slさんへの返信。

slさんから書き込みをいただいて返事を書いていたら長くなってしかもかなりすっきりと一連の今回のことの一部を要約できたような感じになったんで続きとして貼るです。

sl 2013/01/24 17:33
記事に関係ないですが
メルロ=ポンティの身体感覚の重要性についてどう思いますか。
仮想世界への偏重が気になったので。

メルロ=ポンティはちゃんと読んだことがないのでなんとも言えないんですが、僕が書いていることで言えば仮想世界も特に昨今のようにがっつりとインフラ化するとそれも一つの生活世界だと言えるわけで、現象学的にも存在論的に生活世界と存在の相関関係って切っても切り離せない話なので、仮想世界やネットやネットで繋がれた世界みたいなものの全般を生活世界と捉えることによって存在というものを考えてみようみたいな話なんですよね。今は色々と読んでいる最中ですが、90年代とかもっと昔のバーチャルリアリティ論とかだと当然のように語られていたことなんですよね。でも僕が感じるのはあまりにネットが普及して普通になってしまったので、改めて考察されてないっていう気がするんですね。即物的なツイッターフェイスブックやネットが世の中の流れを変えるとかビジネスを変えるとかそういうのはいっぱいあるんですが、逆に人間側から見たときの一連のそういった新しい生活世界の存在というものが意外にないんだよなって気がしたんですよね。まぁそういったものが生活世界化するということはそういうことですよね。自然にそうなるものですから。


で、僕はこの当たり前だけど気がついてなかった事実に驚いたんですね。自分は絶望しているといってもそれって結局は現実を軸に考えているわけで、ハイデガーの考え方ではないですが、まず人間ありきでそこから世界が認識されることで人間の実存が生まれるのだとすると、仮想世界というのを世界として認めた人間の実存ってまだ従来の実存とは違ったものですよね。そこが通念によって「あんなもん世界じゃない」的な意見とか、リアルを重視する傾向だとかを半ば強制させられるわけですが、こういった考え方を僕はここで旧人類の考え方というか、旧世界の実存のあり方だと思ってるんですね。こういう概念からリア充的な考え方が生まれるわけですね。でも実際は人間を苦しめる要素ってたいていこういった現実のあり方とか一見勝者のように見える人たちがあたかも本当の勝者に見えてしまうような、現実を全てだと考えてしまうことからくるものだと思うんですよね。客観的に見ると全然幸せそうじゃなくてもたとえばアニメオタクがアニメに永遠と没頭していたらそれって凄まじい自己充足ですよね。その自己充足がなぜモテるとかリア充みたいな概念と比べられてあたかも敗者のように扱われるのか?ってことなんですよね。旧世界の考え方だとこれは通りますが僕が気が付いた新しい実存のあり方で言うと充足がリアルから来ようが仮想世界から来ようが結果的にそれによって満たされている自己というのがある限り、そのプロセスなんてある意味どうでもいいってことになるんですよね。だからこそオタクは最強なんだってことですね。あとは何か情熱を燃やせるものとかとにかく好きでたまらないものがある人たちは最強ってことなんですよね。


で、僕が世界を作るといっているのはこの自分にとっての生活世界というのを現実に縛られずに作り出すってことなんですよね。で、ようやく身体感覚の話になるんですが、人間はホムンクルス的な機能に長けているんだそうで、例えば手を動かせば画面の中の手が動くだとか、それが手じゃなくてもなんらかのものが連動して動くとそれに一気に適応してあたかも身体の一部のように動かせるようになるらしいんですね。ゲーマーにはおなじみの現象ですが、普遍的に人間はそういったホムンクルス的な機能に長けているって凄いことだと思うんですよね。別にゲーマーだろうが老人だろうが人間であればそういった能力が備わっているということは、仮想世界にも身体感覚を持ち込めるってことですよね。で、そこは別にバーチャルリアリティの技術とか道具の発展を待たなくても、まずは認識から初めてあれも一つの世界なんだってことを認めて意図的に没入してみるという一種のヨーガの修行みたいなことをしてみれば脳が勝手にそれも世界だと感じるようになってそこに身体感覚が生まれるようになると思うんですね。そこにも存在できるってことなわけですから、現実に絶望していても他に認識や身体感覚までもが存在の介在を許される場があるって凄い救いだと思うんですよね。だから現実を軸に考えて絶望していてもしょうがないじゃん!って思ったわけです。だから現実はオワコンだと割り切って、もっと建設的なことを考えよう!ってことになるわけですね。


実際に色々と読んでみるとこういうのって戦争に行った兵士のPTSDの治療などに使われていたりだとか、医学的な効果が認められているそうです。これはホムンクルス性が成せる技ですよね。僕の経験で言うとパニック発作なんかにも使えると思ってるんですよね。例えば電車に乗れない!って人が凄い臨場感があるバーチャルリアリティ上で電車に乗る訓練をするだとか、まぁ強制ではなくて乗れるようになりたいという人に限る話ですが、人間のホムンクルス性を利用すればいくらでも建設的なことができると思うんですね。色々と読んでみてそれは確信に変わりましたね。何回も書くようになぜただの現実の表れの一つである現実というものを全てだと考える必要があるのか?ってことですね。仏教の認識とかも似たようなものですが、全て意識の中でやるので抽象性が高すぎて敷居が高いですよね。でも仮想世界的な想像できる材料が与えられれば認識を変えることって割と簡単にできると思うんですよね。そこで邪魔になるのが現実を重要なものだとする一元的な考え方ですね。


長くなりましたがそんな感じです。基本的に僕の考え方の根底の一つに現象学があるので、現象学的に仮想世界を認識してみるみたいなことでもあるかもしれません。ただあえて括る必要はないので勝手に色々と自由に考えてはいますが。メルロ=ポンティに関しては良い機会なので今度何か読んでみようと思います。


・・・というわけでここまでが返信なんだけど、なんつーか色々と誤解を生むような感じで始まったわけでさ、なんか色々とまた読んでて固まってきてるんだよね。より具体的になっていて、あと変なオカルトとか社会設計論みたいな話とは意図的にでも切り離して書かないと大きな誤解を生むだけだってのも凄い感じてて。いやさ、Reality is Brokenって本を貼ったけどさ、これは悪夢だね。前半はいいんだけど中盤から予想通りといえばそれまでだけどゲームを現実に生かそう!とかね、現実を楽しむためのゲームとかあとは仕事の方法としてのゲーミングみたいな抽象度の低い話が永遠と続いてて、んで最終的にちょっとした社会設計みたいな話になっててさ、いや、書いてる人は別になんつーか普通の大学院生って感じだからさ、いや、普通の大学院生の論文っぽいってことを言いたいんだけど、社会ってそんなにシンプルなもんじゃないからゲームが世の中を変える!なんてナイーヴ過ぎるじゃん?仮想世界と認識が世界を変える!ってのを俺は言いたいのね。でもそれは世界が変わるんじゃなくて自分の世界の見方が変わるってことなわけよ。コペルニクス的転回とまでは言わないけど。


なんつーかもう従来の仕事だとかさ、なんつーか普通のやり方自体が古いんだよね。そういう古い設計のものにゲーム的なものを介在させて効率化を促したりやる気を出させたりするのはわかるけど、こないだ書いたR/I比の話で言えばリアルの比率が高ければ高いほどそれってうまくいかなくなるわけよ。あくまでリアルを引き立たせるツールなわけでさ、俺が考えているのはリアルをなくしてしまうぐらいのIであるImaginaryの比を高くするってことなんだよね。だからそれって従来の古臭い仕事のやり方とかそれこそ仕事って概念だとかお金の流れとかさ、そういうのとは違ってるんだよね。もうR比が高いとゲンナリだよね。絶対そんなのダメだって。あと当然ながらあれだ、あくまで現実でやっていく方法みたいなことばっかり書いてあって、まぁそれはどの本もそうなんだけどさ、もう完全に現実という場に居場所がない人たちとか死のうと考えている人たちとか現実に戻るつもりはない人たちとかさ、そういう人たちの実存が前提になってるのってまぁ当たり前だけどないよね。現実に戻るとかさ、現実でいかに自分を売り込むか?とかさ、そういう切り口のって全部だめだよね。現実とは独立した機構みたいなのが一番強いんだって。


だからこんな現実を絡めて考えるものなんてむしろ足枷になるよね。なかなかまぁImaginaryだけで回るインフラみたいなそんな設計をできるわけじゃないけど、とりあえずリアルってもんの耐久年数が過ぎちゃってて壊れ始めてるわけでさ、まぁ思うにこういうのが顕著なのって2010年以降だと思うんだよね。もういよいよ永遠の氷河期が続きそうだなってみんな分かってきた雰囲気だよね。実際そうだし。だから新しい地下シェルターなりさ、どっかのコロニーに移動するとかさ、そういう発想なんて出てきて当たり前なんだよね。でもそれは俺がslさんへの返信にも書いたように人間のホムンクルス性って凄いわけだからさ、現実的な自分の身体というものに存在が完全には規定され切らないっていうさ、実存の分散っつーのかな?だからまぁいろんな世界を持ってたほうがいいんだよね。その想像力が結果的に存在自体の強さになるんだよね。もちろん現実世界でのやっていく方法ってのが解決されるわけじゃないけどそれって色々と書いてるように所詮は身体的なニーズじゃない?だからその問題もあるけどどうせ最終的に色々と満たされれば内面的なニーズが生まれてそれは今の世の中では滅多に満たされるものじゃないとわかっているからこそサバイブのために、それこそ存在のために自分の世界を作るんだよね。逆にそれができちゃったら衣食住は困ってなくても内面が満たされないみたいな人たちよりよっぽど強固な存在の基盤を作れると思うんだよねぇー。


俺で言えばいつもネックなのが現実との折り合いだったわけだ。数学やる!っつーとイコール大学教授になる!ってことになっちゃって、んでそれがすげーつまらなく思えてきたりやりたいことと違うような違和感を感じるようになる。でもこれは考え方の軸が現実だからだよね。軸がImaginaryならば数学自体を世界と認識するってことなわけだから、それと接している自分とその中で現れてくる自分の存在じゃん?数学の世界を生活世界の一部として認識して生きている自分ってのが自分と数学との関係性なんだよね。だから大学教授云々なんてどうでもいい話になる。結果、純粋に知的刺激とか欲求を求める、あとは没入できる世界としての数学世界ってのが見えてくるんだよね。これは職業云々考えてたら見えてこないからね。思うに職業云々なんて学問から見ればすげー足枷だと思うんだよね。まぁやりたい研究が大学にいなきゃできないようなものならまだしも、別に所属している必要がなかったら自主的に内発性によって研究を進めるってことでいいんだよね。それも世界なのよ。でも一般的にはそれは世界と認められないけどね。なんかそれで食っていないと一人前じゃないみたいなイデオロギーがあるけど、本当にこういう考え方がすげー足を引っ張ってるのよ。もう悪の思想だね。これは。そういう考えをやめるってのも認識的な進歩だからね。それをまずは自分でどんどんはじめていきたいってことだよね。


というわけで昨日の続きはまた今度貼りますね。んじゃまた。