狸さんへの返信。

三日前のエントリーに狸さんから書き込みをいただいたので。

耳蝉さん


お久しぶりです。狸です。定期的に覗かせていただいています。何だか、そういえばもうあれから1年経つのかぁと思い、思わず投稿してしまいました。僕は無事、大学院に進学できました。卒論も終わり、少しひと段落した日々です。


とまぁ、近況はこんな所で日記読んで思ったことをつらつら書きますね。


率直に苦しいだろうな、と思いました。別に気質とかとは全然関係なく、現在の状況でモチベーションをプロ意識の状態で維持することがです。僕は数学にのめりこんだことがないので、的外れかもしれませんが、将棋士がひとり盤の前に座って、至上最高の一局をつくろうとするモチベーションに近いように感じてしまいました。モチベーションをプロと同じように、プロの環境の内部にいずして保つことは尋常じゃないと思います。モチベーション維持のレベルでいえば、プロが一定の環境や概念装置によって自動補充されていくのと異なり、自家発電はとにかく大変です。


第一に、モチベーションを保ち続けるためには、たえず「自分はこの選択で・・」の問いを問いづづけ、それに実利的、現実的でなく抽象的な納得のいく回答で自分を鼓舞しつづけないといけないからです。しかも、モチベーションを保ちつづけることそのものが行為自体になってしまうこともあるような気がします。たぶん。少なくとも僕は。この日の耳蝉さんの日記を読む限り、こうした自家発電の途方もなさと、それでも自家発電するしかない葛藤が僕には読み取れました。日記の前半と、後半と。


耳蝉さんと一番最初にやりとりした時にも思いましたが、やっぱり耳蝉さんはどうにか場を考えた方がいいと思います。哲学は天職だといってました。僕もそうだと思います。ただ、それは同時に、天職にふさわしい場所から発信して初めて天職足りえると思うのです。権威主義に写ってしまうかもしれませんが、僕は大学で卒論をかいて権威の文章を引用して、権威の教授に読んでもらった時、耳蝉さんがいうコミットメントというのは権威をもつ覚悟とも考えられました。


本当に純粋に数学にのめりこんでいたら、こんなこといわないと思います。が、後半の部分を読む限り、ゴッホを持ち出す画家を批判したときと同じ感想を持ったのです。けれども、哲学に関してはこうした後ろめたさ、がほとんどないようにも感じました。現実的な事情が人それぞれ多々あると思います。ただ、たとえどんな事情があるにしても、もし自分の天職を信じられるならば、その天職にふさわしい環境に自分をおくことも重要じゃないかと思うのです。リスクをとらない道もありますが、プロ意識とは常に奇跡のような選択の網目を選択しつづけることだと。可能世界に追いつき、追い越し、追いつかれ、追い越し。


全部は僕の勝手な解釈です。が感想ということでご勘弁を。
場とか言ってて恐縮ですが、またこの場に書き込みできて嬉しかったです。



お久しぶりです。書き込みありがとうございます。


いや、本当に率直に苦しいですね。将来的にどうなるかは別として、例えば数学にしても数学という専攻を選んで学校に通いながらやるということがいかに楽なことなのか?というのを実感する毎日です。まぁ学校ではやらなきゃいけない類のものが多くて嫌にもなるとは思いますが自動的に色々と与えられるというのは楽ですよね。ましてや授業に出席しなければいけないという必然性から学校に行く必要があって、これも規範的強制力みたいなのがあるわけですよね。でもこれは逆説的に言えば凄く受動的なことであって、本当に自分がやりたい!と思うのならむしろ学校なんてものは邪魔なんじゃないか?ってこれは今の自分の状況の正当化ではなく真剣にそう思います。


というのは確かに学校によって身に付くものもあると思いますが、自分のペースで好きな時に色々と出来るというのは能動性があれば最強ですよね。学校ではまだ学部レベルのことでやらなきゃいけないことがたくさんあってそれに忙殺されるけど、でも自分で勝手にやる分なら高度なレベルの本も理解出来れば勝手に自分で進められますし、それと同時並行で物理数学なんかも勝手にやれますし、これは学部での勉強に忙殺されていたら出来ないことですよね。ましてや講義がスローだったらもっと早く進みたい!って思うと思います。これは多分どこの学校でも同じだと思います。


なので勉強をするということ一つを見ればやはり自分にとっては独学がベストで一番効率的だと言えるんです。体系的にできなかったりムラが出来るという難点はありますが、でも数学って最終的に専門分野を決めるわけですから、最初からそれが分かっていれば最初からそれを出来るという利点がありますよね。ショートカットという意味ではなくてピンポイントって意味です。苦手な分野は別にやらなくていいっていうことが出来てしまいますよね。


アメリカの大学ではそこまで苦手だったら多分落とされるのでまたお金と時間を払ってそのコースを取り直したりして苦労しなければいけませんね。実際、僕は出来不出来が極端なので大学という場で見ると成績は凄く悪くなると思うんです。実際、コミカレではそうでしたからね。得意分野はAばかりだけど苦手なものはDとか普通にあったんです。で、やたらそのDを取るような学科に苦労をするわけです。心労もありますね。好きでもない本を読まされたり文章を書かされたりとにかく苦痛でしたね。


でも狸さんが言うように場という意味で言えば難点はありつつもそれが直接的にキャリアというか仕事に結びつく道にいながらそれをやるとか天職を本当の天職にするために場を得るということは凄く重要ですよね。それは僕もそう思うので、だからいまだにやはり大学進学は諦めきれていないんですね。別に東大に入らなくても大学院から東大に入るつもりで別の大学に入るという道はあると思うので選択肢としてはまだ生きているんです。でも例えば自分の場合で言うと哲学の場合、普段も書いていることですが、自分が思う哲学と大学でやるような哲学は全く違うものです。これはまぁしつこく何回も書いているので言わずもがなだと思いますがあえて繰り返します。


で、哲学は自分にとっては思索をするということなので権威とは関係が無いんですよね。言わばアカデミアとは全く関係がないんです。それはここ数年ようやく気がついたことですけどね。でもまぁコミカレに通っていたときに哲学の先生から「自分で読む事だ」って言われたんですけど本当にその意味が理解出来ている感じなんですよね。「フッサール現象学とかをやりたいと思っているんですけど、どんな大学がいいんでしょうか?」みたいな愚問をその先生にした時の先生の回答がこれだったんですけどね。で、これは数学も同じだと思っているんです。数学がやりたいなら本を買ってきて自分でやるのがベストなわけです。ただ数学の場合、論文を書いて発表して・・・というプロセスの中でプロとしての経験が積めるというのが大学の利点ですし、ここは哲学とは違う所ですよね。大学の数学も自分でやる数学も変わりないですから。なので権威ということで言えば哲学ではなく数学なんですよね。


まぁでも年齢のこととかもありますし、アカデミアの現状を考えても東大で博士号を取るというのが最低条件だと思うんですが、でもこうなるとなかなかの死に物狂いになりますよね。この東大コースを考えると好きな分野だけやるというスタイルじゃ無理ですよね。まずは受験勉強から始めてそこから学部の勉強に入って・・・というのがしばらく続きますよね。相当忙しくなると思います。で、それが果たして自分にとってのメリットになるのか?というのが最大の考えどころなんです。数学は結局は最後は自分で考えて何かを書かなきゃいけなくなるわけで、それが出来なくて中退する人とか相当多いんですよね。で、それが自分に出来るのか?というのもなかなかの考えどころですね。


哲学は天職と言い切れるけど、でもそれは大学に入ってやることではないし、自分としては権威とは関係無いものだと思うし、特に言論的なものの権威ということ自体が自分の体質に合わないというのがあります。別に狸さんの考えの否定ではないし、それは単純に狸さんが大学でやっていることと僕が考える哲学の違いということだと思います。大学的な権威というかサンクションみたいなものがあるとより良く機能できるものって多くあると思いますから何も権威の根本的な否定ではありません。でもまぁこれは天職だからなのかもしれませんが哲学に関しては凄く明確なスタンスが自分の中にあるのでこれは確固たるものなんですよね。でも数学は天職かどうかは分からないし、天職だと言い切れるぐらいの何かがあれば進学しても最終的に何かを書けるという自信ありきで進めると思うので、色んなことに忙殺されるというデメリットがあってもプロコースを選ぶと思います。


でも正直なところ自分にとっては数学って一番苦手な分野だったわけですし、面白い!」と感じたのが2年半前ぐらいで、割とちゃんとやり始めたのがここ1年ぐらいなんですよね。なのでまだ全然自分が分からないんですよ。なのでそんなことをウダウダ考えるのは意味が無い!と思いつつも、やはりプロコースというのが視野にあるからこそ「俺に向いてるんだろうか」という葛藤が常にあるわけです。趣味程度でやるならいいですけどアマチュア的なものは絶対嫌だ!と思っている自分にとっては数学は天職じゃないといけないんですよね。


でもその確信ってやっていくうちに得られるものだと思うんです。少なくとも哲学の場合はそうでした。なので数学ももっと深くやる必要があると思っているんですよね。そこで向いていないのなら潔く諦めるか、それでも好きならまぁ完全なる諦めモードでただの趣味として続けていくのか・・・っていうまぁ凄くルーザーコースに入るわけですが。努力努力って言いますけど僕は絶対違うと思うんですよ。数学とか物理は努力じゃどうにもならない一流の壁ってのがありますね。それは初学者の僕でも分かります。才能がある上での努力って意味で例のエジソンの名言と同じになりますね。


というわけで場と言えば断然僕に必要なのは数学においてですね。哲学が仮に世間的にそうなのだとしても僕には抵抗があり過ぎて無理です。場にアダプトできないし今以上に病んでしまうと思います。あとはやはり哲学が天職ならばその天職を活かせる場はズバリ在野だと思っています。そういう意味で自分が哲学的なものを続けることに関しては何の懸念もないんです。でも狸さんも感じているように数学に関しては哲学に比べれば相当コミットが浅いんですよね。だからそんな浅さでプロ意識を維持するというのは無理なんで、だからもうそこは自分でコミットメントの度合いを深くしていくしかないんです。そこで天職だ!と感じられるような何かがあればその場が必要になるので進学ということが見えてくると思います。今はまだそんな段階に無いということですね。経済的に余裕があればとっくに進学していると思いますが、今はそういう状況にないので、だから確固たる何かが無い限り進学はなかなか決め辛いという現状がありますね。


あと自分にとっての哲学はやるとかやらないの次元ではないので、仮に数学プロパーコースに入ったとしても持病みたいなもので永遠にやめられないと思います。これが天職たる所以ですよね。でもなんかあれですよね、狸さんが書いている「哲学には後ろめたさはない」というのはなんか凄く正鵠を得ていると思いましたね。今の所、数学の本を読む時間のほうが長いし、実際に数学のほうが面白いんですが、でもなんか決して自然ではないんですよね。哲学に比べてやはり作為的で意識的にやろうとしているところがまだあったりなんかして。ようはこの自然になれない場合、僕は無理だと考えるんですね。


僕は血反吐を吐くような努力は決して出来ない人間ですし、あくまで行動原理は全て内発性なのでスポンテニアスな衝動みたいなのが無いと何も続かないんですよね。数学が自分にとって哲学に匹敵するぐらいのものかどうかは正直まだ分からないという感じです。だから進学も視野に入れつつもまだ躊躇してしまうところがあるんだと思います。この内発性を見出せたら次は場の段階・・・という感じですかね。今回狸さんが書いてくださったことは凄く参考になりましたし色々と気づきがありました。実際、数学をやるなら本当に場は必要だと思っています。


ただその一方で本当に数学をやりたいなら場なんて関係無いのでは?と思ったりもします。場を求めてしまうのは言わば甘えなのではないか?とか思ったりもしますね。場が無ければモチベーションを維持出来ないぐらい弱い自分が居るのなら、それこそ数学みたいな超シビアな分野では結局やっていけないのではないか?とかって思ったりもします。数学科って「才能ないや。ダメだ・・・」って諦める生徒が凄く多いらしいんですが、本当にそうだろうなって思うんですよね。なので入りながら模索ではなくて、天職だ!という確信があった後に進学ということしか今の所は考えられない感じですね。


なので場は必要だけどもまずは確信ありきなので、ある程度の才能の見極めといいますか、数学での自分の能力というのをある程度見極める必要があるんですね。だからこそもし無かった時というのが常に恐ろしくもあるわけです。でもやらなければ見極められないですし、まぁそこがまた結構な鬱要因ではあるんですよね。プロになる前提なので中途半端に自分を甘やかしながら出来ないというのが結構なプレッシャーになったりもしてるんです。


長くなってしまいましたがこんな感じですね。これはもう本当に才能の問題なのでとりあえずやるしかない感じなんです。


追記


狸さんが言う「ゴッホの話を持ち出す画家」に関して去年のエントリーから狸さん自身の書き込みを引用するです。

こうゆう話をすると、必ず「でも生きてるうちに認められるとは限らない。死んだ後に評価される人もいる。だから市場とか流行に流されず自分の表現したいことを極めるのも大事でしょ」っていう人がいる。ゴッホとか例に出してね。表現者が絶対にしちゃいけないタイプのリスクヘッジですよこれ。ゴッホの話はそうゆう人のために作られた慰めであってゴッホ自身は誰よりも認められたかったって僕はいいたい。日記を見ると、自分が認められないことを常に気にしている。死んだ後にどうこうなんて話はまぁ、結果の話なんであって大事なのはどうゆう態度で表現者として挑むかってことですよね。そうゆう葛藤の中でしかいいものは生まれないというか。ようは、思考停止に陥っちゃいけないってとこに落ち着くんですが・・。


で、俺なりの今回の話の補足をするとこの「表現」というのを「数学」に置き換えた場合、例えばゴッホレベルの数学をやっていればそれは本人がニートだろうがホームレスだろうが論文に書いて出してしまえばそれは必然的に認められるということね。俺が数学に興味を持ち始めたときに書いてたと思うけど哲学やら書いてることなんて評価されるとは限らないし、分かる人は一握りかもしれないじゃん?んでも数学の場合、それを数学的事実として出してしまえばそりゃ認められざるを得ないわけよね。なので自分で極めるということがそのまま認められるということに仮に在野に居ても繋がるということね。まぁ並大抵のことではないんだけど、でも最終的に何かを書かなければいけないという意味で言えば学校にいようがいまいが結局は才能の壁みたいなのに出会うわけで、そこで超えられない壁があればやっぱり諦めるしかないわけだ。書けないやつは一生書けないだろうし、やっぱそこが才能なんだと思うんだよね。どんだけ知識を詰め込んでも無理なもんは無理だからね。


ということでした。