ヴァーチャルな過去。

なぜかいきなり日本の思想にどっぷりでさ、全然書いてなかったけど西田幾多郎をはじめ大森荘蔵とか和辻哲郎とか鈴木大拙だとか、まぁ他にも色々とあるんだけどさ、偏見じゃないんだけどなんかやっぱ西洋哲学のほうが上って感じがあるじゃん?だからなんかさ、全然ノーチェックだったんだよねっつっても西田と和辻と鈴木はちょっとは読んだことあったけどどっぷり浸かったことはなくて。んだからまぁ浸かろうとか思いつつ今は西田と大森かな。


で、大森のやつについて色々と思ったことがあるんだけどさ、過去についてだよね。哲学系の時間論はあんまり好きじゃないとか言いつつもアレなんだよね、いや、哲学論と科学的実証がリンクしたら云々ってのはナンセンスだと思うんだよね。哲学っつーディスコースの論証みたいなのを科学に求めるのは基本的に間違いだと思うんだけどさ、そういう意味で大森のやつは時間論ということには問題があるんだけど、ようはオントロジー全般として考えると割と俺が考えてきたことと似てるんだよねっつーかまぁちゃんと読解出来てるか分からんけど、読解っつーよりかは大森のを読んで色々とprovokeされたことってのを書くわ。


ようは過去についてなんだけどさ、大森は過去ってのは命題集合なんだみたいなことを言ってるんだよね。ようはそこにあるものではないので「あれあれこうだったな」っていうことによって想起させられるつまりは言語的依存が多いものってことになるんだけどさ、それで言うと過去の映像とかはどうなるのか?っつってもようはそれもいつどこで撮影されましたっつー記録があるから過去と思えるんであってさ、まぁそうじゃなくても過去の想起というのは人間が普通にやるものだからアレなんだけどね、ただやっぱりアレなんだよね、んー難しい。言葉にするのが(笑)


っつーかアクチュアルなものではないからね、だからこそ命題なり言語なりっていう属性によって存在が規定されるって感じだよね。過去は過去として確かにあるんだけど想起させられるときってのは記憶ってのがあって、あたかもそれが知覚のように思えるんだけど実際はあやふやでしょ?んーそれも違うな(笑)そういうことが言いたいわけじゃないんだ。過去とかってのは置いておいて、その存在自体が言語的なものに依存してしまうものってことだよね。んーでもそれ言い出したらなんでもそうじゃんね?とりあえず大森のやり方が相当マズいのは言うまでもないね。


ただでもそのやり方とかえぐり方ってのをオントロジー全般にして考えると凄く価値があるように思えるんだよね。話をゼノンのパラドックスだの時間だのってことにするから科学的に言うと誤りであったりただの無理解だったりっていうことに陥っちゃうっていうか、仮に大森が物理概念なりなんなりを間違って解釈して筆を進めていたとしても、大森哲学自体の価値は一切下がらないんだよね。そういう意味だとドゥルーズとかと一緒。数学的には間違えているけど、でもその概念の扱い方とか深め方自体には価値があるんだよね。


いや、大森のはドゥルーズほど酷くはないんだけど、なんつーか読んでてプロパーから誤りを指摘されるだろうなぁーっていう感じがあるんだよね。哲学を述べていてその概念の一致を物理や数学で語っているもので成功してるものって恐らく一個も無いよね。西田幾多郎ですらそうだよね。まぁ常に科学とか数学とか物理が出てくるものは眉唾にしておかないとダメってことだ。実際、自分がそれを知らないと「そうなんだ」って思っちゃうじゃん?これが酷いのがペギオだよね。別に誤りを指摘できるわけじゃないんだけど凄く胡散臭いっつーかさ、そういう意味だとチャイティンも同じだよね。


でもかといっても両者の哲学が科学的だったり数学的に意味が無かったり誤りだったとして、んじゃあ述べている内容がナンセンスなのか?というとそれは全然違う。正直ペギオは書き方とかも衒学的で凄く嫌いなんだけど、でもあんな感じのを書いてる人ってあんまり見ないんでやっぱり面白いっつっちゃー面白いんだよね。これが科学的に立証された真実なんだ!って思うんじゃなくて1哲学として解釈するっていうさ、まぁ哲学ってだから両義的だよね。科学的な厳密さが無くても色々と言えるのが哲学だし、それだからこそ言えたり深化させることが出来ることってあるじゃん?思想のダイナミズムというかなんというか。


かといっても別に厳密性を失うということではなくて、少なくともその人が展開しているロジックの中で概念が破綻していなければその人の哲学という中では矛盾は起こってないわけで、んだからその人の世界観を理解するってのが大事なんだよね。数学や物理の用語や概念を使っているからそれが実際に数学的に正しいのか?と検証することとその述べられている哲学の妥当性みたいなのは関係無いよね。


そういう意味で大森を読むとさ、そのね、さっきも書いたけども、言語的なものがあまりにも想起に介在し過ぎるものというのは果たして例えば過去で言えば簡単に「過去」と言えるほど実在的にクリアか?ってことなんだよね。はっきり覚えているとかサバンの人とかっつーのもあるわけだけどさ、どの道それって記憶なわけだから実在として語っていいものか?と。で、やっぱりこれはなんつーかオントロジーの一般的な問題でさ、時間っていう異質なものをあたかも他の実在と同じような属性で考えると思考や概念レベルでの誤謬が起きるってことだよね。そういうレベルではない実在としなきゃいけなくて、それを他の物性的なオントロジーと同じにするから混乱が生まれるわけだ。大森はそれを永遠をやっていたっていう風に思えるんだけどね。


んでもだからさ、色即是空の世界だとも言ってるわけ。そもそもそれを示したりすることでオントロジーが崩れるというか規定出来なくなるんで、それはあると言えたとしても示した時点でそれは即、空に繋がるってことになるんだよね。まぁそれは分からなくもないけど、まぁこれってオントロジーのやり方でさ、deus ex machinaなんだよね。規定出来ないものを空としたり、あとは西田幾多郎みたいに絶対無とかって言ってみたり、いや、それ自体は何なのか?ともう問えないレベルを無とするっていうさ、これって無という名の神様だよね。これが混乱を沈めてくれるものっていうさ、大森はそこで諦めてるっつーかもう無理でそれは空だっつって終わってるからつまらないんだよね。でも凄く哲学者らしい引用とかで埋め尽くすっつーのじゃなくて自分が思ったことをそのまま書くっていうさ、そのスタイルは凄くいいし、哲学や思考自体もなかなか良いんだよね。悪くはないって感じか。


あと偶然だけど西川アサキの「魂と体、脳」って本も買ってさ、凄く評価が高いらしいんだけど確かにそうだなぁーっていう。しかも大森だのなんだのって話にリンクすることばっかだし。まぁ熟読してるわけじゃないから内容については書かないけどなんつーか若手っつってもこういう若手なら大歓迎だよね。読者受けしそうな感じじゃなくて凄く厳密に哲学的で科学的っていう。日本にも優秀な人ってやっぱいるもんだよね。あとあれなんだ、ようは評価が高い所以はあれでしょう、記述が凄く正確というか分かりやすく書かれてるからだよね。


さっきペギオが嫌いだと書いたけどあの人は本当に記述に問題があるんだよな。ポストモダン思想に浸かり過ぎな感じっつーかなんつーか。まぁそれはともかくさ、こないだ言ってたね、哲学をやるにも科学にcatch upしなきゃいけないっていうさ、そういうのを満たしてる感じだよね。比較してもしょうがないんだけど大森のやつは科学方面の知識や厳密性がイマイチって感じがするんだよね。あと詳しく書かれてないし何より1冊の内容が少な過ぎる。重複してばっかだし。まぁさっきも書いたように大森にそういうのを求めるのが間違いでそういうところにフォーカスせずに思索そのものにフォーカスすれば価値があるってのは間違いないんだよね。


あ、んで話を戻すとさ、実在の属性の種類が違うっつってまぁ済ますとなんつーかね、その実在の属性が物的なもので語れないものは空とするっつー安易な空思想になるじゃん?何も無しにとりあえず空の思想だけ知ってればなんでも空って言えちゃうから楽だしね。でもあれなんだよなーナーガルジュナなんかもそうだけど言葉にこだわり過ぎてるじゃん?言葉がそれを意味するならそれは内部矛盾をするから空であるっつー論理が多いよね。むしろそれ一本で突き通してる感じがあるぐらい。まぁ過去の人の批評なんてしてもしょうがないからアレなんだけどまぁ空の思想の安易な一面ってことを言いたいのね。


で、俺はとりあえず空ってのは分かったしっつーかこないだ圏論と一緒だって書いたようにまぁそういう理解はしてるけど、こないだの話で言うとその圏論的な枠組みが成立する要素とはなんなのか?ってことじゃん?写像でもなんでも要素が無いと成立しないじゃん?ようは空間の中に便宜的に点を考えないと成立しないっていう。西田の場合、それらが作用するということ自体が生成なんだっつってたんだよね。田辺の場合、それを種だとするっていう。生成っつーと能動的なエージェントっていう生物感があるじゃん?で、種だとすると静的な数学のストラクチャーを神の目線から見ているという感じだよね。時間というのを介在させないようなさ、全てが止まっているというような。でもそれってようは連続性と非連続性の差みたいなもんで本質的な違いは無いと思うんだけどね。非連続性の連続なわけだし、それが種であろうが生成するエージェントであろうがそれは呼び名の問題ってなわけで。


なんかだからまぁどこまでを存在とするか?ってことになるんだよね。繰り返しになるけどそこで大森がすんげーしつこく言う想起としてしか知覚されないという過去とか夢ってのは実在しないっつーかそれは言語的なものによって成立するものだっていうさ、そこがまぁすげー分かるのね。いや、評論ばっかじゃなくて俺の意見は?ってことだよね。いや、分かってますよ。別に詳しく説明するつもりはないんだけどでも膳立てしようとするだけでこんだけ長くなるわけね。まぁそれがエントリーになるんでいいんだけど。


俺の意見はね、それは結局はヴァーチャルなものだってことかな。とりあえず今の時点では。例えばネットに存在する事象とかって実在的か?っていうとなぜか現実的な事象に比べると実在性があやふやじゃない?だからこそ「ネットの世界」とかって言われるようなヴァーチャルなものの典型みたいに言われるわけだけど、そういう風にしかネットを考えられない人達っつーかまぁ古い人達っているじゃん?そういう人達が言う「ネットというヴァーチャルな世界」という感覚をまず持ってほしいわけ。その上で想起されるものは全てヴァーチャルであると仮定すると過去はまさしくネットと同じヴァーチャルな世界になるよね。


しかもそれが言語や命題や記憶といったあやふやなものやらあとは歴史家の記述だとかなんだとか、いや、命題や言語そのものがあやふやなんではなくて、それを仮定する人間の主観のあやふやさって意味ねっていうまぁそういうことで成り立っているのでアクチュアリティみたいなのは凄く少ないって意味でネットの世界でのcredibility並に頼れない感じになるよね。いやーでもそれってネットでしょー?っていうさ、でもそれで言うと「えーそれって記憶でしょー?」とか「過去のことでしょー」ってことも言えるよね。何しろヴァーチャルなものなんだから。ヴァーチャルであってもアクチュアルであるものも多く存在するってのは全くその通りね。それはネットの事象における実在性と同じ。別にヴァーチャルだからといって信用出来ないということにはならない。でも手法がヴァーチャルになってしまうということなんだよね。


実体を伴わないという意味での大森の考えってすげー分かるっつーかさ、そこだよね。コアな部分は。でも俺はまぁだから空だとはしないけどね。仏教的に言えば空なんだろうけど、ようは現実というものがそういったヴァーチャルなものによって影響され動かされていたり、モノによってはそれが原理になってたりするじゃん?ありがちな言い方で言うと過去が現在を生成し未来を作り出すみたいなことだよね。でも過去はリアルタイムにヴァーチャルなものとなるし、客観的に見れば連続性によって実在性が担保されそうな気がするけど、何より過去というものに関して言えば断絶というのがつきものじゃん?歴史なんてそんなのばっかじゃん?慰安婦問題とか南京大虐殺とかさ、それがあったと仮定して動く政治や人々や社会と仮に実証によってそれが無かったと証明された上で動く政治や人々や社会って全然違うじゃん?


どちらもヴァーチャルだし、そもそもエビデンスを持った人達がねつ造したり弾圧されたりして、ようはヴァーチャル化されてるんだよね。いや、当然事実というのはあるはずなんだけど、それはまさしく大森が言うようなプラトニズムになるんだよね。ようは真実が存在するだろうという過程ね。でもそりゃ起こったことだから真実は一つしかないよね。でもそれがちゃんと伝達されているか?ってところに問題があるわけで、それはまぁ大抵上手くいかないんで結局は人々の想起や記憶や文献といったような言語的だったり記憶というものによって生成される真実とはまた別のものになっちゃうじゃん?だからヴァーチャルなのよね。


仮に事実と一致していてもそれはプラトニズム的実在と同じようなつかみ所がないようなもので、何しろ実証というか事実であるって言い切れるか分からないじゃん?事象にたいしての直接性っつーのかな?でも事象そのものだって事象の見方とか感じ方とかってのも介在してくるから、そもそも人間に知覚されている時点でもう劣化が始まってるんだよね。言わば人間によってヴァーチャル化されてるし、人間にとってはヴァーチャルなものとしてしかありえないっていうさ、それは記憶が確かでもヴァーチャルなんだよね。でもそれは空虚という意味じゃないよ。実体とは言い辛い実在性ってことね。


んでももちろん空虚な意味でのヴァーチャルってのはあるよ。中国人がねつ造した歴史だろ的なことは中国ってのが介在すると胡散臭い意味でのヴァーチャル度って上がるじゃん?(笑)で、そういうのではない真実の過去ってのもあってそれを覚えている人や記録しているものもあるけど、それは多くの人達にとってはヴァーチャルなものでしかありえないということになっちゃう。時が経つと色々なことが風化しちゃうってのはそういうことだよね。どんどんヴァーチャル化が進んでるってことなわけだ。


風化させてはいけない!ってのはヴァーチャル化を進めないってことだよね。凄くアクチュアルな生々しい事象であるというその新鮮度を保つみたいなことだよね。そのために人々が語り継いだりそれを教訓にしたりして考えたり動くってことが重要になるわけだ。だからなんつーかアレだよね、そりゃ客観性で言えば事実や過去というのはあるんだよね。それは誰も経験出来なかったり確かじゃなかったとしてもそれはあるってアプリオリに言い切れちゃうんだよね。そこがプラトニズムっぽいんだよね。1+1=2であるっていう事実に抗えない感じと同じね。


でもこの数学的な実在性って実体はないよね。ただまぁ事実であるとしか言えないわけで。過去も然り。これは事実であるとしか言えない。それそのものを実在として捉えるのは不可能だよねっつってもまぁ完全な歴史シミュレーターみたいなさ、全部がレーザーによって3Dで完全に再現されるなんてことがあればそれは覆るんだけどね、いや、なんで覆るのか?ってところがポイントなんだよね。何でか?っつーとそれがようは主観が介在するものだからってことに尽きるわけなんだよね。人間に事情によって示し方やそのものに対する実在性というのが変わっちゃうんだよね。だから今の所は現在の状況からこうとしか言えないけどでも未来に色々なことが可能になったら覆るパラダイムって腐るほどあると思うんだよね。それこそSF的なものを想定して哲学を考えるっていうさ、でもまぁそういうことなんだよね。俺が言いたい科学と哲学のリンクって。


ネットでもいいしなんでも基本的に誰でも中継出来るみたいな事実が与える影響ってデカいじゃん?それを無視して政治哲学とか倫理学とか無いよなぁーって話になるじゃん?古代ギリシャと同じようなままで話し続けるってのはナンセンスなわけだ。んでもそれは長らくはナンセンスじゃなかったんだよね。少なくとも戦後しばらくっつーのはそんな違いは無かったと思うんだよね。いや、90年代以降が強烈なんですよ!!もうそれまで人類が経験してこなかったようなスピードでの色々な発展とそれの弊害ね。で、それに対応しきれてない世界っていう図式だよね。でもまぁ対応しなきゃいけないよね。それは。


ようはさ、SF的なものを想定すれば色々と言えるんだけどさ、例えばコミュニケーションってのは言語や動作というものが介在して行われるものであるみたいな定義があったとして、でも電脳同士のリンクとかが可能になっちゃったら「昔はそうだったけど」ってことになるもんね。つまりはその方法が変わると定義が変わるってことで、ほらねーって感じなのよ。ようは人間原理だからさ、人間が軸でそれによって様々なものがあたかも真実のように定義されてるんで、だからテクノロジーの発展によって真実とされてきたものが変わっちゃうんだよね。


それはダイナミズムというかシステムの回路が変わったからパラダイムだとか定義だとか方法が変わっちゃうっつー必然的なことなんだよね。だから過去の定義だとか考え方も過去との関係性が変われば余裕でそれは変わるってことなんだよね。それはまぁなんでもそうなんだけどね。その辺を科学を踏まえてきっちりやるってのが重要ってことで、さっき書いた西川アサキの本みたいなのは見事にそういうのを満たしてるってことね。古くさい書物の中に埋まってやる哲学じゃなくて極めてアクチュアルな現代に根ざした哲学ね。かといっても別にそれをデジタル哲学だとか科学哲学だとかっていう必要はないのね。ハイブリッドということでもなくて、それは単純に身の回りのことが変わったから哲学のメソッドも必然的に変わってくるということなだけなのね。哲学がテクノロジーと出会ってハイブリッドなものになった!とかそういう稚拙なことではなくて。


って感じで今日はいいかな。ニートと引き蘢りについて書くとかいって書いてないけど最近は頻繁に書かなくなったってだけなんでいつか書くと思うんで。んじゃまた。