スズメバチのオントロジー。

ダメ元ならぬ雑元ですからね。どんどん書いていきましょうよ。ってことで今日はなんつーかまぁあれだわ、昨日の続きでもいいかもしれんけどまぁかなりオントロジー寄りの話を。というかさ、昨日の話からしてもますます存在ってものが分からなくなるよね。それすらも恣意的な解釈なのではないか?とかって話になってくるよね。


人によって定義が違ったりするものが存在と言えば言葉全般がまぁ恣意的に色々な解釈をされうるものとしてシニフィアンの戯れ的なさ、そんな話にもなりそうだけど、昨日は昨日で独立したかなり数学寄りの話であったけど今日はオントロジー寄りなんだけどねってさっきも書いたか。存在を実在のものに影響を与えるものとか現象そのものを引き起こす要因になりうるものだとかって考えると何もかもが存在なんだよね。分裂病の人が見る幻覚もそれが元になってその人が騒ぐとかいきなり逃げ出すっていう行為を生み出しているわけだから十分その幻覚は存在と言えるよね。まぁ言えないんだけど。


でもさーなんつーかさーどっからが観念的な意味での存在でどっからがオントロジカルな意味での存在なのか?ってことだよね。唯識を出すまでもなく目の前にある机は幻覚だよね。まぁ幻ではないけど認識されて作られているものということでまぁある意味ではソースが無いものなんだよね。それで言うと反射ということ自体が存在なのか?ってことじゃん?


物理的なオブジェクトとしての固体があるかどうか?ってのはまぁ物質的な考え方だけど、例えば毒ガスは触れなくても存在しているわけだし充満すれば死ぬわけだ。人が死んでいるという分かりやすい現象があるからこそ毒ガスの存在が揺るぎないものになるっていうかさ、じゃあ逆に何にも作用しないものは存在と言えないのか?というとそんなこともないけどんでもまぁいつも書くように誰もいない場所で起こった事柄だの音だのさ、そういうのはそもそも音とか事柄なのか?っていうさ、人間の知覚を通さないからそれは「そんなことは色んなところで起こっているだろう」っていうまぁ可能性の話になるよね。いや、事象自体を存在というのもおかしな話だよね。可能性ってのは存在なのか?とかさ、quantumにしか記述できないものが存在なのか?とかね、まぁ話は尽きないですけどもね、すげー前のさ、伊集院光の霊能者というものへの考察ってあるじゃん?貼るけどさ。

まずみんなが集まっているところに伊集院が行って ポッケからタバコの箱を出して「この中にスズメバチ入ってるから触らないでね」と言って、 そこに近寄らないようにしてからその場を離れる。


そのあとみんななんとなくその箱の置いてある席には近寄らないままでいる。 その部屋に他に人が入ってきたときに 「何でその席人がいないの?」 「なんか箱にスズメバチが入っているから座るなって」


そして最初部屋に居た人はもうみんな居なくなり、伝聞でしかスズメバチの事を知らない人だけが居るようになる。 そしてその人たちが更に新しく来た人に尾ひれをつけてスズメバチが居る話をする。 既に存在しないスズメバチがみんなの行動に影響を与えるようになっている。 最初は一匹という話だったのに、凄い数が入っているということになったりもするだろう。


そこにふらりと「スズメバチ駆除業者です」と名乗る男が現れて箱をポッケにしまい、 みんなに駆除の代金を請求するとみんな払う。 スズメバチなんて居ないのに。


「これが、テレビに関わっている俺の立場で言えるギリギリのラインの、霊能者というものへの考察」


言わばまぁマッチポンプだよね。まぁ実際霊がいるかどうかは別としてもこの例え話で言えばスズメバチは存在してたよね。それ自体が人々の行動への影響を及ぼしたとかさ、見えないけども観念的に存在してたって意味ではまぁ存在してたんだよね。逆に普通のタバコの箱にスズメバチが入っててもまさかまぁそんなもんが入ってるとは思わないからタバコの箱にスズメバチは存在しないよね。普通は。でもこれ自体は別に存在ということに何の影響も及ぼさなくてあるものがあるってことなんだからまぁようは当然のことながら伊集院の例え話で言えばないものをあるものとして思っていたからあたかもそれが実体を持ったもののように現象してしまうってことだよね。


その存在自体の記述を与えるのが人々の認識っつーかようは人々のスズメバチに対する認識だよね。とにかく危ないし刺されたら死ぬっつーからまぁ近寄らないということが見えないスズメバチに存在的な記述を与えてしまってるんだよね。ペットボトルに毒ガスが入ってますってまぁ実際は水でもそんなもん見分けがつかないからだからまぁ地下鉄に変なペットボトルとか置いてあったらヤヴァイから撤去するわけでしょ。あと勘違いを与えるからそんなことはするなと。


ちょっと話をそらすとこの恐怖ってのも存在なのかね?っていうさ、オウムの事件っつー経験的なことから見える恐怖だよね。それはありえたけどまぁ無い時には無いわけで恐怖は無かったわけだ。9.11然り。あんなもん経験的なことから分かるわけがないわけで。まぁ真相の話とかは置いておいてもね。意識から独立して客観的に存在するものなんてそもそも人間側から規定できるわけがないよね。なんかフッサール的な話になっちゃうけど。


意識と相関する変数みたいなものが存在なんだとすれば意識に相関して認識されうるものは全てが存在と言えなくもないよね。客観性はないけども。結局はそこにあるって思える超越論的主観性でしか存在は規定できないよね。そうなるとそもそも存在を実体だとか物体だとかっていうそういう属性で定義しようとする事自体が凄まじくバカバカしく思えてくるよね。究極のナンセンスというか、それやってるといつまでたっても存在が分からないわけだ。


かといってもさ、意識と相関して現象することで存在の確信を与えるっていう函数的な関係性そのものが存在なんだと言われてもピンと来ないよね。意識との相関そのものが存在を規定しているとなるとまぁ言わばその関係性とかそれが発生する場だよね。それでしか存在は規定できないわけだ。結局は考えるということとか数が収束するだとかなんだとかそれ自体はそれでしか記述できないんだよね。でもそれは関係性による存在だからヘタな存在より実は凄まじくオントロジカルというか存在性が強いんだよね。積み重ねの連続性なり動いているということでしか存在を記述できないものであったり、ようは存在を離散的に考えるから問題が発生するんであって連続的に考えれば分かりやすいんだけど、それで言うとまぁ仏教の空に結びつくんだよね。


結局はまぁ全部縁起だとかの関係性なわけだから、存在を何かに依存しない絶対的な実在として規定するならそもそも存在なんて存在しないっていうさ、まぁそりゃそうなんだよね。箱の中のスズメバチオントロジーなんてだからまぁ意味無いわけだ。意味あるけどね。でも結局は規定できないってことになっちゃうよね。あったという事実が確認できなかった場合、そんなもんの存在なんて規定できないわけだし。だからこそ物理的客観性みたいなのに依存しないオントロジーのほうが実は整合性がとれるような気がするよね。まぁかなり常識に反することにはなるけども。


話が独我論的になりがちなのも逆に客観性を求めるが故に出てくる胡散臭さもまた人間そのものに関わるものっていうか人間が定義をするということの限界な気がするよね。だからこそまぁ一人一人に独我論的な世界観が存在していてそういう主観の中でしか存在はいかなるものでも規定できないっていうようはクローズドな中での函数と変数との関係性でしかないっていうさ、そこで出てくる0ならノーで1ならイエス的なcomputationというかなんというか。でもそのconputationの原理自体は実は客観性が無いんだよね。そりゃ当然でそれは主観的だからだよね。だからこそそもそも人間が客観性を語ることなんて無理なんだって気がしてくるよね。まぁ主観/客観っていう日常的に使う単純な二項対立でしかそもそもこの両方の意味は機能しない気がするよね。


いや、科学的な意味での客観性とかさ、社会学とかでのサンプリングの客観性とかさ、これはようは分かりやすい日常的な客観性だよね。コンセンサスとしての客観性なんであって認識論云々は関係無いんだよね。だからそれをも意味無いとかって言うつもりはないんだけど、ただ言葉そのものが矛盾を孕んでいたりパラドックスを生んだりとかさ、そういうケースって多いよね。まぁそもそもそれが言語なんだってところなんだとは思うけども。


computationに原理があれば有限な言葉のstringによって0か1でノーとかイエスって出せるけどさ、そんなものが出せるほどそもそも主観と客観の定義って明確じゃないしさ、だからこそ原理が無いんだよね。まぁ日常的な意味での言葉としての意味はあるけど厳密な定義というか原理はないよね。言わば間主観的な客観性しかない。でもそれはなんとなくの暗黙知の次元なんであって厳密な原理があるわけじゃないよね。


前に書いたさ、いまだに自分でもよく書けたなって思ったのが秋葉原の連続殺傷事件なんだけどさ、あれをテロだっていう人いるじゃん?あとはそう定義する人とかさ、ワープアによるテロだとかワープアとかno futureな感じが原因だとかなんだとか。そういうbelief systemみたいなものの共有が間主観性を生んでそもそもの本当の事件の動機とか理由とかを置き去りにして勝手にその殺傷事件そのものに意味を与えてしまうんだよね。それが人々の間にそういう共通認識を生んでそれを刻印してしまうというかなんというかさ、そもそもだから解釈なんだから「実際はこうでした」的な情報がワークしないんよね。テロだと解釈する人に客観性なんて関係ないわけで、その人にとってはそれはテロだったわけで、それこそがまさしく認識するってことだよね。それが真か偽か?とかとは関係無い意味論の世界ね。結局は存在ってのは人々が思ってるほど具体的なものではないし客観的なものでもないんだよね。


なんかでも不可知論にも近いような気がするけどでもまぁ不可知だとして諦めるんじゃなくて考えたり分析する態度なんだよね。だから別にニヒルな感じで定義しているわけではないんだけどね。あ、んで原発にしてもそうじゃん?主観とか客観とか全然関係無いどころがごちゃごちゃになって利権だの政治だのイデオロギーだのってのが混ざりまくって色んな解釈がされているのがあの事件だよね。


仮にあれが何千年に一度の津波だったとして、んでもそれに対応してなかったってことがそこまで咎められるものなのか?ってのは思うよね。東電批判ムードっていう間主観性と空気が存在しているから東電の擁護なんて出来ないんだろうけど、まぁここはようは擁護とか関係無くそれこそイデオロギーとか脱原発とか関係無い客観的な話をするしかないよね。それで言えば恐らく危機管理系で言えば超レアなケースに関しては対応してないなんてものはいっぱいあるよね。東電のは本当に最悪の偶然だよね。でもその1000年に一回だのなんだのっていうことを小さく見過ぎてない?って思うんだよね。やっぱ。


原発に関して言えばもう完全にイデオロギーだよね。TPPとかに関してもイデオロギーが混ざってるしっていうか色々と混同するから明確に分かるってことがすんげー難しいんだよね。それに費やす時間とか半端じゃないからそもそも庶民に全貌を理解させるなんてことは不可能なんだよね。もう絶対無理だよね。情報量が膨大過ぎるもんね。そんな中で賛成だの反対だの言っててもしょうがないわけで。まぁこれが俺がいつも言う衆愚性なんだけどね。皮肉なことにギリシャでそれが爆発してるっつーのがなんだかねーって感じだよね。客観性やら合理性に依拠して最善の判断をしたいのであればドクサまみれな民衆の意見なんて一番聞いちゃいけないわけで。


実際原発反対派が多かったとして、んじゃあ民主的に原発全部無くしたらまぁ日本無くなるじゃん?違った意味で。ましてやあんなことがあった後なんだから誰も原発万歳!なんて一部のやつ以外は思ってないわけよ。でも選択肢がないから頼るしか無いってのが現状なわけで。だから長期的に原発に変わる代替エネルギーとかさ、原発に頼らないやり方ってのをやっていくしかないんだよね。今ぶっ潰せ!なんてことじゃないわけで。ホント、核って資本主義みたいなもんなんだよね。諸悪の根源なんだけど頼らないとやっていけないっていう。上手くやればいいんだけど人間側が上手くやれないとかなんとかね。


核で核を防衛するとかさ、あれも言わば概念的な恐怖同士のやり合いでの相殺みたいなもんだよね。実際は放つ事はないけどあることで存在感を与えられるんだけど実際あるかどうか分かんないとかさ、イラク戦争みたいな話も言わばそんな話だもんね。あるかどうか分からない歴史的事実をカードに外交をやるだとかなんだとかも同じような話だよね。悪用されればたまったもんじゃない。でもオントロジカルな証明ができないっていうさ、すんげージレンマだよね。


あとはまぁfigurativeに言われるのがカネだよね。実際はルールとかシステムの機能なんだけど完全に物象化していてそれにみんなコントロールされてるっていう。まぁ俺が一番嫌な例のあれね、「食っていかなきゃいけない」っていうようは生存権を人質に取られてるからお金を得るということを生存原理としてやっていかなきゃいけないというのを強制させられてるんだよね。これも核並の諸悪の根源だよな。まぁそりゃそうか。さっきは資本主義と核は似てるって書いたわけだから。今は昔と違って気がついてる人が結構いるんだよね。嫌だけどんでもそんなこと言ってられないっていうさ、カネが好きとかじゃなくて必要だから得るしか無いってことなんだよね。でも必要なかったらそんなものを得るために人生の半分以上を費やしたくないっていう。


俺が言いたいのはお金以外の幸せとかそんなことじゃなくてさ、スズメバチ的なオントロジーなのよね。あるものがなかったり無いものがあるとされて実体を持って暴走し始めたりさ、まぁお金とかcommodityで言えば物象化だよね。まぁそれ自体が暴走しているのではなくてあくまで人間がそれによって暴走しているわけだけどもまぁ原因を作っているのはそれなんだよね。で、しかもそれに依存せざるを得ないという現実があるからこの呪縛からは誰も逃れられないっていうカネという名の呪いだよね。装備したら呪われるんだけどもうデフォでそうなってます的な。逆説的に言えばお金がなくなれば世の中相当幸せになると思うね。ようはお金が軸じゃないっていう世の中ね。やり方は分からんけどっつーかまぁすぐに書けるような代物ではないけど。無いんだったら無くせばいいのでは?って意外と言えてるんちゃいますの?


まぁ人々が求めてるのってカネじゃなくて生活だからね。生活の為にカネがいるっていうまぁ全てが→でお金に繋がるから色んな部分で依存せざるを得ないんだよね。まさしくn→∞の如くそれ自体には意味も存在もないんだよねぇー。まぁ連続性だよね。お金というのも無限のデマンドから機能している→そのものみたいなもんだわ。マジで。お金の必要性ってのはそれ単体で議論できなくてその必要性の積み重ねでしか規定できないんだよね。そうやって考えていくと本当にくだらないものに踊らされてるよなって本当にバカバカしくなるんだけど。お金って伊集院の件の霊能者と一緒なんだよね。大掛かりな詐欺みたいな。まぁ所謂似而非霊能者ね。まぁ間接的にリアルな人がいるから霊能者の存在自体は俺は否定しないんだけどね。


なんかそういうスズメバチ的なものに対するオントロジーのコペ転が必要な気がするんだよね。んでも仏教的な意味とかではなくもっと卑近な感じで「そういえばそうだよね」っていうぐらいのコモンセンスで。


まぁ今日は終わるわ。とりあえず。なんかまだ書き足りない気がするんだけどまぁ今日はこの辺で。