ブルバキ。その5。

ブルバキが流行った頃にあった批判はやっぱりその形式的過ぎる記述にあったらしいんだよね。あとは教育的配慮に欠けるとか。でもこれはブルバキの思想を理解してないっていうか、普通の数学書として数学原論を評価した時に当然出てくるものだよね。んでもまぁしょうがないかなーという感じではあるよね。いきなりあんなの出されても無味乾燥過ぎる記述にしか見えないわけだから。そこをなんつーかブルバキは下手に影響力があったもんだからああいう数学的な風潮っていうなんつーかまぁイデオロギーとしてのブルバキになっちゃったんだよね。別にマイナーな連中が凝った方法論で数学を記述してるとかならアレなんだけど世界的に有名になって影響があったからこそ批判があったんだと思うよね。


んでも前にも書いたようにブルバキが目指していたのは直感とか概念が一切無い形式としての数学ではなくて、直感的であったり概念的であったりする数学を集合論的な記述で現代的に公理的に抽象的に記述することで構造や関係性の総体としての数学という形を明らかにしようとしたんだよね。形式的というとフォーマルだとかガチガチってイメージになるけどさ、いやね、そういう意味でのフォーマリズムだったら大抵の人が嫌うはずなんだよね。


俺が前に公理主義が大嫌いだ!って書いてたような意味で。だからまぁベタというか普通の批判なんだよね。でもその背後にそういった形式というか概念的なものをなるべく具体的にしつつ抽象化するっていう一般化ってが目的だって分かるとそれはようは凄まじく人間的な活動としての数学っつーのが顕著になると思うんだよね。マニュアル化とか機械化するのではなく、形式や機能や構造というのを浮き上がらせるために構造主義的な方法論を取ったっていう。


それは数学の支配とか再定義なのではなくて方法論だと理解しないといけないよね。そうじゃないとあたかもブルバキが数学界を独自の形式によって支配しようとしてたみたいに見えちゃうじゃん?そうじゃないんだよねぇー。いや、当時の人は不気味に感じただろうし支配のように感じたからこそ反発する人が多かったと思うんだよね。それは極めて真っ当な批判だったと思うんだよね。だからこそなんつーかブルバキとかブルバキ的なものを読む時にはなぜそういう方法論というか記述法が取られたのか?ということを理解しないといけないよね。


そういう意味でだから恐らく学部ぐらいは卒業してないとダメなんだと思う。ブルバキで数学を勉強するというよりかはブルバキが扱っているような内容のものは一通り知っているという前提で独自の記述が成されたブルバキ式の数学というのを読むっていう。そこに表れてくる構造だよね。それが見えるか見えないかがようは読者の理解力というか数学力にかかってるんだよね。見えない中で「代数の本か」とかいって例えばそれをテキストのように読もうとしたらそりゃーダメだし、そもそも教育的配慮なんてされてないものだし、恐らくエリーティズム的な分かるやつだけ読めばいいって感じで書かれてるものだからテキストとして評価しちゃいけないんだよね。


あとwikiとかには圏論をカバーしてなかったのが衰退というか有用性の減少の一つだって書いてあるけどこれはおかしいよね。確かに圏論を導入は出来なかったかもしれないけどそもそもブルバキの抽象化についていこうとするやつらなんて圏論ぐらいある程度知ってなきゃダメじゃん?というか圏論フレームワークだから読み手の頭の中に入ってればいいわけよ。そうすれば勝手に頭が圏論的なものは圏論的な概念を使って理解しようとするだろうしさ、それは記述されていなくても別に問題ないんだよね。


ようは数学って分かっちゃうと既存のものもその頭に入ってるフレームワークも利用して理解出来るようになるじゃん?初歩的なものでも勝手に抽象化して深みを理解するってことが出来るんでそれは数式とか記述っていうきっかけがあればいいだけで、ようは文字だけで判断するわけじゃないじゃん?まぁある程度高度な行間読みっつーのかな?それは著者の真意という意味ではなくて著者がやれなかったことを読み手が修正するってことだよね。まぁ修正っつーかアップデートか。


まぁかといっても確かに今現在ブルバキのこだわる必要は全然無いと思うけどね。ブルバキを読まないと身に付かないことなんて多分無いだろうから。ブルバキしかなかった頃はあったんだろうけど今は色々あるからね。なんつーかでもさ、ちゃんと体系的にやるならブルバキだっていうのは凄まじい間違いだよね。厳密で公理的=体系的ではないんだから。構造的=体系的ではないのと同じ。ブルバキは思想があってああいう記述をしているわけで、体系的にやるならやっぱりベタにアメリカで広く使われているような評価が高いメジャーなテキストを集めて読むってことだよね。ブルバキは特異過ぎるから体系にはならないと思う。


ブルバキが考えていた体系にはなるかもしれないけど。そもそもまぁかなり異常じゃん?集合論を使ってやたら写像だなんだっつー方法で記述していくって正統な方法じゃないじゃん?部分的にはブルバキのおかげで編み出された良い証明とかもあるんだろうけど全部ってことはないじゃん?いや、んで自分はいつも書くようにcomputationalなものが苦手だし、いや、やればできるんだけどごちゃごちゃしているのを見ると凄く嫌な気分になるから、んだから集合論的だったり写像だのなんだのっていうまぁなんつーか位相っぽい感じっつーのかな?頭がそうなってると思うんだよね。


あ、ちなみにブルバキ届いたのよ。Functions of a Real VariableとTopological Vector Spacesね。他は10冊近くアメリカのアマゾンから届く予定なんだけど、とりあえず実変数函数を読んでるんだけどまぁようは微積分だよね。でも絶対高校の教科書とかには出来ない感じだよね(笑)そういう意味で当然初学者向きじゃないしテキストですらないと思う。そもそも基礎知識をかなり必要とする決してテクニカル過ぎるものではない一般的なものを記述している本なんてテキストじゃないじゃん?


まぁ当然だからあれだわ、デュドネのFoundations of Modern Analysisを読んでいたからまぁ似てるよね。実際、ブルバキでもデュドネがすんげー仕事してたらしいし最終的なものは大体デュドネが書いてたらしいし。うろ覚えだけど。ようはあらゆるジャンルに精通しているのがデュドネだったかららしいんだよね。だから中心人物だったとか。まぁこれも合う合わないだと思うんだよね。難しいとされているけど合えば逆に楽だと思う。


俺からしたら「何々は何々なので何々は明白である」とか書いてある薄っぺらい日本の大学教授が書いた二流の数学書のほうがよっぽど難しいわけよ。あまりに記述がお粗末過ぎて全然分からないっていう。良い和書もあるんだけど、んでも日本語のテキストって大抵ダメだから「分からない!」と思っても自分のせいにしないほうがいいわけよ。洋書を読めば親切なのはいくらでもあるわけだから。


あ、んでまぁあれだね、構造的で抽象的な記述っていうと最近読んだやつでやっぱダントツに良かったのがHalmosのFinite=dimentional Vector Spacesだよね。具体的な数を扱うマトリックス計算なんて死んでもやりたくない人にとっては最高の本だと思う。ようは俺みたいにcomputationalなものが嫌いな人にとっては凄く良い本だと思うんだよね。


それと同じことがブルバキとかデュドネに言えるんだよね。computationalでイヤになるものもabstract structureみたいな体系で記述してあるとそういった概念的なものが得意な人にとってはそっちのほうがいいわけだ。それはレベルが高いとか頭の良さとかではなくて単純に脳の違いなんだと思うよね。計算が得意な人はまぁ結構だけどそうじゃない人も概念的なものを理解することに長けているのであれば抽象的に構造的に記述されたものを読めばいいわけよ。それがようは俺の言ってる合う合わないなんだよね。


だからなんつーかブルバキってなんかさ、ある意味で中学生とか高校生が解析概論に挑戦するような感じのさ、一つのまぁアイコン的なものになってると思うのよ。原論ね。マルキストですらマルクス全部読んでるわけじゃないのと同じでさ、資本論っつったってエンゲルスのやつが大半なんだけどまぁ膨大じゃん?んでも挑戦するとか読めたら凄い!とかってものじゃないよね。これは。ブルバキ的なものに共感出来る人がシンクロしながら読むものなんであって凄まじく人を選ぶものってことなんだよね。そういう人を選び過ぎるものが世界的に有名になっちゃったから批判殺到だったわけだ。


そもそもこれはマイナーであるべき本なんだよね。だから今後も恐らくマイナーながらも歴史的な書物っていう数学史的な意味だけじゃなくて、そのフレーバーが好きなやつが居続けて読まれ続けると思うんだよね。なんつーかちょっと読んだ印象だとようはデュドネと同じで難解さとか晦渋さとかが目立って「別にもっと現代的な分かりやすいテキストを読めばいいや」って感じるよねーってところだよね。んでも記述が独特でそれに魅了される人もいるだろうし、さっき書いたように抽象的なほうが理解しやすい人にとってはこういうほうがいいかもしれないわけで。あとは一回ある程度全部のものは大体読んだことがあったり理解してるって前提があればそもそも理解しているって前提から予備知識補正がかけられるじゃん?っつーかそれを前提にされてるのよ。数学原論は。精通してないと有用性が分からないところがあるって書いてあるけどまぁそういうことでしょ。


これをテキストとして評価しちゃえばデュドネもそうだけど最低でしょ。でも独自の記述がされた数学書として評価すれば俺は凄くエレガントだと思うから最高だと思うんだけどね。ごちゃごちゃしてないし記述のやり方に一貫性があるからそれに乗れればある意味すんげー楽なわけだし。ただでも「ブルバキ読んだ」って自慢するような代物ではないね。そういうレベルが高い低いの問題じゃなくて記述の形式の違いだからね。だから合わない人があえて読む必要は全く無いって気がする。そういう意味で恐らく当時からもデフォで読み手を選ぶ本だったと思うんだよね。んでもそれがメジャーになっちゃったから批判が相次いだっていう。


あ、ちょっと時間になったからそろそろ終わるわ。んじゃまた。