楽しそうに見えても・・・。

楽しそうに見えても 2013/01/02 04:23


どうなんでしょうか・・・


色々とあれから考えたんですが、現状に対する危機感みたいなのも原因でしょうね。もう帰国して二年半経つのに何の進歩も無いわけですし、一応あったプランが無くなったならほかのプランを探すなり模索しなければいけないのにそれが全然できていないとか、まぁ漠然とした将来への不安というやつでしょうか。でもいつも書くようにお金がなんとかなればいいのか?っていうとそういうわけではないわけですね。マズロー欲求段階で言うところの高次のものを求めるようになったが故の葛藤なのかもしれません。ようは安全への不安とかは今のところは無いわけですね。まぁそれも将来的にどうなるのか分かりませんが、結局高次の欲求というのは社会的な成功だったり自己成長だったりするわけですね。それが昔の僕の場合、社会的な成功はともかく、自分の成長を感じることでその欲求が満たされていたと思うんですね。それこそ英語力だとか洋書を速く読めるようになったとか数学が分かるようになってきたとか。


で、今は良い意味で色々な部分が結構成長してきたため、かなりの頭打ちになってるという感じがするんですね。もちろんもっと英語力を磨くとかもっと数学を理解するとか方法はいくらでもあるわけですが、昔はこういうのって自分のミッションのための成長でもあったんですね。ようはアメリカでやっていくということが日々の成長に繋がっていたわけですが、今はアメリカに魅力を感じなくなったし、色々な雑事ややりたくないことまでやって無理やり学問でやっていくというのもどうかな?と思うようになったので、目標が消えていったわけですね。あとは色々と知ったことで完全に不可能であったり無謀であったり現実的ではないことなんかも色々と分かるようになって現実主義者にならざるを得なかったという部分もあると思います。


そんな中で何をしていいか分からない中でというよりも何をしていいか分からなくなったからこそ防御機制が働くようになって現実逃避をすることが多くなったというのが分かっているからこそ、現実逃避をしている中でそれが面白くても、どうせまたリアル世界が待っているわけで、そこでどうしても暗くならざるを得ないみたいなところがあるんですね。まぁでも娯楽って不安とかストレスがあるからそれを解消するとかホメオスタシスバランスをとるためにコミットしたりするわけですから何にも不安が無い人が娯楽に没入するということはあまりないかもしれませんね。僕が言いたいのはその娯楽の強度みたいなのが現実への不安によって強くなっているということです。ましてや現実に楽しいことが無いと仮想世界みたいなところでの楽しさって際立つと思うんですね。逆に現実が楽しかったら仮想世界に逃げないわけですよね。何でこんなにゲームをやってて楽しいんだろう?って自問自答するとつまりはそういうことなんだと思いますね。リアルでの欠乏みたいなのを無理やりそれで埋めようとしている感じでしょうか。


なので必死にゲームをやっている姿を見れば最高に幸せで強度のある時間を過ごしているように見えますが、実際は現実世界での色々な問題を棚上げしたままそこに逃げているだけなので、その幸せというのは仮の姿といいますか、偽りの幸せという感じがするんですね。でも近年ではサブカルチャーなども含めて現実世界的ではないものに幸を見出す人たちが多くなっていて、だからこそそれがあるからこそ現実世界の辛さに耐えられるみたいな状況になっていたりもするので、それを偽りの幸せと呼ぶのはちょっと違うかもしれません。


むしろ刹那的な楽しさなんて何かの誤魔化しだったりするわけですよね。じゃあニュートラルな状態では常に現実世界において切磋琢磨していかなければならないのか?というと、それはかなり息苦しいなという感じがしているんです。かといっても現実世界への逃げを肯定はしたくないんですけどね。でもそもそも僕は逃避として哲学とか数学に逃げているみたいなところもあるので、その辺がちょっとごちゃごちゃになっているんですけどね。ただ僕の前の考えであるミッションということで言いますと、哲学や数学自体を究めることに意味があるみたいな考えかたをしていたんですね。とりあえず極めればなんとかなるだろうって思っていたんですが、その極めるということが何なのか分からなくなっているわけです。それは僕自身が色々と気になっている「知識とは何か?」みたいな話になるので、これ自体が哲学的な話ということにもなりますが、今の自分の場合、学問としての哲学というよりかは自己問題としての哲学になっているので、学問をやるみたいな大義名分も無ければ、それを社会的なものに繋げるみたいな動機付けもなくなってしまったわけですね。まぁなくなってはいませんが、だいぶ薄れたんですね。悪く言えばどんどん自分の世界に没入していって勝手に泥沼にハマって苦しんでいるような状態とでも言えるかもしれません。


インナートリップみたいな感じで自己陶酔できればいいんですけど、物凄く物事をドライに見たり考えたりする癖がついたので、そういう陶酔的なものからだいぶ離れたという感じがするんですね。物事をドライに考えるというのはなんだかんだで数学の影響は強いと思うんですね。あとは思想そのものに耽溺するみたいなことが凄く馬鹿馬鹿しく思えてきたのと、「哲学や思想を信じる」みたいなマインドセットのあり方が凄く嫌になったというのもあって、ドライに見るようになったというよりかは結果的にそうなったという感じがあるんですね。むしろ哲学者とか哲学自体をやっている人たちの問題こそがその「哲学を信じる」みたいなことだと思ったんですね。こういう流れでたまたま思い出したようにローティーを読もうと思って読んだらかなり似たようなことが書いていてそこで関心したんですね。いや、最近の人でこんな人がいたのか!って驚いたぐらいです。


結局、論理とか理性とかではない信念としての価値観みたいなものが崩れ去ると非常に心が脆くなるんですよね。逆にそれを信じ続けることができれば現実がどんなにクソであろうがやっていけると思うんです。僕がアメリカでやっていけたのは将来への動機付けや哲学的な信念みたいなのが凄く大きかったなって思うんですね。今はその両方が無いわけですからね。だからこそ自分自身が価値観の創造をするだとかそういう話になるわけですが、自分では分かっていてもそれ自体が壮大なこと過ぎてかなりビビっているみたいなところがありますね。これも葛藤の原因だと思います。でもまぁ一人で何かをやるってこういうことですよね。それを今の脆くなった僕は受けきれないわけです。


あとまぁプライベートで色々あったって書いてますが、こんなに自分がストレスに弱いとは思ってなかったんですよね。色々な嫌なことがありましたからタフになっただろうと思ってたんですが、また別種のストレッサーや嫌なことがあったりすると反応が過剰であったりダメージが凄まじかったりして、そういう部分の弱さみたいなのを目の当たりにして、それでヘコんでいるというのもありますね。それで防御機制が働いて現実逃避をするのは精神的には健全な証拠なので、別にこれ自体は問題ではないんですが、なんか凄い自己嫌悪があるんです。こんなに自分はリアルの事柄に対して無力だったり防御力が低かったのか?なんてのも再認識して、自分の弱さを再確認したわけですね。これってでも学問をやっていく上で致命的なんですよね。色々なことがあってもやり続けるっていう強さが無いといけないのに、ストレッサーが少しでもあるとそれに気をとられすぎてしまって集中力などに問題が出てきたり不眠になったり鬱気味になる・・・って人間としてポンコツですよね。哲学にせよ数学にせよやり続けるってやっぱり世の中との折り合いってありますよね。僕は折り合いをつける部分が凄く少ないにも関わらず駄目になっているので、その弱さに情けなさを感じるんです。


でもまぁ同じ現実逃避でも数学や哲学は良くてなんでゲームは駄目なのか?ってそれは自分でもまったく分からないんですよね。イデオロギッシュな学問の価値観みたいなのをそぎ落とすと結局は現実逃避なわけですから、その方法がゲームであろうが哲学であろうが数学であろうが全部同じじゃないかって思うんですね。ゲームに逃げるか本に逃げるかみたいなことだけなわけですよね。学問の価値なんて所詮イデオロギーだなんて思っている自分こそがまさしくそのイデオロギーに犯されていたっていうまぁ身も蓋も無い話なんですよね。そういうのになんとなく気がついても誤魔化しながら生きていくというのが仮にデフォだとしても、僕はこういう気質なのでそれが無理なんですよね。だからそういう意味で自分は賢くなったと思うわけです。別にそれは頭が良くなったということではないんですよね。知恵がついたことで元も子もなくなるってだったら知恵なんていらないじゃん!とかって思ったりはさすがにしませんが、仮に自分が辛くなっても真実が知りたいと思うのであれば、それは払わなければいけない対価なんですよね。なのにも関わらず今の自分は現状に文句を言ったりしているだけで何もしていないわけです。それがさらにまたフラストレーションを生むわけですね。


かといっても行動すれば何でも良いのかというとそんなことはないわけですね。行動/行動しないみたいな二元論で考えてもしょうがない問題なんですね。まぁそもそも何をやっていいか分からない人間にとって行動も何もないだろうって話なんですが。なんというかこれはずーっと知識そのものに価値を見出していた自分からすると地盤が無くなったみたいな感じなんですよ。凄い虚無感に襲われます。数学に手を出した対価なのかもしれませんが、凄くダメージが大きいです。まぁ本当にメタ的になったということなんでしょうね。「メタレベルに立って」とかって思えている時が一番いいかもしれませんね。


金銭的に恵まれても生活が安全になってもこれは変わらないとなると、ニューエイジ的な言い方になりますが、Spiritual Guidanceみたいなものが必要になりますよね。こういう状態がまぁ下手をするとカルト教団に入団するとかそういう方面に行ってしまう場合もあるということですよね。帰依する対象とか原理みたいなのを求める欲求って凄く今となっては理解できるんですよね。でもそんなものは存在しないというのをありがちな相対主義ではなく、むしろ哲学的な原理に立てば立つほどそんなものはあるわけないと心から理解できるようになったんですね。今までの僕と違うところで言えばプラトン的なエロスはただのイデオロギーであるどころかそれ自体は明確であるにしても、むしろ哲学をやる上で邪魔になるイデオロギッシュな価値観だということなんです。あと昔の僕のようになんでもとりあえずエロスに放り込んでおけば何でも解決したように見えるとか、そういう概念的な逃げもありますよね。そういうのを一切やらないと決めたからこそ辛くなったんですが、それは必要な辛さですよね。


あとはなんでも意思の力にするだとか、これも超人目線の一部の人しか実践できないようなやり方で、それはそれでいいとしても、むしろこういう風にここにそんなことを書き続けること自体が凄く害悪なんじゃないか?って思うようになったんですね。エネルギッシュな人にしか実践できないようなことを書いてたら、それこそ今の僕みたいにエネルギーが少なくなっている人間から見ると実践できるわけないし、そんなものが処方箋だと言われても説得力がないですよね。エロス的なものも結局は超人的な超越論なんだと思うんですね。一部の人しか分からないし、一部の人は分かりきっているわけで、そんなことを考えててもしょうがないわけですよね。あと僕自体がそれが分かったところで結局はごまかしにしか過ぎないって感じるようになったので、それはもう信じなくなったというのもありますけどね。


そんな意味でようは僕は価値の基盤を失ったわけですね。コミットしていたもの自体の価値の無さを経験して、なおかつプライベートでもどうしようもないようなことが多発して、精神的に参っているという感じなんです。プライベートのことは解決すればそれまでですが、哲学や学問云々に関して言えばもう前の価値観には戻れませんよね。そんな中で自分がどうしていくのか?というのを迫られているのにも関わらず何も分からないままでいる・・・という感じですね。「分からない」ということ自体がストレスでもあるので慢性的にストレスがかかってるみたいなもんですよね。もっと気楽に生きよう!ってことを決めるならもう何も考えないでいこう!ってことになりますね。動物化するのがベストってことになります。でもそれは明らかに自分には無理ですね。今までの自分の人生の全否定みたいなことにもなりますし、何しろそんな生き方嫌ですからね。


色々と長くなりましたが極端に楽しさを求めるというのはやはりその対極にある虚しさなどの表れなんだと思うんですね。で、楽しさ中毒になるとようはネット中毒とかネトゲー中毒とかになるわけです。実はこれは凄く根が深い実存的な問題なんですよね。対処がどうのとかそういうレベルの話ではないと思っています。マコーレ・カルキンがジャンキーになるのと同じですね。虚無感が深いとああいうレベルまで落ちるわけですね。こうやって書いていると何も自分だけの問題じゃないんだよなって改めて思い知らされます。


とりあえず今日はこの辺で失礼します。