ブルバキ。その2。

では続きです。


汚染なのよね。抽象なき数学は。なんや分からんけど計算の結果、こうなりました的な証明は良くないわけね。それしかなかったら便宜的に使うしかないけど、それがトリビアルなものではなくて、結構頻繁に出てくるものならやっぱ抽象化が必要なのよ。あ、んでさっき教育によって毒される数学って書いたけど、俺は別に中2で学校行かなくなったし、くだらん教育の影響はないのよね。いや、ようは毒されるってことはそこそこやってないとダメじゃん?んでも俺が言いたいのはそういうことじゃなくて、レベルがどうであれ「うわー数学嫌だー」って思っちゃうようなイメージとかね、それはもう植えつけられるじゃん?かといっても別にnew math movementみたいに義務教育のレベルから抽象化から始めるっつーのはアレだけどさ、んでもやっぱ抽象は解毒なんだよね。ごちゃごちゃしたもんは感覚的にやっぱイヤでしょ?


なんつーかあれだよね、俺は凄くごちゃごちゃした計算が嫌で、んでもやっぱり数学をやるなら必要だって思っててさ、それでまぁなんつーかやれんのかな?ってのがあったわけよね。今でもあるけどさ、やっぱりごちゃごちゃしたのが出てくると分からないんだよね。それは丸々分からないってことじゃなくて概念的には分かるしイメージも掴めるけど計算のプロセスで具体的に何がどうなってるのか見当がつかないことが多くて凄くイライラするってことなんだよね。で、そこが意外にも公理的な記述だとそれが無いのよ。全てがクリスタルクリアなので場合によってはそれが凄くかえって分かりやすいということがありえるわけね。まぁ逆に図とか数行の言葉でも済むことを何ページにも渡って説明するということもありえるから万能ではないんだけど、ただようは俺の偏見だよね。それが無くなったってことね。いや、良いところもあるんだなと。


数学をただのルールに落としこめて思考停止的にするものが公理主義だと思ってたんだけど、ようは抽象化のための、もしくは抽象的なものへの直感を育むための抽象化された記述としての公理主義というのを考えると凄く有用なところがあるって思ったんだよね。それが肌に合ってれば最高だと思うし、だからまぁ意見が極端に分かれるんじゃないかな?と思うんだけどね。すげー低い評価をする人と熱烈な信望者みたいなのと。んでも記述が美しいことは紛れも無い事実だな。あ、デュドネに関して言えばね。デュドネはおそらくブルバキほど偏ってないからバランスがいいんじゃないのかな?ブルバキ的なものを踏襲しつつも個人名で本を出しているわけだからそこはデュドネが思うベストな記述というのをしてるわけだよね。ブルバキはそういう意味でおそらくエクストリームだから有用じゃないところも多いんだと思うんだよねって全く読んでないやつが憶測で言ってるだけだけど。


あれなんだよね、抽象的な記述といってもようはその記述されている数式なり公理に具体的な理解が伴っていればそれの積み重ねによって新たな理論なりが説明されるってことなわけだからある意味では凄くconceptionalと言えるんだよね。ただのルールの積み重ねですっていう風に見えるんだけど読み手がようは抽象化なんだと理解してその抽象的な感覚を理解しながら進んで行くと実は凄く深い理解に到達できるんじゃないか?って思うんだよね。conceptionalなものとは程遠いように見えて実はconceptionありきだっていう。ようはその公理と概念と一対一関係だよね。それが成立しているとあたかも数学っていう概念が一つの集合のように個々が抽象によりwell-definedされて完璧な構造を作り出すっていう。んでもそれは構造を作っているんじゃなくて一個一個やっていくうちに構造が見えてくるんだよね。で、もちろん書く側はそれが見えているってところから記述しているわけで。


ブルバキ的とか公理的という言い方ができるかは分からないけどちょっと前に読んだ島内剛一の「数学の基礎」って本はそれこそ俺が言いたい超基礎の段階から集合論的記述で徹底的に色々なものの基礎付けをしていくってことなんだけどさ、で、まぁ内容は凄くエレメンタリーなんだけど、記述が厳密で所謂数学を理解するということに俺としては繋がったんだよね。数学はイメージだ!なんて言ってるやつが嫌いそうな本なんだけど実際は俺は凄くこの本が好きだし読んでいるときに楽しかったんだよね。面白い本だったから凄まじい集中力で読めたし。だからようは俺に合ってるってことなんだろうね。で、何でそれがいいのか?っていうとようは俺はなんでも徹底的にわからないと気がすまないじゃん?こうこうこうでこうなる・・・と言われても納得がいかないんでなんでそうなるのかを教えてくれ!っていうさ、それを見事に教えてくれている本というのはあんまりないわけね。だから読んでるうちに放置プレイになっちゃうんだよね。


俺の欲求とは裏腹に本は勝手に進んで行くっていう。でも徹底的な記述をしているものはめちゃめちゃ長くなるけど分かるんだよ。自明なことを遠まわしに書いているように見えるけど、数学的に記述するということは退屈なものを書くというよりかは論理的に厳密なものを書くっていうことだよね。それで隅々まで分かるということが結果的に数学というフレームワークを頭に作り出す助けになるんだよね。なんとなくだったものが確固たる理解に繋がると。でももちろんそういう方式とか本だけで勉強すればいいか?というとそうではなくて、もちろん俺で言っても直感的でビジュアル的なやつとか色々と手を出した上でデュドネとかがあるわけじゃん?


最初からあれというわけではなくてアドバンスな徹底した理解をするためにああいうものがあるということで、だからそういう意味でああいうのを読む前に大抵の基礎概念とかは知っておくべきなんだよね。その上で徹底的に公理的で厳密な進め方というのをするっていう。だからおそらくそれがある種の最終地点なんじゃないか?と思うわけね。数学の極北は抽象化にあるってことだ。でもヨストが書いているようにそういった極端な抽象化を終えた後はまた具体性に戻ってくる必要があるんだよね。高度な抽象化で得られたものを逆に具体性を持って、もちろん抽象を通した具象というのかな?山篭りして得た感覚みたいなのをまた街に戻ってそれを有用に使うとかなんとかってことだよね。それがようは数学の具象⇒抽象⇒一般化⇒具象・・・・っていうサイクルなんだよね。んーでもなんかちょっと違うかな。


ようはその一般的サイクルとはまた違ったメタ的な理解をするというのが島内剛一の「数学の基礎」とかデュドネFMAって気がするんだよね。両方ともFoundationsじゃん?でもそれは基礎付けなんじゃなくて厳密な再定義っていうのかな?別に島内の本は特に構造主義という立場ありきで記述しているわけではないと思うけど、でもこういった記述をすると自ずとそれが構造主義的になるんだよね。計算がどうのとかではなくて何々と何々の関係性という構造の記述によって数学を定義していくっていう。そこを徹底するとすげー大変な作業になるわけだ。だから大抵の本はいろんな定理なり公理なりの恣意的で便宜的な寄せ集めになるわけだ。で、まぁ上手ければいいけど結果的にごちゃごちゃしていて統一性に欠けるゴテッっとした感じになっちゃうっていう。


・・・とまぁそんな感じなんだけどデュドネをちょっと読んだだけじゃなんとも言えないからプロジェクトとして無謀とも思える「ブルバキ数学原論通読」ってのをやってみようかなと思って。んでも原論って高いじゃん?とかって思ってたらシュプリンガーから改訂版みたいなちゃんとしたやつが出ててんでそれで集めると日本語で原論のセットを買うより断然安いし現実的!ってことが分かったんで気分的にはノリノリなんですよね。ようは日本語の原論は何冊にも分かれててなおかつ一冊あたりの値段が2000〜3000円とかだからめちゃめちゃ高くなるんだよね。でもそこは洋書のいいところでさ、洋書ってまず和書じゃやらないような無茶な出し方するじゃん?一冊が700ページ超えてるとか。まぁそれが普通なんだけどね。和書があまりにも分け過ぎなわけで。それで言うとシュプリンガーで言うとブルバキの代数とかも2冊買えばそれで揃っちゃうし、大抵のものは単体のトピックで言えば2冊以上行くのは無い感じなんだよね。位相とかも翻訳のやつだと7冊とかになってるみたいだけどシュプリンガーのやつだと2冊なんだよね。


・・・って感じでどうやったら安く買えるのか?ってのを考えた時にベストなのはやっぱり輸入だってことでアマゾンで調べたらさ、恐ろしいことにモノによっては売れてるやつもあるから安くなったりしてるやつもあるんだよね。ようはアマゾンで在庫があるやつをまとめ買いしちゃえば実は安いんじゃない?ってことでやってみたらさ、送料が25ドルぐらいで在庫があるやつは全部それで発送できるみたいなんだよね。無いやつがあると分割で送ることになるんでその都度レギュラーな12ドルぐらいの送料があるんで効率が悪いから、とりあえず在庫があるやつを全部買っちゃおうかな?って2日ぐらい考えて買うことにしたわけ。で、マーケットプレイスで実変数関数と位相線形空間が150ドルのが98ドルぐらいで出てたんで送料かかってもそりゃ安いなってことでその二つもプラスで合計が送料込みで6万ちょいぐらいだったのよ。送料は実変数関数と位相線形空間が個別に恐らく15ドルぐらいかかってるからアレなんだけどね、んでもそれにしても安いよね。在庫が無くて買ってないやつは積分の2冊とリー群リー環のCh7〜9のみ。この3冊は全部で300ドルぐらいかな。


ってことで実質的に数学原論のほぼ全部を勢いでオーダーしてしまったのでした。もちろん残りは順番が来たら買うけどね。とりあえず刊行された順に読むつもりだから積分とかリー群のやつはどの道すんげー後になるんだよね。半年ぐらい経ってるかもしれん。いや、ようは俺がやりたかったのはコミットメントなんだよね。割れのダウンロードとかで多分E-Bookなんていくらでもあるんだろうけど、それはやらないってまぁ去年ぐらいに決めたわけだよね。なんつーかやっぱ対価を払わないとコミットしないじゃん?


ましてやブルバキなんて大量だから諦めるのが目に見えてる。だからこそすんげー高い金払ってっつっても日本語で全集買うよりよっぽど安いんだけど、そんぐらい払うとまぁ積読ってことがありえないからね。高い金出してるんで読まなきゃ!ってなるわけだ。まぁ一見バカバカしいかもしれないけどこれは重要なんだよね。ブルバキなんて図書館とかで借りてきても絶対読まないだろうからね。だから自分に無理矢理読ませるっていう感じだよね。読みたい!ってのはあるけど挫折するのが目に見えてくるからこそ買っちゃう!っていう。ちなみにシュプリンガーのやつはcorrected editionで新版なんだよね。無かった練習問題とかいくつかのトピックも追加されてるみたいで。だから英語読めるならダントツにシュプリンガーブルバキを読めばいいんだよね。まぁ俺は練習問題なんてやらないからどうでもいいんだけどようは難点だったらしいんだよね。練習問題が無いってのが。そういうのとかが解消されてるみたい。


いやー凄いコミットだよねぇー。これは。なんかあとは前に書いたブルバキプロジェクトってのもあるけど、なんかやっぱ分かりやすい目標が欲しいんだよね。なんかただやっててもアレだからとりあえず数学原論を通読しちゃう!っていうさ、合計1万ページとかになるらしいからなかなか終わらないだろうけど、仮に完全に終えることが出来た時には童貞を捨てるって約束をするよ。


まぁ読むだけじゃ意味なくて身につけないといけないんだけど、でも身につけよう!と精読しようとするとあれは通読するような本じゃないからまず終わらないから文系の本を割と丁寧に読むぐらいのスピードで読めばいいかな?って思うね。俺は一ページ一ページ紙と鉛筆を用意して・・・っつー数学書の読み方としてよく言われるようなやり方じゃ絶対読めないからさ、あとはまぁちょっと前までそうだったけど、一個一個理解しようとするから分からなくなっちゃって結局嫌になっちゃったり進まなくなっちゃったりしてたんだよね。そうじゃなくて文系的なさ、哲学書を読むぐらいのスピードでいいんだよね。まず速読はありえなくてまぁかなり1ページには時間をかけるんだよね。それでも読みやすい哲学書はパラパラ読めちゃうけどハイデガーとかフッサールとかはかなりキツいじゃん?グラムシとかアルチュセールとかね。ああいう感じだよね。読み方としては。このぐらいの哲学書を読むぐらいのスピードで読む感じね。1年にせいぜい一冊とかそういう世界は俺は絶対無理ってことが分かりきっているので。


っつーか続きを貼ろうと思ってさ、んでも書き足したりしてると長くなったりなんかしてさ、いや、ブルバキ買っちゃいました!っつーのは今日の話なんだよね。続きは3日前ぐらいに書いてたんだけど。まぁそれはともかくまぁ買ったんだよね。アマゾンは一括は無理だからあとからリボ払いで。んでまぁなんかブルバキプロジェクトやってる間はなんか読んでる感想とか書きながらやるのがいいかなーとか思ってるのね。まぁ話題が数学ばっかになっちゃうけどでもやっぱ書くって理解に凄く重要なんだよね。書くことでまとまることもあるし。


ここがやっぱ俺の良いたいconceptionalってことなんだよね。計算なら紙の上で出来るけど概念ってのは言葉でも表せるじゃん?言わばそこに数学と一般概念の差はないんだよね。犬とか木とか人生とか不幸とかも概念だし、同じく写像なりベクトル空間なり分解なり極限なりも概念だからね。ただそれは数式として記述されるってだけでさ、だからそういう意味で数学と概念って独立してるんだよね。最近気がついたことなんだけど。セットかと思ってたけど違うんだよね。まぁ当然っつっちゃー当然だけどね。犬という言葉と犬という概念は対応関係があるだけで言語はそれから独立しているし概念然りだよね。別に両者が依存してその概念なり言語があるわけじゃないじゃん?数学然りなんだよね。


だから数学的概念というものがあるのかどうか分からなくなってきてるよね。逆に数式が無いと考えられないものなんてただの計算じゃないか!って思うわけよ。概念が数式で表せないといけないわけでさ、概念が無い数式なんてただの計算じゃん?計算と数式はセットだよね。プロセスそのものだから。でも概念は独立してるからね。その概念にいかに到達するか?だよね。その一つとして抽象化があるんだってのがまぁ今回俺が書いてることだけどね。具体的過ぎるとその数式なり見た目に概念が依存するんだけど高度に抽象化された場合、概念ありきでその抽象化されたものを見ないと理解出来ないっていう。で、その概念への道が公理なんだけど、それは抽象ありきの公理ってことだよね。抽象のために公理的記述をするんであって、それは極端にcomputationalだったり卑近過ぎる計算から概念を抽出するためにごちゃごちゃしたのを取り去って抽象化されたものだけを浮かび上がらせるっていう概念の顕在化ってのを書面でする感じだよね。


だからそれは完成系ありきの公理なわけだ。だから別に普段から公理的に考えてる必要はないんだよね。それを疑うなり飛躍したぶっ飛んだ発想とかがないとダメじゃん?だからそういう意味で抽象化とセットの意味での公理は思考にリミテーションをかけるようなものではないってことなんだよね。俺はここを凄く勘違いしてたね。逆に抽象化できればできるほど無茶なことがどんどん浮かび上がると思うんだよね。勝手に色んな概念がフィールド関係無く繋がっちゃうとかさ、概念がトロトロになる感じだよね。それがなんか脳のニューロンだかさ、脳内に色々と張り巡らされてるネットワークがあるじゃん?そこと数学との距離がすげー近くなるってことが概念の理解ってことだと思うんだよね。で、理解しているからこそ色々なものが繋がったりして新しいことが浮かんだりすると思うわけね。だからそのためにはある程度はやっぱり今までに築き上げられてきた数学ってのを理解する必要がある。まぁそれにすげー時間がかかるわけだ。あと誰でも出来るような代物ではないし。


まぁそんな感じで続きますね。んじゃまた。