脳内オーガズム。

いやーもう読んでばっかよ。本を。ゲームもやるのなくなったし何しろ読書ぐらいしかやることがない。んでやっぱりオワコンシリーズ以来の脳の中が冴えている感じってのが続いていて、なんていうかちょうどニューヨークにいたころみたいな知識に飢えまくっていた感じがあってさ、まぁそれは帰国後もあったけどなんつーかやっぱ去年だよね。鬱が酷かったっつーのもあるけどまぁ結局何も分からないじゃんっつーかまぁニヒリズムに陥ってたわけだ。そんな中でオワコンシリーズの認識が生まれて、で、その認識を元にまた色々と読んでる感じで冴えてるんだよね。とにかく。今まで読んだやつでも解釈が変わるだろうし、なんつーかニヒリズムに陥ってないんだよね。あと哲学の呪縛から逃れられたというのが大きいのかなと。最近はだから例の自分の世界っていうああいう話に関係するものってのを軸に読んでてさ、逆に言えば関係ないやつは全然読まなくなったんだよね。で、やっぱり関心が主に意識についてとか主観とかそういうのになってるんだよね。でもよくある哲学的な考察とかは散々読んできたしどうでもよくて認知科学とか生物学とかの観点から書かれたものってのに凄くそそられるんだよね。逆に書斎型の文献ありきの考察とか本当に興味が無くなった。そういう意味で哲学研究とはもう完全に縁を切ったって話かもしれない。まぁもともと哲学研究なんてやってなかったし前から嫌いだけどもう決定的に興味が無くなったって感じだよね。そもそもなんで哲学の枠組みで物事を考えなきゃいけないんだ?って当たり前なんだけどさ、こないだ城さんの書評についても書いたことだけど活字の世界オンリーのロジックってのに本当に興味が無くなった
んだよね。


だからもうあれなのね、やっぱり科学に目が向けられてるって感じだと思う。あとはやっぱり自分が日々生きてて何か感じたこととか考えたことっていうまぁこれが原点だけどまぁこれですよね。で、そういう意味でね、哲学研究とは縁を切ったっつっても俄然と現象学の重要さってのが出てきてさ、しかも認知科学とかの本だとフッサールとかポンティへの言及って必ずあるんだよね。だからまぁ俺が関心があるのは現象学とか哲学とかってことじゃなくて主観とか意識ってことなんだと思う。で、そこからなんで通念とかイデオロギーとか洗脳とかが生まれるのか?っていうさ、結局だからまぁそれは政治学に自ずと繋がるし社会学然りだけど、あとは数学基礎論っつーか数学の哲学だよね。でもこれは選択公理がどうのとかそういう話ではなくあくまで根源的な数学ってなんなの?ってことになるんだよね。で、結局これって言語学とか記号論とかとも関係があって、あとまぁ当然ながら論理学もそうじゃん?ようはカバーする範囲が壮大になったってことなんだよね(笑)コアに自分が知りたいことっていうテーマがあってそれを軸に色々と読んでるって感じだよね。だからまぁ逆を言えば興味がないものの情報は一切入れないから相当偏ってると思うけどまぁそれでいいと思ってるのね。良い意味で他人のことや他人が考えていることがどうでもいいって感じになってるわけ。完全に主体が自分で毎日自分オンリーなんだよね。ノイズが入らないので凄くクリアに色々と考えられる。だからめちゃめちゃ効率が良くなるんだよね。結局これは「自分の世界の構築」になってるんだよね。まぁ自己充足的予言ですな。やりたいことや成し遂げたいことを生態のレベルでプログラミングするんだよね。そうするとそれをやらずにはいられなくなる。結果的に余計なことはやらなくなってずーっと研究に没頭できる。これって最高だよね。


空しさとかが介在する余地がないんだよね。もうそこは強迫観念的でもいいぐらいなんだ。どうせ俺なんて意識がニュートラルになったらネガティブなこととか被害妄想とか余計なことしか考えなくなるからね。そういう意味での没頭ですよね。三昧ですね。それが自分の経験の強度になってる。だからそういう意味でやっぱりこれが一番で前にセックスがどうのって書いてたけどやっぱりああいうのは優先順位が低くなるからやっぱりどうでもよくなるんだよね。ほかの色々なことと比べた時に色々と読んだりするのをやめてやるほどのことがないんだよね。あとまぁ内発的にやってるから疲れないし。なんかまぁそういう意味で脳がオーガズム状態っつーのかな?最近知ったんだけど女ってイクと精液を啜るために子宮が締まるらしいんだよね。吸うらしいんだわ。なんちゅーエロい機構なんだと。で、脳もそういうオーガズム状態にあると貪欲に知識を取り入れようとするんだよね。常にイってる子宮みたいな感じだよね。


本にぶっかけ食らってる感じっつーかなんつーか。で、それって種なんで地頭っつー大地が肥沃だとまたそれが勝手に育つんだよね。で、それが知識っつー統合されたものに形成されていくんだけどそこには常に考えるっていうようは脳っつー大地を耕すっていうプロセスが不可避なんだよね。永遠とぶっかけ食らってるだけじゃただの淫乱でそれを咀嚼してゴックンしなきゃいけない。喉に引っかかったりするかもしれないけどまぁそれも含めたプレイじゃないですか?苦かったりカルキ臭かったりするものもあるけど知識のためならしょうがないこともあるでしょう。そうなると分かりづらい本とかも苦じゃなくなるんだよね。ようはなんでも読めるようになるから読もうと思う本の幅が広がるんだよね。今の俺なら欲している類のものなら何でも理解できるだろうっていうそういうオーガズム状態なんだよね。あとまぁ理解なんて一回読んで内容を要約とかそんなことは必要なくて最終的に理解に繋がればいいんだよね。今読んでるようなことの何かの一部が1年後ぐらいに急に思い出して分かるようになったりしたりもするしさ、ポアンカレじゃないけど無意識っていろんな情報をプロセッシングしてるからね。だからどんどん素材を投げ込んでジューサーみたいにガンガン脳を働かせるっていうそれが一番いいって気がしてきたね。これをやってると鬱になりにくいし無気力とかにもなりづらいからメンタルヘルス的にも凄くいいんだよね。いや、年始から割とずーっと調子いいじゃん?一過性の躁状態ってわけでもなさそうだなって思ってて。なんかまぁエロスを取り戻した感じですね。ザーメンを希有する感じね。やっぱり本当にあれだ、オワコンシリーズからの流れが神的な流れになってるんだよな。そういう流れを考えると去年の酷さとか酷いおかげでゲームに没頭したとかそういう出来事も今の流れへの必然だったって事後解釈できるからね。実際にそうなってるしまぁそれでいいんだよね。


そういうわけで最近読んだやつを貼っとくんで。






山形さんによる痛快なテツガクシャ批判が訳者解説にあるんだけどまぁこういうことですよね。最近の科学とか哲学以外での分野の知識も無しに哲学の文脈だけで何かいろいろやっててもしょうがないだろうっていうまぁそれを山形さんは重箱の隅をつつくような研究って言ってるけどまぁそういうのなるべく読まないってことですね。ああいうのは本当に毒だから。あとデリダ道元を比較してみたりとかああいうのも毒だからダメだわ。毒が多いんだよな。哲学系の本って。それを見極めないとダメだわ。そういう意味でポストモダン系も毒だらけなのは言うまでもないね。