本という媒体について。

普段は夜の7時出勤なんだけどね、あ、予約がある時ね。で、帰って来るのが10時過ぎだからさ、びみょーに寝れないんだよね。ウォール伝書いたりネット見たりしてると1時ぐらいになってたりするからさってまぁシャワーとか浴びたりもしてるからってのもあるけどね、そうなると6時半頃には起きなきゃいけないってことで起きるのが大変なんだよね。俺は寝付きは悪いけど寝ちゃうと起きないからさ、だから最近さ、無理矢理起きててんで5時とかに早めに行ってさ、んで店で寝てるのね。肝心の犬の世話はどうなんだ?って話なんだけど、まぁ夜中起きるしさ、そりゃーやってますよ。人がいるから放置されてるわけじゃないってのもみんな分かるしね。ここが大きな違いなんだよねぇー。


トリビアルに見せてすんげー違う。人がいるのといないのとでは全然違うのよ。で、一応ケージとかはあるんだけど、今の所はそんなに問題ある子が来たりしてるわけじゃないからみんなフリーで寝てるんだよね。で、最初は慣れなかったお客さんのワンちゃんがだんだん俺に慣れてきてさ、まぁ俺の可愛がり方が尋常じゃないってのもあるんだけどさ、ああいう時だよね。幸せを感じるのって。もうなんの条件もいらないさ、これをやったからお金がもらえるとかさ、rewardってことではなくて、もうそのね、お客さんのワンちゃんが俺と場所に慣れて凄く懐いてきたりグッスリ寝てるってのを見た時の幸せ感といったらまぁー何にも代え難い感じだよね。数学が分かったときのそれと良い勝負なぐらい。どんどん俺の世離れは進むけどね。犬にも狡いのはいるけど、でもやっぱ基本的に人間がクソ過ぎて本当にどうしようもないなって思うよね。まぁそのクソ多い度で言えば人間がダントツってことね。


思うに幸せってこういうところでしか得られないような気がしてるんだよね。最近世話やってて思うんだけど。前にも書いたように将来のためとかさ、お金のためとかさ、まぁお金は大事だけどね、でもなんかそれ自体で幸せが得られるか?っていうと所詮は物質だからさ、そこはやっぱなんつーかなんとも言い難いね、言葉にできないようなものが幸せなんじゃないかなって思うのね。まぁ鉄道マニアなら良い写真が撮れたときとかさ、すげー乗りたかった電車に乗れたときとかさ、なんつーか一般化できないことなんだよね。人それぞれっつーかなんつーか。


あ、んでさ、そのね、店で寝るってことなんだけど今日さ、寝起きに頭痛くなっててさ、んで頭痛薬なんて持ってきてなかったから放置するしかないじゃん?そしたらもう久々に超激痛っつーか頭痛でさ、死ぬかと思ったんだよね。吐き気があってまぁ所謂片頭痛というやつなんだけど、調べた所睡眠サイクルの急激な変化とかでも起こるらしくてまぁ完全にそれだなと。いや、店で寝ると楽っつっちゃー楽なんだよね。3時頃起きて9時過ぎには帰れるから居る体感時間としては6時間ぐらいでさ、7時からちょっと寝るのを入れても普段は体感時間が10時間以上だから長いんだよね。色んな本を持っていっても読書自体に飽きてくるレベルだね。だからといってもパソコン持っていったら終わりだなと思っているから持っていってないけど。


で、今は鎮痛剤飲んだからやっと落ち着いて書いてるんだけどさ、頭痛の最中読んでた増田四郎の「大学でいかに学ぶか」って本なんだけどね、凄く印象的な一節があったんで引用するけどさ、前後関係の話が色々あるっつーかコンテキスト内の話なんで引用すると長くなるから要点だけ引用するとね、作者が学生時代にある先生に言われたことなんだけど

蔵書はたいせつにしなさい。たとえどんなに貧しい蔵書であろうと、それは人の魂の歴史ですからたいせつなものです。ほしければどんな書物でも買えるというめぐまれた状況におかれたら、人間というものはかえって学問はできないものだ。ある程度の貧乏がだいじだ。苦労から、むりして買った本ほど尊いのだ。財産がいくらでもあって、買いたければ何冊でも一時に買えたようなひとで、りっぱな学者になったためしはない。

諸君が病気になったとき、寝床のなかから自分の本だなをながめて、あの本はあのとき買った、あれはあのとき買ったということが思い出されるとしたら、それこそはじめて蔵書といえる。個人の蔵書と図書館のそれとが性格がちがうのはそこなのだ


ってところなんだけどさ、まぁ昔の話らしい話ではあるんだけど、でもまるでね、本を消費物みたいに扱って読んでは売るか本だなに放り投げるみたいな読み方をしている現代人っつーとアレだけどさ、俺の夢は金に糸目を付けずに本を買う事なんだけど、でもそれってどうなのかな?って最近思ってた矢先にこの本のこの一節に出会ったんで結構なシンクロ率を覚えたんだよねっつーのはさ、今ってすげー限られた額の中で本を買ってるから当然まぁ吟味しなきゃいけないんだよね。金に余裕があっても吟味するけどさらに吟味しなきゃいけない。で、一回限度額買っちゃうともう次の月まで買えないから丁寧に読むんだよね。あっちにいた頃は生活費を浮かせて多読していたけど、まぁかなり雑な読書だったよね。まぁ色々と読みまくるのが良い時期ではあったからあれはあれで良かったんだけど。


で、例えば電子書籍とかって魅力的であると同時に本そのものが持つ物質感というか物語感が無くなるよねぇーとは思ったよね。例えばあっちの英語学校でクラスメートだったウズベキスタンムスリムのおばさんはコーランを読むときは手を洗ってから読むっつってたけどさ、それは書かれていることのリスペクトってのの人間に対する働きかけが例えば手を洗って綺麗な手でコーランを読むってことになるわけだよね。これってすんげー物質的っていうか肉体的じゃない?セックスとかと似たようなもんだよね。接吻でもいいんだが、俺が言いたいのは身体的ってことね。


で、ぶっちゃけさ、数学書ってコモンズ登録されてるね、著作権が切れたやつとかってかなりあってさ、アーカイブみたいなのがあるし、あとは有名な本とかね、まぁ大抵高いんだけどネットで見つかったりするんだよね。違法なんだろうけどそれこそmp3とかと同じような感じで。で、俺は落としてないけど落とすのは会員登録が必要で非会員の人はその場で見なきゃいけないっていうね、ブラウザで見なきゃいけないっていう制限付きなんだけどさ、で、まぁそれって80ドルとか下手すると100ドル超すような本とかがゴロゴロあるわけ。なんかさ、もう数学書を買う必要性がなくなった感じがしたよね。ネットでmp3ダウンロードを無料でやってるやつがcd買わないのと同じ原理で。


でもこれってどうなのかなと。ぶっちゃけ音楽はいいと思うんだよねっつーのは元々消費物的なところがあるしさ、そりゃー大好きなのはレコードとかで買いたいけどさ、そんなの大抵もう手元にあるわけだよね。俺みたいなやつにしたら。で、流行もののハウスのコンピとかなんてさ、本当にフリーで聞ければいいよなぁーって思うんだよねぇ。で、飽きたら消す感じ?ペイするほどではないんだけど、でもまぁ一時ウォークマンとかで聞くぐらいだったらまぁーいいかぁーぐらいのまぁハリウッド映画的な感じか。実際、俺ってすげー騙されてきたっつーか詐欺とかって意味じゃなくて大抵の音楽ファンがそうだと思うけど、例えばムンベとかガラージが流行ったときってすげー大量にコンピ出たじゃん?


決定版!みたいなタイトルで内容がクソみたいなコンピが腐るほど出てたんだよね。あれってパッケージの罠だよね。試聴できればまず買わないんだけどそれらしいジャケとかで買ってみちゃうみたいなさ、それで大失敗っつって無駄な散財した人って多いと思うんだよね。そういうのを経験してきたからこそなんつーかあの手の音楽なんて本当に良いものでもない限り金払うって感じがしないよね。あとはもうマーケットプレイスとかで中古で500円以内とかそんなんでいいやぁーみたいなさ、それですらもちょい高いぐらいだけど適正価格だと思うんだよね。昔の音楽の物価が高過ぎたわけで。


でも本ってさ、なんかね、例えば分厚い代数学の本とかをさ、ちょー高いんだけど辞書みたいな本なんでこれ買っちゃえば大抵のことは書いてあるってことで貧乏学生が思い切って買っちゃってさ、んで飯はいつも納豆ご飯か漬け物みたいなさ、何かを我慢して買ってるんだよねっつーのはまぁ学びたいから買うんだよね。でもすんげー貧乏な中でさ、それこそ自由にお金を使える額ってのが1万あるかないかぐらいの中で1万近い本を買うとかさ、それ以上になっちゃうと生活費までにも影響を与えることになるじゃん?それでも欲しいから買う!っつって買った本ってすんげー精読すると思うんだよね。昔の人はそうだったんだと思うんだよ。


高木貞治の本とかが有り難がれてたのもさ、代数学にしても解析学にしてもあれだけ体系的に書かれた和書ってのがなかったから日本語でああいう内容のものを読めるってのが凄くありがたかったわけだよね。まぁ今でもある程度使えるってーのが凄いなぁーとは思うけどさ、いや、今ならもっと良い教科書が洋書ならゴロゴロあるから別に解析概論読まなくてもいいとは思うけどね、でもまぁその昔の数学書的なさ、あとは岩波が10銭で買えたとかね、あんま本がなかったし、しかもみんな貧乏だったって時代の本の価値って凄いよね。娯楽も今ほどないから知的な人は消極的な言い方をすればそんぐらいしか面白いことがないからハマるみたいなさ、そういう雰囲気があるよね。


その例のさっき引用した本でさ、ちょっと多くて面倒だから要約して書くとね、学問をやる良い時期ってのはすんげー景気が良いときか悪いときで、景気が良いときはまぁ教職とか研究職があるからって理由なんだろうけど悪いときってのが面白くてさ、ようは就職先がないから学問をやるしかないっていうかさ、まぁある意味今の俺と一緒だよね。俺は景気関係無く就職する気は無いから関係無いっつっちゃー無いんだけど、でもこれって不景気な時代にアリな考え方だと思うんだよね。あとまぁその貧乏さなんだけどさ、貧乏だからあんま本が買えないから買えた本を精読するってのもあるけどね、あとは今もそうだけどある程度金があれば他にもっと面白い事とかがあってそっちをやるんじゃね?みたいなことも言ってるんだよね。まぁ合コンでもなんでもいいんだけどさ、夜遊びとかクラブでもいいんだけど、そんなのがあれば毎日図書館に通うなんてことがばからしくなると。


まぁこの本に「クラブとかがあれば」とは書いてないけど、まぁ現代的なコンテキストで言えばそうだよねってことで書いたんだけどね、まぁでも俺の場合、一通り遊んだってほど遊んでないけど一応経験はしてるじゃん?で、楽しい時期もあったけど今はもう本当に興味ないからやることがないんだよね。だから学問ぐらいしかやることがないっていうさ、逆に色々やってみて最終的に戻ってくるストイックな世界って意味での学問の世界ってことだよね。そういう逆もありえるってことだよね。楽しい事があるのに清貧を突き通してやる学問って俺はどうなのかな?って思うからさ、だからやっぱ若いときは遊びまくればいいと思うんだよね。いや、それは夜遊びとか合コンとかってこと意外にも死ぬほどゲームとかやればいいしライブ行くなりさ、夏フェスでもなんでもいいんだけど、あとは海外旅行とかさ、楽しそうなことはもう一通り舐め尽くすのがいいと思うんだよね。


で、俺の場合、合コンとか人との関わり合い系での遊びは元々好きじゃないからやらなかったけど、自分で遊ぶものに関しては色々やったからねってまぁゲームばっかだったけど。そんな中でもうあんま興味無くなるわけじゃん?所謂遊びってのが遊び尽くすと無くなるんだよね。全部に飽きる。そんな時になかなか飽きないのが学問なんだよね。そんなに飽きるほど薄っぺらくないし、どうでもいい人間関係みたいな軽薄さもないでしょ?深くて時間がかかるっていうさ、んでもまぁ俺がいつも書くようにそこで得られる知的刺激の快楽ってなんとも言い難いようなものがあるんだよね。比類無き感じっつーか。


そんな中でさ、大抵の有名な数学書は現行のアメリカの大学の教科書レベルのものでもネットに転がっているって言われてもなんか微妙なんだよね。それこそそれって買いたいものを買いまくれるみたいなもんじゃん?まぁ全部タダだから買うってことではないんだけど、でも実質同じじゃん?その著者の先生が言っていたようなさ、「むりして買った本」ってのが無くなるじゃん?ただのpdfなりなんなりのデータっていうさ、本のありがたみみたいなのが無いんだよね。


数学書って洋書でもやっぱ体系的にほとんど全部そのジャンルに関して書かれてるようなのってやっぱ高いんだよね。それでも買ってさ、いや、一万とか出したからこそ元を取ろう!とかって思うっていうかさ、精読しなきゃ勿体ないじゃん?pdfならパッと目を通すみたいなのが可能だけど、金が無い中で一万も出して買った本をペラペラ読むわけにはいかないよね。それこそ一個一個の定理なりの内容を理解しないと勿体ないっつーかさ、まぁ貧乏臭い話だけど、ようはこの貧乏くささがかなり重要なファクターなんだってことを言ってると思うんだよね。著者の先生のエピソードにしても著者の意見にしても。


だからなんでもダウンロードになっちゃうとこっちの懐はいためてないからさ、なんか駆られるものがないじゃん?電子書籍で金を出して買ったとしてもそれ自体が本として存在しないから忘れるってのはあるよね。それこそ1000冊とかやたらデカくて重い本っていう物質的な存在感とかも無くなるからさ、いや、そういうデカイ本だからこそそれを枕元に置いておいて常に読むようにするとかさ、一万円もしたんだぜ!これ!っていう意識が常にあるっつーかさ、それってすげー重要なんじゃないか?って思ったんだよね。


まぁ数学は数学だから読めればいいって人はそれでいいしそりゃーすげーと思うけど俺の場合、限られた中で厳選して買ったすんげー高い分厚い本の価値ってのはやっぱなんつーか存在感とこっちの懐が痛む感じって意味でもさ、なんかすげー重要な気がするんだよね。それこそ昔の人がさ、レコード高かったからほとんどレンタルのダビングで聞いてたんだけど本当に好きなやつに関してはレコードで買ってさ、んで俺の親父ぐらいの世代の人達だとすんげー扱いが丁寧なんだよね。それこそクリーナーとかスプレーみたいなのを持ってたりしてさ、まぁうちの親父はそこまでレコードもってないけど、でもまぁ扱いが慎重ってのはあるよね。


んーまぁでもこれってレア盤のオリジナルを聞いているんだ!っていう満足感と変わらないもんなのかなぁ?再発だと2000以内で買えるじゃん?レコードとか。だからまぁそんなに慎重には扱わないけどさすがに3000円以上するやつとかプレミア盤だと扱いが違うよね。で、聞き方もすんげー丁寧になるよね。なんだろうな?これって。レコードっていう独特の物質感もあるけど貴重さとかさ、傷ついたら終わりとかさ、あとは所有感もあるのかな。


あ、んでも俺が言いたいのはね、貧乏学生が大好きなレコードを買うために何かを節約して買って死ぬほど聞くみたいなさ、その音楽の楽しみ方ってすげー濃いじゃん?あれ聞けば学生時代の下宿を思い出すぐらいの強度があるっつーかさ、でもistoreとかamazonで買ったmp3にそんな強度ないよね。所詮ファイル感があるよね。まぁ所詮ファイル感ぐらいしか無いようなのが多い中で安く買えるから時代に合っているといえば合っているんだけどね。音楽が昔より本当にただの消費物になった感があるからそういう意味で軽い感じのmp3的なものは今の音楽の形態に合ってるって言えなくもないよね。


でも数学書は違うじゃん?数学自体のありえない歴史と重みってのがあるわけでさ、それを1000ページのハードカバーで感じながらページをめくるっていうさ、まぁ通読はしなくてもね、んでもやっぱすんげー高い金出して買ってるとすみからすみまで貧乏性で読みたくなるっていうさ、あとはまぁ高かったから他に本が買えないからそれかあとはもう前に買った読んでなかった本ぐらいしか読むのがないっていうさ、読む本が100冊以上あるとかっつってまぁ評論家とかってすんげー速読してたりするじゃん?まぁそういうジャンルのものはいいけど数学書に関してはすんげーヘビーに高い決定版みたいなのをむしゃぶりつくすってのが極めるってことに近づく気がしたんだよね。哲学もそうかな。


なんか哲学書をpdfでってなんか軽過ぎて嫌だよね。イメージで言うとラノベとかビジネス書とかJ文学とかってすげー電子書籍向きだけど、重い本ってあるじゃん?物理的な意味だけじゃない意味での重い本ね。それをpdfとかkindleでって結構違和感あるよね。それこそ俺がジャズをmp3で聞かないのと同じだよね。ニコラ・コンテみたいなのはmp3で聞くけどブルーノートとかプレステッジみたいなやつはcdですら聞かないもんね。なんかすげー違和感あるのよ。メディアとしてジャズはcdとかmp3に適してないっつーかなんつーか。で、同じようなことが哲学書とか数学に言えるんだよね。


レコードの味わう感じって半端じゃないんだよね。いちいち裏返さなきゃいけないしさ、セッティングも面倒だしさ、でもそれが俺が前から書いている音楽を聞くということの能動性じゃん?ipodとかはすげーパッシヴだよね。ランダム再生とかライブラリに放り込んであとは放置みたいなさ、あっちが勝手に選んでくれるみたいなさ、それって消費的な音楽には適した聞き方だと思うけど、じっくりオーディオの前に座って聞くようなものには適してない気がするんだよね。


まぁ考え方は人ぞれぞれなんだろうけどさ、そもそも俺の場合、ジャズをウォークマンで聴くとかなかなかありえないんだよね。それで言うと昔のモンドとかもそうだけどさ、時間に余裕がある時にゆっくりレコードでじっくり聞くもんなんだよね。哲学とか数学もそうじゃん?速読してすぐ本だな行きじゃなくてさ、本がボロボロになるまで読まないと大抵分からないじゃん?あとは一回読んで本だなに行って、んでまた何年後かに読む・・・ってのを繰り返しているうちにボロボロになるみたいなさ、そういう本が身体化される感じだよね。それは消費じゃなくて血肉化だと思うんだよね。そういうプロセスにおいて図書館で借りるということも電子書籍で買うということもなんかすげー適してないジャンルってのが結構ありそうな気がするのね。高いし持ち運びに不便だけどでも本で持ってるみたいなものってレコードで持つってことと今後は同意義になっていくんじゃないかな?と思うんだよね。あ、仮に電子書籍が割と普及したらね。


で、正直、数学書で言えば古今東西の名著の類を相当見つけたんだよね。あ、ネットで読めるってやつね。著作権違法だけどね。んでも読めればいいや。高いしって思ってたけどそれは違うなぁーと思って。むしろタダでパラパラpdfとかで読みたいのって新書の類だよね。文字数少ない割に高いじゃん?でもジャンクフード的な美味しさがあるじゃん?まぁ新書の種類にもよるんだけどね、で、ヘビーコンテンツに関してはそういう読み方は良くないなぁーって気がしていて。それこそ身につけたいなら買え!だよね。で、ぼろぼろになるまで読み尽くせ!ってことだよね。これがようはレコードと本の似ている部分だよね。レコードで言えば溝が無くなるまで聞くとかジャケがボロボロになるまで聞くとかさ、80年代とかにヒップホップとか初期のテクノみたいなのが日本にも輸入されてた頃ってそういう聞かれ方してたんだよね。


貧乏云々じゃなくて例えばテクノっつってもデトロイトテクノしかなかったような時期はみんなそれを死ぬほど聞いてたみたいなさ、まぁみんなかどうかは分からんけど、ケンイシイなんかはそうだったみたいね。だから彼の中にはなんつーかデトロイトな感じってのがもう身体化されてるじゃん?それはもう聞きまくったからだよね。あ、ちなみにメタルブルーアメリカ以降さっぱり聞いてないんだけどね。最近ではFlareかFLRのEasy Filtersってのをよく聞いてるな。FLRに関してはあの単純さがいいね。フレンチ系の一時期の短絡的なフィルター系のやつをケンイシイがやりました!みたいな感じがあってあの単純さがいいんだよね。で、Flareに関してはファーストが怒濤の名盤過ぎてヤヴァいね。finite timeをパフュームのマッシュアップで使ったけど、まぁマイナス評価ついてますけどね(笑)


まぁそんな感じですね。対価を払うってことがアーティストなり作者なりレコードレーベルなり出版社へのリスペクトだって考え方もあるけど、それで言うとブックオフとかマーケットプレイスが氾濫している中でそれを言うのはもうあんまり現実的じゃないじゃん?で、俺が言いたい対価を払う事の重要性はその貧乏性的なね、高い金出して買った本なんだから未読はねぇーよなっていうことなのね。それが読み辛そうな辞典みたいな本を読むイニシアチブになるっていうかさ、でも金持ちはそれはできないよね。1万する本でもいくらでも買えたら結局はネットでタダと同じような状態だから。そうじゃなくてやっぱ俺みたいな無職が限られた金の中で高い本を買うっていうことのさ、そういう条件化において発生する動機づけだよね。


で、これってのがまぁすげー昔の人の学問の向かい方と似ているところがあるなって勝手に思ったのね。まぁ俺は衣食住ばっちりで困ってないけどでも金がないのは事実なんだから。でも時間はあるから普通の人が読まなそうな分厚い本を死ぬほど時間をかけて読んだりできるじゃん?まぁ時間をかけるかはともかくさ、読めないってことがないよね。時間があるからなんでも読めるっていう。でも金がないっていうさ、その条件が重要なんだよね。これで金があるなりネットで読み放題だったら逆にあんま読まなくなったり知識が薄くなりそうな感じがするんだよね。それこそ眼光紙背に徹することができなくなるっていうかさ、次の本を読みたくて適当に読んで終わらしちゃうみたいなことが習慣化しそうだよね。多読してたころはこれがデフォだったから大著みたいなのは買ってもスルーだったよね。だから今頃になって読んでるやつが多いわけよ。


まぁそんな感じですかね。今日は。





新品で200円ね。