現実はオワコンという認識からはじめませう。その10。

まぁ俺も負のパワーに飲み込まれそうになってたけどギリギリのところで助かった!って気がしててさ、そのヒントになったのがゲームなのは前にも書いたけど別にそれはゲームに生きがいを見出したとかではなくて認識のパラダイムだよね。何を知覚するかがリアルってことだし、人によってそんなものは違うわけだ。あとはみんなが現実だって言っているものが現実になっているわけでその虚構の最たるもんがお金っつールールじゃん?お金なんてルールだみたいなことはむしろ成功者とかが言っているぐらいでさ、弱者の理論でもなんでもないのよ。貧困からのルサンチマンとかで言ってるわけでもなんでもなくて。言いたいことは勝ち組だろうが負け組みだろうがとりあえずお金はただのルールだってことが明白だってことなんだよね。これは立場によって変わる話ではなくて客観的に明らかにそうでしょうっていうさ、で、徹底的に人間を疎外するものだってことなんだよね。


だからこそお金とかに価値を置かない生き方とかってあるわけじゃん?まぁこんなディオゲネスみたいなやつが言ってても説得力が無いかもしれないけどさ、まぁそれを普通の世界で言えばさ、いや、そういう本とかって流行ってたじゃん?むしろ何をしたいのか?とか、もう一度幸せということを考え直すとかさ、別にラディカルでもなんでもないんだよね。そんな本が実際に売れてたわけでしょ?だからみんなある程度は分かってるんだよね。分かっていてもなかなか逃れられないんだよね。まぁんで何回も書くようにそれを気にすることでよりお金に恵まれたり生活ができるようになるって人はそれでいいけど心配しようがしまいがどうにもならないっていうぐらい詰んでる人たちって大勢いるわけじゃん?ある意味そんな人たちが多いならむしろデフォぐらいに考えてていいんだよね。みんな不安だしみんなそこにフォーカスしすぎているからこそよりネガティブな発想が生まれてくるわけだ。まぁ俺もそういうのに飲まれてた一人ですけどね。


で、まず俺の原点であるwant toというところに戻るとさ、前にwant to玉砕ってことを書いてたけどさ、どうせ死ぬならやりたいことをやってから死ね!っていうことだったわけだけど、別にやりたいことをやり続けていられれば玉砕もクソもないんだよね。そもそも玉砕って発想が現実に対してやりたいことっていう武器で向かって体当たりするみたいなマッチョな発想だったんだよね。で、駄目だったらっていう「駄目」っていうのも所詮はそれで食えるようにならなかったとかそんな現実的な話なんだよね。まぁ食えなきゃ成立しない夢ならともかく、それ自体が好きなんだったらやればいいんだよね。それを。あと何回も書くようにマズローとかも言ってるように大きな組織とかに属してやりたいことを実現しつつお金ももらうなんてことはほぼ不可能なんですよ。


大きな組織に属するってことはそういうことじゃん?まぁあとは自分で組織を作るとかね、そういうのしかないじゃん?そんな中で自分を殺してでも食えればいいって発想で安定を求めようとする若者が多いっていうところにまたどうしようもなさがあるんだよね。もう根本的な抜けきらない奴隷根性だよね。それを叩きなおすのも無理だなって思ったのは不安ベースで生きてるとどうしてもそれが強くなって不安ってのはようは生存本能から来てるわけじゃん?食っていけるかいけないか?ってのが死活問題だからそれに関して不安に感じるのはむしろ当たり前だから叩きなおしもなにもないだろうってことだよね。あとはまぁ色々と世の中でも言われているように失敗するチャンスがないっていうさ、一度失敗したら終わりっていう風潮とか社会の体制があるっていうさ、それはそうだろうね。まぁそれは確かに変えるべきだけど変わるのを待ってたらこっちが歳とるだけなんだよね。そもそも変わるのに期待するってのが間違いなわけね。政治に何か期待できる?無理でしょ?


あと理由を政治にもっていくっつーのも駄目だよね。政治が悪いんだ!みたいなまぁそれはそうだけどでもそれはもうそうだから当たり前のこととしてあえて理由としてあげるようなことはもうやめようってことだよね。政治が悪いというのは誰もが共有している大前提ぐらいに思ってたほうがいいわけだ。そんな中で当たり前のことを言っていてもしょうがないんだよね。まぁそれを言い続けることで変わればいいけど変わらないでしょ。この変えるって発想が問題なんだよねってのが前にも書いたようにオンボロのパソコンを修理しようとしても無駄ってことなんだよね。新しいのを作りなさいってことになるわけだ。でもそこで俺は起業とかを薦めるわけじゃなくてっつーか俺がそんなタイプの人間じゃないことは分かってると思うけどさ、作るっつってもどうすればいいの?っていうさ、それが分からないってのが当たり前なんだよね。そもそも変わらない現実に対して変わらないということを突きつけられてるわけだからそりゃ何も方法が無いように見えるよね。だからまず認識の第一歩として現実という前提を無くしてみるってことだよね。


「でも現実はこうなんだから・・・」っていうそこまで現実に執拗にこだわる性質っていったい何なのか?って話じゃん?で、俺的に言うと何回も書いてるように所詮はそんなものはイデオロギーだってことなんだよね。そう教えられるのかみんなそう言っているからなのかさ、ましてや今ってそういう風潮強いよね。「現実的になれ」みたいなさ、それこそそれって諦めろ!って言ってるわけでしょ?どうしようもない中でみんな自分のポジション取りに必死なんだけど、まぁでもそれが現実なんだからしょうがないっていうさ、そのポジション取りっていうね、ポジションが現実にしかないっていう発想が前提になっているけどそれが誤りなんだよね。まぁ誤りというかまぁそれも一つのポジションではあるけどそれだけじゃないじゃん?あ、それで言えばまぁ現実の延長として昔書いてたように望む世界がありそうなら海外でもいいのよ。


海外に行って凄まじい相対主義を経験して絶望して帰ってくるっつープロセスもいい勉強だし海外に行ってその場で自分の場所を見つけられたらもうそりゃ御の字だよね。そもそもこんな今の日本みたいな掃き溜めみたいなめちゃめちゃクソな現状の中に自分を無理やり置くということで悩むっていうさ、それ自体がばかばかしいと思わないか?ってことなんだよね。なんでそれで現実的になるということがようはオワコンの中に身をおいて一緒にあーだこーだ不平不満を言いながら過ごすってことになるのか?ってことだよね。


俺的に言えばすげー論理的に通ってるんだよな。日本はもう駄目だし俺がやっていけるところじゃないってのは前から書いててんでまぁアメリカでやっていこうと思ってアメリカにいったけど、でもどうやら問題の深い部分は自分の実存にあるようだってことに気がついてっつーのもまぁどこにいってもあるのは日常生活だけじゃん?みんな大変でみんな仕事に困ってるっていうさ、その現実はもう変わらないんだよね。まぁそんな競争の中に身を置くのも一つかもしれないが俺はそういうのが嫌だしなんでそんな競争に無理やり参加しなきゃいけないのか?っていう気持ちがある。競争を維持するために自分を殺してやりたくもないことをやりながら毎日過ごすっていうそんなんでいいの?って俺は良くないな。だからね、別に職が得られても良い家庭を築けようとも何の解決にもならないってことなんだよね。まぁ職とか家庭に幸せを見出せる人はいいけどね、いや、むしろ家庭なんか持ったら仕事辞められないじゃん?一生そのままだもんね。


まぁだから理想的なことを言えば自分のライフスタイルを確立してからだよね。結婚とか家族ってのは。確立してからの家族ならまぁそれはいいんじゃないかって思えるし、実際、そういう発想だと子供まではいかなくても奥さんはいたほうがいいんじゃない?って最近は凄い思うようになったよねっつってもまぁそれで結婚したい!なんつー観念を持つと例の結婚できませんよ!っていう恐怖をネタにした結婚ネタとかで心を揺さぶられることになるじゃん?まぁ俺は別に結婚ってそんなプライオリティが高いものじゃなくて、あくまでなんつーか自分の世界を築けたらその中にあってもいいよねっていう考え方になったってことだよね。


でも求めて得られるような簡単なものじゃないから期待しないしそれこそ結婚のために色々動くなんて時間の無駄なんだよね。だったらもっと自分の世界を磨いたほうがいいじゃん?まぁあとよく言うように結婚なんて偶然の出会いとかなんだからそんなもんコントロールできるもんじゃないじゃん?顔面がどうであれ結婚なんてもう時代遅れなんだからそういう観念に犯されるのをやめたほうがいいと思うね。これも不安ベースの権力装置みたいになってるじゃん?


あ、でもね、不安ってまぁ重要なことなんだよね。それこそ生存のために必要なものが不安じゃん?暗闇の中にいると不安になるのはようは自分の生存が危機に晒されてるように思うから本能的に防衛のために不安になるんだよね。だから身を守る方法として不安になるのは必要な要素ですらあるんだけど将来への不安みたいな観念的な不安ってどうしようもないからね。それについて不安に思うことで何か解決になるんだったらいいけどさ、まぁ不安って要素が解決に導くこともあるんだけど、大半の人って不安に思ったままずーっとそのままでいるわけでしょ?そんな中で明確なビジョンを持つカリスマが現れると一気に人々はそういう人を熱狂的に崇めるようになるってのがまぁファシズムの構造なんだけどさ、まぁようはこういう不安構造って何も良いものを生み出さないんだよね。


外敵に対して身を緊張させることで防御体勢を作る!みたいなさ、不安の理由と目的が明確でなおかつ緊張して不安になるというのが生存にとって必要不可欠な条件だったらそれは人間として必要な不安感だよね。でもそれこそ老後の不安とかさ、20そこいらのやつらがライフプランの設計とかを考えて不安になってるとかもうどんだけ不安を広げてるんだ?って話じゃん?そんなスパイラルにみんな入ってるからもう不毛なのよね。あとみんな不安でいるととりあえずみんな不安で上手くいっている人が駄目になればメシウマでっていうどうしようもない状況があるわけじゃん?まぁそれがさっき俺が書いた魔のしもべってやつなんだけどさ、その魔ってのをなんとなくみんなでやっちゃってるんだよね。で、そういうのに対する勇者を必要としてるっていうような雰囲気もあるけど現実的に考えて急に勇者が現れて全てが変わる!なんてことは無理だからさ、魔のしもべが増えてるし負のオーラに満ちているっていう状況を認識しつつさ、そういうのに飲み込まれないためにどっかに自分の居場所を作るってむしろサバイバルの方法として王道じゃない?って思うんだよね。


干渉すると色々と問題になることが多いから完全に独立して自分でやっていくってむしろサバイバルって観点から見れば普通だよね。いや、FPSやってて思ったんだよね。サバイバルみたいな状況多いじゃん?そんな中でランボー的に敵を一人で蹴散らすなんてゲームは流行ってなくてさ、他者と協力して自分じゃどうにもならない状況をサバイブするってのが多いんだよね。Coopゲームってのは前から相当流行ってるみたいで。まぁ日本じゃ主流じゃないのは言うまでも無いけど。


まぁ恐らく今回買った色々な本にも書いてありそうなことだけど助け合いってやっぱ欲求なんだよね。で、ゲームって手っ取り早いんだよね。すぐできるし完全に自分でできるわけだから。残念ながら現実で理想的なCoopの状況を見つけ出すってのは別に日本に限ったことじゃなくどこでも大変なのよっつーかそんな理想的な場なんてないぐらいの勢いだよね。でも人は本能的にそういう理想的な場を求めるんだよね。で、結果、ゲームでそういう人間の欲求が満たせることが多いってことですげー多くの人がゲームにハマるようになってて、ポイントなのがそれがシングルプレイじゃなくてマルチプレイが盛んってことなんだよね。他者とのやり取りとか助け合いとかコミュニケーションみたいなのがゲームを通じてできるようになってるからリアルでそういう環境に恵まれていない人でも色々な人と知り合える場になってるっていう。まぁこれ以上いくとゲームユートピア論みたいになるけど、でもこれはまぁ客観的な現実の一面だよね。実際にそうなんだから。だったらそれを活かしていこう!って考えるのはむしろ普通だとすら思うんだよね。


いや、テトリスとかね、そういうすげー昔の完全にシングルプレイの閉じた世界としてのゲームに没入!ってそれは俺はいいと思うけどあんまり健全じゃないって思うのも分かるんだけど、仮想現実としてのゲームが果たしている機能ってのは現実に不在の人間の欲求をかなえるシステムだったりするわけよ。いや、でもそれを現実で見つけていくべきでしょうって言われても絶望的に無いですっていう結果が出てるわけじゃん?いや、そんな場所は存在しないんだってことだよね。マズローを出すまでも無く。だからそんなそもそも不可能なことを現実に求めて「思うようにいかない・・・」なんて思うのはさ、そもそも思うようになんかならないどうしようもない変わらない現実っていうものがあるわけだし、変えるような現実でもないんだよね。むしろみんなが人間の欲求をかなえられるような社会なんて無いでしょ。会社なんてそんなんじゃ成り立たないわけで。だから無理なのよ。


見つかった人は超ラッキーか才能に恵まれた人かまぁ凄く限られてるよね。そういう限られた人たちの話をベースとした成功論とかエネルギッシュな人が説く社会変革論とかさ、それってまぁそういう人だからできるんであってできない人たちが大半なわけじゃん?そこを認めないといけないよね。あと自分の成功に依拠した成功論なんて絶望ディスペンサーなんだよね。だから永遠と自己啓発の本とか成功論って売れるわけでしょ?それだけ成功して無い人が多いからなんだよね。でもそれはそもそもの考えの誤りでみんな成功できる!なんて思うのがそもそもの間違いなんだよね。まぁみんな成功するなんてそもそも無理じゃん?成功者の後ろに敗北者ありなんだからさ、そこを成功者になるんです!ってことを言い続けてはいつまでたっても勝ち負け構造ってのが永遠と引き継がれるよね。で、敗北者は終わりだと。


そういう勝ち負け構造ってのは全部現実が軸になってる考えだよね。そもそも勝ち負けなんて無いし、その基準を自己充足にしたら勝ち組に相当なニートがいるに違いない。でもそんなのみんな認めたくないからそんな価値観は絶対認めないどころか認めたくないから批判するんだよね。でもそれは的を得ているっていうことの裏返しなんだよね。俺はこんなに苦労してるのに楽してるやつもいるんだ・・・ってまぁそりゃそうでしょっていうさ、そこでまぁ苦労を美徳にしてそれを鎹にして生きてる人たちっていっぱいいるんだよね。まぁそれも認識の一つだからもう俺は否定しないけどね。ただ押し付けはやめろ!って話だわ。宗教と一緒でそれを一般的な価値観の基準にしろ!とかそんなのは押し付けなのよ。勝手に日本労働教みたいな労働そのものを崇拝するっつー価値観に生きるってそもそもの世界の独立に気がついた俺からすると批判ってのがお門違いになるから批判はしないけどさ、それを勝手にやってる分にはいいんだよね。まぁこれは前から書いてるよね。ただそれを人に押し付けるとかそういうのを基準にしてやってない人間を見下すとかそんなのありえないでしょ!って話なんだよね。


で、その労働=美徳っつーのが全体主義的な押し付けのイデオロギーみたいに機能してるから最悪なんだよね。それが洗脳に使われる思想になってるから駄目なんだよな。生き方としては個人の問題だからいいんだけどそれを美徳としたら駄目だわ。まぁそれはもう永遠と書き続けてきたことの繰り返しなんだけど、今回の場合、現実=現実と考えるのもイデオロギーだっていい始めたから一気にエクストリームになってるんだよね。まぁでも色々と理由を書いてきたから何人読んでるか分からないけどまぁ別にそこまでぶっ飛んだ話でもないと理解できると思うんだよね。いかに現実は現実だっていう思考そのものが人間の可能性を奪ってるか?ってことだよね。あとはそれによって自分たちを痛めつけあってるっていうさ、そういうのもうやめにしましょうよ・・・って話なんだよね。今回の俺の話は。


ってことでまだ続くんでよろしく。