数学の勉強法について。

数学の勉強法ってとにかく1冊を徹底的にやるみたいなのが正攻法だみたいな風潮があるじゃん?っつーか偉い先生方がそれを言い過ぎで勉強の仕方といえばそれだってことになっちゃってると思うんだよね。ノートとペンを用意して一個一個を確かめる・・・的なさ、それってカントの純粋理性批判とかヘーゲル精神現象学を頭から熟読しながらノートに取って行くみたいな作業じゃん?そんなやり方できる人限られてるよねっていうか普通は無理でしょう。だから色々と読むのがいいんだよね。


カントやヘーゲルに関する新書みたいなのから初めてだんだんレベルを上げていって最終的に原著になるんだけど、でもオリジナルを読む頃には相当その内容自体に精通してるんで難なく読めるっていうさ、いや、俺が仮にフッサールの本をいきなり読めって言われたら無理ですよ。入門書やらいろんな現象学にまつわる本を読んできてるからオリジナルのフッサールのテキストも理解できるようになるわけで、最初から原著にかじりついてそれを1年かけて読むとかさ、まぁ別にそれがダメだとは言わないけどあまりにも敷居が高過ぎるっていうかさ、それをデフォとしてしまうのは凄く問題があると思うんだよね。


でも数学の場合、こういうやり方をしろ!みたいになってるじゃん?いやーそりゃダメでしょ。やれる人限られちゃうもん。俺みたいなちゃらんぽらんなやつもハマれるようにするっていうやり方もあるわけでさ、いや、まぁ基本的に哲学と一緒だよね。一般向けに書かれた入門書みたいなのから初めてだんだんステップアップしていくっていうさ、で、ガチのこれだ!とか言われてるようなテキストを読む頃にはだいたいの内容を把握してるんでスラスラ読めるっていうさ、あと別に一個一個紙とペンを持ってやる必要ないでしょ。なんのためにこれをやるのかさっぱり分からないんだよね。考えればいいじゃん?計算したって何も分からないと思うんだけど。ただの記号操作だからね。そこで何が起こっているのか?ってのを理解しなきゃいけないわけで。


伊原康隆の「志学数学」にもさ、ようはその「紙とペン系」の勉強の進め方が書いてあってさ、で、数学書なんて一年に1冊か2冊読めるぐらいだって言うんだけどそれって精読し過ぎなんだよね。哲学もそりゃ精読すればそうなんだけどさ、でも1冊にそんな時間をかけるって視野が狭くなるじゃん?それこそいろんな研究者が書いた解説書とかアンチョコみたいなのを大量に読むほうがよっぽどいいと思うんだよね。カントならとにかくカントに関する読みやすそうな本はほとんど読破しちゃうとかね、いや、速読って意味じゃないよ。じっくり読むんだけどようは原著みたいにそこまで難しくないから数こなせるじゃん?で、それってすげー視野が広がると思うんだよね。俺の数学だってそうよ。いきなりそんなさ、格調高いテキストを読めるわけじゃないから、まずはそれこそやり始めた頃なんて高校数学すらも分かってなかったから楽しそうな一般向けの数学史の本とかさ、ゲーデルの伝記とかね、そういうところからだんだん入って行く・・・ってやり方をしてったわけじゃん?


で、なんとなく雰囲気を掴むためにブルーバックスで、んでそのあとは秀和システムから出てる本みたいな分かりやすい解説書を読んで・・・ってのを繰り返して今に至るわけだ。今はもう完全にすべてにおいて原著を読めるわけだけど最初からそうだったわけじゃないし、いきなり原著から初めてさっていうかテキストからはじめてさ、それがいかに集合論なり代数の基礎から定義してあったって一個一個紙とペンを用意して確認して行く・・・みたいなやり方してたら嫌になるに決まってるわけよ。だからなんか集合論でも代数でもイメージ的に語られてるやつとかさ、あとはそれこそオーム社が出してるような漫画のやつとかね、ああいう感じのやりやすいところからはじめるのがベストだと思うんだよね。


いや何が言いたいのか?っていうと伊原康隆的な数学の先生方が言うやり方ってのが徹底的にエリート向けだってことね。「僕は学部でヘルマン・ワイルリーマン面の本をドイツ語で読んでました」とかさ、まぁーそりゃーおめでたい話だけど、あまりに凡人に立脚してなさ過ぎなんだよね。すんげーエリーティズムを感じる。でも数学って違うからね。かなり分かるようになってきた俺が言うんだから間違いない。最初は漫画からだって理解できるようになるし、難解な古典のテキストを最初から読むことだけが数学を進めるやり方じゃないわけだ。


これはポアンカレも言ってたことだけど理解というかね、数学の理解ってのを考えたときにそれが必ずしも数式なり公式の成り立ちをできる限り細かくしてそのプロセスを一個一個理解するというね、それを理解したところで必ずしもその定理なりその定理が意味するところを理解することにはならないっていうさ、いや、それはあれなのよ、俺がよく微分方程式とかで言うさ、計算やプロセスやそれこそ最小まで数式を細かくしていって、それを計算していくということは数学を理解していない人でも記号の操作のやり方さえ分かってればできるわけだ。


では数学の理解は何か?っていうとそれはやっぱり微分方程式なら微分方程式を理解するってことじゃん?ってことはこういった物理法則も微分方程式で表せるんですねっていうことになるってことなのよ。言わば概念的な理解だわ。それは計算ができるということとは全く関係ないわけで。俺がそうだからね。計算は多分高校数学レベルのでもできないと思うのよ。まぁ別にちょっとやり方覚えればすぐできるとは思うけど問題が解けるとは思えない。でも高校でやるぐらいの範囲の数学は当然理解してるわけだ。じゃあその理解を証明しろということで問題をやらせるってのは関係ないことをやらせるってことだからね。問題を解ける=理解しているということではないわけで。


ポアンカレはさ、教育の段階で数学そのものを大きく理解するということなしにねっつーかようは凄く冗長で分かりづらいような計算なりプロセスのみをやらされたらそりゃ大抵の人は数学を嫌いになるか、あとは競技的な感じで楽しむっていうレベルの低い輩が増えるだろうって恐らく大抵の数学教育はこのままだよねっていうかようはポアンカレが一世紀前に批判してたことが今の世の中でも言えるっつーかようは変わってないってことだよね。競技的に楽しむってのはあれだよ、計算好きが問題を解いて楽しんでいるっていう低俗なレベルだよね。


こういうやつらが自分は数学が得意だ!と勘違いして理系っつーか特に数学科なんてのに進もうものなら詰むわけだよね。4年までに4割ぐらい中退するんだっけな?親戚のおじさんが数学科だったけど半年でクラスの人の半分以上がいなくなってたっつってたもんね。そんぐらい数学は難しい・・・のではなくて大学の数学と高校数学の隔たりが大き過ぎるってことなわけだ。さすがに高校でイプシロンデルタをやらせろとは言わないけどさっていうか高校数学で行列がなくなったらしいけどどんどん楽にしていったほうがいいね。で、大学から今で言う高校数学レベルのものをやっていけばいいのよ。ようはアメリカ方式ね。大学の単位になる学科としてCalculus 1ってのがあるわけだよ。ようは高校生が学ぶ微積分の初歩ね。そんぐらいでいいんだよね。入試の数学が大変とかってそんなのありえないでしょっていう。


理解もせずに計算ばかりさせられるから人材は育たないし勘違いする輩が増えるしだから理系離れも進むわけだ。吉田武みたいになっちゃうけど理系離れってようは国力低下ってことだからね。理が持っている力は誰もが知っているよね?で、そこから離れちゃうってもうダメじゃん?でもそれは当然日本人が馬鹿なわけじゃなくて理系の教育がどうしようもないってことなんだよね。完全に誤ったやり方を永遠とやり続けてるから本来数学の才能があるやつとかでも数学=つまらない計算という図式になっちゃって好きになったりその才能を開花させる機会がなくなっちゃうっていうさ、これはもうリアルタイムな損失なんだよね。


で、数学教育は抜本的な改革が必要だ!というよりかはリアルに明日からやれることっていっぱいあるんだよねっていうかようは敷居が低いんだよね。教育自体を変えるっつーと大変だけどやり方を変えるってのは小さいところから徐々に変えていけるわけだから実行力があるよね。ようは簡単にできるんですぐ実施できるっていう。具体的に何をやるのか?ってのは細かい話になるからとりあえず置いておいてくれ。あ、んであれなんだ、もっと問題なのが最初に書いたことなんだよ。ようは偉い先生方が勉強の仕方として一個一個厳密にやるっていうさ、ネットでも数学書なんて1日読み込んでせいぜい終わるのが2ページぐらいみたいな記述をよく見かけるけどさ、それはもうやり方として大間違いだとしか言えないよね。


木を見て森を見ずとはまさしくこのことだよね。紙とペンを持って方式はやれる人だけやればいいわけだ。それが普通のやり方なんだって思うのは大間違いねっていうかそれがやれてないと数学書を読めてるって言えないみたいな感じになるじゃん?っつーかプロがそう言ってるんだから!的なさ、まぁ俺はプロじゃないけど森しか見ないし、むしろ森から木を見るっていうね、俺が全体像を把握してから精密なブルバキをあえて公理的に読み進めていくってのがまさしくそのやり方なのよ。でも偉い先生方はブルバキとまでは言わないまでも、ああいう細かいのを一個一個確認して進んでいくとかって言ってるからね、いやーそれはダメだよねぇー。


俺のやり方は俺に一番合ってるのは言うまでもないけどさ、でもこれではかどる人は相当いると思うし、先生方が言う数学書の読み方をできない人でも俺みたいな方法をとればやれるようになる人ってすげーいると思うのよ。っつーか森を見て木も見るじゃないとダメだと思うよ。マジで。やり方が間違ってるって致命的だよね。浅田彰なんかはマルクスみたいな難解な本はむしろ寝転がって読むもんだとかって言ってたじゃん?逃走論かなんかで。机に向かって真剣にやってても続くわけないから漫画を読むような感覚で読むっていうさ、それだよね。


そうじゃないと読破なんてできるわけがない。やれるわけがないことをこれからやろうとする学徒達に薦めるのはどうなのか?ってことだよねっていうか日本って数学をやるインフラがなさ過ぎだね。数学の論文が減ってるとか数学者が育ってないとかって言われてるらしいけどこんな酷い環境じゃ当たり前だろ。和書も基本的には洋書と比べれば見劣りするような分かりづらいのばっかだし、ましてや大学で使われるその大学の先生が書いたテキストなんてもうゴミ本みたいなもんじゃん?ブックオフで100円コーナーにあってもいいぐらい質が低いもんばっかだよね。まぁそんなに読んだわけじゃないけどまぁとにかく酷いのが多いってのは確かでしょ。


教え方まで酷いんじゃあもう終わりでしょう。それじゃあダメなんだな。数学は絶対その人の特性に依るアプローチの方法ってのがあって、それを見極めて無理無くやれば恐らく大抵のことは分かるようになると思うんだよね。まぁもちろん紙とペン方式で1冊に一年かけるとかってやってればまぁそりゃー確実かもしれないが圧倒的な教養不足になるでしょう。数学だけやってればいいのか?って話だし、数学だけやるにしても1冊の本だけやってればいいのか?って話じゃん?


俺で言えばいろんなのに手を出したわけよ。恐らく数学と呼ばれるものの大きく分けられるジャンルのものには全部手を出したって言い切れると思う。で、最初は凄く興味があった確率論が全然自分に向いてないっていうか、ああいう類いの数学は全然ダメだなって分かったし、それを言うと数学が割と物理現象や卑近なことに立脚しているものに関しては悉くダメだなと思ったわけね。だから物理数学も苦手なわけだ。といってもその辺の奴らよりかはよっぽど得意だとは思うけど、そういうレベルではなくてちゃんとしたレベルで考えるとまず1流になれるはずがなくて、だからまぁ良い意味での諦めが必要だなとかって思ったわけね。


こないだ書いたVisual Complex Analysisみたいな本がいっぱいあれば絵から入るなんてやり方が可能だけどそういうやつばっかじゃないし、いや、このVisual Complex Analysisにしたって圧倒的に分からないことが多いわけよ。でも絵によって分かるんでそれで数式が対応していってんでそれが凄く生き物のように動的な生きた数学になってくる。でもまぁ別に特性というのを決める必要はないけど、でもやっぱ俺は集合論的というか、あとは写像だとかなんだとかまぁ圏論みたいなやつだとか、あくまでfieldありきの代数とかさ、computationalなものではなく構造的というか、まぁようは代数幾何とか代数的整数論とか、攻め方がまぁ代数とあとは連続系の解析の考え方っつーのかな?そういうのがようは得意なんだよね。これって俺の中では凄く文系だと思ってるんだけど(笑)理系というとやっぱごりごりの物理数学って感じがするんだよね。あれぞ理!というような。でも純粋数学のほうは抽象的で凄まじく概念的なので、言わば概念という意味で凄く哲学的なんだよね。


ようは式でどうのではなく考えてどうのって話の感じが凄く哲学と似てるわけ。まぁ形而上学無しの哲学って感じか。でもそれをやり過ぎると発明ができなくなるんだよね。ルールや既存の枠組みから出られなくなっちゃう。それは非常につまらんけど、俺は全然「理」の人ではないので、むしろconceptualな数学しか理解できないし、むしろそれで良いと思ってるんだよね。それはやってて気がついた自分の向き不向きでしょう。


まぁとにかくあれだ、紙とペン方式なんてやってたら俺はとっくに挫折してるわけだ。あとこんな大量の数学書を読めるわけが無い。数学書も哲学書と同じく多読は全然アリなわけだ。一回読んでみて大体のことを把握するのと頭に定着させる。で、何ヶ月か後に熟読する機会とかが出てきて、そのときにじっくり読むわけだ。でも紙とペンが必要にはならないかな。オナニーと一緒で全部頭でやるから。でもそれは計算してるんじゃなくて概念を理解しようとしてるんだよね。ようは計算的なものはほとんどしないんで紙とペンがいらないわけだ。まぁ別にこれは俺のやり方なんだけど、ようはその人によってベストなやり方は違うってことね。あと相変わらず問題集をやる意味がさっぱり分からない。理論的に自明なことを問い直されるということは、いかにそれを証明するか?っていう証明の方法に重きが行くので、それで理解が計れるか?というとそんなことないと思うのね。別にメソッドさえ分かってれば証明できるわけだから。


数学ってこういう数式と人間の頭の乖離があるんだよね。数式と頭の間に何かがあるんだよね。そこで理解してる感じなんだよね。まぁこういうのも直感の一種なのかもしれないけど。あとやっぱ紙とペンよりかは本が手元に無いときに何かを思い出してひたすら考えるってのが一番だと思うね。むしろこれが一番大事って気がする。これを毎日やってると言わば学習時間って凄まじいものになるんだよ。思索を含めたとすればそれこそ1日中やってられるんじゃないか?ってぐらい。でもやっぱり片時も忘れないわけじゃん?それが埋没ってやつだね。禅で言う三昧。かといっても凄く必死に考えているというわけではなくて、歩きながらとか自転車こぎながらとかっていうラフな感じの考え方なんだよね。それを繰り返してるといつのまにやら理解できてたりするんだけど、それがアハ!モーメントもあればなんとなく理解できてしまったとかってことにもなってたりするんだよね。とにかくいかに時間をそれに費やすか?に比例するのは間違いない。だから王道はズバリ三昧と言えるよね。紙とペンよりかは楽かと思うよね。


紙とペンは勉強家タイプのやり方なんだよ。でも別に数学って勉強家タイプじゃないとできないわけじゃないんだし、なんかだからあのね、とにかくああいう先生方の一元的なやり方には凄く反感を覚えるね。9割ぐらいが無理!って言ってしまうようなやり方を推奨してたりするんで。できないようなことを書くなって思うよね。それは教育者としてどうなんだろう?と思うわけで。


時間が無くなってしまったぜよ。まぁこれについてはまだ書き足りないから書くかもしれない。そういえば志村五郎が試験の問題を作るときにどんなのがいいのか?みたいなことを聞かれたときがあったんだよね。若い頃に。で、代数で言えばすげーベーシックながらもコアとなる群の定義みたいなね、これさえ分かってれば良いっていうようなのを出したらしいんだわ。そしたらお受験型の解法マニアみたいなのが肩すかし食らって逆に解けなかったみたいな話があるんだけど、まぁようはこれだよね。俺が志村五郎を尊敬するようになったのは他にもまだ色々と理由があるんだけど、とにかく教育で言えば意味の無いやけにこった「人工的」な数学の問題を出すことを即座にやめるべきだね。必要なのは大学の数学を学ぶための基礎なわけで凝った解法じゃないわけだ。ましてやその時の運にもよるみたいなさ、パズル的なやつってダメだよね。


数学オリンピック的なものを批判的に書いてたのもすげー関心したわけよ。あ、志村五郎ね。やっぱ数学分かってる人の意見は古今東西一致してるなと。そう思うと今の教育界にいる数学系の連中って分かってないやつらが相当多いんだろうなって思うよね。よくもまぁあんな受験数学とか酷いテキストとかそのまま放置になってるよなぁーって思うわけで。だから数学やりたい!って思ったらまず英語をがんばることだね。下手な和書に行き着くと分からな過ぎて苦手意識しか芽生えないと思うから、死ぬほど分かりやすいエレガントな人類の至宝のような洋書の数学書で勉強をはじめるってのがベストなわけだ。まぁ和書にも名著はあるけどね。でも明らかに少ないんだよな。ただでもその名著はクオリティ高いから和書=クズとは言いたくないのね。良いやつはめっちゃ良いから。


あ、とりあえず今日はこの辺で。