完全なる心の世界。

最近思うのはさ、ロジックによって明らかであるみたいなことがゲーデルとはまた別の意味で割ともっと素朴な感じで明らかなのはなんでなの?って思うってことなんだけどね、アプリオリ自然数があってそれを足していくと無限になるっつーかまぁこれは考え方が間違ってるよねっていうかまぁこの自然数と無限は関係ないってことなんだよね。あくまで無限の存在を証明するために例えば自然数を永遠と1+2+3+4+5...って足していくんであって、自然数から無限の数のシステムみたいなのが生成されるわけじゃないよね。ようはこの順番なんだよなぁー。まず自然数を想定するっつーか原始的に自然数を想定するっつーのもあくまで人間の直感っつーか人間にとって自然なものだからなんだよねってだから自然数なのかなんなのか分からないけど数学にとっちゃーそんなもん関係ないじゃん?あくまで人間から見たときの順番だよね。でも実際は全く順番は無いわけで。演繹ってだから胡散臭いんだよな。公理然り。俺が背理法を嫌うのもそれなのよ。


ロジックに反しているからといってもその問題のファンダメンタルな部分は見えてこないっつってもまぁ色々あるけどね。いや、端から背理法狙いのやつとかってもう考えてないじゃん?色々とやった末に矛盾が出てきたらそれもまぁ背理法と言われるけどなんつーか具体的な理由が見える背理法と端から背理法狙いのやつって違うよね。特にエレメンタリーな数論の証明とかって本当にどうでもいいのが多くてさ、やっぱり抽象度が上がると一気にエレガントになるんだよね。抽象性=エレガンスではないんだけど、ただ相関関係はあるね。ようは直に何かを表すというよりかは構造的に大局的な感じでそれが示されるっていう感じだよね。


あ、んで話を戻すとさ、まぁなんとなく思ったのはさ、いや、俺はまず順番が嫌いなのよ。とにかく俺はロジック嫌いなので。数学はロジックだ!なんて絶対俺は認めないね。それは結果的にロジックで証明できるんであって、それはようはロジックで表すというだけなんだよね。だから数学そのものがロジックなわけではない。小説は言葉だ!って違うでしょ?詩なら言葉と言えるかもしれないけど文学とは言葉であるってこれはまぁ諸説ありそうだけど文学とはリアリズムであるとかなんだとか色々あるわけじゃないですか?ようは全部言葉に還元するのは乱暴ですよねってことだよね。言葉の表し方が絶妙なのは作家の力量でそれは作家のアーツじゃないですか?文学=言葉じゃないよね。作家が操る言葉や文章や表現っていう総合的なものが恐らく文学なわけでしょ?それって数学も同じなんだよね。だからようは数学はロジックだ!って言うなんて文学は文法だ!って言うとの同じぐらい野暮ったいわけよ。


いや、情景なり心情なり場なり雰囲気なり風景なりってのが言葉で表されるわけでしょ?文学は。言葉が風景を表すんじゃなくて作家が使うアーツによって言葉という媒体を通して風景が表されるんであって直じゃないのよ。岡潔が言う情緒ってのはようはこういうことなんだよね。文学に置き換えると誰でも分かる。でも数学で情緒となると何なの?それ?ってなるんだけど、数学がある種のパースペクティブであったり風景であったりすればそもそもそれには人間の感情が介在してるわけだよね。もちろん結果には感情なんて付きまとわないけど数学をやっている人には心で数学をやってる人もいるだろう。で、俺がすげー嫌なのはcold bloodedなロジックでやる数学だよね。学校でやる数学がなぜつまらないのか?ってようは心が無いからですよね。だから誰も好きにならないしむしろみんな嫌いになる。有名な数学者なんかでも大学の授業はドライですげーつまらなかったって回想してる人結構いるもんね。俺が前に書きたかったのはなんつーか心があるテキストを読め!ってことなんだよね。百科事典的なのは心が乾くだけだし絶対退屈だからやめろって感じなのよ。なんつーか小説を読むように数学書を読め!ってことなんだけど、でもそれはなんつーか逆で小説のように読める数学書を読むべし!だよね。


あ、んで話を戻すとだな、その例の順番なんだけども、色々と公理があったりあたかもスタート地点であるように見える数学の定理なり証明なんだけど、スタート地点というのは理解するうえでのスタート地点なんであって、そこから数学が生成されていると思うのは大間違いなんだよね。元々数学はあるわけじゃん?別に自然数から始めなくたって自然数と同じように原初的に無限という概念も存在するわけだ。まぁ無限は数じゃないから同じにはできないんだけどまぁ抽象度を上げて数も概念であるという観点から言うと数も無限も原初的に存在するものだよね。んでも数の場合、卑近なので説明が容易だし、あたかもナチュラルに理解できるように見えるわけだよね。まぁ子供でも理解できるっつーかなんつーか。でも存在自体の階層みたいなのは存在しないんだよね。便宜的に階層を設ける場合もあるし方法論的に設けないと定義できないものとかがあるにせよ本質的に概念という意味では全部イコールなんだよな。その全体性が数学なんであってまぁ人間にはその全体像は永遠につかめないって感じだよね。んでもまぁつかみたいわけだ。そのつかみたい!って感覚がまさしくエロスだよね。


いや、ようはさ、何々により何々は明らかなので何々は何々であるっつーまぁこういう説明ばっかじゃん?クソみたいなテキストほどこういう説明しかしてない。いや、なんつーかリニア過ぎるよね。リニアなロジックにより明らかであるってロボットじゃないんだから。実際に見えてる人たちっつーのは先に帰結なり風景が見えてるんだよね。ポアンカレとかそうじゃん?で、あとは説明のために数学的にそれを記述するだけで全然苦労はいらないと。ようはそれが見えるまでが大変なんだっていうさ、それが心でしょう。ロジック云々ではなくピュアな概念っつーのかな?哲学もそうじゃん?哲学ってすげー言葉に惑わされるけどさ、あとは言葉によって自由を失ったりするけどまぁそれの行き着いた先がポストモダン哲学だけどまぁ元々はすげー概念的なものじゃないですか?それを言葉で表してるわけだ。まぁんで結果的に超難解になってたりするんだけど。


んだからなんつーかその表された言葉とか哲学用語について執拗にそれにしがみつくってのもおかしな話なんだよね。概念のレベルでは全部イコールなのに哲学用語ってようは有名な哲学者が定義した権力がある言葉じゃん?それにすがり付いている限り文句は言われない的なさ、だからまぁ哲学研究ってただの文献学になるんだよね。あとはまぁドゥルーズみたいな過去の哲学のカットアンドペーストね。まぁようは順番なんて無いわけですよ。別にプラトンのエロスとかイデアとかはたまたキリストのアガペーだとかなんだとか、そんなもんに権力はないわけよ。でもどうしても西洋哲学は権力があるんでそのパラダイムで考える=哲学するみたいなことになりがちだけど、これは大きな間違いですよね。九鬼周造なんかももともとイコールな概念として存在した日本的な概念をただ西洋哲学的にまとめただけだみたいな批判があったらしいけどまぁ正鵠を得てますよね。西洋哲学のパラダイムなり言葉で表せたらそれがゴールなのか?って明らかに違うでしょう。東洋哲学然り。


東洋哲学を学者が西洋哲学風にまとめたところで何にもならないどころか特に原始仏教や禅なんかでは言葉によってニュアンスが変わってしまって全然伝わらなかったりするわけじゃん?日本語ですらも間違いが生まれるぐらいのものなんだから。いや、禅の本なんかを読んでるとそのピュアな概念っていう感覚が凄く分かるんだよね。言葉にすると語弊があったり「ではこうなんですね?」とかってロジカルな方向に持っていきがちだけど「分かる」ってことは必ずしも演繹による論理的帰結とは限らないんだよね。いや、この演繹による論理が全てだ!って考えるのって分析哲学とかにありがちだけどなんつーかラッセルなんかそういう意味で本当にクソですよね。あれだけの頭脳を持ちながら全く心が分かってない。だからプリンピキアみたいな無謀な挑戦をしてみたり論理的原子論みたいな馬鹿なことをやったりするわけだ。これじゃあいつまで経っても何かが分かることなんてないよね。むしろ概念から遠ざかるのがこういったラッセルみたいな思考法なんだよね。


そうそう。ようはこの悪しき順番って考え方ね。こうでこうでこうだからこうであるってまぁそりゃいいんだけどさ、それは部分的に使う論理的思考なわけじゃん?それが全てなんておかしいよね。全部論理から考えるのか?って全部論理頼りなんて馬鹿でしょう。思考せずに論理に頼れば何でも分かるなんて錯覚する考え方なんだから論理的思考って場合によっちゃーいいけども思考をするっていうときにはむしろ捨てなきゃいけないよね。ピュアに概念的に考えるんだよね。結果的に論理的だったかもしれないけどそれは論理を気にしてるんじゃなくて概念について考えるという中で論理的思考を部分的に使っているというだけなんだよね。だからそれをあたかもAから始めて終わりのDにたどり着いたみたいな順番で考えちゃ駄目なんだよね。元々Dという結果はあったけどそれが分かるまでにAからのスタートを必要としたってだけだよね。間違ってもDはAという想定から得られたものだなんて考えちゃ駄目だ。まぁ推理とかね、本当に論理が全ての世界ならそれでいいのよ。でも数学って違うじゃん?哲学も違うよね。AからDが得られたってのは錯覚なんだよね。Dは元々存在したんだけどAからの道を経ないと分からなかったっていうことなだけじゃん?だからAからB、んでBからCっつーのも同じレベルの概念であるってのを分かってないと錯覚に陥るんだよね。


だからそういった意味で原始的とかアプリオリであるってのは結局どういうことなのか?ってのが問題になるんだよね。20世紀初頭の論理至上主義みたいなのは脱形而上学というよりかはそういう分からないもんが嫌なんで全部論理に還元しよう!っつってあたかもそれで解決したかのように振舞うっていう思考停止だったわけだよね。で、あと後世に貢献があったか?って分析哲学って基本クソだからなんか全然何の役にも経ってない気がするよね。論理で考えるのがラッセルなら数学的に考えるってのはフッサールだったと言えるよね。結果的に本当の意味で数学的にピュアな概念という意味で思考されたものが現象学っつー深遠な哲学の創造に繋がったわけだ。まぁかといっても現象学が科学だとは言わないけども認知科学なんかと相性が良かったりするのも結局は思考の厳密さだよね。んだからなんつーかフッサールは厳密な学としての哲学ってのを打ち立てたかったんだと思う。でもその野心はすげー分かるね。だから余計に論理至上主義みたいな馬鹿な世界が嫌に思えてくる。


あとさ、ペアノ・フレーゲカントールとかってまぁカントールをそこに並べるな!って感じだよね。フレーゲとかってまぁ論理至上主義とは言わないけど論理でやってた人じゃん?カントールは違うわけですよ。デデキントなんかもすげー概念的に数学をやってた人なわけだ。だから数少ないカントールの理解者足りえたんだと思う。ゲーデルも最初は論理的なものから始めて結果的に極めるにあたってピュアな概念の世界に没入していったわけだよね。それをディレクションのミスだなんていうのは容易いことだけど、ゲーデルにとっての関心は論理じゃなくて概念だったんだってのはまぁそりゃー色々読めば分かるわけですよ。だからまぁ論理学者とされるのがちょっとあれだよね。


ゲーデル現象学に関心を寄せてたのも死ぬほど分かるよね。いかにピュアな概念の世界に没入していたか?ってことなわけで。あと現象学と数学で言うとGian-Carlo Rotaだよね。論理ではなくreasoningってのが背景にあるっつー人たちね。reasoningってのをそのまま論理だって思ってるのがまぁ馬鹿なやつらなわけだ。ようは心が無いやつらね。意味で言えばゲーデルほど意味ってのにobsessiveだった人も滅多にいないと思うんだよね。そういう意味ですげー哲学者だったと思うんだよね。言葉で表せないようなreasoningとmeaningの世界を彷徨ってた人なんだよね。で、やはりそこは数学者なので適当な造語とか専門用語ではぐらかしたりするようなことをしなかった。まぁだから結局論文が書けなかったのかもしれないけどっつーとまぁちょっと高く評価し過ぎかな?ただまぁすげーphilosophers philosopherなんだよね。ゲーデルって。肝心の同世代の哲学者の多くが持ってなかった哲学的な心ってのを持ってた人だよね。それは持ってたのか心が分かってたのか分からないけどまぁ心は心だから同じですよね。


かといってもそれをね、言葉に出来ないようなreasoningであるっつーことで安易に仏教とか禅と結びつけるのはアウトなんだよね。なかなか言葉にし辛い凄まじく概念的なものであるという点においては共通してるけども何しろ内容が違いすぎるわけで、言葉にし辛いってところだけにフォーカスして言葉にし辛いものと禅とか仏教を結びつけるのはアウトね。でも分かり方に共通点はあるんだけどね。禅でも公案とか逸話を聞いただけじゃさっぱり分からない。あとは言葉だけ見ても全然分からない。でも色々と考えてみてそれ自体が本当に分かると一気にゲシュタルトが崩壊するんだよね。良い意味で崩壊する。数学然り。同じ数式でも数式の見え方が認識のレベルによって全然変わってくる。この体験がたまらないから永遠に続けたいと思うんだよね。発見とか創造って大抵こういう感じじゃん?似たようなものや組み合わせれば答えが出るようなものが分かっていないときには全く意味を成さなかったりただの断片にしか見えない。でも発見したり分かったりすると色々と繋がってバラバラだったものが体系っぽく見えたり構造っぽく見えたりしてさ、で、その「見え方」ってのを提示することで「おー!そういうことだったのかー!」って分かってなかった人にも分かるようになるんだよね。すげー専門的なものでも細部にこういうところがいっぱいあるんだよね。ディティールは大体つかめてても肝心なところがつかめないと結局は分からない。逆にディティールはあんまり分かってないけど肝心なところがつかめてるとあとはもう楽なんだよね。数学的センスがある人ってのはこの肝心なところをつかむのが異様に早いって気がするね。


ってことなんですけどね、まぁ結構逆説的で面白いんだよね。論理的であるってかっこよくてソフィスティケートされた感じがするけどそれだけだと一気に野暮ったくなる。「分かる」ってことって論理じゃないってのは日本の文化にあるような茶道の精神とか武士道の精神とか禅なんかもそうなんだけど、肝心なところが凄く人間的な心にあるんだよね。コアが情操的なものにあるっていう。なんつーんだろう?例えが一気に下世話になるけどさ、パーティーを楽しむっていうこの楽しむっていうのはもう根本的なプリミティブなenjoymentじゃないですか?そこに「人脈を得るため」みたいな理由があると一気に野暮ったくなるわけだよね。そういう意味でプラグマティックであったり実利的であるってーのは野暮であるってことと表裏一体なんだよね。あとはなんでも損得で考える思考法とか、まぁ俺に言わせればこんなのみんなラッセル族ですね。こういうのって俺が普段から言う強度ってことと凄く関係してくるんだよね。で、今の実感で言えば実利なんかと離れたところにしかむしろ強度ってのは存在しないって思うなぁー。実利って根本的に金を儲けるっつーただのシステムの話じゃん?それ自体が楽しいって人はいいけどそれ自体はただのシステムとかメカニズムでそれをクリアしたところで何にもならないって気がついている人にとっては何にもならないんだよね。まぁクリアしてるに越したことはないんだけど。


んでもまぁこれって明治とかのロマン主義とか近代的自我みたいな問題ではなくてっつーか根本的に同じには見えても違うよね。むしろこんだけのニヒリズムやペシミズムを感じてたら近代的自我なんて言えないでしょう。ましてや先人たちの挫折もあるわけで。どう生きるか?っていうと絶対話は近代的自我の問題になる。そうじゃなくて俺の場合、何かにおいて絶大なパフォーマンスを発揮することでそれと一体になるみたいなことなんだよね。それが俺が前から言ってる何かを極めるっつーことなんだよね。全然それは実利とかけ離れててもいいわけ。強度を得るためのものだから。んでもまぁ結局これってすげー精神力がいることなんだよね。ただ生きるだけでいいって人には全然向いてないやり方なわけで。まぁ俺みたいにただ生きるだけが苦痛な人がやるべきことだよね。今のところ俺にはこれしか処方箋が無いように思えるんだよね。まぁ東洋的な「道」っていう概念かもね。ただひたすらそれに打ち込むっていうことに生きがいを見出すみたいな。


で、朗報なのは脳科学なんかで分かってることは元々の才能はともかくとして何かにおいて絶大な能力を発揮するっていうことの背景には凄まじい訓練の時間があるってことね。ようは凡人でも心を決めて何か一つのことに取り組めば極められるかもしれない!っていうのが割と科学的にも立証されてるってことなんだよね。まぁそれに取り組めること自体が才能なんだって言われればまぁ確かにそうで無い人には無理な話なんだけどね。だからこそあれじゃないですか、やっぱり何か見つけないといけないんだよね。俺の場合、何かを極めるっていうことになってるけど、別にこれだけじゃなくて他にも家庭を持つとか天職を見つけるとかなんとか色々あるよね。その人にとっての「何か」って千差万別なわけだ。だから正解があるわけじゃない。だからまぁあれなんだよね、それがエロゲーであれアイドルであれなんであれ没入できる何かってのを持ってる人は基本的に最強なんだよね。オタクが最強なのはまさしくこれだって昔から書いてると思うけど、まぁ改めて思うよね。これこそまさしくピュアな概念ですよね。論理とか実利とかではない完全なる心の世界じゃん?だからまぁ見つけたもん勝ちですよね。


ってことで今日はこの辺で。