数学の理解。

http://www.dabesa.org/2009/08/post-37.html


そうそう。これなのよ。いや、確かに今なら言えるな。小飼さんの数学者云々の話は確かに胡散臭いというかインチキ臭いな。それはともかくだ、俺が最近書いている基礎を徹底的にやろうというか分かろうとすると自ずとアドバンスドな数学に向かってしまうっつーのがこれなんだよね。オイラーの公式は確かに高校数学レベルだけどちゃんとあれで理解出来るのか?って高校数学の範囲じゃ絶対無理なのよ。このエントリーにもあるように函数論的な話が必要になっていて、それがまぁ俺が普段書いていることなんだけど、三角関数の本質を理解するのも俺は結局はこれだと思ってるんだよね。


所詮は公式のやりとりなんて記号のやりとりなんであってさ、背後で何が起こっているのか?っていうのを本質的に理解するには無理なのよ。虚数の情緒とかオイラーの贈物とかまぁ俺は以前は褒めてた気がするけどいざこうやって専門書を色々と読むようになると全然良くもなんともないなぁーって感じなんだよね。ああいうのはなんとなく分かるってだけで本質的な理解をするには数学は全体的にもうアドバンスなものが必要になってくるわけ。その橋渡しとしてはいいかもしれないけど、今の観点で見て本としていいか?っていうと別によくも悪くもないって感じだよね。


昔、伊原康隆という数学者はあんな頭脳を持ってしてもテイラー展開がなかなか理解出来なかったそうなんだけど、分かった途端に一気に解析接続とかも分かるようになったって言ってたんだけどこれだよね。分かるということは。高校数学とか一般書で何気にサラッと出てくるもんでもちゃんと理解しようと思えば絶対それだけじゃ無理なのよ。それこそ天下り的な公式がこうだから・・・的な理解にしかならない。思うにこういうところに違和感を感じれるってのは一種の素質だなと最近思うのね。それで言うと俺は数学に対して違和感だらけで、だからこそこうやって違和感があるから解消したくて続けられるってのがあるよね。単純に楽しいからってのもあるけどなかなか理解出来ないっていうやり甲斐があるわけだ。あと不完全性定理なんてはっきりいって数学には全く関係無い話なんだよ。


論理学でのtrue or false問題とそれこそ統計学だの確率論だのって関係無いでしょ?不完全性定理があったからんじゃあ経済学がダメになるのか?ってダメにならないじゃん?まぁ経済学を科学とするかはともかくとしてね、論理的なtrue or false問題と物性的なことって関係無いでしょ?それこそすんげーダイレクトな物理的な公式ってのがあってそれはもう物理現象から見ても明らかにそうであるってのが分かるっていうさ、まぁあとは確率論で言う大数の法則とかね、で、それ自体をね、メタ的に数学的に正しいと言えるのか否か?ってのを問うことと物性は関係無いじゃん?極論を言ってしまえば形而上学と物性みたいなもんなのよ。いや、論理学は形而上学ではないけどでも超数学は形而上学的な立場に立っている部分もあるよね。でもそれを厳密にやっていくんだけど。


なんつーかさ、論理でtrue or falseって言った所でリンゴが落ちちゃえばそれは落ちたってことじゃん?それを数学的に正しいのか?っつーとそれは数学的に矛盾が証明出来ないならまぁ大抵は正しいと思うんだけど、でも矛盾が証明出来ないと無矛盾性も証明出来ないってことで、それはようは論理学の話なのよ。それとリンゴが落ちる話は関係無いでしょ?数学的な理論の論理的な正しさと「りんごが落ちた」という事実とは関係が無いというか、true or falseにしても全然違う世界のtrue or falseだよね。目の前にりんごが落ちたけどそれは落ちたのだと言えるのだろうか?ってのが認識論とか形而上学なわけでさ、でもそれと物性は関係無いじゃん?落ちたリンゴという客観的事実がある。まぁこれもそういう客観を認識している主観が判断する客観性で・・・ってキリがない話になるんだけど、ようは実際に落ちたという物性の事実と「落ちたと言えるのだろうか?」という認識論とはまぁ乱暴に言っちゃえば別物でしょ?


そういうメタ的な認識論の話を意味がないとは言わないけど、でもとりあえずその認識論の話は落ちたリンゴにとっては関係無い話なわけだ。ようは重力って結局なんなんだろうか?っていうね、それは人間の錯覚なのではないか?と問うのとね、それと物理的な客観的な事実とはtrue or falseの質が違うじゃん?俺が哲学的な時間論をバカバカしいと思うのはここなんだよね。そういう別の次元のtrue or false問題と論理の問題とかをごっちゃにしちゃってるじゃん?凄くバカバカしいと思うんだよね。あんなもん凡人じゃどうにもならない超難しい物理学の世界の話でしょっていう。


まぁ話を戻してさ、俺もすんげー色々と誤解してたけど不完全性定理ほどあれだけ濫用されて誤用されてる概念もないだろうなってぐらいだよね。まぁ俺のこの説明も完全に正しいか分からんけど、でもまぁ論理学の都合の話と物性の話の違いっていう全く二つの違いってのは説明出来たと思うよね。だから確かに不完全性定理があったから数学者になるのを諦めたとかって記述を見ると「はぁ?」ってなるよね。見当違いも甚だしいなと。もしくは論理学的なtrue or falseによってそれが真だと証明出来ないという理由だけで数学者になるのを諦めるってのはそれこそ論理的な矛盾なんだよね。


リンゴが木から落ちるという現象が面白くて研究している人が「それが実際に落ちているかどうか分からない」みたいな認識論的な形而上学の話があってそれで研究をやめるみたいなもんじゃん?何か超越的な真理を探る一環としてリンゴが木から落ちるという現象を研究していたならともかく、それ自体が面白くてやってたらそんな形而上学なんて関係無いじゃん?いや、別に不完全性定理形而上学だとは言わないけど、メタ数学と数学との関係というのはそういう階層の違いがあるってことね。


で、別にメタ数学が上だとかそんなのはないわけ。あれも一個の数学の体系なんであってさ、それが体系として存在している以上、体系同士がシステムを殺しあうなんてことはないわけよ。お互いに影響しあって別の立場からの記述の仕合いみたいなのはあれどね。あとはまぁ物理とかみたいに何か新しい物質が発見されて今までの体系がドラマティックに変わってしまうとかまぁ変わる必要性が出てきちゃうってことなんだけどさ、でもそれは同じ「物理学」という体系から発見されることだから影響があるわけじゃん?言わば虚数みたいに直に色んな数学に対して影響を及ぼすようなものなんだよね。


でも論理学的な「物理学の矛盾性を証明できなければその無矛盾性も証明できない」っていうことが別に既存の物理学に影響を与えることはないじゃん?っていうかそれが分かったからんじゃあ相対論はダメなのか?とかさ、重力という概念は否定されるのか?とか、true or falseとかの階層が違うからだからまぁ端的に言っちゃえば関係無いって話なわけだよね。無矛盾性は証明出来ないかもしれないけど相変わらず地球はそのままだしリンゴは木から落ちるし自分も空を飛べることはないってことじゃん?だからそれ自体は重力の研究だとか浮力の研究だとかに影響は及ぼさないんだよね。そこを一緒くたにするのは実におかしいことだってことね。


思うに数学ほど分かったつもりになることが危ない学問もないと思う。それこそ今は色々と一般書とかが出回ってるっつーか去年とか一昨年あたりから数学ブームとかって言われてるけど、これほど根本的な概念の理解を要するものはないわけよ。だからそれこそ簡単な記述ということにフォーカスが行き過ぎるというのは大きな誤解を生む元だから本当にやめたほうがいいなと。仲正昌樹が分かりやすさのマズさみたいなのを哲学で語っていたけどこれと同じ事が数学にも言えるね。数学はそもそも根本が分かりづらいから逆に分かりやすいなんてことはもうありえないのよ。それこそ数の定義からもうすんげーややこしい。実数論だの集合論だのってのに入るからね。極端に言えば小学校入学と同時に現代数学やらされるみたいなもんだよね。そんぐらいもう数学って基礎からアドバンスなものに繋がってる。


逆を言えばアドバンスなものがいきなりそこから大学数学みたいなのになって全く違う論理が出てきたり理解不明な概念が出てくるか?っていうと俺が今色々やっている限りないよね。むしろ大学数学のほうが数学をより厳密にクリアに理解出来るようになるし、今まで天下り的だったものがちゃんと論理で分かるようになるんだよね。曖昧だったところがもっとディグられて明らかになるみたいな。だからまぁあれなんだよね、高校数学だの受験数学だのっていうキメラみたいなさ、メガテンで合体失敗したスライムみたいな異様な数学ってのを無理矢理やらされるからこそ高校数学と大学数学とのギャップができるんだよね。


そもそも数学に高校も大学もないわけでさ、まぁ大学数学が本当の数学だよね。で、もう8割ぐらいが落ちこぼれるってそれはもう高校数学からの接続が出来てないってのもあるし、そもそも数学ってそんぐらい難しいもんなんだってことなんだよね。物理現象で言えば物理現象はこう数学的に記述できますってのを暗記的に記号的にやらされるのが高校ぐらいまでで大学からはなぜそれが数学的にそう記述出来るのか?ってのを問題にするわけじゃん?まぁ多分そうなんだろうなって憶測だけど。


だからそれはイコール自然を数学的に捉えるっていうそれこそnatural philosophyみたいな世界観になるわけだ。だからそれはもうnaturalなもんを扱うわけだから話が宇宙とか宇宙の始まりとかに行くのは必然的なんだよね。数学然り。でもそれはすんげーややこしいわけ。一般書では文章で説明するしかないんだけど数式の一個一個とかプロセスを一般書的に解説するってのは無理なんだと思うよね。まぁあとは需要がないんだと思うけど。


でもまぁ大抵のものはプロセス一個一個に意味があったり必然があったりあとは近似計算的なものでもそれを使っている物理学者なりの思惑というか狙いみたいなのがあってさ、そういう意味の世界なんだよね。高校数学までの数学というのは言わば意味無し記号操作みたいなもんだよね。大学からnatural philosophyになるわけだ。そのギャップが凄まじいのはまぁ当たり前だよね。パズルゲームばっかやってたやつがいきなり哲学書を読まされるようなもんなわけだから。


あとこれとかね。


http://d.hatena.ne.jp/yaneurao/20090824#p1


計算の速さとか得意かどうかって本当に相関関係無いと思う。ただノイマンとかオイラーみたいなのはいるけど彼らは計算が出来たから凄いんじゃなくてオリジナルでconceptionalなthinkingが抜群にある上に凄まじい演算機能を頭に備えてたっていう化け物みたいな人達なわけだ。でも考えれば分かるようにバカみたいに凄い演算機能を持った人ってすげー身近にいると思わない?まぁ人じゃないけどコンピューターですよね。ええ。そりゃそうですよ。


よく本とかにも書いてるようにコンピューターが定理を吐き出せるのか?って無理でしょ?NP問題とかの話は別としてもようはパスワードのクラックみたいなやり方ではなくてね、パターン的思考とか直感とかさ、そういうのを働かせて問題を解いたり公式を導いたり作ったりする人達ってのが数学者だしそれは人間にしかできないことじゃん?コンピューターに計算をやらせると言えばまぁ4色問題とかがあるけどでもあくまで解いたのは人間だよね。コンピューターが勝手に問題を解いたんじゃなくてコンピューターにややこしい計算を徹底的にやらせて解いたっていうもんじゃん?そこにはこうやればいいっていう数学者のアイデアがあるわけで、それはもう全く別ものなのよ。計算と数学ってのは。もちろんある程度計算はできないとダメだけど並ぐらいにできれば十分だよね。学校の成績とかは悪くなっちゃうかもしれないけど計算が本質ではないからね。


いや、ようはさ、集合論っぽいやつばっかなのよ。高度な数学って。まぁ俺が今やってるのは解析学とかだけど結局はなんたら空間だのなんたら収束だのっていう計算というよりは数式を読んで理解するっていうことだよね。具体的な数値云々なんてほとんど出てこない気がするっていうと語弊があるけど所謂「うーん・・・何割る何は・・・」的なelementaryな計算を例えばルベーグ積分の本とか函数解析の本を読んでてやることはないよね。等式とか不等式の条件とかを理解するっていうようは動いている数をいかに連続的に把握するか?っていうような抽象的な理解が必要になるんだよね。


でもそれは直接性で言えば数とのintimacyは高いわけ。あとは数自体の振る舞い自体が表す構造的なものとかね、ようは建物自体は見えてないけどあたかもそこに建物とか何か規則的な建物のようなものが立っていて数がその建物の存在を理解していて動いているかのようなイメージを与えるんだよね。で、数の振る舞いを観測していると建物がだんだんと朧げながら見えてくる感じね。壁は見えないけど壁があるかのようにそこを避けて数が動くとかさ、だとしたらそこに壁みたいなものがあるんだろうって思うよね。言いたかったのはそういうことなんだけどね。


だから逆にそういう規則性とか振る舞いのパターンとかがないと惹かれないわけだ。だから近似計算とかブラック・ショールズの公式みたいなすんげー汚いやつとかね、まぁ俺が物性数学と書いているものとかだとようはかなりman madeな数学じゃない?そういう数値を出したいとか解析したいからっつー人間ベースの願望が生み出している数学だから汚くなるわけだ。でも自然が勝手に出すとか持っている構造とかってのは俺はまぁベタだけど美しいと思うんだよね。やっぱ。まぁ実際はそうじゃなくても美しいものがあるからだからまぁそういうのだけやりたいってことね。思うにstring theoryとかやってる人もこういう美意識が先行している気がする。いや、凄く良いと思うんだけど。


まぁ残酷な事実は人間に理解不可能な凄まじいとんでもないようなラマヌジャンの数学みたいな分け分からん数式ばっかで万物が表されるかもしれないってことだよね。エレガンスを見出しているのはただの人間の美意識で事実とは違うみたいな。でも実際はそのままエレガントなものってのが多く存在してるわけだから、全てがエレガントじゃないにしてもエレガントな数の構造とか宇宙の構造とかってのはあると思うよね。部分的にでも。まぁ全体像見ないと総合的な評価が出来ないからなんとも言えないんだけどね。あ、でもラマヌジャン自体は何かを見ていたんだよね。凡人にはカオスにしか見えないんだけど見える人には見える美しさがあるんだよね。だからまぁ見た目の式の複雑さとか不可解さっていうのだけで判断してはいけないんだけど。


まぁそんな感じですね。