「肝心な所」について。

概念と存在の違いってさ、まぁ難しいんですよ。今はちょうどそういうことを考えてたわけで、そんなわけで「耳蝉さんが言う概念って何ですか?」って質問をkitakamiさんからいただいて本当にストライクなんですよね。まぁあれだ、答えありきなんじゃなくてまぁ色々と考えてた過程を書くかって最近その考える過程を書いてない気がするね。なんか色々と分かったら書こうみたいな、いや、そのプロセスを書くのが重要なのにやってないんだよね。これはイカンという感じなんだけど。まぁんであれだ、過程を色々と書くか。いや、まず今のところの帰結を書こうかな。まぁちょうどこういうことを考えててさ、いや、ピュアな概念っつーのは死だとか無限だとか無みたいなことだって書いたけども分かりづらいっつーかまぁ分かりづらいのが概念なんだけどさっつーか分かるってもんじゃないんだよね。


で、もっと他に無いか?ってことで思ったのがイッた後の賢者タイムってあれは概念だよね。イッた後に感じるあの賢者感というのは男にしか分からないんだけど、でも別にその状態が医学的に名前がついているわけでもないからネット用語で賢者タイムっていう名前がついたんだけど、これってまぁようはラベリングっつーか名指しできる用語を作ったってことだよね。でもそれは当然、賢者タイムという言葉が使われる前から当然それはあるわけだ。でもそれは概念というよりかは感覚なわけで、ようはイッた後に感じることでしか分からないことなわけだ。でも男はみんな知っている感覚なんだよね。ようはその感覚という経験が概念として留まるわけだよね。それで言うと同じにするかどうかはあれだけどトラウマなんかもまぁそういうことだよな。でもそれは個々によって違うものだし、んでもまぁ色んな一般性があるトラウマの条件みたいなのがあってそれに合致するものはトラウマと言われるわけだよね。


それで言うと鬱もそうなんだよね。明らかに見える症状として他人が分かるものではないから患者がその症状を言葉で表現することでしか伝えることができないわけだ。で、これもトラウマと同じで個々の鬱というのは違えど一般性がある大きな共通点みたいなのがあって、まぁそれを基準にして鬱っていうのを規定しましょうみたいな恣意的な区切りだよね。いや、鬱は甘えとかさ、そんなもん存在しないっつーかそんなもんやる気次第でなんとかなるみたいな精神論が出るのもまさしくこれが概念的なものだからなんだよね。いや、実際は違うんだけど。特に俺みたいな難治性の場合、ただの脳機能障害なんだよね。これとは別に職場やら学校やらっつー環境によってなる鬱もあるし色んな鬱があるけどとりあえず一緒くたにして鬱と呼びましょうってことなわけだ。んでもまぁ例えば俺から言わせれば完全にフリーの状態でもあっちから勝手に来る鬱っつーのはさ、環境的なものと違うじゃん?


ようは療養所にいても鬱になるみたいなことなわけで、そりゃまぁそうだわな。脳機能障害なんだから。でも環境が原因の場合はそりゃストレッサーを抑えれば治るものが多いでしょう。んでもまぁそんなことは無理なんだよね。大抵の場合、ストレスに晒されるからそれを無化するものとか無理やりセロトニンを出して人格を変えてまで社会に適応させるってことなんだよね。鬱が治るってのは社会に復帰できるということだなんて定義してる医者もいるぐらいで。こんなのまぁ当然俺は同意しないわけだけど、んでもまぁ人によって鬱の規定が違うんだよね。感染症だの肺炎だの高血圧だのってのは言わば現象だよね。原因がウィルスだったり生活習慣だったりして、まぁその結果、そういう症状が出ていますっていう、だからこそなんつーか存在が規定しやすい。誰も高血圧は甘えなんて言わないでしょう。まぁでも俺に言わせれば鬱も同じようなものなんだけど、鬱は甘え的な意見があるのはまさしくね、鬱が高血圧や肺炎と同じぐらい即物的なものなのにも関わらず概念的なものとして捉えられているから誤解を生んでいるっていう。


なんか最初に書いてたのと違うな。いや、俺はトラウマも鬱も凄まじく即物的なもんだと思ってるよ。でもその症状自体は概念的じゃない?イッた後の感じは誰も否定することが出来ないような絶対的なものなんだけど、鬱とかはみんながなるわけじゃないからそんなもん無いっていう人も出てきたりするわけだ。まぁ逆説的にみんな鬱になれば鬱が分かりますよね。まぁそれは無理なんだけど。かといってもなんつーかあれなんだよね、状態を表すというものでもなくて、独特の感覚的なものなんだよね。まぁそれも全部解剖すればさ、鬱も脳のこの機能が今は低下してるんでこういう症状が出てますってまぁようは現象に還元できるじゃん?まぁ普段それができないからわからないだけで患者の頭で起こっていることは物質的な現象だよね。それが知覚されることで意識がその存在を認めるっていうか、「あーまた来たな」って分かるんだよね。これってある種の暗黙知とか経験知とかと同じだと思うんだよね。鬱ですって言われてそうなのかって思ってまぁ色々読んだりしてその症状を客観的に観察する自分ってのが居たときに主観に埋没せずに「あーまたこういう状態になってる」ってことが分かるんだよね。この分かるって形式知ではないじゃん?鬱の諸症状を頭に叩き込んだところで鬱の症状のあの感じが分かるわけではないのと同じだよね。


これって数学でも一緒で数式で表せるからといってその存在が担保されるわけではないみたいなことなんだよね。それはようは立つ視点によるってことでまぁ何を公理として認めるか?っていうことになる。んじゃあ公理って何なのか?っていうと突き詰めれば原始的なことみたいになるけどさ、いや、1+1=2的なことね。でもこれ自体は算術的な事実だよね。算術的な事実と数学的実在ってのは違うよね。まぁ多くのものは結果的に算術的な事実として証明されるから数学的実在というか数学的存在みたいなのが担保されるように見えるけど、でもそれは証明されたから存在があるのではなくて、証明されるだろうものに関しての存在自体は算術的事実とは関係ないということだよねっていうかまぁようは独立しているということなわけだ。まぁそれはあれなんだよね、言葉で説明できたからといってその存在の正当性が担保されるわけではないということと一緒だよね。


まぁ数学の場合、それがもっと深いレベルで起こるんだけど、でもそれは言葉とは違って数学的定義というのは恐らくいかなる物質的な定義よりも強いもんだと思うんだよね。んでもそれにしても定義できるということと実在を同じレベルで考えるべきではないと俺は思うわけで、まぁそんなわけでこないだ順番の話をしたじゃん?まぁこれは逆説的で推論1から推論5が導き出すことが出来たっつってもそもそも推論5というのは推論1が成り立つような論理体系がある場合には順番なんて存在しなくて、そもそも最初から成立しているものを人間は推論によってでしか答えを導き出せないので1から5という順番が生まれるってことなんだよね。んでもまぁこの推論でしか導けないってのが大間違いで推論無しでもいきなり答えっつーと語弊があるけど何かしらの概念が浮かぶことがあるんだよね。で、順番が逆になっていてその何かしらの概念を具体的に表すということになるのが証明だったりするわけなんだよね。


いや、これが算術的事実や演繹と概念の違いを表すものではないんだよ。これが証拠だというつもりはないけど、ようは概念そのものとそれを表す言葉や数式といったものの間にある違いだよね。で、数学の場合、その誤差がほとんど無いのが大半で、言葉の場合は語弊って言葉があるぐらいで言葉がそれ自体を表せているかどうかも怪しいし、そもそも言葉というのは共通概念じゃん?これはこうですよね?はいそうですねっていう合意みたいなもんだ。あ、これだな。これも概念だよね。大体まぁ合ってて社会の中でみんなが合意をとりながらやっていけるぐらいの言葉の誤差っても踏まえた上での一般的な言葉という意味での共通性ってのがまさしく概念そのものなんだな。共通してる概念ですよねってなんとなく思えるっていうこと自体が概念なんだよね。


いや、だから流行とかも概念じゃん?前にも書いたけど情報操作なんかで捏造された合意を作り出すなんてのは朝飯前なことなわけで、これはまぁ概念を流通させるっていう結果、それが通念になるっていうプロセスそのものだよね。イデオロギーなんてのは最たるもんなわけだ。だからようはこれは形態なんだよね。形式ではなく形態。だからそれはイメージなんだよね。で、このね、俺が言うイメージそのものを扱うものが数学で、特に圏論とかトポロジーなんかは概念的な数学の最たるもんなんだよね。だからなんつーか俺がしっくり来るのって算術的事実よりも概念的な対応関係なんだよね。いや、んで圏論とかトポロジーなんて対応関係で成り立ってるようなもんじゃん?この対応関係ってのがようは概念なんだよね。だからまぁ俺が言いたい概念って動詞としての概念なのかもしれないね。構想するってことか。でconceptualizeとかって言うとなんか違うっつーか語弊があるんだよね。一般的に使われているconceptualizeと俺の言いたい動詞としての概念ってのは違うんだよね。


そのなんつーか数学をやるってことの直接性なんだよね。何をやっているのか?って概念をやっているんだっていう。それそのものに関して構想してるんだよね。でもそれは形を考えるんではなくて形を学ぼうとしたり形を掴もうとしたりってのもようは構想に入るわけ。ようは瞑想の「想」的な意味での構「想」だよね。で、イッた後の賢者タイムに話を戻すと、賢者タイムの時の感じってのは想起できますよね。それは概念なんでrecallすればその感じが出てくるっつってもそれは感じるんではなくて「あーあの感じね」ってのが分かってるっていう状態を表すのね。まぁでもこれは生理的な感覚だからあれだな、ようはやっぱりあれですよね、無限とか無とか死とかってことになるのかな。まぁあとやっぱり東洋的な曖昧な粋とか幽玄とか侘び寂びとかかな。


あとはファンキーとかクールとかもそうだな。いずれも形式的にそれっぽくすることは可能だけど分かってない人がやってもどうしても野暮ったくなっちゃうっつーさ、あれだよね、シカゴハウスのファンクネスかな。あれも凄く概念的だけどまぁでも天然なんですよね。形式的な再現は可能だけど結局は天然なのが勝つっていう。そこがやっぱり俺の言う「肝心なところ」なんだよね。音楽の場合、装飾とか真似事で肝心なところを誤魔化すことができるよね。んでもやっぱり肝心なところが分かってる人が好むものってやっぱり何か共通するものがあるんだよね。で、まぁ結局「あー分かってますねぇー」ってことになる。凄く暗黙知的で経験知的でもあるよね。数学なんてむしろこういうところだらけなのよ。「あーこの人分かってるなー」っていうそれだらけ。まぁそれで言えば哲学もまぁ同じだけどね。俺が共鳴を感じるのは「あーこの人分かってるなー!」って思う人だけだから。ニーチェショーペンハウエルとかスピノザに感じてたものだよね。


なんかね、鬱とか「分かってますねー」って感じとか賢者タイムの感じとかを一緒にしてるように思われるかもしれないけど、その違いってのはそれが概念化するソースの違いだけなのよ。もちろん中には暗黙知じゃなかったり経験知とは関係ないものもあるけど概念的なものに共通しているものってのはまぁトートロジーになるけど全部共通してんのよ。まぁ自分の低脳さのおかげで稚拙な表現しかできないんだけど、実際は俺が考えているのは「情報について」なんだよね。いや、だから余裕で話はホフマイヤーとか、あとは最近知って読んでるLuciano Floridiの話なんだよね。抽象についてとか意味論とかオントロジーとかね、でもそれを形而上学的に語るんではなくて極めて科学的に語るってのが俺が最近読んでる類の哲学に共通してることだよね。こういう類のは俺にとっては哲学っつーか数学なんだよな。だから哲学書はなるべく読まないっつってもこういう傾向のものは読んでるわけで。


ってことでまぁ一応貼っておくわ。んじゃまた。