですよね。よく体系とか言われるけど哲学は科学じゃないわけですから体系も何も無いだろうっていつも思うんですけどね。そんな中で本当の意味で科学的な哲学みたいなものを形成するのに絶対軸はいらないわけです。それこそ科学に軸はないじゃないですか?西洋数学とか東洋数学ってないですよね。数学は数学ですよね。これは思想然りだと思うんです。ちなみにそれを思想で体現したのってニーチェだと思うんですよ。それまでの哲学体系みたいなのを特異点的に解体したり批判してしまった。それでもニーチェは西洋人ですから当然、西洋的な観点があるわけですが、でもやはり独自のものだったと思いますね。所々仏教っぽいのもそれは彼が西洋哲学にカテゴライズされきらない自由な思考をしていたからだと思います。なので僕は西洋哲学と東洋哲学を考える時に違うものとしては考えずに「同じ人間達による思想」だと思っています。「同じ人間達による思想」というデカイ集合があるなかで西洋哲学なんてただの補集合ですよね。絶対的な価値も能力も持っていないと思いますね。偉大なものではあるとは思いますけど。


あと言語について前に僕が批判した狸さんによるラカンとかフロイトの部分ですが、今回のやりとりで合点がいきましたし、前にも書いたようにそれ自身は別に的外れでもなんでもないということでそれに対する返事も書いたのですが、かなり話題が逸れる部分があるので、このやりとりが終わってから貼ろうと思います。主に言語に関することです。あとはタナトスとエロスの話ですね。