こないだの数学の話の続き。

こないだの数学の話なんだけど凄まじく簡素に要約できたんで書くね。ようはrepresentationということなんだ。元々あるpresenceが再表現されるってことだ。これが言いたかった!なぜ数学は本質的な存在においては生成ではないのか?ってもう散々書いたから繰り返さないけど、俺は「数学側から見た場合」って言い方をしてたけど、ようはさ、こないだの話で言うと惑星にしても数学にしても人間の存在に関係なく元々あったものに
関して人間がどう理解しようがどう理解のプロセスを辿ろうが存在自体にはなんの影響も無いってことなんだけどさ、これ自体は全うなオントロジーで議論の余地がないと思うんだけど、ようはそれが人間がやる学問としての数学という行為によって分割線が表れてきて文節化が行われるっていうね、この文節化によって再表現されたものというのが記号だったり言語であったり数学であったりするわけだ。


んでもそれは元々あったもので、それが人間の認識によって文節化されて記号化されたりなんかすることでrepsesentされるわけだ。この再表現っていう感覚が凄く重要なのよ。だから元々あるものってのは人間には見えないわけだ。それを概念化して扱えるようにするというのが学問だったりまぁようはarticulationですよね。原子とかが良い例だよね。見えないけど数式を使うことであるものとして扱えるようになる。でもそれは原子ありきの話なんであって原子の振る舞いが物理学の理論にしたがっているわけではない。で、その理論の精度が高ければ高いほどこれは完全なるrepresentationだ!と確信できるようになる。思うにゲーデルが言ってた例の話なんだけどまぁ引用しますけどね、

「感覚からかけはなれているのに、公理はそれ自身が真であると強制している。この事実からもわかるように、私たちは集合論の対象物に対する認識のような何かをもっている。なぜ私たちは、感覚認識よりも、この種の認識、つまり数学的直感に対する自信を失わなければいけないのか私にはわからない。この数学的直感は、物理理論を築き上げ、未来の感覚認識はこの数学的直感と一致するだろうということを期待させる。さらに、この数学的直感は、現在では決定可能ではない問題が将来意味をもつようになり、決定されるかもしれないということを信じさせる。数学における集合論パラドックスは、物理におけるだまされるという感覚に比べ、そう難しいものではない」


この「未来の感覚認識」というのが言わばめちゃめちゃ精度の上がった理論によって感覚認識がより鋭くなるっつーか感覚認識そのものが変わっていくってことだよね。100年前には微積分なんて超インテリにしか理解できなかったんだけど、今では高校生でも普通にやってるわけじゃん?ようは明らかに精度の上がった理論によってarticulation能力が上がってるんだよね。もちろん理論ありきなんだけど、ただ色んなテクノロジーの発達だとか、ビジュアルでもっと感覚的に理解できるとかなんとか、そんなもんの発展でとにかくまぁ理解が100年前に比べたら容易なわけだ。まぁそれでも分からない人は分からないんだけどでも分かる人は多くなってるよね。結局それはあったのに見えてなかったものが見えることによってさらにそこから見えるものが増えていくということなんだよね。それがようは感覚認識の広がりというか精度の高まりということなわけだ。


仏教の修行なんかもようはこの感覚認識を広げて悟りに至るというプロセスだよね。空海なんかは理論的にその段階を解説してたりするけど、結局、その段階ってのは文節化された段階だよね。んでも覚者はその段階をリテラルに踏んでいって悟りに至ったのか?ってまぁケースバイケースではあるけど少なくとも仏陀の話を聞く限りそうじゃなさそうだよね。悟りがあってその後にみんなにも教えたほうがいいんじゃね?ってことになって色々と弟子に話すことになった。そんときに仏陀が色々と考えてその道筋を言葉として表すというのがようはrepresentationじゃないですか?元々あったものを文節化して再表現させる。ただ覚者から見れば悟りが最初にあるわけだ。で、凡夫のために解説するということが言葉による再表現ということだよね。もちろんそれは数学による再表現とプロセスも違うし存在のレベルとかも違うんだけど基本構造は凄く似てると思うのね。


で、何がそれを指しているのか?ってずばりそれが概念そのものじゃないですか?そこに色んな措定が必要なんであれば文節化の末にたどり着いた感覚なり概念ということになる。でも覚者の話にしても天才肌の数学者にしても馬鹿みたいに公理やら措定やらをおいてそこから分析してるみたいなフローチャートみたいなやり方じゃなくて液状の考えじゃないですか?そういう具象のものではなく抽象という液状の中で考えているわけだ。もちろん考える上でのなぜこうなのか?とかこうなのではないか?と推測を立てるための知識やツールは必要でも、んでもそれは条件の措定とは違うわけだ。初歩的な理論を知っただけで「じゃあこういうことになりますよね」っていきなり高度な理論を推測することができるってのは頭の中ではそんな具体的な措定と検証と証明・・・みたいなプロセスはしてないんだよね。初歩的な理論と条件の措定って違いますよね?自然数という概念が条件の措定とは違うように。


なんで理論的には多くの条件の措定を必要とするようなものの答えにいきなりたどり着くのか?ってやっぱりそれがズバリ概念だからなのよ。で、それは概念というレベルのものなので例えばそれと同じような現象とかきっかけを得られたときにそれを思いついたりするわけじゃん?アインシュタインの逸話で言えば川の流れを見てる中で相対性理論を思いついたとかまぁそんな話は色々ありますよね。でもアインシュタインは概念を「これだ!」と理解してもそれを数学で表現するスキルが無かったために奥さんやら同僚やらの協力の元でrepresentationに成功したわけだよね。理論ありきで概念が生成されるわけではないという良い例だよね。この場合、概念が先立っていてそれを表現するための理論が必要だ!ってことなんだもんね。セオライズすることがセオリーを生み出すのではなく、概念をセオリーで説明することによりそれが再表現されるってことでしょ。


でも抽象的なレベルだとそういうことは色々な蓋然性によって起こりうるわけだ。芸術家がなんかの音楽を聞いていてインスピレーションを得て絵を描いたとか彫刻を彫ったとかなんとか、ようはそういったsensibleなものなんだよね。理論や論理ガチガチかと思われがちだけど実際は芸術的なインスピレーションと似てるどころか恐らく同類の系統の極めて近い感覚的なものなんだよね。もちろんまぁそりゃ人によるけどね。セオリーでモノ作りをする人もいるしまぁそれはそれなりになんかあるんでしょう。でもまぁ大抵セオリーで作られたものってつまらないよね。西洋音楽なんかもドビュッシーみたいにimaginativeなものを音楽で表現したものってのはまぁ凄まじく美しいわけですよ。でもセオリーガチガチで作られた音楽ってまぁ大抵つまらないよね。これの場合、西洋音楽っつーのがただのルールの束みたいになってただのそのセオリーの所産みたいな印象を与えるわけだ。いや、クセナキスみたいに物理現象を音楽的に変換して・・・みたいなものは別よ。そうじゃなくてまぁようはセオリーの所産ってのはその辺の歌謡曲とかありがちな曲みたいなまぁありふれた曲ってことね。別にそれはポップスに限らずクラシックでもジャズでも凡庸なものは大抵sensibleじゃない。


で、野暮ったい人はその「sensible」なんつーのは主観的なもので具体的に定義できないものじゃないか!なんてまぁようはただの個人的な思い込みじゃないか!なんて言ったりするよね。2流の音楽家とか芸術家とか数学者の台詞ですよね。何に関しても感性的なものでrepresentされたものってのは際立つわけよ。それが言わば美しさなんだと思うのね。俺が一貫して音楽や芸術や数学なんかに感じる美ってのはこれなんだよね。で、これに対応するものは何か?ってそれがようは美少年なんだよね(笑)透き通った肌で一切汚れてないっていうあの感じがまさしく美そのものなんだよね。でも美少年ってのは元々あったものがrepresentされたものじゃないじゃん?ってそれはごもっともなんだが、そこで出てくるのが美のイデアなんですよ。美のイデアのrepresentationが美少年の美しさなんだよね。間違っても美少女ではないところがポイントね。これは元々ある美ってものが美少年っていう形によって再表現されたものなんだよね。んでもそれは全ての人が感じられるものではなくてsensibleな人たちによって知覚可能な美なわけだ。


美少年というともの凄く耽美的な感じがするけど、実際はノイズ音楽みたいな一般的に考えられるような美とはかけ離れたように思えるようなものにもあったりするんだけど、感じられる人たちにとってはそれはもう感じちゃうんだよね。美を。いや、数学における美なんて最たるもんじゃん?美少年って美少年だからみんな美少年って思うからまぁそこまで究極的に感じなくても「まぁ分からなくもないが・・・」ってことにもなるけど数学とかノイズみたいなもんに関しては分からない人には分からないよね。だからそこがやっぱりセンスなんだと思ってる。んでもそれはセンスいいね!的なものではなくて「感覚的なもの」という意味でのセンスなんだと思うんだよね。だから前に書いたようにセンスってのは別に音楽の打ち込みがめちゃめちゃ上手いとか音楽理論を熟知しているとか、それは数学然りで理論を自家薬籠中のものにしているとかね、文章でも際立ったものを書けるって人でもセンス無いと全然ダメじゃん?


上辺だけの美しさやエレガンスみたいなのは技術で表現できても真に感性的な美のrepresentationというのはその感覚を持ったものにしか可能ではないんだよね。なにしろ元々ある美のpresenceをなんらかのカタリストによって知覚して表現できる人たちなわけだから。まぁ別に表現できなくても知覚可能ってことは美のイデアの感覚を持ってるってことなわけだから良い感性ですよね。凄く。ようはそれが良いセンスってことなんですよ。


そこをメソッドなりhow to的なもので追うのが凡夫だよね。覚者と凡夫の違いってこれですよね。まぁなんだろう、卓越したファッションセンスを持ってる人の後追いをする普通の人たちってことになるのか。まぁあとは音楽でも卓越したものを真似たりね、まぁ真似ばっかですよね。基本的に。ただね、概念の話に戻るけど概念だからこそ言葉では表現が難しいよね。俺が数学に感じる美は美少年に感じる絶対的な美と凄く似ていて、音楽なんかでもたまにそういうのがある。でもそれは最上のものだよね。まぁまぁなものが大半なんだけど、ただずば抜けている、本当に美のイデアのrepresentationとしか言いようが無いものってのがあるんだよね。でもそれは完全に概念的なものでなおかつ感覚的なものでそれがどういうものなのか?と言葉で伝えるのは難しいわけ。言葉が対応しないんですよ。その美に。だからその美とは何だ?っていうとそれが数学であったり少年であったりするわけだ。で、最近思うのは「それ自体がどういうものなのか?」というのを言葉で表現するものとしての文学というのが凄く分かってきた。


いや、それは美に限らず普通の話し言葉とか評論とか言論では表せないような概念的なものを表す媒体としての文学っていうのがなんか凄くしっくり来てるっていうか、ほら、前の俺だとさ、「なんで物語を文字で読まなきゃいけなうの?」ってことだったんだけど、物語じゃないと表現できないものってのがあるんだよね。例えば「絶望」とか「実存」を表すのは哲学なんかよりやっぱり文学なんだろうなと。あとは映像とかね。あとはまぁ詩ですよね。あとは俳句とかそれでしか表現できない独特の概念とか世界っていうような感性的なものってあるわけだよね。だからまぁアートフォームなんですよね。これらは。そういう意味で数学もアートだってことになるんだよね。結局はそこですよね。知識論的なことや論理や理論みたいなゴテゴテの世界とは近いようで実は一番遠いものだよね。もちろん道具として理論とか論理は使うんだけど、それが理論から出来上がったものですって違うじゃん?理論から出来上がるものもあるよ。まぁようはもの凄く理論的なものはね。でもなんで数学と芸術との類似性ってのが語られることが多いのか?ってやっぱりそれが格別に感性的なものだからなんだよね。


あ、んでいきなり唐突に美少年とか出して美を語り出したけどようは現前なんだよね。そういった意味例えば「グルーヴ」とか「ファンクネス」ってのも現前なわけだ。後追いで形式的に真似ることはできるけど、元々は黒人の音楽によって現前されたものだよね。まぁ俺は基本的にモダン音楽のルーツって黒人音楽だと思ってるんで、グルーヴやファンクネスみたいなのが黒人音楽においてよく現前させられるというのも納得できるんだよね。元々黒人に内在されてるようなものっていうか、それが現前したってことなんだよね。まぁソウルっていうかなんていうか、あとまぁブラック音楽ってスピリチュアルなテーマがとかが多いじゃん?それもやっぱり元々のprecenseの表現ってことだからだと思うんだよね。


そんな感じでまた長くなったけどこんな感じで。