ナショナリズム的な何か。

書ける量は定量的なのか、例の数蝉事件以来、全く何も言いたいこともなくて放置民状態になってたんだけど、それを打開したのがアレですよ、いやね、もうここ数か月数学ばっかだったんだよね。まぁ西田幾多郎とかも読んでたけど圧倒的に数学ばっかで。で、数学もいいんだけどなんかやっぱ渇いてくるんだよね。で、凄く思想的なものが読みたくなる。でも思想的なものばかりを読んでて急に数学書を読みたくなるってことは無さそうっつーかまぁそりゃーバランスなんだけどさ、なんで渇くのか?ってやっぱりそれは習慣だよね。あくまで数学ってここ2年ぐらいのもんでさ、思想的なものでいうともっと長いからね。


やっぱそこはすげー地みたいなのを感じるわけ。やっぱ根本は哲学とか思想だよねっていう。で、そういうやつが数学にハマってるっていう感じだよね。まぁそりゃタイムラインで見ればそうなんであってさ、何を地とするか?ってことになるじゃん?まぁでも数学ばっか考えてると本当に世の中のこととか考えなくなるよね。別に数学ばっかやってる人が社会を気にしないというわけではなくて、少なくとも俺にとっては数学って頭の中をそれオンリーにしないとどうにもならないようなもんだからさ、ほかのことが介在できなくなるんだよね。なんかそれがさ、没頭するってのは俺のメンタル面ですごく良いことなんだけど、その反面、哲学的なことだとか政治だとか社会だとかに配慮がいかなくなるっつーのは非常にマズいなぁーと思っててさ、それは単純にニュースを見るというようなことではなくて、やっぱり哲学だとか政治のことも頭の中でアクティブじゃないといけないんだよね。だからすごく両立が難しいなぁーって思ってるのね。いや、哲学書とか思想書を読みながら数学書を読むというのは可能だけどメインが数学の場合、ほかは無理になるんだよね。ほかは無理だから将来のこととか空しさとかについて考えたり感じなくなるってのがようはメンタルヘルス的にすごくいい!ってことなんだけど、その反面、ある意味でバカになるということでもあるんだよね。数学=バカではないんだが、数学のことばかりで政治や社会や哲学的なことについて考えられなくなるってのは能動的にバカだよね。ようは選んでるわけじゃん?数学のほうに没頭したい!ってことで選んでるってことだもんね。


なんかその辺のバランスが分からなくなってきてるんだよね。まぁ逆を言えばここまで数学に没頭できるようになるとは思わなかった!ってことでもあるよね。そんな心配しなかったわけで。まぁでもだからさ、渇きを感じるってやっぱ重要だよね。そこがようは地なんじゃないか?って思うんだよね。地はやっぱそこだから体が水を求めるように自然に求めるようになるっていうさ、それはあるよね。ちょっとかっこよく言い過ぎだとは思うけど。


まぁでもさ、あれなんだよね、戦前の日本の右翼思想とか保守思想について色々と読んでみようとは前から思っててさ、んでまぁはじめてなかったんだけどなんか急にすんげー読みたくなってさっつーかまぁ買おうと思ってたんだけど買ってなかった本を買ったりなんかしてさ、んでまぁすげー気になってたのが大川周明なんだよね。認識としては東条英機の頭を叩いた人ぐらいの感じだったんだけど、色々と本を読んでみると凄まじく思想家肌な人だったんだなぁーと感心したりなんかして。あと北一輝関係の本も読んでるんだけど、二人とも理論家だとは思うけどやっぱり北一輝は革命家寄りだよね。大川周明は思想家寄りって感じ。まぁ別にどうでもいいことだけど(笑)


結局、戦争関係のことに関しては軍部の暴走だったっつー定説があってさ、んでそれに関して別にあえて調べようと思わないじゃん?実際に調べると違うことってあるんだろうけど、とりあえずロクでもないことをしたのは事実だからあえて調べる必要もないよねぇーっていうさ、んでも戦前の保守とか右翼思想に興味を持つようになって自ずと戦争関係のことも定説のままでいいかーってことにはならなくなるわけじゃん?あとはまぁ当然ながら戦前の右翼とか保守思想は戦争抜きには語れないわけで、んだからまぁ色々と読んでいくと俺が保守寄りになるとかってことではなくて、単純に知らない事実が多すぎるんで歴史認識が大幅に変わるってことなんだよね。まぁこの辺を細かく書くとアレなんだけどさ、俺の中ではナチスと変わりないって思ってたけどやったことは似てても全然理念は違うのね。まぁ当たり前か。ナチスそもそもオカルトだからなぁー。ヒトラーの予言だもんね。元が。それと同等なわけないんだけど。


まぁ読んでる最中だから込み入ったことは書かないけど理念としてはアジア解放ってのがあったってのは知ってたけど具体的になんなのか?ってまぁやっぱりただの思い上がりだろうって思うけど思想的なことがすげーあったんだよね。あとはクーデターの多さとかとにかくすごいんだわ。政治の熱が。なんつーかさ、侵略戦争だったって言われてもしょうがないし正当化する理由なんてのはないんだけど、でも事実関係を知るのと知らないのとでは雲泥の差があるよね。それが仮に間違ったことであっても具体的に何が間違いだったのか?とかさ、どういういきさつでその間違いに至ったのか?とかさ、そういうのを読むと色々とややこしいんだけど、んでもまぁあれは一括で軍部の暴走だったとかさ、独裁的だったとかって言っておけば楽だよなぁーっていう感じがするよね。クーデターとか暗殺の多さも愛国故なんでよく言われるようにGHQがこれはヤヴァイ!と思って思想的なものをとにかく禁止したっつーさ、んでもその禁止された思想とか精神っていわゆる危ないものも多いからGHQ云々関係なく法治国家として国を機能させたいなら知らせないほうがいいって類のものが相当あるよね。アメリカ的に危ないから禁止したいってのもあるし、法治国家として機能させたいなら禁止しておかなきゃいけないってのもあって、ようはその禁止ってのが一概に全部アメリカの都合だけじゃないってことなんだよね。アメリカが統治を任されたんでようは反逆的なものってのを禁止にしておかないとまたクーデターなり戦争が起こるってことなんだけどさ、それって主に一般的には左翼思想じゃん?革命云々のやつって。でも違うんだよね。しょっちゅうクーデターを起こしてたのは右翼ばっかでさ、で、それがなかなか一般的な政治の図式に入りづらいっつーのかな?すごくなんか特異な右翼なんだよね。まぁこれも当たり前なんだけどね。国によっては左翼と呼ばれるものが他国では右翼的だったりするわけだし相対的なんだけど、日本の戦前の右翼っていろんな意味で特異なんだよね。いや、まぁ他国の右翼についてあんま分からないからなんとも言えないけどさ、なんつーかやっぱ戦前のイメージってあれじゃん?


みんな天皇万歳でさ、それ以外は許さん!的な閉鎖的な感じっつーの?でも実際は天皇機関説的なものも含めて色んな保守なり右翼思想ってのがあって、んでそれがぶつかり合ってたり爆発したりなんかして凄まじく思想的なんだよね。なんつーか一般的な抑圧されていたっつーイメージと全然違う感じだよね。で、クーデターとかも具体的でレジームとかを考えてたからこそどのみち天皇を持ってこないと話にならん!的な感じでやってたっつーさ、俺の印象で言うとナイーヴに天皇万歳!とかって思ってた連中って少数派なんじゃね?って感じだよね。


で、とにかくアメリカの統治下でまたそんなことやられたらたまらないわけだ。んだから統治という意味でもいろんな思想が禁止されたっつーかさ、あとはまぁ悪いイメージの植え付けだよね。俺ももろに洗脳されてた側だけど、そういう戦前の思想的なものをとにかく日本を狂わせたキチガイの思想みたいなレッテル張りしてさ、まぁある意味でのトンデモ扱いだよね。もうそんなのはみっともないっていうなんかダサさってのも結果的につけられた気がするね。で、丸山眞男的な戦後民主主義的なさ、とにかくまぁ統治してる側がアメリカだからデモクラシーっつーイデオロギーを流布させるってのが必要だったから、んだからとにかく民主的なものはかっこいい!的な風潮を作ったっつーか勝手にできたと思うんだよね。で、それが空気になったっていう。戦前的なものは時代遅れでなおかつダサいっつーんで少なくとも知識人を自称するなら語ることが致命的になるぐらいのものに貶められた感じがするよね。


でも今読むとむしろ戦後民主主義みたいななんのあたりさわりもないものよりも戦前の鋭い思想のほうが思想的なもののエッセンスが詰まってるっていう印象があるんだよね。今みたいに別に民主主義の絶対性なんてのがもう揺らいだ時代だとむしろああいう頃の粗野だけどラディカルな思想のほうが魅力的なんだよね。やっぱり戦後的なものってその経過もあってかやっぱりナショナルなものってのをなるべく否定しようとするっていう傾向があるっつーかさ、ナショナリズムって基本的にダサいじゃん?で、日本の場合、それが暴走したっつー実際はともかくそういう話があるんで余計に敬遠されるんだよね。それがなんか左翼=知識人的な流れにつながってるんだよね。で、世界的にポストモダン的なのにつながっていってまぁデモだとかなんだとかっていう学生運動があったりしてさ、それもなんかファシズムの反動とも言えなくもいないぐらい左翼的なものが持てはやされたりブームになってたって見えるよね。なんであんなに学生運動が盛んだったのか?ってなかなかわからないところがあったけど、戦前の歴史を知ることでなんか大ざっぱだけど大局的に理解できた気がするんだよね。


まぁそれだけじゃなくて戦前の右翼とか保守思想を調べていくうえでさっきも書いたように歴史的な認識がかなり変わったから考え方も変わってきたんだよね。まぁ結構前から保守寄りにはなってきたけど、流れを理解すると戦後民主主義の欺瞞というのが自ずと見えてきちゃうんだよね。まぁそれはでもおもに実感だよね。俺が根本的にめちゃめちゃ左翼だからさ、左翼的な洗脳ベッタリだったわけでさ、なんかもうあれだもんね、アプリオリに日本的なものってのにすごく嫌悪感を抱いちゃうっていうかさ、日本的なものっつっても良いところもあるじゃん?でもとりあえず左翼的だと全部否定だよね。いかにナショナルなものを否定するか?ってのがポイントでもあったりして、そもそもその価値観が相当間違ってるんだよね。ニュートラルに見てナショナルなものの悪いところを批判できていればいいんだけど戦前の日本の否定ありきのロジックだからそもそもニュートラルじゃないんだよね。たとえば姜尚中みたいな人が日本の美徳とか語るのを見たことがないわけじゃん?(笑)ナショナルなものの暴走があったからそういうナショナルなものを否定するってのが中立みたいになってるからダメなんだよねってさ、いや、そんなのわかってる人はわかってるんだろうけど左翼にはそういうのわからんのよ。マジで。そもそも右翼的なものを読む機会がないじゃない?だからもう接点がないって意味でもずーっと偏った歴史観のままでいるんだよね。でもそれじゃあ本当にそれこそマジで政治とか考えてるならダメじゃん?歴史観が偏ってるって意味でもうそもそもイデオロギー的なわけでさ、そんなやつが何を言ったところで何にもならんだろうっていう。


いや、かといっても一気にナショナリズムだ!ってことになるわけじゃないのよ。一気に右になるわけじゃなくて、特に俺みたいな根っこからの左翼は右翼的なものが中和剤になるんだよね。で、左翼的なロジックの問題点ってのを色々と考えられるようになる。まぁ俺の傾向で言うと脱左翼したのはだいぶ前だけどナショナルなものに目覚めたのはやっぱり帰国後だよね。震災ってのがめちゃめちゃデカいんだけどそれ以来、すごく日本そのものってのをメタ的に考えるようになってきててさ、そういう流れの中に今いるんだよね。それでまぁ戦前の右翼とか保守に興味が出てるっていう。まぁ単純に盲点だったっつーのもあるじゃん?それこそポストモダン思想とかを追うのに必死なやつが日本の戦前の右翼思想について調べるわけがないんだよね。でもこれも脱左翼してからまたしばらくのことだからね。俺が大川周明についての本を読むとかまずありえないもんな。でもそれは今書いたような流れで見ればすごく自然なんだよね。で、大川周明とかを読むのがありえないっつーもんがそもそも戦後民主主義的なものとか左翼的なバイアスっていうかさ、んでもそのバイアスがあるっつーのがもう相当マズいんだけど、でもそれを取るって相当大変なことなんだよね。だからようは右翼思想に目覚めたってことでもなくてさ、右翼思想とかも読んで共感できるようになったってことなんだよね。だからまぁ別に左翼思想がダメか?っていうとダメなのは多いけど全否定じゃないじゃん?今まで読んできたものが意味なかったのか?ってそんなことないわけで。


ただやっぱりさ、原理的な意味での世界市民とかを想定するような理念的な左翼思想ってのはもう絶対不可能だって言い切れるよね。で、政治ってのを個人が考えるときにはもうミクロになるしかない。世界ってのを考えながら政治を考えるってのは無理でやっぱり自分がどこに属しているか?っていうところからじゃないと考えられない。で、俺はもう完全に帰国後は震災もあってその立脚点ってのが日本に定まったわけじゃん?で、日本ってのに定まったうえで考えるとナショナリズム抜きに政治的なものを考えるってのが不可能だってのを実感するんだよね。まぁ俺がいう愛国ってまぁすげーシンプルなものだけどね。仮に世界のどこにでも住めるとして、んでなんで日本を選んでるのか?って理由に尽きるわけよ。で、そこはやっぱり便利だからとか飯がうまいからとかさ、お笑いが面白いからとか日本的な文化ってまぁ古典的なものから現代的なサブカルなものまで好きだとかっていうさ、なんか自分にとってのナショナリズムってそこに尽きるんだよね。なんで日本にいるのか?っていう理由に直結する。でもそれはいうまでもなく海外生活がなけりゃ考えられなかったものだよね。一回日本ってのから完全に離れるどころか完全に離れるということを考えたことがあるからこそ、今いる理由というのがすごく明白になるわけね。それは惰性じゃないんだよなぁー。しょうがないからって理由じゃなくてさ、やっぱ好きだからなんだよね。そういうナイーヴな好きって感情があるからこそ国がダメになってるとこれじゃダメだ!って激しく思うわけね。愛情がなければそれはありえないわけで。だから俺が考える政治とかっつーのは基本やっぱり日本についてなんだよね。日本がどうしていくべきか?とか日本国民がどうあるべきか?とか日本固有の問題というところになるわけね。まぁだからもうベクトルが自ずと共同体主義になっちゃう。ましてや震災とか今の日本の現状ってところがあるから共同体主義にならざるを得ないぐらいのものがあるよね。


で、今のところ暫定的に思うのはナショナルなものなしでは統治できないだろってことね。国民が帰依できるような何かってのがないとダメ。で、国によってはそれが宗教だったりするわけじゃん?昔の日本で言えばそれが天皇だったわけだけど、今天皇なんてまぁ当然無理でさ、宗教も絶対無理だよね。俺は基本的に宗教嫌いっつーのもあるんだけど。だからもうそれはなんなのか?っつーと日本はシンボリックなものはないかもしれないけど、やっぱり俺みたいなナイーヴな好きっつー感覚っつーのかな?海外で洋食続きで和食を食べると安心する的なさ、そういう生活圏でのレベルだよね。そういう体感のレベルでのナショナリズムだよね。ナショナリズムっつーと強烈な言葉になるけどさ、いや、それは日本のネット文化とかでもいいわけよ。それは海外からのアクセスも可能だけどさ、でもやっぱりそういうものが出てきている土壌って当然日本じゃん?日本に生きてる人たちが作ってるものなわけでさ、個々が何が好きかってのは別にしても、とりあえず日本人が住居の場所として日本を選んでいるっていうその理由しかないと思うね。で、それが揺らいできてるから移住とかってのもリアルな話になるわけじゃん?韓国はめちゃめちゃ多いわけでしょ?極端なナショナリストも多いけど単純にやっていきづらいから海外移住する人も多いわけだよね。日本もそんぐらい国として糞だから海外に移住したほうがいい!って俺は思ってたけど、まぁ帰国以降の流れでそれがなくなったわけだよね。


んーでもやっぱり震災が大きすぎるな。やっぱり。これを抜きにすると変な話、別に俺はアメリカでもやっていけるからさ、いや、食い扶持なり資産があればって話なんだけどね、でもやっぱりなんで日本を選んでるのか?ってことになるんだよね。必要性からではないんだよね。昔は必要性からだったけど今は能動的なんだよね。たとえばそんなんでTPPの話とかも全然見方が変わってくるじゃん?日本のことがどうでもよければどうでもいいし、でもどうでもよくなければTPPなんでどう考えたって反対じゃん?生産性とコストにおいて海外にかなうわけないんだからみんな安いもん買うようになるなんてのは見えてるじゃん?それでも日本の農家なり産業を守ろう!と思って自分は国産のみを買う!っつってもさ、そんなのやれる人が限られてるからだから国内の産業がダメにならないようにするわけじゃん?


いや、でもね、農家がダメになってもすんげー国民にとってのメリットがありまっせ!ってことならまだわかるんだけどただの産業破壊じゃん?あんなの。たいしたメリットもないし、そもそも金がガンガン海外に流れるって話なわけでさ、なんで日本人がアメリカ人の雇用を守るためにアメリカ製のものを買わなきゃいけないの?って話じゃん?お金を使うにしてもどこに落ちるのがいいのか?ってのを考えなきゃダメだよねっつっても考えすぎてもアレなんだけどさ、日本で回る金が減るってのはもう自分の首を自分で締めるようなもんじゃん?なんでそんなことをわざわざしなきゃいけないの?って話だよね。そう考えるとさ、いや、そういうところからなのよ。アマゾンが税金払ってないって本当?ってそれが怒りに変わるわけじゃん?共同体を考えるから怒りになるわけだ。個人の自由を優先すれば安くて便利ならそれでいいってことになるよね。低レベルな話かもしれないけど俺にとってはデカいのよ。政治的なものへの考え方やパースペクティヴが変わるってのはそういうことだからね。


いやさ、震災後にたとえばリバタリアニズムなりアナーキズムでもいいし、あとはまぁ国家を否定する政治理論とかさ、そういうものってアクチュアリティ持てないじゃん?もともとアクチュアリティはないんだけど、震災ってのをきっかけに何が国家にとって必要なのか?っていうさ、それがすげー顕著になったと思うんだよね。まぁもともと自明ではあるんだけど、ただまぁリバタリアン的な立場とかありえなくなるじゃん?尖閣問題とかでもそうだけど国防ってのを国というよりかは自分の問題ぐらいに考えなきゃいけないっつー強烈な出来事が多いよね。まぁこれが俗に言われる国家が危機的状況になると人々は右傾化するってことなんだろうけど、そういう大衆的なものではなくて、現実に立脚した思想ってことだよね。そういう意味でのいわゆる保守主義っていうのかな?もうそれが自分の問題でもあるんだよね。そもそもの根幹の考えるってところの原理的な問題になってるっていう。


なんか今日はこの辺でいいや。収拾がつかなくなってきたんで。んじゃまた。