「弱者の理論」と言う便利なラベリングについて。

こんなのを見つけたんだが勝手に引用するのもあれなのでURLだけ貼っておくです。


http://www.squarenet.co.jp/column/column_180.htm


なんか俺が批判している価値相対主義そのままみたいなよく書けたエッセイなんで貼ってみた。なんつーのかな?こういう理系のニヒルな感じっつーの?まぁ別に俺はこの人のことは知らないし、この人のことを言うつもりはないんだけど、なんつーかこの人が理系がどうかはともかくとして、なんつーか理系のニヒルさってすげー嫌いなんだよね。浅田彰とかが岡本太郎を批判しちゃうみたいなああいうニヒルさっていうのかな?熱さが無いということがクールだというような感じの人達ね。大抵こういう人達ってのは相対主義に陥ったままそこから抜け出そうとする努力もしないし、そもそも興味がないわけだ。相対主義こそが真理だと思っているからだよね。ニーチェが言う遠近法的仮象みたいなのが言わば集合体となって合意されてまぁそれが正義とされるみたいなことだよね。ちなみに俺の勝手なニーチェの解釈だと狸さんとのやりとりにもあったようなニヒリズムを受け入れた上で絶対的な価値観を見出そうとしたり作り出そうとするような意志ってのをまぁ力への意志だと思ってるんだけどね。


それはむしろ客観的事実などは無いことが明白だからこそ出てくる相対主義やそれに付随するニヒリズムなんかを超越するための力への意志っつーかさ、逆にそれはニヒリズムなり相対主義なりを一旦受け入れないと作り上げられない価値体系とでも言うのかな?で、まずそれを打ち立てるなんて俺には無理だし、だからこそ善とは何か?とか倫理とは何か?ってのが人間にとって必要となるわけだし、その問いへの重要性というのは相対主義的な価値観がデフォルトになっているからこそ出てくる必然性とでも言うのかな?まぁどんくらいデフォルトなのかは分からんけど、雰囲気的に特に頭が良い人とか理系みたいな人がニヒリストっぽくなるっていうかさ、それが本当にマズいんだよね。


で、そういう立ち位置がクールで善とか言っちゃうようなやつはダサいみたいなさ、そういう風潮っつーか雰囲気もマズいよね。そりゃまぁプラトンとかがドゥルーズとかに比べてスタイリッシュじゃないのは明白だけど、んでもそんな哲学の大系こそまさしく相対的なもんだよね。絶対的な価値なんて思想には存在しないわけだ。どれか重要か否か?なんてのは分からないし、それこそ主観や文化によって変わるものだし、時代の解釈なんてのもあるわけで、それは解釈でしか位置づけられない相対的なものとしか言いようがないよね。でも人間にとってのモラルとか善ってのは違うわけだよ。全てが体系的に善みたいなものに取り入れられるか?といえば、そんなことがあれば価値観の自由というか思想の自由が脅かされるからそんなのはありえないんだけど、でも俺が言っているベーシックな善ってのは絶対普遍的だと思うのね。他人に意地悪であるということが良しとされる世界なんて人類には存在しないと思うわけ。もしくはあったとしてもそんなもん全力で否定しなきゃいけないよね。


親切なことをしてお互い気持ちよくなるとかさ、いや、偽善と表裏一体だけどね、でも良さってあるじゃない?殺しあっているよりかは愛し合っているほうが良いに決まっているっていうね、そういうすげーベーシックな善だよね。んでもそもそも愛って何なの?とかそんなの幻想じゃね?とかさ、そもそも恋愛に価値を置き過ぎているとかさ、まぁそういう批判はありなんだけど、ただまぁでも基本的に愛って相当倒錯していない限り肯定できる素晴らしいものだよね。まぁハート&ネグリみたいな話になってしまうんだが、理念的に彼らが言う愛の政治とかスピノザ哲学に依拠したマルチチュードって概念とか性善説過ぎるけど、でもまぁ目指すべきはあれだよね。まぁ無理なんだけど、でも目指さないと!って意味ではっつーかそんな世の中ならいいのにねって思えないといけないよね。いけないっていうと排除的なんだけどさ、んでも例えばね、排除的で言えばこの弱者の理論ってやつなんだよ。俺がもっとも忌み嫌う言い方としての弱者の理論ね。


これって社会的にラベリングされた意味での強者がそうでないものに対して「弱者」ってレッテルを貼るものじゃん?勝ち組ならなんでも言えるしセオリーは通るし説得力はあるんだけど、マイノリティで弱者だったりすると全て「弱者の理論」になるっていうさ、それって別に弱者が彼らの存在を肯定するためみたいな利己的な目的で打ち立てるような理論だけじゃないじゃん?そういう理論もあるけど全て一緒くたにするなんておかしいわけだ。むしろ強者が支配している世の中で弱者が「あれってインセンティヴのおかげじゃね?」って強者に対して言うのって弱者の理論じゃないよね。それは言わば真実じゃん?ある種のね。全ての強者がそうじゃないにしても、家庭環境が恵まれまくっていて家に富もあって教育も申し分なく受けられて・・・・っていうまぁそれをインセンティヴと言っていいのか分からないけど、生まれつきのアドバンテージだよね。それによって元々強者とされているような人の子供とかが強者で居続けられるのって言わばまぁ固定格差っていうかさ、それはその人の能力というよりかは出身じゃん?そこにたまたま生まれたから良かったー。ラッキー!的なことから強者になれてる人なんて腐るほどいるだろう。


でもこういうタイプの強者は偶然によって強者になったわけだから、弱者側に生まれていたら弱者だったわけだ。それこそロールズみたいな議論になるけども、アドバンテージがある家に生まれた!ラッキー!みたいなのが許される社会じゃマズいわけだよね。だからこそ正義が必要なんじゃん?フェアネスとしてのJustだよね。アリストテレスとかが言ってたようなJustだよね。


んで「それって弱者の理論じゃん」って言えるのがなんでそんなにマズいのか?っていうか俺が憎むのか?っていうとそれってすげー強い言葉だからなんだよね。弱者とレッテル貼りをされている人とか、少なくとも弱者でもないけど強者でもない人が強者に対してそう言われるだとかね、あとはまぁ強者じゃないにしても強者を批判したりフェアネスについて語ろうとしている人に「それって弱者の理論ってやつだよね」って言っちゃうとなんつーかその一言に内包されている意味合いが色々あり過ぎるのと、言われた側も一瞬ハッとしてしまうところがあるでしょ?で、なぜか「あーダメなんだ」ってなっちゃうっつーかさ、いや、でもそれでダメなら強者以外意見は言えないっていう最悪の社会じゃんね?それ。全部が全部弱者が言うことならそれは彼らが彼らの生を肯定したいがために言っている戯れ言に過ぎないなんて喝破しちゃうような社会ってのは社会的に強者とレッテル貼りをされた人達が支配する自称強者の世界だよね。それ以外の意見は一切認められないという最悪の社会だよね。ある種の言論弾圧とも言えなくもない。


それこそ弱者か強者か?なんて相対的だよね。昔は身体が強かったら強者だったかもしれないけど、今では頭が良いやつとかずる賢いやつとかが強者と言えるみたいなさ、んでもそれって時代によって定義は変わるよね?そもそもかなり曖昧な定義なわけだ。それこそ弱者のレッテル貼りをされたことで「俺はもうダメだ」って勝手に思い込む実はすげー能力を持ったやつっているかもしれないじゃん?っつーかいるよね。でも元々の境遇がモロに負け組系だとか現状が負け組っぽいだとかね、そんなんで勝手に誰かに弱者とレッテル貼りされるとかさ、何か意見を言うものなら弱者の理論だって言われるとかさ、そんなの糞食らえ!だよね。そもそもそれは論理的な間違いだからね。強者が言う理論がいつでも正しいなんつー論理は無いじゃん?本田透が言うあれだよね、キモメンのやつがニーチェと同じ事を言ってても「キモーイ!」とかって言われるんだけど「・・・がニーチェが言っていたことです」って言うともう「へぇー」になるっていうさ、ニーチェだったら全部許されるみたいなさ、まぁそれは有名な名前を出せばなんでもオッケーみたいな世界じゃん?


よくあっちで書かされたエッセイとかをやってて思ったのがさ、やたらリファレンスがどうのとかさ、それが科学ならまだしもオピニオンの世界でリファレンスなんて関係無いじゃん?オピニオンに科学なんて無いわけだからさ、自分の主張なんであればソースなんていらないじゃん?むしろ「ソースは?」なんて聞くほうがおかしいよね。ニーチェですって言えば全部オッケーなの?っていう。なんで俺の意見ですって言うのが通らないのかさっぱり分からないんだよね。そもそもオピニオンに階層なんてないじゃん?あると認めるやつらはまぁそもそもそれ自体を判断してないってことだよね。さっぱり実際は読んでないわけだ。そこに凄まじい矛盾を感じるっつーか教師がそんな姿勢でいいのか?っていうさ、なんでもソースはニーチェですって言えばいいのか?っていうさ、それこそ強者の理論だよね。ニーチェが言うなら全部正しい。ただ俺が言うと全て弱者の理論になるっていう。


俺がBIとか言うとそれこそニートの理論で一気に説得力がなくなるみたいなさ、でもそれって関係ないじゃん?自分にとっていいかどうか?なんて議論の上で関係無いことだよね。それが今の社会に望ましいことなのか否か?っていうのを議論するのがポイントなわけで、それによって自分がベネフィットを得られるなんて前提で議論するなんてありえないよねっつーかそんなもん議論でもなんでもないだろうっていう。んでも俺属性みたいなのがさ、なんかやっぱウォール伝ってニート臭があるのはしょうがないと思うんだけど、ニート臭があるやつがニートが肯定しそうな意見を言うとそれも弱者の理論になるっていうさ、まぁそれが俺がメンヘラーであるとかなんでもいいんだけどね、でも自分で言うのもなんだけど意志の強さははっきり言ってその辺のやつらに余裕で勝てる自信があるね。そんぐらい適当に生きてるやつら多いじゃん?


意志の強さで言えば俺は強者でヘナヘナ生きている日和見族は弱者だよね。それも一つのパースペクティブじゃん?でも一般的に強者と弱者の位置づけってのは社会的地位だの富だのっていうそういうものから一方的に価値付けられるものだよね。でもそんなもん一つの要素じゃん?それ自体がなんで弱さや強さを定義できるのか?っていうさ、ようはそれだけの基準でなんでそんな乱暴なレッテル貼りが可能なのか?ってことだよね。そこに身体的な強さとか精神的な強さとか意志の強さとかが入っているのか?ってそんなの関係無いからね。対象が悪だろうが善だろうが基本的には社会的地位と富で弱者か強者が決まるなんて本当にクソみたいな価値観の世の中だよね。それこそそういう価値観に関しては遠近法的仮象がワークするよね。それこそがまさしく相対主義的な価値観を必要とするような価値観なのであって、善やら倫理は入らないわけだよね。それこそだから俺は何をベーシックな善とするのか?というのは置いておいてもね、でもまず無駄に人を殺さないとかさ、騙す目的で噓はつかないとかさ、それはもう定言命法なんだよね。定言的にまずそうでしょ?っていう前提があるわけじゃん?それには遠近法もクソも無いんだよ。


それを良しとしなければ何が良いのか?っていうそれこそニヒリズムに陥るし、そもそも無駄に人を殺さないということを認められない世の中ってのがあったとしたらそれってどんな世の中?って感じじゃん?そんな世の中に存在価値はあるんでしょうかね?っていうことだよね。人々が殺しあっている社会なんて意味なくね?っていうさ、殺しあいでも革命とかならいいんだけど、それは革命というものを基盤とした戦争というかまぁ悪く言えば殺しあいじゃん?殺しが必要な時もあるっていうさ、だから殺しはどんな場合においてもいけないなんてことは定言的に言えないわけだ。カントは定言命法によって言うんだろうけど、俺は全くそんなのには同意できないよね。そんなの盲目的な道徳主義だよ。全然プラクティカルじゃないし、そんなんじゃ政治はできない。


ただカントが定言命法で言うものに同意するかはともかくとして、定言命法という考え方ってのは利用できるよね。利用できるっていうか言わば定言命法で言う善の定義をしようではないかっていうさ、サンデル先生だって基本的にそうでしょ?だから正義の話をしようではないかってことになるわけだよ。そういう意味で俺が言いたいことはサンデル先生が言う善とか道徳とかとほぼ同じだろうねっていうかそんなもん論理を突き詰めたら誰でもそうなるもんだと俺は思ってるね。真理に多様性なんて無いわけだよ。かといってこれは盲目的なプラトニズムというか原理主義に陥りやすい考え方なので危険ではあるんだけど、でもその辺はもうまず相対主義とかニヒリズムを受け入れた土壌ではそんなことあえて言うまでもなく自明なことになってると思うんだよね。だって自明じゃん?


それが自明だからこそ真理について語れるようになるわけだよ。でもその真理とやらに懐疑の目を向けるという意識は常に働いているというのがデフォルトだよね。言わばニーチェ的なawarenessはもう元々備わっているという前提だよね。懐疑主義ってのはちなみに違うのね。これはもう判断停止しちゃいましょう!っていう宣言みたいなもんだからね。いや、それを判断するのが哲学だよね。だから哲学が懐疑主義を宣言してしまってはもうそこで終わるわけだよ。懐疑主義的な態度ならいいけど懐疑主義になってしまってはもうそれはただの判断停止しましょう!っていう宣言だよね。言わば俺が批判しているのはこういうことなんだよ。つまりは相対主義とそれに付随するニヒリズムシニシズムと真理に対する判断停止を当然のものとする悪い意味での懐疑主義的な態度が哲学的エロスを完全に無力化するものなんだってことね。


むしろ善とか言い出すやつに「は?」って言うのがクールだし、それ以外ありえないでしょってもう言い切っちゃって何も判断することもないし考えもしないっていうさ、そういうゾンビ状態だよね。それは生きることに必死でゾンビ状態になっているのとは違う意味でのインテリが陥りやすいゾンビ状態だよね。むしろ考える頭脳があるならそういう現状をどうすれば打破できるのか?とか、ニヒリズム相対主義の上に建設できるものは何か?っていう建設的なことを考えないといけないよね。仮にそれが空回りしそうでも無駄に見えることでもそれがなくてむしろ哲学とか思想とか思考とかってやる必要あるの?っていうさ、それだったらもう人文系とか学問でいらないよね。それこそ科学だけに身を委ねればいいっていう科学万能主義になるじゃん?


いや、でも人間に道徳とか倫理ってのは絶対必要なもんなんだよ。それは科学にはできない仕事なわけよ。だからこそ知的ゾンビ状態に陥るなんてのはもってのほかなわけだ。相対主義やらニヒリズムがあるからこそ熱くならないといけないよね。それこそが俺が勝手に解釈している力への意志なんだよね。言わばWillだよ。「力への」っていうとおかしくて、それは「意志の力」なんだよね。客観的な価値観とかがありえない中でどう人類に対して定言的に良いと言える道徳なり倫理を育む事ができるのか?っていうさ、それは言わば善い社会の建設を常に目指すっていうかまぁ念頭に置くっていうwillだよね。その意志の力こそが善い社会を育むパワーとなるわけだ。従ってそれは政治的な力なわけだよ。それが集合的なものになれば善の政治は可能でしょ?まぁ現状を見る限り無理っぽいのは分かるけど、でもまずそういうような理想モデルを想定しない限りはもうニヒリズムに陥るしかないよね。あーもうダメだ的なさ、なんでも無理無理!って思っちゃうような意志ね。そこにもう意志の力なんて存在しないわけだよ。ただひたすら安きに流れる水の如くただ人々の意志もまた安きに流れる・・・っていうさ、最悪のスパイラルに陥るわけだよね。


最近、ひぐらしのなく頃にってのを見たんだけど、まさしくこれはなんつーか運命に抗う力だよねっつーか運命を切り開く力ってのかな?そこに団結とかね、それこそ意志の団結みたいなsuggestiveなメッセージがふんだんに散りばめられてるんだけど、でもやっぱりコアの部分は意志の力だよね。それのみが予定調和的な流れすらも変えることが出来る源泉になるっていう。言わば流れを変える流れを作り出す意志だよね。それがないと絶望的なループは永遠に続く事になるわけだ。永劫回帰だよね。でもそれはループを肯定する意味での永劫回帰なのではなくて、主体という認識者によって常に開かれていく生の瞬間の連続っつーのかな?絶対的な価値観が無い中で生み出していく無からの想像という意味でのディオニソス的な生の肯定っていうかさ、でもそれはループの肯定なのではなくて、常に運命を切り開いていくことによって出来上がる運命愛っつーのかな?その愛が向かう先の運命というのが言わば望ましいというか人々が望むイデアなんだよ。


まぁそれはすでに存在しているものの鋳型というよりかは理想的なものの鋳型というか、かといってもユートピア的な思想なのではなく、プラクティカルな意味での運命愛に至るまでの道のりの険しさに負けない意志っつーのかな?俺が普段から言っているのはそんな意志が無かったら生きててもしょうがないじゃん?って思うわけね。まぁすげー緩い生ってのも肯定されているみたいだしさ、とりあえずまったりできればいいじゃん!みたいなさ、あとは凄く強い意志みたいなのが疲れるから諦めムードになることも必要だみたいに思う思想とかさ、そんなのまぁ全部運命に抗わない負け犬の思想だよね。やっぱり運命愛が必要なんだよ。自分の運命はこうありたい!とかこうあるべきだ!と激しく思うことによってのみ切り開かれる運命っつーのかな?それが切り開かれてこその肯定できる生の瞬間の連続性なわけだよ。


そういう意味で俺は運命に身を委ねるとかね、夢を諦めるだとかね、こういう考えは一切肯定できないな。まぁ否定はしないけど肯定はできない。何よりそんな立場ってのがニヒリズムなりシニシズムなり政治的アパシーを生むわけでさ、諦めがプラクティカルな思想になったら世の中終わりじゃん?まず出来る限り足掻いてみればいいのにそれを最初からやらないなんてどんだけ奴隷的なんだ?っていう。奴隷的っつーか下僕的っつーか従順っつーかさ、まさしくサバルタンの発想だよ。もしくはサバルタンであることを肯定してしまうというサバルタンという固定のレイヤーの存在を認めてしまうある種の終末思想っつーかさ、終わりの思想だよね。


で、俺がそこで死を出すのはさ、少なくとも俺はそんな下僕でしかいられないような人生を俺は肯定できる気がしないし、そんな生を生きようとは思わないからだからまぁそうなったら選択としての自殺も余裕でアリだよなって思うんだよね。そういう運命に取り込まれないっつーか最後まで足掻くっていうさ、運命に対する抗議だよね。結局、死を選ぶことでサバルタンとして生きずに済むわけだから、俺の生がサバルタンとしての生でしかいられないという運命があったとしてもそれはそれに取り込まれないという死によってそれは否定できるわけだ。まぁ俺はこれを潔い生き方だと思っているんだけどね。身体的な意味での生にこだわりすぎるからこそ合理的な選択としての諦めとかシニシズムってのが生まれるわけだ。それこそ三島が言ってたように生きるってことを考え尽くしたら左翼でいたほうがいいっていうそういうことだよね。理想がただの理想でしかなくて、現実はやはり現実でどう足掻いてもしょうがなかった・・・という結果は出来るだけ足掻いてから感じるものだよね。足掻く前から諦めるなんてただの奴隷なわけだよ。


サバルタンはそれでいいから従属民としての生を選ぶんだよね。それが必然的なものではなくて選択であるというところに問題があるわけだ。そのメンタリティこそが問題なわけだ。もちそんサバルタンを大量に作ってしまうような社会的ダイナミズムってのはなるべく抑制するべきだし、バランスを取る必要があるよね。でもそんな中で疎外されている一人一人の生ってのがあるじゃん?今行ったところでシステムを書き換える権限は無い。でも書き換えが不可能な中でも最大限に足掻けばいいと思うんだよね。それこそ「実際はこうありたいんだ!」という理想があるならはそれに殉ずればいいわけだよ。それでこそ生に価値が生まれてくるわけだよ。それこそ活き活きした瞬間と強度をそういう生によってのみ確保できる。奴隷の生に強度は無いからね。まぁ奴隷なりの強度ってのが生まれてくるわけだけど、それはディオニソス的ではないし、あくまでそこは合理的なんではなくて凄まじく感情的で時にイロジカルなものでいいわけだよ。それでこその人間らしさだよね。


全てが論理的で合理的なんてまぁロボットみたいなもんだ。俺は人間臭さってのはイロジカルなものになると思うんだよね。それを愛せないのが冒頭で書いたような俺がすげー嫌いなタイプの論理的なだけの冷めた理系なのね。俺的に言えば最悪の人種だな。人間的につまらなすぎる。ロボットで代替可能みたいなやつらだもんね。熱さが無いやつってのは本当に人間的な魅力を感じないよね。まぁそれは趣味の問題だからいいんだけど、まぁ俺は大嫌いですね。そういうのは。そういうやつらが相対的な価値観とかをニヒルに説いたりしていると真剣に殺意を覚えるね。まぁいいやって放っておけないっつーかなんつーか。それは「それって弱者の理論ですよねぇー」とかって言っちゃうようなやつ然り。俺は殺意を覚えるというところに狂ってるかもしれないけど俺の俺らしい人間らしさというのを感じるわけね。で、それは徹底的に肯定できるものなんだよね。かといってまぁ殺したりはしないけど、んでもそういうものに凄まじい憤りを感じるってのは人間らしさだと思うんだよね。


「まぁそれも意見の一つですよね」って何の感情の高ぶりもなしに言えるのは非常にロボット的で悪い意味でクールで俺はそういう人間が好きじゃないんだよね。論理こそが全てみたいな人間は大嫌いだね。論理ってのは俺みたいな感情的な人間が自分をオペレートするためのツールだよね。んでも俺は論理に動かされているわけではなくて、論理というツールありきで動いているわけだ。まぁだから全てが論理的というわけではないし論理タイプの人間ではないよね。んでもツールとしての論理は最大限に使いたいと思っているしそれがないと凄く危険な人間だと自分でも思うからこそ理性やら論理やら知への憧れがあるわけだよね。まぁそれが全ての憧れの同期ではないけどまぁ一つの条件ってことだよね。それこそが俺が俺である必要条件としての人間の条件って気がするね。だからどれが欠けてもダメなんだよ。


で、まぁまとめとしてはこの俺の生き方の考え方ってグラムシのある言葉に集約されるんだよねってのがようは「知性のペシミズム、意志のオプティミズム」ってことなんだよね。知性の部分では当然、論理的であったり分析的であったり知識が増えれば増えるほど底なしのニヒリズムに陥っていくわけだ。それが言わば知性の必然だとも言えなくもない。でも俺の立ち位置としては意志、つまりは「will」の部分は常に楽観的でいるということなんだよね。このオプティミズムこそが俺なりの力への意志というか、本文中で言及している意志の力ってことになるわけね。


ちなみにグラムシ繋がりで言うとサバルタンというのは生ということに固執するがあまりにサバルタン的な立ち位置でも生きるしかないからこそそれを消極的にでも選ぶしか無いという意味で社会的にも人間的にもサバルタン的ってことになるわけだ。つまりは人間が生の必然性に従属するという生き方だよね。食う為に生きる生き方っていうか、それがようは人間に内在されている生というものに人間自身がその必然性に消極的に従属してしまうということを意味するってことね。俺が思う生はめちゃめちゃ生きたい!と思う欲求から来る人間らしい生に限るので、だからその生き生きとした生を求めるからこそ超越的な立場からゾンビ化を強制させられるという運命に対して死を選ぶ事もできるってことになるわけね。それは究極的なvividな生の肯定でもあるわけだ。もちろん死ぬ前にやれるだけのことはやりまくって最後まで足掻くつもりでいるんだけど、そんなのはまぁ当然の事だよね。最終的にはゾンビになるって運命側から言われても俺は足掻き続けるね。それが言わば意志のオプティミズムってことだよね。


冒頭で引用したエッセイに関して言えばあれが言わば知性のペシミズムだよね。でもこのエッセイの最後にもあるような「このような社会・世界・自然の中での唯一確かな力は「ニーチェ」の言う「力への意志」であり、純粋な力への意志こそが根本基準となる」ってーのを俺が今回書いたような力への意志として定義したとすれば、それが俺の言う相対主義ニヒリズムの上に立った建設的な思考っていうさ、そこから価値を作り出していくっていうかまぁまっさらな無からではないにせよ、根本基準が所謂「will」になるよねってことになるわけね。この最後の「根本基準」についての一節があるだけでこのエッセイの意味はガラリと変わるわけだけど、冒頭ではそれを考慮せずに相対主義についての記述にのみ色々と書いちゃったけど、つまりはそれを自明の事として捉えるということね。その上での力への意志ってことね。まぁ別にそれを力とかって呼ばずにグラムシの言うオプティミズムでも全然問題ないのね。


言わば理系っぽいクールな感じで淡々と事実を記述した後に意志のオプティミズムで事実をひっくり返すっていうシベ超もビックリな大どんでん返しだよね。そのくらい力への意志は現実に対して力を持ちうるものってことなのよ。まぁこの冒頭に貼ったエッセイを書いた人がどう考えてるか?みたいな立ち位置表明は無い気がするからなんとも言えないんだけど、ようは困ってるのね。「うわー超相対主義じゃん!」と思って貼って色々書いた後に読み返してみたら最後の一節があったっていうので、まぁ俺が大どんでん返しを食らってどう書けばいいのかな?って思ってたんだけど、まぁそう思っちゃいました!ってのを表明しちゃったほうが早いかなと思ってこうやって書いてるんだけどね。


そう思うとこのエッセイの構造は凄いよね。9割がペシミスティックな相対主義の記述で最後に全てを覆す意志のオプティミズムの一節があるっていう、まぁ言わばこれがニーチェの思想なんだと思うよね。この人はつまりはそのニーチェの思想はこうですよっつーのを説明してるだけっていうかさ、それがまぁすげー早とちりしちゃったなって後悔してるわけだけど、んでもまぁ実際、世の中にはこの最後の一節が無いままの人が結構いるでしょ?それを俺は「理系っぽいクールな感じ」って呼んでるわけだけどね、まぁ俺が個人的にニーチェ力への意志を強調し過ぎでさ、実際ニーチェがどういうウェイトで書いていたかっつーか思っていたか?ってまぁ分からないけど、むしろこの最後の一節が無いニーチェなんてクズ思想なんだよね。俺がニーチェに心酔するのはこのエッセイで言う最後の一節があるからこそなんだよね。だからまぁ俺的にいくら強調しても強調しきれないぐらいまぁ重要なところなんだけど、まぁこれを解釈と言うのかな?


とまぁそんな感じですね。今日は。