強度について。

さて、強度についてだけども、結局まぁ色々と改めて考えてみるとこの概念はニヒリズムありきですよね。基本的に人生は虚しいからその一瞬一瞬の強度を高めるしか逃れる方法は無いっていうさ、「楽しく過ごす」でもいいんだけど、んでもまぁ楽しい過ごし方なんつーのは終わったときに虚しいじゃん?ディズニーランドの帰り的な。そうじゃないその瞬間の強度ってのが担保されればその瞬間は確実に強度のある瞬間だったって言えるような瞬間なんだよね。ニーチェを出すとまぁこれが永劫回帰ってことになるかな。ただまぁ別に無理にニーチェに結びつける必要はないんだけど、ニーチェフリーで考えてもやっぱりニーチェの哲学ってアンチ・ニヒリズムの哲学なんだよね。アンチ・クライストって本があるけどニーチェ的に言えば宗教とか神みたいなあるわけもないものに価値観を置くって事自体がニヒリズムなんだよね。だからキリスト教なんてのはニヒリズムの極地だというわけ。まぁでもニヒリズムって主観的なものじゃないですか?で、宗教をマジで信じてる人は虚構だなんて思ってないからむしろその虚構によって日々の生活が成り立ってるんだったらそれでいいじゃない?ってことになるよね。虚しいと分かっていて宗教に逃げているならそれは究極のニヒリズムだしまぁカルトの構造ってこれじゃないですか?


いや、あまりにも何にも無さ過ぎてしかもデフォだと糞ゲーで終わってる人間だらけでそういうやつらによって社会が成り立っているって中でどうすりゃいいのよ?ってのを考えるのがアンチ・ニヒリズムの思想ですよね。ニーチェの場合はそこでプラトニズム的な美を直で感じられるような芸術みたいなのを重要視してたんだよね。理性よりもこういう感性だっていう。実際はニーチェってプラトニズムとか批判してる割にプラトン以上の実践的なプラトニストなんだよね。ニヒリズムありきのプラトニズムっつーかなんつーか。まぁニーチェはいいか。


とにかく虚しいですよね。客観的に考えて。主観的に考えても虚しいけどその虚しさはどっから来るのか?って客観的な虚しさじゃないですか?逆にこの虚しさに気がつく前はどうやって生きて来れたんだろう?なんて逆に思えるんだけど、まぁあれですよね、中学生とか高校生とかがこれに気がついちゃって自殺するケースとか結構あるけど、何がやるせないって彼らが間違ってたんじゃなくて合ってるからなんだよね。「あー気がついちまったか・・・」って感じで。本人からしてみればすげー孤独感を感じてるわけよ。周りは何も分かってなくて何も考えてなくて生きてる感じで自分だけがこの苦しみを抱えてる・・・的な。まぁ今はそうでもないのか。ネットがあるからね。まぁネットがあったところで答えは「そうですね。虚しいですね」ってことになるからね。何か生きるということに関しての目標は?って言われたところで金持ちになる!みたいな夢を見れるほどみんなナイーヴじゃないですよね。もしくはそれが可能でも金持ちになったところで何の解決にもならないって分かっちゃってるわけだよね。どうやら快楽を追求したところで結局は虚しいらしいぞ!と。


そんな中でどうしていくのか?ってことなんですよね。何も無い場合、まぁ死にますよね。俺の場合、その死から逃れるために必死で楽しい事を探したりハマれることを探したりしてるわけよ。自分が空虚な世界に支配されるんじゃなくて自分が空虚な世界を支配するって感じか。まぁこれが最近俺が書いてる世界を作るってことなんだけどね。空虚だってのは分かり切っているからこそ「それじゃあどうしよう?」ということになるじゃん?切実な問題として。でも恐らくまぁやる事なんてそんなに無いわけですよ。だからこのあまりにもどうしようもない糞ゲーを工夫して楽しむしかないわけですよ。人生ってこれに尽きると思うのね。糞ゲーという生を望む望まないに関わらず勝手にあてがわれてずーっとこれをプレイしろって言われてるわけだからまぁそりゃお釈迦さまも人生は苦痛だって言うわけですよ。んでもこんな苦痛の中じゃやってけないじゃん?かといっても宗教を盲信できるほど馬鹿でもなくて下手に割と頭が良く生まれてきてしまったと。


で、日本の場合、日本教って言う凄まじいカルト宗教が蔓延っている社会でそれにヤラれてる連中が多い。そんな中で無神論者というかニュートラルに振る舞わなきゃいけないわけで生きていくだけで大変っすよね。だからもうそうなると同じ宗教構造を使うしかないのよ。日本教の連中は「働いた」とか「社会人であるということ」みたいなのに満足感を得るらしくてそれは宗教にハマってるやつが「お祈りをした」とか「キリスト教徒であること」自体に満足をするのとほとんど同じ構造だっていうさ、どうやら人間ってのはそういう構造にハマりやすく出来ているらしいと。だからもう自分教を作るしか無いのよ。何に帰依するのか?っていうとドグマは自分で作らなきゃいけない。言わば行動原理ですよね。ドグマっつっても柔軟なドグマなんで原理主義になるということではないんだけど、ようはこの俺の言うドグマってのが価値の創造なんだよね。他がどう考えてるとか社会の需要とかなんだとかそんなのは知らんけど俺はこれに凄まじい価値を見いだしているから俺にとってはこれは凄くコミットする価値のあるものなんだ!って言う自分原理を作っちゃうってことだ。


で、「自分教徒であること」自体に満足できるような生を自ら生きるということで体現していくわけだ。これは人生の主導権が糞ゲーというインターフェースから主人公という自分に取って代わられてるってことだよね。ようやく人生の主導権を自分が握れるようになったんだな!ってことになる。じゃあそんな中で何をやっていくか?って自分がやりたいことしかないですよね?いや、そのやりたい事が誰かのために・・・的な利他的なもんでもいいんだよ。何も自己満足せよ!と言っているわけではなくて、自分がこれだ!という価値を感じたものにコミットするとか、あとは価値観を自分で決めて世界を作っていくってことだよね。俺的に言えばこれをやってれば生の瞬間瞬間に強度が生まれると思うんだよね。いつもではないけどもただ永遠に続く糞ゲー感はだいぶ無くなると思うんだよね。


で、俺なんかは自分教の狂信者ですよ。是が非でも自分教を突き通す!っつー気違いなわけですね。ここから来るパワーというのは創価学会の狂信者と同じような異様なパワーがあると思うんですよ。もうイッちゃってる感じですよね。イッちゃってたら何だっていいのか?ってそれは違うんだよな。自分が熱心な創価学会とか統一教会とかの信者だったらまぁあれですよね、いや、そういうパラレルワールドが存在してそういう自分がいたらパラレルワールドに行って自分を殺したくなりませんか?そのぐらい許せないと思わない?明らかに間違った原理とかドグマって許せないじゃん?この許せない感なんだよね。変なのに犯されるぐらいなら死んだ方がマシだ!というぐらいの許せない感。だから自分が納得がいくものじゃないと満足できるわけがないのよ。だからそれはもう生に対して凄まじく能動的じゃないとダメってことなんだよね。いや、これはすげーパワーがいることで誰にでも出来ることではないんだけど、でも俺はこれ以外にニヒリズムから逃れる方法は無いと思ってるんだよね。馬鹿なら変な宗教とか消費とか労働にハマってるだけで満足してるからいいかもしれないけど、自分がそういうタイプの人間じゃなかったら価値の創造しかないじゃないですか?それ以外にどういう生き方があるのか分からないんだよね。俺は。


まぁでもこれって自分教を作れたから偉そうに色々と言えるみたいなことになってるとは思うわけよ。でもそんなの最初から出来たわけじゃなくて色んなことがあってようやくここにたどり着いたって感じなんですよね。んでもそんなもんいつでも壊れますよ。めちゃめちゃ弱いもんですよ。それは。だからもう日々精進しかないんだよね。精進することでしか自分の道は作り出せない。だから自ずと求めなくても強度のある生活という風な生活形態になっちゃうんだよね。それ以外がありえなくなるから一切無駄なことをしなくなるわけだ。修行ばっかやってる修行僧と同じですよね。これは。遊戯三昧ですね。何がやらなきゃいけないことで何がやりたいことで・・・みたいな境が無くなるのね。ただ原理があり過ぎて「つれないヤツ」になることは間違いないですよね。でもまぁそれはあれですよ「修行の身だから」ってことで全部正当化できるわけですよ。


もうそりゃーあれですよ、普通の人と価値観とか考え方が違い過ぎて完全に気違いですよね。これは。社会じゃやっていけないと思いますよ。ええ。でもこれって社会が糞だって分かってるから行ける境地じゃないですか?もう何にも頼れないから自分に頼るしかないつーか自分でなんとかするしかない!ってことですからね。別に社会でやっていけなくてもようはなんで社会でやっていかなきゃいけないのか?って結局はただの金じゃないですか?あと社会が云々講釈垂れるやつに限って人間性が崩壊してたりね、本当に適当だからね。逆に俺なんかは真面目過ぎて気違いになっちゃったって感じですよねってまぁ俺的に言えば逆なんだよね。所謂普通と言われるのが気違いで自分は至って健全だと思ってるわけ。


でもまぁ大半の人はそう考えないから俺は気違いということになってるだけなんだよね。いや、普通がおかしいっつーかそんなことは考えた事も無いってのはまぁ普通ですよね。本当に普通ですよ。それは。あ、まぁあれだ、別に気違いじゃなかったら普通とかそういうディコトミーで考える必要はないんだけど、ただ俺が言いたいのは「変わってる人」とか呼ばれる人の価値観というのを見ると大抵は独自の意味論場を形成してるわけだ。まぁようは何かインプットが入ってくるときに意味論場に写像される像ね。ウィトゲンシュタインが言ってた像なんかも同じかな?ちなみに俺が言う意味論場はルネ・トムっていう数学者による概念におけるものなんだけど、まぁ詳しくはググってくれたほうが早いので。


なんかさ、さっきの宗教で例える感じが上手く行ってない気がするんだよねっていうかまぁ説明は上手いけど落としどころが宗教ってなると俺的にすげー嫌なんだ。だからまぁあれなんだよね、さっき書いた「ドグマ」に当たるものが意味論場ってことになるわけだ。それはアプリオリに形成されてるものもあればイデオロギーによるものもあるんだけど、まぁいつも書くように価値観のねつ造なんてゲッペルスを出すまでもなく基本的にメディアなんてそれでありもしないものを「ある」と言って金を流通させて食ってるようなもんじゃん?イデオロギーフリーになると「実際は何もいらないじゃん!」ってのが分かるんだけど、これのジレンマはそれを言い出すと経済が回らないってことになるんだよね。むしろやっぱりなんだかんだで消費は重要なんだよね。ってことで金がある人は是非使いなさい。


まぁそれはいいか。いや、んでさ、プリンシパルですよね。白州次郎が言うような。そう。言葉の意味は色々あっても白州次郎が言っているプリンシパルってのが俺の中では一番しっくり来るんだよな。なんでそれが世界を作ることになるのか?っていうと何かインプットが入ってきたときに写像される像の姿をデザインするってことじゃん?認知のデザインなんだよな。世界はこうだと言われても俺には関係なくて俺は自分の世界を見るってことになるんだよな。まぁこれもニヒリズムに立脚しているからこそ可能とも言えるよね。そもそもの絶対的客観性なんて主観性によっては捉えられないわけだから。でも一般的な客観性と言われるものは完璧じゃないにしてもそれはもう機構に組み込まれてるんだよね。当然そういう当たり前の客観性からモノを見るということは出来るという状態での主観性なわけだから。いや、だから自分の世界を見るっつって主観に埋没するということではなくて主/客みたいなディコトミーが無くなる世界なんだよね。でもその感性じゃないですか?ようは。


価値観を作るってことは感性を鍛えるってことなわけでさ、つまらない世界をそのまま見るんじゃなくてつまらない世界を面白くするんだよね。それが結局は「面白さ」なわけでjoyじゃないですか?快楽ですよね。ラカンで言うところの享楽だね。いや、でもこれはあれなのよ、欲望ありきなのよ。糞ゲー過ぎてやってられないっつーのを面白くしようとするようは快楽への欲じゃないですか?その意味論場の形成とか快楽への欲望を爆発させるとかそれが結果的に瞬間の強度を担保することになるんだよね。で、その爆発した欲望ってのは意味論場の形成に繋がっているからその場限りの快楽ということにはならなくて認識っつー形として残るものになるんだよね。だからやった後に虚しくなるような快楽は追求しなくなるじゃん?世界がどんどん面白くなるような快楽を追求するようになるよね。だから刹那的な快楽とはオサラバってことになるわけだ。


むしろそういうものこそがより虚しさを倍増させるものになるわけでさ、だからこそ鍛えるべきなのは感性と認識なんだよね。そうなると俺が普段やってることってすげー分かりやすくない?何やってるか分からないけどとりあえず楽しい事を追求してて何のための鍛錬なのか?っていうとようは感性と認識のためじゃん?それでもう俺の行動原理の説明がついちゃうもんね。で、強度ってのはそれそのものとして捉えるんじゃなくてプロセスとして捉えるんだよね。言わば足跡と言っていいかもしれない。だから強度そのものは求めるものじゃないんだよね。どう歩いたか?ということによって刻まれるものというかなんというか。だからまぁ結果的に回想とかして分かるもんなのよ。その場じゃ分からない。だからドラッグでラリパッパーでもケミカルやってて後になって超バッドになったり後遺症が残ったりすればその場は楽しかったとしても後の人生が糞になってるわけだからそれって強度じゃないじゃん?ただの脳内の快楽物質が出まくっていたっていうただの幻想ですよね。それで肝心な意味論場や感性を司る頭にダメージ与えてるとかもうありえないじゃん?脳がよりアクティブになるようなことをやるってことだよね。


これは脳ブームの本でもよく言われることだけどまぁ当然のことなわけだ。そのほうが脳にいいに決まってるし、脳がアクティブになるようなものをやったほうが生産性が上がるわけだ。っつーか凄い能力を発揮できるわけだよね。だからそれを発揮できるような環境とか場とか頭を作れってことになるよね。結局は自分の世界の形成というのは観念的なものだけに終わらず結果的に物理的な自分の生活や環境というのを変えるものになるわけだ。あとは指標を与えるものにもなりうるよね。それを原則とすれば自ずと行く場所というのが見えてくるっていうことじゃん?こういう一連のことが全部積み重なってるんだよね。単体でどうのってことじゃないんだよな。


まぁニーチェに還元する必要はないけどまぁあえて言うならperspectivismですかね。なんで諸概念がニーチェに上手くヒットするのか?ってそれが何を隠そうソレなんですよ、最初に書いたニヒリズムってことなんですよ。ようは人生は糞ゲーという事実ですよね。世の中はオワコンであるという客観的事実然り。もうどーしょーもない。世界は変えようがない。人もなかなか変わらない。説得しようとしたところで大きなお世話になる。何かやろうとするとほぼ犯罪みたいになる。とにかくどうしようもない・・・・っつーところから始まってるってことですよ。だから自ずと必要となるものが出てくるのね。でもこれをニーチェを読めば分かるようになるのか?って分からないと思うんですよ。もう実感と絶望感とかね、あとは経験とか絶望感から始まってる思考とかね、で、結果的にアンチ・ニヒリズムということに繋がるということだとか、まぁそういう意味で俺って全然ニーチェを読んでるわけじゃないんだよね。自分で色々と考えてそれがニーチェの思想なんかに似てたりするっていうそれですよ。っつーか俺にとって哲学を理解するってこの方法しかないんだよね。本当にこの思考の実感っつーのかな?


分かるってことではなくて体感なんだよね。能天気なやつに哲学がいらないのはこういう理由なんですよ。あとは教養としての哲学の無駄さ加減とか。なんつーかだから絶望出来るってのはすでに才能っつーか認識的に良い線いってるんだよね。でもあまりに絶望し過ぎて耐えられなくなっちゃうんだけど、それは人間性が真っ当過ぎるが故に社会と折り合いがつかなくなったり色々なことが許せない!ってことになって色々と爆発しちゃうわけじゃん?そこで爆発するんじゃなくて考えるんだよね。死ぬと決める前に色々と考えなきゃだめだ。その結果、死が一番良いと結論が出たならいいけど、多分、俺みたいにメーターが振れ過ぎて一気に超ポジティブ!みたいなことにもなることもあるよってことなんだよね。躁鬱病だって言われればそれまでだけど(笑)


なんかとりあえず今日はいいかな。いや、まだ色々とあるんだろうけど長くなったからとりあえず今日はこれでいいや。ようは結局は昔からの俺の原理であるグラムシの「知性のペシミズム、意志のオプティミズム」ってことになるんだよね。理性的であるならば絶望するのは当然だし人間性が真っ当である証拠なわけだ。人間的に誠実でもある。で、結果、自分は何も出来ないし何も変えられないしそんな器でもないし・・・ってのが分かっちゃうんだよね。だから世界にも絶望するけどそんな中にいる自分自体にあり方や実存にも絶望するわけだ。そっからスタートするんだよね。そこから色々なものを自ら切り開く!ってことを始めて、んでそれを永遠に辞めないっていうことだよね。それが意志のオプティミズムになるわけだ。またニーチェになっちゃうけど力への意志ってまぁこういうことだね。俺の解釈だと。結局まぁ思想的にマッチョですよね。凄く。だからまぁ結局、こないだ書いたような身体性みたいな話にもなってくるんだよね。


別にダラダラしてたいならそれでいいんだけどね、俺は無理!っていうそれだけですよね。つまらな過ぎて糞ゲーの主人公である自分のステータスも初期値のままで・・・ってそれを放っておくのが嫌なんだよね。だからこれも前から書いてるけど育成ゲーム感覚で初期値はどうあれ育成するって事自体に楽しみを感じるようにするっていうさ、レベル上げですよね。RPGってレベルが上がるとやれることとか行ける場所が広がるじゃん?いや、それって人生そのものなんですよ。だから自分っつー役割を担うならレベルを上げない手はないわけだ。だってそのほうが楽しいじゃん?っていうこれに尽きるね。人生楽しいに越した事ないわけで。これが俺的に言うと強度そのものってことになるんだよね。


なんかconclusiveになってしまったかな?まぁまた何かあったら書くわ。まぁこれについては本当に色々と考えてきたからねー。まぁすでに書いた事ばっかだったとは思うけど、今の俺のフレームワークで語れてるからいいよね。でもそれは古いものを脱ぎ捨てたフレームワークなんじゃなくてアップデートされたフレームワークなんだよね。もうそのアップデート自体が楽しいじゃん?だから辞めらんないんだよね。だから人生辞めらんないってことになって結局、それが生きるってことに繋がるんだよね。


ってことでんじゃまた。