foobarhogeさんへの返信。

例によって返信が長くなったのでエントリーにするです。

foobarhoge 2013/11/09 02:12


ここで言う represent って "言葉" とそれを表す "概念" の対応関係についても同様に言えますね。

mimisemi さんがおっしゃっているのは "数学の言葉" と "数学的概念" の対応みたいなので、数学の言葉が先にあるのではなく "数学的概念" の方は先にあってそれを指すものとして "数学の言葉" がある、という形で理解しています。


重要なのは "数学的概念" なのだからそれを指す言葉はどうでもよくて、重要なのは数学の言葉を通して見る "数学的概念" であるってことですよね?


僕は始めこの議論を聞いいた時、実感としては "うーん...そうなのか?" という感じだったのですが、日本語や英語などの "言葉" と言葉が表す "概念" の対応関係で考えて理解できました。


"言葉" はあくまで "概念" を表すもので、言葉それ事態は重要ではないですよね。例えば日本語だと "人間" のことは "人間" と書きますが、ロシア語では "человек" と書き、英語では "Human" と書き、みたいに言語によってその represent の方法は様々だと思います。で、重要なのは文字としの "人間" ではなく、それを指す対象として "人間" という文字を通して見る概念だと思います。


つまり、文字や言葉ってのは概念を見るためのただのエイリアスでしかない、ということですね。


そんな感じで考えると、今気付いたのですが、言葉って関係詞や助詞などの演算を元にした概念に関する代数系になっていますね。名詞は概念を表す代表元で、その剰余群が文章。一つ一つの概念がイデアルを形成していて、素イデアルは素概念に対応している。そして翻訳という行為は言語から言語への準同型写像という感じでしょうか。


いや、本当にその通りです。というかそこまで理解してもらえるとウォール伝冥利に尽きます。そういった概念に関する代数系というのは圏論なんですが、でも数学的ツールだけではfoobarhogeさんが言うような「剰余群としての文章」などが定義できないんですよね。なので厳密な意味での代数系とは言えないんですが、アナロジーとしてはほぼ完璧だと思います。アナロジーの場合、それは意味論なので例えば代数系だけを数学的に考えていても「剰余群としての文章」というようなアナロジーは生まれてきませんよね。そこがやっぱり人間(foobarhogeさん)の凄いところで、まさしくfoobarhogeさんは概念を概念として考えているからこそ、こういったアナロジーに行き着いたわけですよね。


言語などではチョムスキー生成文法なんか完全にアイデア代数系だと思うんですが、ちなみにフレーゲの意味論なども代数系というかまぁ関数的だったんですが、チョムスキーフレーゲも厳密な意味で言う数学の代数系や関数と意味論や言語を対応させたつもりになっていたというところでミスってたわけですね。形は似ていても完全に数学の代数系などと対応させるには研究云々ではない次元の、言葉や意味の作用といったメカニズムが元から持っている普遍的な構造としての代数系との厳密な対応というのが必要になってきて、結果的に論証が不可能であったり、無理矢理になってしまうことがあるんですよね。あとまぁ言語とか意味論みたいなファジーであやふやな世界のものが厳密に数学的構造に対応するわけがないんですよね。


あとまぁ実際のところ言語や意味論などは人間の感覚や感情といった、代数系や集合などの「系」の話以外でのコンテキストでの意味合いやニュアンスや発生の仕方や顔の表情や抑揚やその場の雰囲気やらというようなのがぐちゃぐちゃに混ぜ合わさった結果の言語であったり意味合いだったりするわけですよね。その場では関数的でも違う場では全然違う構造を持ってたり、まぁ文化とかってそうですよね。空気も意味論の場として考えることが出来ますよね。日本の場合、凄くいやぁーなベクトル場なので凄く嫌いなんですが(笑)ところで、ギャル言葉とかギャル系の仲間内というコンテキストでの意味合いとかって恐らく定式化できないですよね。でもアナロジーという意味ではいくらでも数学的構造を使って概念的に分析はできますよね。これが数学的思考というやつで、まさしく「概念そのもの」のことなんです。


数学の場合、完全に純化されているので言語による齟齬などは普通の言語に比べれば生まれ辛いと思うんですが、人間の場合、むしろ齟齬だらけですよね。いや、言葉の定義通りに事が進んでたらどれだけ世の中楽なんだろう?って思ったりします(笑)興味があるのはそういうカオスなところですね。なので計算の原理とか人間の意識とコンピューターのプロセスの違いとかに凄く興味が出てくるんですよね。いや、これで世の中が回ってるのだから逆に凄いと思うんですよ。representされたものが誤解されていたり勘違いされて理解されていたりすることも多いんだけど、誤解が多過ぎると多数決原理みたいな感じでそれが正しい理解なんだって見えたりしますよね。おかしいんだけど誰も訂正しないとそれが通念であったり常識みたいになったりしちゃうじゃないですか。誤解によって言葉自体の定義が変わってしまっていたりするものも多いだろうと思うんです。でもそれが定義に成り代わると元の正しかった概念のrepresentationとしての言葉というのは誰にも分からなくなってしまいますよね。そこでやっぱり学問とか学者ってやっぱ重要だよなーって思うんですよね。まぁこれは言葉に限らずコンテキスト全般に言えることなんですけどね。


いや、ちょっと話がどんどん逸れちゃいますがお付き合いください。僕がある意味で哲学に失望したのも意味合いの厳密性なんて存在しないじゃないか!ってところなんですよね。アカデミックなちゃんとした理解なんてのも本当に正しいのか分からないし、そもそも哲学者が書いた言葉と言いたかった意味合いが一致していたとも言い切れない。なのでようはテキストの解釈になるよねって話になっちゃうんですよね。いや、だからこそ哲学って良いんですけどね。僕は逆に厳密な理解なんて糞食らえだと思うので、自分が感じたままの感覚を大切にしていますが、でもこれって学問的ではないですよね。自己流に考えるだけっていう、まぁこれが本来の哲学の姿ではあると思うんですが、でも数学の場合、自己流で理解しても数学の意味合い自体にブレが生じないので、その自己流の理解ってのが強みになったりしますよね。いや、間違った理解をしていたらそれは論外なんですが、独特な理解の方法でも合ってるという正しさは数学の概念そのものによって担保されるじゃないですか?誰にも依存することなく意味や概念自体を数学という言葉に照らし合わせて確認が出来るって凄いことだと思うんですよね。


で、人間が数学をやる際にむしろ大事にしているのは感覚だったり理論的な美しさだったりするわけですよね。そこって本当に芸術の感覚と同じだと思うんですよ。一見、凄く機械的な作業の連続に見える数学は実際は凄く芸術とか文学とかに近いような感覚や美意識の世界であるってこれが分かったときには相当なコペ転だったんですよね。パズルと論理の世界みたいなつまらない世界じゃないからこそ凄く人間臭い感性みたいなところから数学が生まれてきたり発見できたりするって凄くロマンティックなんですよね。それを僕はプラトニック対応とかって考えてるんですよね。


元々思いつかないような数学的概念も良い数学書と出会えばプラトンのメノンにおいてのソクラテスと召使いのやり取りの如く、数学の言葉を通して数学的概念が見えるんですよね。自分でやるには限界があるけど世の中には良書がいっぱいあるので偉大な数学者達の頭の中とか考え方が覗けるわけですよね。これがまた掛け値無く楽しいんですよね。ようは数学的概念のフレームワークがどんどん増えたり、色んなジャンルの数学に増えることでOSがどんどんアップグレードするっていう感じですかね。だからとりあえず色々と手を出しているんですけどね。よくあるのが根本的に同じ数学の概念が違うジャンルの場所で別々なコンテキストと数式と言葉で語られてたりすることですね。こういう場合、普遍性というか凄く原理的なものを感じてこれまた感動したりするんですよね。


あ、ちょっとまた長くなってしまうんですけど、音楽なんてのが代数構造の最たるもんなんですよ。基本的にはリズムとかリフとかメロディとかベースラインの組み合わせじゃないですか?曲が浮かぶなんつっても相当な天才とかではない限り色んな聴いてきた音楽が頭の中で混ざって鳴っているだけだったりするのが大半だと思うんですよ。だからまぁ世の中似たような楽曲で溢れかえるんですよね。あとモダンな音楽があまり発達しなくなったのも出尽くしたってのはありますよね。大体ルーツみたいなのはクラシカルな西洋音楽を除けば大抵黒人音楽なんですよね。そういうもののコピペを例えば同じベースラインを違う音色で鳴らしてみたりっていうまぁ一種のcombinatoricsです。だから本当にオリジナルで凄いものを作れる人って尊敬しますよね。自分が無知な時は「この人はオリジナリティの塊だ!」とかって思うんですけど、色々と音楽を聴いたりすると「なんだただのコピペだったのかこの人」みたいな感じで代数的失望をしたりしますよね(笑)


でも構造的に言えば似たようなものかもしれないけど、なかなか言葉では言い表せないようなグルーヴ感ってあるわけですよね。凄く雑なのに異様なグルーヴ感があるとか、凄くよく出来てるのに全然グルーヴ感がないとか。なんかこの辺に関してはなんで黒人はグルーヴ感にあんなに長けているのかな?って思いますよね。なんかやっぱり心を動かされるのは構造云々とかそういう意外の人間臭いところなんですよね。そういうわけで昔は生演奏なんてダサい!なんて思ってて電子音楽しか聴いてなかったんですが、こういう認識になってからはもっぱら人間臭いものに価値を感じるようになりましたね。


ようは何が言いたいのか?っていうと肝心なところは心でしか分からないみたいなところですかね。グルーヴ感すげーよ!っつって他人に聴かせたところで感性がなければ分からないわけだし、それは数学然りなんですよね。数学の場合、理屈で分かることが多いんですが、でも数学者達の伝記とか読んでると大体心で理解してるっていう感じがしますよね。だからこそアイデアが浮かんだりするんだろうなって思うんです。これこそがまさしく概念そのものっていう直接性なんですよね。自分の中では一貫してこの「直接性」ということや「概念そのもの」というのに興味があってまさしく数学とは概念そのものを扱う学問だと思うのでめちゃめちゃハマるんですね。でも動機付けとしてはやはり哲学的なものだと思いますけどね。そういう意味で哲学の延長上で数学をやっているという感じがしているんですが。


PS


文章を剰余群として考えるってマジでヤバい概念ですね。凄まじい抽象力だと思いました。

foobarhoge 2013/11/09 02:27


http://d.hatena.ne.jp/mimisemi/20091006#c


かなり今さらですが、上の議論はあんまり正しくないですね。
この先生も正しく対角線論法を理解していない?のだと思います。


1 -> 0.2221485769305...
2 -> 1294679480476.393565839...
3 -> 9485759303.54335553...
...


という対応関係は A, B, C を適当な自然数として次のように表せると思います。


1 -> A.2221485769305...
2 -> B.393565839...
3 -> C.54335553...
...


それでこの対応を延々と続けていっても、"絶対に対応漏れがある" というのが対角線論法で言えることだと思います。N 番目の自然数に対応する実数の小数点以下 N 番目の実数を異なるように取れば、そのような実数を得ることができます。今の場合だと、適当な自然数を L として


A.[2]221.. なので L.1... (1 != 2)
B.3[9]35.. なので L.18... (9 != 8)
C.54[3]35.. なので L.182... (3 != 2)


この方法で実数 L.182.. を構成すると必ず N 番目の小数点で異なるので、番号を振ることはできません。


まぁ多分既に理解されているとは思いますが、念のため。


いや、これはホントに数学に目覚めたばかりの頃のエントリーなんですよね。というかもう4年も経ってるのか!って結構唖然としてしまいました。で、おっしゃるようにこの議論は完全に間違えてますね(笑)そもそも数えられないものを数えようとしているという意味でも完全に間違いです。でも恐らくなんですが、ここで僕が言おうとしていたことは離散ランダム変数による離散的ランダム分布のことだったんだと思います。マルコフ連鎖とかディラックデルタ関数みたいなイメージだったんだと思います。あとは実連続関数を実数への写像として考えるみたいなことでしょうかね。当時は全く知らなかったんで正確性に欠ける考え方だったんですが、後に色々と勉強していく中で概念自体は間違えではなかったと思っています。このエントリー関しては記述が間違っているってことですね。概念をちゃんと説明できるようになるというのも数学力なのでこれは本当に重要なことですよね。ご指摘ありがとうございました。