久々の更新de激長文。

Zubal Bookstoreってところから数学の本買ったんだけどさ、ほぼ新品ってコンディションで出てて、んでモロに最初のほうのページに汚いマーカーが引いてあったんで評価は星三つにしたのよ。「マーカーが引いてありました」ってコメントしたのに「あなたはネガティブなフィードバックを残しました。我々はなぜだか分かりません。理由を英語で説明してくれますか?」なんてメールよこしやがったから「日本語を理解しろ」ってメールの最後に書いてやったんだよね。あとこんなメールよこすなんて失礼だぞとも。


なんでこんなにムカつくかってアメリカ人のメンタリティが分かってるからなんだと思うよね。アメリカ人にしてみれば一カ所ぐらいのマーカーなんて全然気にしないんだろうけど、日本のアマゾンで出品してるならそれが洋書だろうがなんだろうが日本的に振る舞わないとダメじゃん?実際、マーケットプレイスなんかでもほとんど新品でも記名とかしてあるってだけですんげー安く出てるじゃん?そういうのを知らないでさ、なんつーかアメリカンスタンダードで平気で攻めてくるのが本当にアメリカ人らしいなぁーと思って。


あっちで通販でTシャツ買ったときもさ、在庫がなかったのか3枚ぐらい買ったTシャツで2枚しか来なかったのよ。なのに3枚分請求されてて何のメッセージもないわけ。だから「本当に失望しました」みたいなメール書いたらおちゃらけた感じで「あなたの態度に我々も失望しました」みたいなメール送ってきやがるのね。日本じゃありえないよなぁー。ここがアメリカなんだよね。アメリカでサービス業の人達が過労死しないのは客が細かい事を言わないからだとかなんだとかって言うのを見たけどまぁそれは言えてるかもね。まぁ客も細かい事言わないけどサービスの質も悪いんだよね。すげー適当なの。でもまぁそれを日本でやられては困ると。


てめぇーの国にいるなら俺は我慢するけど日本のアマゾンで出品してるならこっちのスタンダードに従えって話でしょ?なんでああやってアメリカンスタンダードな態度で来れるのか本当にバカなやつらだよな。こういうところが本当に嫌だね。アメリカは。アメリカっつっても良い所だけじゃないのよ。こういう細かい事を言い出すとキリないんだけど。あっちのほうが生きやすいのは確かだけど、でもこういう細かい所で日本人として育ってるとイラっと来ることが多いよね。どうしても「日本じゃありえねぇー!」って思っちゃうわけ。


実際前にも書いたけどゲームソフトとかもさ、もうすんげー汚いコンディションで平気で売ってるんだよね。ようはそれで買うやつがいるからなんだよね。日本ならプレイできてもあまりにも状態が酷いから特価品になりそうなのが平気で普通に中古として売られてるんだもんね。あとはケース無しとか。んでマーケットプレイスで買っても「ケースありません」とか「説明書無し」とか書いてなかったりするからね。まぁそれもあっちじゃ我慢するよね。そりゃ。それがあっちのデフォならしょうがないわけで。


なんつーかこれはどっちがいいってことじゃないんだよね。まぁその国のスタンダードってのがあるわけでさ、それを相手の国に持ち込んでスタンダードでやっていけると思うなよ!ってことだよね。アメリカのアマゾン経由で個人輸入したなら分かるけど日本のアマゾン経由で買ってるなら話は違うじゃん?言ってること分かるでしょ?あっちも日本のアマゾンに出品してるなら日本語ぐらい分かっておけよ!って思うわけね。なんかあの全部英語で突き通す感じが本当に昔から嫌いなんだよね。


平気で路上でも英語で質問するとかさ、で、日本人はビビるんだよね。「えー!英語で話しかけられたー!」みたいな。そうじゃなくて「ここは日本なんだから日本語で喋ろよ」ってことだよね。この「えー!」って感じがなんか属国っぽいんだよな。アメリカが上っていうのがなんかデフォであるんだもんね。でももう現状見れば分かるようにそうじゃないじゃん?で、今後はもっとそうじゃなくなるわけだからさ、なんか良い意味で独立ができるよね。


アメリカに依存するほどの価値もなくなったわけだからさ、ヘコヘコする必要もないわけだしさ、かといっても内向きになってもダメで、外向きながらも日本人でいるってことだよね。国際人=アメリカ化みたいなことじゃなくて英語を使う日本人でいいってことだ。だから価値観とかも別にアメリカに合わせないのよ。「いや、日本人から見たらそれは相当クソだぞ」ってやっぱ言えないとダメだと思うんだよね。アメリカ人ってやつらが世界の中心だって思い込んでるしそう育てられちゃうんだよね。だからああいうメール送ってきたりするわけよ。ああいうデリカシーのなさは本当に大嫌いだね。まぁ結局俺ってやっぱすげー日本人的なんだと思うけどさ、俺は日本の嫌いな所のほうが多いのに、でもアメリカ人になりたいとは思わないよね。アメリカ国籍ならいいけどアメリカ人みたいに育てられるのは絶対嫌だよね。あの繊細さに欠ける感じってのは本当に嫌だな。


今は店番とかやってるからたまに接客することとかあるけどさ、やっぱまぁすげー丁寧だよね。やりとりが。双方のね。まぁそれがデフォなんだけどやっぱ俺にはこれが心地いいよね。堅苦しいと思うことはあるけど、なんかやっぱ最低のラインってあるからね。この心地よさってのもやっぱり日本で育ってきてるからなんだろうなぁーとは思うよね。あっちにいってアメリカぐらい適当でいいじゃん!って思ったこともあったけど、やっぱサービス受ける側から見るとありえないよね。学校にしてもアドミンが仕事しないとかありえないじゃん?それでトラブったりとか。そういうのがデフォで円滑ってのは素晴らしいことなんだよね。そこはやっぱ日本の良いところなんじゃないかと思うよね。まぁこういうのも相対的にしか分からんからやっぱ海外経験ってのはあったほうがいいよね。それは前から書いてることだけど。


今は日本に居る俺だけど地続きだからね。あの経験は一生残るわけだからやっぱあるのとないのとではもう違いの差が激し過ぎるよね。しかも20代の半分を過ごしたわけだからやっぱり良かったなぁーとかって思うよね。とりあえず若い人はなんか行きたいと思ったら絶対行ったほうがいいよね。そこで永住するかはともかくとしてやっぱ経験ってすげー大事なわけで。俺が日本人の丁寧なやりとりに良さを感じるのとかさ、逆にアメリカのルードっぽさ加減に怒り心頭とかさ、これも経験してないとなんつーかここまで感じられないからね。なんかまぁある意味で経験的な感受性だよね。


あとやっぱまぁどうにもならなくなってもとりあえずアメリカ移住っていう選択肢があるってだけでもまぁ相当精神的に違うしね。何としてでも生きたい!って思うなら日本にいてダメならアメリカって選択肢があるもんね。まぁ昔ほどの魅力は感じないけどあっちでもやっていけるっていう確信はあるからさ、いや、それもやっぱあるのとないのとでは全然違うわけよ。実際に移住するとかは関係無しにね。まぁ俺が話してるのは日本が沈没した時とかそういう話だけどね。ありえなくもないからなぁー。いられなくなるぐらいのレベルになるってことがありえなくもないっていうのって戦後初めてなんじゃないの?なんかもうコスモポリタニズムを状況的に強制されてるようなもんだよな。リスクヘッジとしての外国語ってのがもうサバイブ術としてありうるって状況が怖いよね。もう移住し始めてる人がいるとか韓国かよ!って思うもんね。


んまぁーでも俺もさぁーあっちで学位取ってっつー選択肢があるのも今のうちだからなぁー。今は出来ないけどなんつーかもうそれぐらいしか生きる道が無いぐらいになったらやりたいとかじゃなくてやるしかないじゃん?日本の国もそうだけどアカデミアのダメっぷりはもうどうしようもないからなぁー。これで景気回復とかがありえればまだなんか改善の道が残されてそうだけどもうただですらダメなのに永遠と縮小路線だもんね。本当にアカデミアでやるってことならやっぱアメリカしかないなってリアルに思うよね。俺は日本でやっていきたくても無理だからね。現実的に。アメリカのほうが無理そうに見えるけど日本の無理度が半端じゃないからまだアメリカのほうが若干可能性があるって話なんだけどね。まぁここまで日本が無理だとは思わなかったけどね。行きたくなくてもアメリカしかない!みたいな消極的な感じだけどね。なんか悲しいよなぁー。消去法でそれぐらいしかないって残る道ってなんか消極的だよね。まぁまだ選べるだけいいんだろうけど。


ってことでまぁウォール伝ですけどもね、いやーずいぶん空いたなぁー。滅多にここまで空く事ないもんねぇー。いや、そんぐらい没頭してるってことなんでしょうなっていうか思考が数学系のことに支配されてるから書く事がないってことだよね。いろいろと考えちゃって鬱っぽくなってるときにっつーかそういうときに考えてるわけじゃん?主にウォール伝系のことなんかはそうだよね。でも数学の場合、どうなのかな?と思うとググるかなんかの本を買うかってことになるんでまぁ書くってことにいかないんだよね。でもそうなるとウォール伝が永遠と放置になるなぁーとか思いつつ。


でも実際相当精神的には健康にいいんだと思う。好きなことをやるのは体にいいというのは当然だけど、ようは俺の場合、被害妄想やらわけのわからんフラッシュバックやら鬱要因とか不安要因がすげー多いわけでさ、それを全て数学で覆い尽くすって感じだよね。それが結果的な抗鬱とか抗不安になってるっていう。実際、ここ一ヶ月酷い鬱ないんだよね。いや、ミネルバになってから様子を見るって前に書いたけどさ、実際続いてるんだよね。良い感じが。でもまぁ別に毎日ワクワクというわけではないんだけど、ただ鬱の置き所が無い感じっつーのかな?そういうのを考えてる暇があったら数学のことを考えるっていう癖をつけるようにしてるのね。ようは認知療法的な方法論をそのまま使ってるんだよね。そういう鬱っぽかったり嫌な事っつーか不安要素になるようなことが少しでもよぎったら回避方法として数学の事を考えるっていうね、まぁ前にも書いたディフェンスですわな。


そういう凄く生活と密接につながるものになったっつーかまぁ自分にとってそういうものだったんだってのに気がついた感じかな。時間があればとりあえず数学をやるっていうことをある意味思考停止的に行うことで精神的なことに規律が生まれるっつーのかな?混乱とか迷いが無くなるっつーよりかはそういうものに思考力を使うっつースペースを数学によってなくすって感じだよね。そこはまぁ俺は数学的天才でもなんでもないから例えばいまだに微分がよく分からないからさ、エレメンタリーなことに思考を使えるっていうね、こういうレベルで分からない事があると数学で実際はよく分からないことなんて腐るほどあるからいわば防具がいくらでもあるって言えなくもないよね。全部分かっちゃったらアレじゃん?つまらないよね。防具がなくなるし。


でもおそらくあれだよね、それはそういうもんなんだって流さなきゃいけないところとかもあるんだろうけどさ、そこを流せないってのが日常生活でも病的なわけじゃん?俺。そういうオブセッシブと言えるぐらいのレベルの流せなさが見事数学につながってる感じがするんだよね。それは数学的素質というよりも俺の気質が数学に合ってるっていえるかもしれない。まぁだから哲学が合うわけよ。流せないから永遠と考え続けちゃうからね。で、それは数学にもいえるからさ、だからまぁ違いはないんだなって感じだよね。理系に鞍替えという感じではなく、俺の脳内アクティビィティの現在形のものとして数学があるって感じだよね。


いや、あれなんだよね、そりゃ微分の計算とか微分なんだってのは分かるよ。でもそれがなんなのかイマイチ分からないんだよね。それで言えば三角関数もそうだし、対数とかパイにしてもなんであんな意味の分からない現れ方をするのか?っていうさ、そこにやっぱ何かあるんだよね。でもその「何か」が分からないんだよね。で、それが古代文明の謎とかみたいな感じでミステリーなんだよね。不思議で好奇心を凄く駆られるっていう。それで言うとやっぱり哲学とかいろいろ読んできただけあって構造的なものとかさ、抽象的な構造とかの理解は多分相当長けてるんだと思うよね。俺。それは元々というよりかはそういうことを考えてきたっていうまぁ訓練というとあれだけどさ、そんな感じの脳の使い方をしてたからっつー筋肉的な感じだよね。だから抽象度が高いほうが全然理解が楽なんだよね。すんげーシンプルで綺麗なのよ。


でも微分とかの世界ってさ、まぁ語弊があるかもしれないけど、物性系っつーのかな?物理系の数学とか工学系とかもそうなんだけど本当にダメなんだよねっていうかそのなんつーか一方でかなり高度な数学の概念とか理解してるくせにすげー初歩的な工学系のやつとか物理系のやつとかが理解できないっていうさ、まぁすげーカタワなんだよね。バランス悪い。


こういうのって下手すると何かと抽象に逃げるっていうタイプのやつになりかねないよね。それが自分でも分かるからおそらくあんまり得意じゃないんだけどだからこそ微分系の本は結構読んでるね。で、相変わらず分からないんだけど(笑)積分は全く逆でそれこそ集合論的っていうかルベーグ的というのかな?集合論の延長として自然に理解できるんだよね。イメージ的なことも直感的に分かるし、分かるから楽しいのか楽しいから分かるのか分からんけど、とりあえず割と得意なんだろうね。


まぁでも得意不得意って相対的なものだからさ、誰かと比べたりしないと分からないんだよね。一般的な理解から見れば全然いい線いってたりするんだろうけどそんなのどうでもよくて俺が求める本質的な理解になってないものはやっぱだめなのよね。それで言うと相変わらずやっぱ数論とかダメだなぁー。あの分解とかゴツゴツした感じのが本当にダメだね。関数系とか連続系の位相だとか解析だとかは全然問題なくてさ、具体的なものを扱うものがなぜかあんまりパッとしないんだよね。だからやっぱり結局俺は抽象的なものが好きだったり得意だったりするだけで、実は数に強かった!とかそんなことではないんだよね。抽象的なものが好きだからっつーので数学の限られた分野においてまぁ結構いい線行ってる理解力とか好奇心を持ってるっていう感じだよね。んでも数論って基礎レベルだとゴツゴツしてるけどレベルが上がると抽象の世界になるから絶対楽しいんだよね。でもゴツゴツレベルだとゴツゴツやっていくしかないからなんか気がひけちゃうんだよね。


なんかさ、抽象的なものが得意とか書くとまた文句言われそうだな。「あんたのどこが?」みたいな。日本的な感じって本当にあるよね。得意!とか言っちゃいけないっつーか謙遜しなきゃいけないんだよね。「まぁたいしたことないけど割とまぁマシなほうかも」とかっていうへりくだった言い方をしないとなぜか全部嫌味になるんだよね。これってどうなんだろう?って思うんだけど。これに関しては徹底的にアメリカ的でいいと思うね。凄いところを互いに誉めあったり自分で認めたりしてさ、お互い切磋琢磨するっていう健全な関係性ね。「いやーいやー何々さんに比べたらたいしたことないですよー」的な本心にもないようなことを言い合うコミュニケーションってそれが文化的なものであれ俺は凄く病んでると思うのね。sicknessを生み出す元凶というかなんというか。


あとはまぁ自信が無いからいえないってのはあるよね。ディスられるのが恐かったりっていう。そこは俺程度のやつでも平気で「得意!」とかって言ってるんだからもっと普通に「得意です!」とかって言っていいわけよっつーのが言わば謙遜だよね(笑)まぁそれは地ではさすがにやりませぬな。心にも無いことだから。なんでこんなに自信があるのか?ってやっぱこんだけ没入できるからだよね。でも本当にここまで来るのが大変だった気がするな。


「まずは高校数学から」っつーんで一番苦手なああいうつまらない恣意的な区分けがされてるようなさ、あんなもんをやろうとしてたわけだから。別に基礎が無くても抽象的なことが得意なら抽象的な数学書を読めばいいだけなんだよね。それに気がつくのに時間がかかったってことだ。まぁしょうがないけどね。「ポストモダン解析学」っつー本の冒頭にも書かれてるように、まぁそういう抽象の世界に没入しきるのは必要なときもあるけどやっぱり最終的には没入して極めた後はやっぱり具体的なものに帰ってきたり、あとはその抽象の世界で極めたものをもっと具体的に記述しようとしたりっていうのは必要だよね。だからそういう意味で抽象万歳!ではないんだよね。あくまで自分がやりやすいから便宜的にそれをやってるだけでそれだけでいいってわけじゃないのは自分でも分かってるからね。だから微分とかやるわけよ。


あとまぁ線形代数とかね。まぁ線形代数はベクトルとかと絡めて抽象的に攻めればいいんだけどどうしても抽象から攻められないものってあるからね。そういうのにてこずるんだけど、でもそれで「いいや」という風にはしないようにしてるんだよね。あとは抽象度が高ければ高いほどレベル高いみたいなさ、だから具体的なものはレベル低いからやらなくていいみたいなヒエラルキー作りとかね、そういうのも絶対ダメだよね。数学って基本的に知ってればいいことだらけなんだよね。いろいろと知ってるに越した事無い。本当に無駄な知識が無いって感じだよね。まぁあえて時間を割くほどでもない知識とかはそりゃーあるけど、そういうのにしても別に無駄にはならないっていう。


まぁあといつも書くけどコストパフォーマンスが良いんだよね。最近は和書で数学書を読むのが楽しんでいろいろと読んでるんだけど岩波講座とかさ、単行本になったやつは高いんだけど、最初に出た分冊のやつとかって中古で安く出てるじゃん?1000円でこんな本が買えるのか!ってのが意外に和書で多いってことに気がついて、もうあんま和書の数学書をディスるのやめようって感じだよね。裳華房の数学選書が個人的にすげーお気に入りなんだよね。全体的に古いらしいんだけど字が小さいおかげでようはリターンが洋書の数学書並にあるんだよね。300ページとかあるともう大著なのよ。そんぐらい割と和書にしては一ページあたりの文字数が多いんで費用対効果がいいんだよね。まぁ全部持ってるわけじゃないけどいくつかのやつは定番らしくてすんげー安く手に入ったりするわけよ。


それで言うと何気にコスパが最悪なのが「誰にでも分かる」系の再入門系の本ね。分かり易く書かれてるからそりゃー最初に読むのはいいけどああいうのを何冊を読むのは当たり前だけど相当コスパ悪いのよ。1冊あたりの値段がたいしたことないから買っちゃったりするけど得られるものは少ないよね。まぁ今だから言えるのかもしれないけど結局最初からハードコアな数学書を読んだほうが理解の為にも経済的にもいいんだよね。難しいかもしれないけどでも結局、まぁものにもよるけど良書の場合、凄く細かく書いてあったりするから説明があっさりしすぎてるやつよりもくどいぐらいのほうが良い場合もあるんだよね。そういうのに気がついたのも最近だけどね。分かりやすいほうがいいって思ってたけど結局、本当に分からんものはこれでもか!ってぐらい細かいほうが良かったりするんだよね。別に細かすぎると感じたら飛ばせばいいわけだし、まぁようは載ってるに越した事ないわけね。


まぁもちろん「誰にでも分かる」系とかも読んできて今があるわけで、今の観点からコスパだけでモノを言うのはどうかと思うんだけど、ただなんかやっぱ入門書中毒ってあるのよ。高校生で言うと参考書中毒か。そりゃダメだね。ホントに。タフだけど細かくて詳しくて得られるものが多いっつーまぁ栄養価が高いやつを選ばないとダメだね。そうしないと結局自分のためにならない。だからまぁ俺は今はもう躊躇せずにレベルとか関係無く割と高レベルなやつとかも読んだりしてるんだよね。別に興味あればレベルとか関係無しに読めばいいわけだから。


基礎が出来始めるとこういう飛翔みたいなのができるようになるから楽しくなるんだよね。で、上から目線で基礎を見直したり再定義したりしてより理解が深まる・・・みたいな高レベルからのアプローチだよね。さっき書いた抽象から攻めるってのはこういうことでもあるんだけど、むしろ具体的な何かが欲しいからこそより高い抽象から色々と攻めたくなるんだと思うんだよね。それは抽象への憧れじゃなくて具体性への憧れなんだよね。


積み上げっていうと基礎からだんだんと高レベルな抽象へと・・・って感じがするけど上から基礎を作るってこともありうるし、そのほうがはかどる人もいると思うんだよね。んでもこれは凄く合点がいくことなんだよな。ってーのはさ、抽象されるものって言わばもう構造だけとかね、フワフワした概念ってレベルだったりするんだけど、でもそれって根本のところじゃん?そこを具体的に記述していってどんどんその具体性を高めると具体的な数学になるって感じなんだよね。まぁその繰り返しなんだけどさ、んでもそれはもう基礎レベルからありうることなんだよね。


そこそこのレベルの研究者とかじゃなくても学習者でも全然ありうるんだよね。なんつーか抽象的なほうが剥き出しの構造が見えるっつーのかな?より感覚的になる分、なんつーか論理にばっか支配されたガチガチの世界じゃなくて、それこそ思索みたいな感じのフワフワした感じじゃん?いや、俺すんげー論理嫌いなのよ。何々だからこうである・・・的なさ、それ言い出したら数学そのものの批判じゃん!って言われそうだけど、いや、マジで嫌いなのよ。なんか一歩一歩な感じっていうかさ、なんか論理を追うのが重要だとか言うけどなんか違うんだよなぁー。論理っつーかやっぱ感覚だと思うんだよね。その感覚的なものの裏付けをするのが論理なわけで最初に論理ありきじゃないと思うわけよ。だからやたら論理性を重視するものってなんか生理的にダメなんだよね。


あれじゃんね、論理性ばっかでやってるとそれこそ具体性がなくなるわけじゃん?それこそ実体が無いようなさ、ただ論理によってのみ正当性が担保されてるようなあやふやな世界で、そういう抽象はダメな抽象だよね。俺に言わせればそんなの抽象でもなんでもないわけで、ただの論理ゲームじゃん?形式ゲームっつーかなんつーか。そんなのダメだよねぇ。まぁとにかく興味無いな。そういうのには。やっぱり厳然たる具体性のためには最初に抽象ありきって気がするのね。コースが逆っつーかさ、抽象から具体性へと上がっていく感じね。その具体性は抽象性から形成された具体性であるっていう。その具体性のために論理やら証明っていう数学的手法があるって話だよね。


論理や証明があるから数学があるわけじゃないわけで。全てを支えるのが論理とか証明ですみたいなことがよく書いてあるけどさ、いや、そりゃ絶対違うだろって思うよね。そんなのに全てを支えられたらただのナンセンスな形式ゲームになっちゃうじゃん?その論理の重要性っていうかプライオリティの高さが高過ぎるとダメなんだよね。なんつーかオイラーみたいに大胆にやるんだよね。厳密性よりかはもう彼の頭にあるconceptionってのを具現化させるために論理やら証明ってのを使ってるっていうさ、それはもうオイラーのconceptionっつー抽象概念ありきのものだからね。conceptっつー概念なんだよ。観念とか構想だよね。それが創造ってことだよね。


論理ばっかに力点を置くのはようは演繹なんだよ。まぁそれでもいいと思うけど俺はすげーそれが嫌なのね。演繹ほどつまらんものはない。そうじゃないんだって分かったからここまで好きになれたのよ。なんか悪い数学観を形成するような呪縛から解き放たれたんだよね。演繹メインだったら自由性なんてあったもんじゃないじゃん?演繹っぽく記述されていてもそれがようは今書いてるような抽象性からの具体性って意味での記述として演繹っぽく見せるっていうさ、言わば数学っつー言語のグラマーとしての演繹だよね。グラマーがあるから言語があるわけじゃないわけでさ、概念があるから言語があるわけでしょ?概念を伝えるための言語なわけでさ、やっぱり概念ありきなんだよね。


なんかそろそろもういいかな。久々に書いたらなんかすげー長くなったな。やっぱ書き始めると止まらなくなるね。うん。まぁ今日はこの辺でいいや。んじゃまた。