善のザメンティクス。

世界の話だけどね、全部を還元するわけではないんだけどほぼスピノザでしたね。個人なんていう何かから完全に切り離された存在なんてのがありえないっていう前提もそうだしさ、いや、ここでね、自分の世界での価値の創造っつーとやっぱニーチェっぽいのよ。まぁあえて言うならニーチェって感じになるけどさ、いや、俺が言ってるヴァーチューとしての価値ってことなんだけど、これって他の世界と切り離された個人が勝手に価値を創造するってなると全然ダメで、そりゃ当然社会とか自分が物理的に存在している場所とかっていうそういうのありきじゃない?そういう意味で俺はそのなんつーかこの世界の話を結果的に個人から社会とか全体へ広げたいって思ってたんだけど単純にそれはスピノザが言ってましたってことだったわけよ。まぁスピノザが言ってたっつーかあれか、まぁ俺の解釈でいいんだもんね。この世界の話とスピノザの思想に関連性があるからスピノザを出してるっていうまぁそれでいいのか。


ようはスピノザって喜びを最大限に引き出すような生き方をしろ!みたいなことを言っててさ、で、それはまぁある意味でニーチェとかも一緒じゃん?ディオニュソス的な。でもスピノザの場合、それが倫理の立脚点だって言っててそれがすげーいいんだよね。だから悪なのはその喜びを阻害するようなものとかってことになるんだけどまぁ今の日本はそういう意味で悪ですよね。完全に。倫理的に悪でしょ。そもそも生きづらいって感じることが倫理的に悪なわけだから。逆にニートでも金持ちでも自分がハッピーに生きててそう振る舞っているってことであればとりあえず善いことなんだよね。ようは悪いのが暗く生きるとか陰気に生きるとかさ、ようはそういうのがルサンチマンを生み出してメシウマ社会を生み出すわけじゃん?自分が幸せな場合、メシウマなんて感覚はないはずだからそんな感覚がある社会は基本的に悪でメンタリティが最悪だってことですよね。


でもこれはなんつーか根深すぎるんだよな。なんでこんなに日本人って根暗で陰気なやつが多いんだろう?ってやっぱり現実性を考えると明るく生きるっつーかバイタリティあふれた感じで生きるってのがようは個々がアトムとして生き生きと生きてるわけだから結果的にそれが周りに影響を及ぼすってことじゃん?それの全く逆ベクトルなんですよね。日本は。これをどう実践するか?だよね。っつっても根暗で陰気なやつが多いっつーのがデフォなんで変えるのが難しい。だからやっぱり自分がまずそういうのをやめるとか見ないとか影響されないとかってことでまぁ自分の世界を作るしかないってことになるよね。でもそこで窓がないモナドになるんじゃなくてスピノザ的に善い主体であれってことになるわけだよね。その良さを伝達させるしかない。ミームなんて概念もあるけどようはこういう根柢のレベルで書き換えないと無理なんですよね。だからこそ変えるのが無理だからハッキングしかないってことになるわけだ。ほかの人にそれを求めるとか啓蒙するんじゃなくて自分がそう振る舞うことでそのミームを伝達させるしかない。つまりはDNAレベルで社会の倫理を書き換えるってことだよね。でもそれはチェンジじゃなくてハッキングという感じなんだよね。


あとあれだ、周りが腐ってても自分が腐る必要はないわけだ。そういう腐った場所にしかいられないんだったらとりあえずそういうのと接しないようにするっていう考え方だよね。まぁこれはイメージ的に汚染なんだよな。生の肯定が出来ないような雰囲気ってのは汚染なわけだよね。それを浄化するには完全に腐ったやつは切り落としていくしかないわけだよね。そういうわけでやっぱり闘争的になるしかないっていう帰結になるわ。ここで思想の力!とかいって今こそ愛を!なんつっても完全に腐ったやつってそれが理解できないじゃん?あいつらのヴァーチューが嫌がらせをすることだったりするわけで変えようがないんだよね。でもそういうやつらは多い。で、そういうやつを環世界から外していくってことをやっていくのはいいことだけど最終的にやっぱり社会ってことに帰結するわけだから領土争いになるよね。すげー単純な図式でスピノザの倫理を実践する人と反対のことをする悪とって感じで。いや、何がいいかってこの単純な図式だよね。何しろ分かりやすい。結局要約しちゃえば善と悪の領土争いなんだってことなわけで、そういう意味でスピノザの思想はめちゃめちゃ使えるな!って思ったのね。


社会的なんだけどもでも攻撃的な感じはやっぱりニーチェなんだよね。やっぱりそこで暴力は絶対に必要になるでしょう。まぁあとは別に物理的暴力じゃなくても争いは避けられないよね。争いを避けようとするからいつまで経っても何も変わらないわけだ。倫理的であるからこその争いごととか暴力って必要なんだよね。俺が例の教育長襲撃事件を評価してるのもこれだもん。法的にアウトなのと倫理的にアウトなのは全く別じゃない?襲った人は法的にはアウトだけど倫理的には正しいことをやったわけじゃん?まぁだれもそんなこと言わないだろうから言うんだけどさ、なんかそういうのを正しいって言えない風潮っつーのかな?もっとそこは根本的な倫理に則って考えたほうがいいんだよね。確かに法的にアウトなのは怖いけどでも結果が今の社会じゃん?法的なものを金やら権力やらで操作してて雁字搦めなわけでしょ?で、非倫理的なことがまかり通ってて毎日100人ぐらいが自殺で死んでるっていう。何が正義なんですか?ってことだよね。そこで俺はスピノザの善というのが凄く便利だなということに気が付いたのね。根本的な概念は難しいけど要約すると凄く簡単で伝わりやすいってのがポイントだわ。あと「スピノザによれば」っつー人文系の武器とも言うべき「ソース」を持ってくることでの権威みたいな(笑)


プラトンソクラテスでやってたことですよね。で、さらにレオ・シュトラウスプラトンとかマキャベリでやってたことだわ。んでもまぁ大方の人が納得するでしょう。善とは活動力なんだってようは生きたいって思えるような生だよね。これを善としようってことだわ。だから逆に生きづらいとか活動力を著しく低下させるようなものは悪なんだよね。すげー単純でいいよね。でもこれはそもそも俺の原則なんだよね。でもスピノザは大胆に善悪をこんな感じで定義してたりするわけで、なっかなかラディカルですよね。現代思想で再評価されるのも頷けるわ。でもまぁ現代思想とかだとまぁようはネグリとかドゥルーズじゃん?で、まぁ結局何がいいたいのか分からないのと共同性なんてのはそもそも悪がはびこっていては無理でしょうってことでだからいつまで経っても実行できないわけだ。ただの理論なんだよね。そこで俺が言いたいのは実行せよ!なんだよね。自分の中で当然モラルの範囲で自分の活動力とか生きたい!って思うようなことそれ自体を善として生き生きと生きることでその振る舞い自体のミームをばら撒くっていう良い細菌テロですよね。テロじゃないか(笑)


でもまぁテロぐらいの勢いでやれってことなんだよね。そうじゃないと変わらないから。これって実行したら倫理的ですけど最高に反社会的にもなりうるんだよね。それでまぁどっちを取るか?なんですよ。ようは。そこでヤバいことが言えないから適当にごまかしてるんだよね。みんな。別にだからそれは倫理的な原理を突き通せ!ってことじゃんね。それでいいじゃん!って思うんだけども。逆にこれって究極の選択だよね。社会的にオッケーってことが実はすげー反倫理的なことばっかりででもメシのためにそれをやらなきゃいけないってなんかさ、アウトレイジこないだ見直して思ったんだけどまぁようはやくざと一緒だよね。やくざが悪いことをしてるかしてないかって自覚があるかとかそういう話ではなくて反倫理的なことを飯のためにやらなきゃいけないんだよね。それ以外に食う道がないから。生存と倫理ってのが秤にかけられてて今はみんな生存を選んでるんだよね。で、結果的に保身ばかりになって実際は社会がどんどん死んで行って人もどんどん死んで行ってるっていう。これで出生率の低下とか当たり前なのよ。そんなところに子供を生み落そうとは思わないでしょう。産み落とすのはDQNか金持ちだよね。


レヴィットがヤバい経済学の中で同じようなことを書いててさ、表面的に見れば黒人差別に見えたりもするんだけどデータに基づいて「黒人の中絶を許可したほうが犯罪率が減る」ってことを言ってるんだよね。そりゃ当たり前だよな。すげー荒んだ環境でノースキンノープランで出来ちゃった子供がそういう環境で育ってギャングになるぐらいしか道が無くてギャングになるんで結果的にギャングの構成員を増やしてるようなもんだからってことでしょ。DQNみたいなやつばっかりが子供をポンポン産み落としたら犯罪率が上がったりロクでもないやつの人口比率が多くなるってそんなの当たり前ですよね。別にそれは黒人だからとかじゃなくて日本人のDQNも同じわけですよ。そこでそんなの暴言だ!というのが社会的な発言なわけでしょ?実際は犯罪率が増えるとかリスクが増えるとかロクなことにならないのに人権だ差別だなんだっつってそれがPC的にオッケーで社会的なわけだ。で、今俺が書いたようなことを言えば差別になって人権を踏みにじってるみたいな反社会的な発言になるんだよね。でも実際は平和な社会になるべくするっていう倫理的な前提に立ってるわけで、どっちを選ぶのか?って言ったら倫理的なほうを俺は選ぶわけですよ。


サンデルの正義について考えよう!みたいなのもようはこういうところがネックで喧々諤々やってるわけだけど全部邪魔してるのがこういう意味の分からないタブーだよね。倫理的なのに「それを言っちゃダメでしょ」的なことが多い。哲学ってのはそういうのをお構いなしにズバッ!と言っちゃうってことだよね。だからサンデル先生の講義に出ようが弟子になろうが哲学者になれるわけじゃない。哲学者ってのはようは気質なわけよ。いや、そんな通念なんてどうでもいいどころかむしろ悪でしょって言うのが哲学者なんだから。こういうところでアカデミックな使えないクズみたいな言葉遊びの哲学と実践の哲学ってのが分かれるんだよね。いや、哲学なんて実践できなきゃただのゴミでしょう。だから偉大な哲学者たちの教えを学んで実行しよう!ってことですよね。それの実践をするってことですよ。でもそれをやると生きていけないってんじゃあそういう人が生きていけない社会ってなんなのよ?ってことになるじゃん?だからもうそれは悪の社会としか言いようがないよね。洗脳でもなんでも実際は酷い社会なんだけどみんな幸福を感じてればいいよ。今の日本って人間の活造りみたいなもんだからね。すげー苦痛を感じててそれでも殺されないしでも生きてようと思っても希望もないしひたすら痛みが続くっていうさ、それが続くんだったら武士の情けで切り捨てるってのがこういう場合は倫理になるよね。だから自殺っつー選択肢が凄く人間の尊厳を守れる方法になっちゃってるわけだ。もうこれは事実でしょ?もう何十年と変わってないんだもん。で、国は何もやる気がないわけだ。毎日100人自殺してんのに。


だからなんかさ倫理の鉄砲玉みたいなやつがいてもいいと思うんだよね。すげー無茶をしたりするんだけど悪なんじゃなくて善でそれをやってるっていうさ、まぁ下手すりゃ独善的になるしオウムみたいなことにもなりかねないけどでもそんなのは鉄砲玉をやる資格はないわけだ。俺的に言うとさ、ニーチェって俺はダイナマイトだ!っつってまぁ結構激しいテロとか戦争にもつながりかねんな!っていう危なさがあるとかって言われるじゃん?実際にナチスに利用されたとかって言われたりするけどさ、スピノザのほうがよっぽど社会的に危ないよね。良い意味で(笑)人畜無害どころか「喜びを最大限に味わうように行動せよ」っつってるわけだからもう普段そうしてなさいってことを命令してるんだよね。だから圧政があったり今の日本みたいなガチガチの社会にとっては凄くsubversiveなものになる。


ネグリスピノザのやつは読んだことないけど恐らくこんな感じだと思うんだよね。大抵俺の場合、何かを読もうと思った時は今回みたいな感じで自分が先に行きついていて、んで「こうに違いない」って思ってて読んでみたらまぁやっぱそうだったっていうそれで考えが強化される感じなんだよね。まぁそりゃ考えたのはネグリが最初なんだろうけど似たような筋を自力で辿っていくってのが大抵自分の場合あるわけね。逆にこれがないとあんまり心に響かないわけだ。そういう意味でネグリスピノザのやつは俺なりの予想がついたけど読んでみようと思ったんだよね。もう筋が読めるっつーか自分で到達してるから読むのが楽なんだな。「こうこうこうじゃない?あ、これってネグリが書いてそうだな」っていうこういう順番ってことね。


まぁようは善のために倫理のために抵抗をするとか戦うとかまぁ人間にとっては本来当たり前のことじゃないですか?でもその倫理を差し出して食えるってことに執着させる結果、最低の社会に成り下がってるんだよね。誰が意図的に洗脳してやってるわけではなくて流れでそうなっちゃってるんだよね。それがもう惰性になってて永遠に変わらない。今後また10年とかこれでやってくわけ?って思うんだよね。どういう心情なんだろうか?って。だからまぁ俺はそうは見えないかもしれないけど必死なんですよ。マジで。だから誰でも理解できるような簡単な原理とかドクトリンみたいなのを作ってそれをいろんなところで実行してもらいたいんだよね。まぁそういう態度でニートやってますよっつーやつはそれでオッケーなわけ。俺が今の日本にとっては宝だっつータイプのニートは自分の生のために喜びのためにニートやってるやつらだよね。行動はできないけど社畜になるぐらいだったら死んだほうがマシだって真剣に思ってるならもうそれは善のミームなんですよ。汚染されなくない!っていうむしろ生存本能から見て当たり前のことをやってるだけですよね。


俺の冴えわたる頭のおかげでかなり一瞬で自分なりの答えが出ちゃったね。年始に「そんな感じのことを考えていきたいと思ってる」っつーのがもう完成しちゃった感じだわ。まぁこれで終わりではなくてもっと考えていくけどまぁすげー生産的ですよね。人間らしさを生産してるわけだからこれ以上の良い生産はないでしょう。本当に。で、ブログって書いちゃえば残るから本当にいいよね。まぁこれも俺なりの生存本能なのかもね。こうやって書くことで遺伝子を残そうとしてるみたいな。だからまぁ子供を作らない代わりに自分の遺伝子はもう完全にあれですよ、ここに残しますよ。ここを今まで通りザーメンまみれにします。で、やっぱりそれは遺伝子だから日々の行動原理に影響するようなものほどザーメン度が高いんだよね。そういう意味で今日のはすげーザーメン度を意識して書いたとも言えなくもない。より多くの人が受精して人間らしい人間を生んでくれることを望みつつ。まぁいわばこれが生成なんですよ。一応俺なりに今読んでるbiosemioticsとかも踏まえた話になってるんだけど。まぁまだ読んでる最中でまだいろいろ書くつもりだけどね。


ってことでんじゃまた。