中身が重要。

やぁ。こんにちわ。で、オーディオブックなんだけどさ、本と一緒で意外と死ぬほど聴きたいってのそんなに無いよね。まぁ本と一緒っつーか本だから当然なんだけど。で、あれなんだよね、レクチャーってのも売ってて、西洋哲学の歴史とか同じく東洋哲学の歴史とかさ、あと政治哲学の歴史とかね、結構長いんで大体良さそうなのは買ったんだけどまぁホント、例によってああいう英米系のクオリティっつーのかな?日本が逆立ちしても追いつけないようなレクチャーのクオリティっつーの?まとめ方が上手いし分かりやすいしまぁホント、大学いらずですよねって感じなんだけどさ、まぁ一瞬で聞けちゃうっつーのも寂しいよね。もうネタ切れになってきてんのよ(笑)


んでも思ったんだけどこれって結局さ、知識欲なんてのも物欲と一緒で例えばまぁあれだ、それこそオーディオブックで買った仏教関係の講義でも語られてたことなんだけど物欲ってさ、例えば新しい車を買ったとか服でもなんでもいいんだけどまぁそれで満足できるのってつかの間じゃん?だんだんそれに慣れてきてただのモノになるんだよね。まぁ愛着はあるんだけどさ、でも満足できないじゃん?んでまた次ってことになって永遠とそれが続くんだよね。まぁそれが消費を支えてるわけだから消費に関してはいいんだけどさ、結局なんかね、俺が何を求めてるのか?ってことなんだよね。それはズバリ刺激と知識欲を満たしてくれるものなんだけどこれってまぁようは満足しないよね。永遠と。物欲と一緒なんだよな。散々オーディオブック買って聴きまくってても満足しないもんね。まぁ無知の知ってやつだけどまぁ色々と知りたいなんつって物知りになったところで分かるのは結局まぁ知ることが出来ることなんてすげー限られてるってことなんだよね。それって大海の中でボートを漕いでるようなもんでさ、んでもそれはもちろん無駄じゃないんだけどね。いつも書くように究極の育成ゲームとしての自分の育成ってのは楽しいから基本向上心があれば年齢とか関係なくどんどんレベルアップできるじゃない?まぁそれを永遠と繰り返すってことではあるんだけどさ、やっぱそれをやってても満たされないっつーかやっぱ目標が必要なんだよね。もちろんまぁなんつーか修練自体が目的っつーのもアリなんだけどさ、なんかでもそういうことじゃないんだよねぇーっていう感じなんだよねぇー。


結局なんかこれって筋トレオタクみたいなもんなんだよね。ひたすら体を鍛えることに価値を感じるってまぁいいんだけどそれの頭脳バージョンがまぁ俺のやってることだよね。別にその筋肉を使ってどうのっていう話じゃないっていう。ボディビルディングと変わらないってことだよね。別にボディビルディングを否定しないけどなんか物足りないんだよねー。事実とか歴史とかを知ったところで結局何なの?って話になるんだもんね。まぁ正直、ファンドマネージャーの真似事とかはやってみたいってのはあるけどさ(笑)まぁでもリアルに考えれば気分障害とかパニック発作があるから無理ってのを置いておいてもまぁ通勤とか面倒だし人間関係とかも嫌だし責任とかも嫌だからさ、現実的じゃないんだよね。そういう意味で仕事とかってやっぱ興味ないんだよね。なんつーか活動に興味があるんだよね。あと金融関係は別に実践のために勉強してるわけじゃないから別にそれが実益に繋がらないっていうことに関しては全然問題ないんだけどね。


んでもそれだったらずーっとこれが続くの?って話じゃん?なんかそれもつまらないよなぁーっていう。それは俺が何か成し遂げることが出来る!とかっていう驕りとかじゃないのよ。ただ知識欲を満たしてるだけでいいの?って感じがしてきてるわけ。こういうことを長年やってると欲求の満たし方ってのが上手くなるわけじゃん?だからすげー早くこなせるようになるからやることなくなるんだよね。もちろん数学とかで言えば数論の超マニアックな難問に挑むとかね、そりゃ細部の話をすればいくら時間があっても足りないようなものってあるからそういうのをやればいいんじゃない?って話になるんだけどまぁこれまた興味ないんすよね。やっぱ基本が好きなんだよね。集合・幾何・数論・代数・圏論・解析・確率・統計・・・みたいなそういう大枠のパラダイムってのを血肉化したいってのがあるからさ、そのジャンルでのなんかの定理の何次元におけるなんたらの証明とかっていうことには全然興味ないんだよね。まぁそれでもあるやつはあるよ。んでも限られてるよね。連続体仮説なんだけどさ、いや、その巨大基数とかっていうああいう感じのやつね。ウッディンとかがやってるような。まぁでもそれやって何なの?っていう感じはあるしさ、あと凄く嫌なのがそういうマニアックな世界に埋没してほかの事に疎くなるってことなんだよね。やっぱ自分が関心あることって広いからそれはどんだけ膨大でもどれもやりたいんだよね。だから数学のマニアックな問題とかに埋没する理由も無いしそんな気も起こらなくなるんだよね。


あと自分が好きなのはさっきの西洋哲学の歴史とかでもそうなんだけどある程度やってて知ってることでも体系的にまとまったやつをまた読み直すとかやり直すみたいな作業ね。で、毎回そういうのって発見があるんだよね。「あ、これは知らなかった」みたいな発見が。だから基礎を何回もやるって有用なんだよね。でも別にそれは有用だからっていう効率性でやってるわけじゃなくてまぁ知識欲を満たしてくれそうな長いコンテンツってことで手を出してるだけなんだけどさ、まぁんで話は戻るけどまぁでも結局知識欲を満たすって永遠に終わらないし常にフラストレーションがあるんだよね。色々と知りたいんだけど全部細部まで覚えるなんて無理だしさ、まぁ出来る人はいるんだろうけど俺は無理だしさ、んでもかといって全てのディティールを覚えてるみたいな感じの知のあり方を求めてるのか?っていうとそうじゃないからね。で、そうなってくるといつも考えちゃうのが結局俺は何をやりたいんだ?ってことなんだよね。色々とやってはいるけど結局何がやりたいのかよく分からない。まぁそれは色々と手を出してるから余計に混乱するってのはあると思うんだけどね。例えば哲学だけやってれば「俺には哲学しかないんだ!」みたいな感じでやっていけるかもしれないけど自分はそういうタイプじゃないわけじゃん?


いや、なんか例えるならさ、ハイパーメディアクリエイターみたいなさ、あとそいつは何者なのか?っつってプロフィールを見るとよく分からないもののコンサルタントとウェブ関係のコンテンツの作成とデザインと音楽活動と執筆活動とセミナーと・・・っつってまぁマルチって言えば聞こえはいいけど結局「何なのこいつ?」っていう感じになるじゃん?まぁ別に人からどう見られるか?なんていうことはどうでもいいのよ。ただね、なんか俺はその自分の理想像としてはやっぱ職人なんだよね。なんかのことに関してすげーストイックに取り組むっていうさ、まぁステレオタイプなイメージで言うと陶芸家みたいなさ、あとなんか永遠と修練っつって空手ばっか永遠とやってるような人とかさ、そういう感じなんだよね。でもなんか実際の自分はっていうとすげーハイパーメディアクリエイターっぽいっつーか何をやりたいのかさっぱり分からないっていうさ、自分は器用なつもりはないんだけど結果的に器用貧乏みたいになっちゃうんじゃないかな?って思ったりするんだよね。色々と手を出してるのはいいんだけどどれもイマイチ冴えないみたいなね(笑)で、最近思ったのが俺の理想像ってようはルネッサンスマンみたいな感じなんだよね。


でも色々と考えてみるとルネッサンスマンっていう概念が成立するのは昔の話で今ってまぁ大体の人が少なからずルネッサンスマンなわけよ。ようは色々と幅広くやってるって意味でね。まぁあとは深さの問題なんだけどさ、まぁでもなんかこの色々やるっつーのもすげー陳腐なんだよね。ありふれてるからつまらないのか?っていうとそうじゃなくてやっぱ誰でも情報を得ることが出来るから誰でも何でも出来るんだよねっつーかまぁかといっても別に俺は他と比べて自分の差別化を行いたいとかそういう動機じゃないんだけどね、ただまぁなんかあれなんだよな、なんか典型的な今の人っつーかさ、情報へのアクセスが容易になってそれを利用して大量の情報を入れてる人っていうさ、なんかそれ以上でも以下でもないじゃん?


色々と知ってるってこと自体に価値なんかないのは分かってるし、そんなところに価値は求めてないしそういう話はどうでもいい話なんだけどさ、なんかでもこの環境によって生み出されてる感っつーのかな?ただの所産感が半端じゃないんだよね。内発性に動かされているようで実際は誰でも何もかもにアクセスできて対してコストもかからないっつー環境を享受してるだけっつーのかな?あとまぁ実際に誰とは言わないけど膨大な読書量を誇ってる人とかっているけど別に本人自体が何なのか?っていうと別になんでもないって人多いじゃん?(笑)それはまぁ単純に人間的な魅力が無いっていうこともあるんだろうけどさ、なんかまぁそういうのは置いておいて色々と知ってるからって何なの?っていう感じなんだよね。それによって何かをなせてるか?っていうとそうでもない人が多いでしょ?まぁせいぜいそういう膨大な読書量ってのをベースに読書に関する本を書いたり書評を書いたりするっていうだけで別にそれは日本に限らずなんだけどそういうインプットが大好きな人って別にそれでなんか面白いアウトプットが出来てるのか?って出来てないもんね。まぁそれを目標をしてるわけじゃないんだろうから面白いアウトプットが出ないこと自体に非はないんだけど傍から見ててすげーつまんねぇーやつだなって思うんだよね。本人は楽しそうだからそれでいいんだけどさ。


で、まぁこれって明日はわが身っつーか結局俺も同じじゃん?って感じがするんだよね。知識があるだけでつまらない人っつーのかな?まぁ俺はつまらなくはないんだよね。それは自分で分かってるのよ。でもそれと知識量は関係ないんだよね。元々つまらない人ではないってことだけで。ただそのね、俺が言いたいのはその個人の特性は置いておいて、自分がやっている活動と自分のあり方っていうそのものだけを見るとさ、それで結局何なの?ってことになるってのがすげーつまらないって思うわけよ。女優とかで言えば見た目だけみたいなさ(笑)あとはまぁ何かでブレイクしたってだけの一過性のブームだとかさ、あとはまぁ女子アナなんかでも可愛いってだけでちやほやされたりするんだけどあんなのもまぁ老けたら終わりじゃん?ましてや今のネットって凄いもんね。何かと言えば「超絶劣化!」とかいってフライデーとかああいう感じの雑誌も真っ青なぐらいの下世話なもんを素人が書いてたりするじゃん?んだからまぁ若干劣化したぐらいでもうその人が地に落ちたように見えちゃうっていうさ、まぁ実際はそう騒いでるだけなんだけどそう騒がれるっつーのが世論を形成するじゃん?


んでもね、結局これってさ、超絶劣化!とかっつってそれでなんか全てが終わるような人ってようは別な言い方をすればただの見た目だけの人だったってことなんだよね。だから劣化したら終わりって別にそれは超絶劣化とかっていちいち騒ぐ連中がどうのっつーよりかはある種の事実だよね。結局は中身が無いってことなんだよね。鮮度だけが取り柄って結局そういうことだもんね。本質的につまらない人ってまぁ大体そうなんだよね。結局まぁ中身が無いからつまんないんだよね。別にそれはメディアとかネットとかの評価とかってのは別にしてね、いや、それはあれなんだよね、見た目だけが取り柄って人ってのはまぁようは知識量だけが取り柄って人も同じようなもんなんだよね。まぁ知識は劣化しないから見た目だけとは脆弱性が違うにしてもまぁでもなんかさ、中身の無さを見た目とか知識量で誤魔化せるって意味ではまぁ脆弱ですよね。なんつーのかな?superficialな感じっつーのかな?


いや、こないだ有吉の夏休みっていう特番を見ててさ、んで仮に俺があんな感じでっつーかまぁテレビとかは抜きにしてバカンスの場所でクルーザーとか借りてパーティーとかして贅沢三昧してそれで満足できるのかな?と思ってさ、いやー満足できないだろうねぇーって思ったんだよねぇーっつーか結局今と変わらないだろうなっていう。まぁ元々ああいう感じのものに価値を感じないっつーのはあるにせよ、なんかその一般的に言われるような勝ち組っぽい感じっつーの?あ、そうそう。それで言うとディカプリオのリメイクの華麗なるギャツビーを見たんだけどさ、まぁこの場合、「華麗なる」っていうその華麗さの虚しさってのはあんま描かれてない感じはするんだけどまぁあれってフィッツジェラルドの実体験が元っつーかまぁ散々色々とどんちゃん騒ぎしてもひたすら虚しさだけが残るってことなんだよねっつーかこれコミカレのときに英語の授業で永遠とやらされたから忘れようにも忘れられないっていうさ(笑)相変わらずこれがなんで名作って言われるのか分からないし、村上春樹が何でそんなに絶賛するのかもさっぱり分からないっつーかそもそも村上春樹が絶賛される理由が分からない俺としてはそんなの分かるわけないんだけど、まぁそれはともかくさ、中身が無いって虚しいよね。


結局のところ虚しさってまぁようは自分のつまらなさに対して虚しさを感じてるんだよね。あ、こないだサルトルのbeing and nothingnessをオーディオブックで聴いてるって書いたけどまぁ10時間ぐらい聴いたんだけどまぁ別にこれはサルトルに限らず現象学的な考え方全般がそう考えるんだけどようは意識って常に何かに対するものじゃん?それはもうサルトルも永遠とそれを語ってる感じだよねっつーか話が逸れるけどもっと抽象的な話をしてるのかと思ったらある種のデカルトみたいな徹底した感じなんだよね。ちょっと驚きがあったよね。なんかあのくどさは要約すればすっきりするようなものを永遠と1から証明していく数学の証明のくどさにも通じるものがあるよね。まぁそれはともかくさ、サルトルの場合、結局は自我っつーか存在ってのは少なくとも自分にとっては明かというかどう否定しようにも自ずと存在自体が存在として浮かび上がってきちゃうみたいなさ、どちらかというとネガティブな意味での存在のあり方を言ってるよね。


そういう意味で自由だし常に何らかの選択を迫られてるっていうさ、まぁこれって実存主義全般の一般的な考え方でもあるし、ヴィクトール・フランクルなんかも言ってるけどまぁそういう実存の場に立たされるっていうことなんだよね。常にそういう意味での逃れられない強制された自由ってのが存在には課せられてるっていう。あ、まぁこれはサルトル的な実存主義だけどね。でもまぁ結局、実存主義全般はアプローチの違いなんであって根本これだよね。で、それを敷衍するとまぁ俺のこの虚しさとかつまらなさって結局何なのか?って思うと結局はそれは意識のあり方なんだよねっつってもネガティブな考え方ってことじゃなくてつまらないって感じている自分のつまらなさにつまらなさを感じてるんだよね。で、人はそれを錯覚して環境のせいだとかって思って楽しいことをしようとしたりそれこそハワイでクルーザーに乗ってパーティーとかしようと考えたりするんだけどまぁ結局最後にはつまらなさが残るじゃん?っつーか環境的な要素で面白い!って感じられるのは一過性のものなんであって実存とは関係ない外的な刺激によるただの反応なんだよね。


だからまぁ究極的に言っちゃえばそういうのって全部錯覚なんだよね。だから基本的に何でも虚しいわけよ。で、今の時代の多くの人が感じてる虚しさってやっぱこれなんだよね。勝ち組になってパーティーとかすれば楽しくなる!っていうような幻想すらもなくなっちゃってるから大きな物語が機能しなくなったっつーのは前から書いてるけどまぁ幻想が無くなった分、人それぞれが実存そのものと対峙することになって自ずと虚しさとかつまらなさと向き合うってことになっちゃうんだよね。そこでまぁアル中になったりギャンブル依存になったりセックス中毒になったりヤク中になったりするっつーのもようはそういうむき出しの実存からの逃げなんだよねっつってもそりゃ逃げたくなるのも分かるよってぐらいその虚しさって深いじゃん?だから防衛本能として考えれば別にそれ自体は結構合理的だったりするんだよね。破滅的ではあるんだけど。


あ、んでこういう話すると必ず「いや、自分は人生楽しんでますよ」って人が出てくるけどそれはもうそれでいいのよ。別にそういう人が楽観的な馬鹿だとかって言いたいんじゃなくてそういう風に感じてるってことはその人自体が面白いんだと思うのよ。それは人間関係だったり仕事だったりっていう色々な複合的な要素があるにせよ日々楽しいって感じられてる人はもうその時点で救われてるよね。まぁ救いって言葉が適切かは分からないけど人生の生き方が上手いんだよね。そういう人は。で、下手糞なやつは虚しさとかつまらなさに永遠と対峙して気を病んじゃったりするんだよね。これをアッパー系とダウナー系って分類すれば楽だけど実際はそんなに簡単なもんじゃないんだよね。まぁでも色々と深く考える傾向がある人が鬱気質になるっつーのは事実だよね。んでも結局存在なんてことについて深く考えても結局行き着く先は属性とかが無い素の存在ってことになるよね。ただとりあえずそれだけっていうさ、いや、それだけで見れば誰でもそうだからこそそこに色々なattributionを入れていくわけじゃん?それが人間関係だったり家族だったり仕事だったり社会的な何かの達成だったりさ、だからそういう意味で人間が何かをするのって当たり前っつっちゃー当たり前なんだよね。そもそもの何にも無さに耐えられるわけがないから何かやるしかないんだもんね。まぁ仏教とかの場合、極めると何もしなくていいってことにもなるんだけどさ、いつも書くようにああいう境地に至れる人ってすげー少ないのよ。俺の場合、その無我みたいな道理は頭で理解できたけどそれを実践できるのか?っていうと無理だったからね。分かることと実践したりその境地に達することって違うんだよね。それはまぁ哲学然りなんだけどね。


あ、あれだね、知識を増やすだけなら誰でも出来るっつーのはようはなんだろうな、未来に美容整形がすんげー発達して誰でも美人になれるようになったんで美人であること自体の希少性みたいなのが下がるみたいなことですね。みんな美人だったらっつーかまぁそんな画一的な外見の判断ってのはおかしいにしてもまぁ最後に残るのは中身ってことだよね。それが言いたいだけなんだわ。んだから知識をいくらつけたところで中身が無いやつならそれはどうしようもないままってことだね。あとあれだ、人間性がクズだったりしてもまぁホントダメだろうね。まぁそういうやつっているからね。頭いいんだけど人間的にスケールが小さすぎるとかあまりに人間的にクズ過ぎるとかね。んまぁだからあれなんだよね、誰でも膨大な知識を得ることが出来るっていう現状はいいよね。それによってただ知識あるっていうだけの人の価値が下がるってのはすげーいいことだと思うんだよね。


まぁでもあれだわ、別に頭に入って無くても知りたかったら全部ググれば出てくるっつーのと情報が頭に入っているということを同じにするのはやっぱダメだよね。ググれば出てくるから別に博学であること自体に価値は無いっつーのはそれは違うんだよね。それがまぁこないだ書いた情報と知識の違いってことなんだよね。ググれば何でも出てくるから百科事典的な知識は意味無いっつーのは知識と情報をごっちゃにしてる話なわけだから。んでも確実に言えるのは情報がクラウド化されることで多くの情報について知っているっていうこと自体の凄さみたいなのは相対的には下がるってことなんだよね。んでもだからこそやっぱ余計に中身が重要になるんだよね。それでどう考えるのか?っていう肝心の知の部分だよね。そういう意味で大量の情報について知っているってだけじゃどうにもならないっつーのはまぁホントにそうなのよね。知識量=知恵ってことにはならないってことなんだよね。んーまぁーあれだわな、ベタな話だけどやっぱ思考力だよね。でも限られた知識で考えても意味無いからそれを考えるのに必要な知識ってのは身につける必要があるんだよね。んだからまぁ結局はその思考のインフラが知識だよね。


まぁこれって主知主義的な考え方なのかな。っつってもまぁあれなんすよね、知識だけあっても何の意欲も無いっつーかさ、あと志が低いとかさ、それじゃあ知識が活きないじゃん?まぁこの主意主義主知主義か?っていう議論自体意味ないんだけどね、でもなんか結局、最終的に落ち着くところはその人の人格だよね。それは意志とか知識っていうレベルではない話で。だから元々下種なやつが思想とかやっても結局アウトプットが下種になるのってその知識がダメなんじゃなくてその人自体がダメだからなんだよね。こればかりはもう元々の問題だから学問をやれば人間性が磨かれるとかそんな話じゃないんだよね。むしろあんま関係ないんだよな。色々と知識が増えれば良識が増えるのか?って全然そんなことないんだよね。


やっぱなんかそういう色んな意味での知識の活かし方っつーのかな?結局はそれは人間性に帰結するんだよね。でもこればかりは色々と読んだり学んだりしてどうこうって話でもないからさ、なんかこの辺は最近色々と気になるところだよね。すげー良いことを言ってたりするのになんで人間的にクズだったりするのか?っていうさ、いやね、知恵を働かすっていう場合って何らかの形で絶対その人の人格が介在しちゃうじゃん?だからなんかすげー偉大だって思われてた人が実は虚栄心の塊だったとかさ、むしろ知的にも立派で人間的にも立派だったなんつー例が逆にレアなぐらいだよね。それは何でなんだろうな?ってことなんだよね。そう思うとなんかやっぱり重要なのって結局はそこで知識なんていくらでも手に入るからある意味どうでもいいとかって思い始めてるってことなんだよね。どうでもいいっつっても冷めるってことじゃなくて重要なところっつーか勘所っつーのかな?そこはやっぱ人間そのものってところなんだよね。


だからまぁある意味で知識云々っていう次元の話ではないんだよね。んでもなんか知のフィールドだと特にこういう人間の部分って軽視されるよね。それよりもなんか知識量とか仕事量とかさ、そういうところばっかだよね。まぁそれは当たり前なんだけど逆にそれが当たり前って前提でなんで知に関わることをやってるのに人間性の部分は軽視されるのか?っていう疑問があるんだよね。そんなに重要じゃないことか?っていうと全然そんなことないわけで。小保方騒動とか典型だけどなんかそれって学者の倫理とかってことじゃなくてなんかもっとなんつーのかな?広い意味での人間のあり方っつーのかな?それが抜け過ぎてるんだよね。なんかそれも含めて知でしょって思うわけなんだよね。でもこれって情報だけじゃどうにもならない話なんだよねっていうか凄く逆に情報化しづらい部分なんだと思うよね。


だからこそ本質的な意味での教育の重要さってのが見えてくるよねっつってもまぁかなりロマン主義的っつーかヒューマニズム的で現実的じゃないかもしれないけどね。なんだろうね、臭い言葉で言えばハートの部分だよね。いつも俺が色々な話をしても結局はその「善くあること」っていうbeingの話に帰結するのってのがようはこのハートの部分ってことなんだよね。結局一番重要なのってそこなんだよな。簡単なようで一番難しい部分だよね。で、別にこれは学問を通じてどうのって話じゃないんだよね。なんかそれ以前の基本としての人としてのあり方っつーのかな?そこを学問を通じて人間性がどうの・・・って話になるとダサい感じのヒューマニズムになっちゃうんだけど、なんかそうじゃないもっと根源的な部分としての人って意味だよね。いや、改めて実存とかについて穿り返して見ると結局、根底にあるのってそれなんだよねってことになるんだよね。いや、多分サルトルをオーディオブックで聴いたからっつーのもあるんだろうね。だからまぁ色々と喚起されるんだよね。


特にこういう凄く人間臭い実存主義とかになるとさっつーかまぁ俺はずーっとこれなんだけどね、なんかでもあれなのよ、そのね、例えば数理ファイナンスでも数学でもなんでもいいんだけどさ、いや、デフォが実存系っつってもまぁあれなんだよね、数学とか科学やる場合、人間としてどうのなんて話は出てこないじゃん?で、そういうのを知識として入れてるだけっつーのだと本当に人間の部分が磨かれないよなぁーって改めて思うんだよね。いや、別に哲学やれば磨かれるって話でもないんだけどね、なんかでもやっぱあれなんだよな、とりあえずググればいい的な発想ってようは功利的なんだよね。そうそう。そのただの情報としての知識だよね。なんかここでなんつーのかな?もっと凄く泥臭い人間的なものっていうのに絡む必要があるんだけどなんつーかまぁ風潮的にっつーか一般的にそれをやるとダサいっていう感じがあるんだよね。


んでもなんかね、アメリカの一般書とかに多いんだけどなんかすげーまとまってるんだけど中身が無いっつーか本当にただの知識の要約だよなぁーってのが多いんだよねっていうか欧米全般そうだよね。なんで知識って功利的に扱われちゃうのかな?っていうさ、なんかしらの虚栄心とか功名心とかお金に繋がることとかさ、ためになる!的なノウハウ的なものに解体されちゃったりね、まぁ特に書籍化されるもんはそりゃ需要と供給のバランスだからそりゃマーケット的にみんなが求めるようなものばっかが書籍化されたりするってのは当たり前なんだけど、んでもなんでああいう知識の要約みたいなのばっかなのかな?って昔から疑問だったんだよね。アメリカの本ってそういう意味ですげー良く出来てはいるんだけど心に響くようなのって滅多に無いよね。まぁアメリカにそんなもん求めてもしょうがないだろうって話なんだけどさ、でもまぁなんつーか英語で書かれるもののスタンダードみたいなのってなんでああいう枯れた感じっつーか生気が無い感じがしちゃうのかな?っていうさ、求められてないと言われればそれまでなんだけどさ、あと怖いのがさ、なんかすげー考えてるようで考えてないっつーやつね(笑)考えてるやつっつーのがスタイル化してるっつーのもあるよね。


まぁそれがあれよ、ようは心から出た言葉じゃないartificialなモンが言語化されてるからそうなるってことなんだよね。まぁ比べるのは酷なんだけどさ、こないだオーディオブックで聴いたヴィクトール・フランクルのman's search for meaningなんかは本当に心の言葉なんだよね。でもそれがどっから来たのか?っつーとやっぱ知識量と経験だと思うんだよね。逆に経験だけしててもあれだけのものは書けないわけでさ、そこはやっぱ知識とか地頭の部分じゃん?それってだからまぁ凄く偶発的なことなんだよね。んじゃあまぁみんな強制収容所に入れば名文が書けるようになるのか?っていうとそういうことではないんだけどさ、なんかでもやっぱね、いや、名文なんつっても別に文体どうのじゃないもんね。なんか凄く熱いものを感じるっつーかさ、やっぱそこって人間臭さってことだと思うんだよね。


んーでも別に人間臭さと例えば科学的知みたいなのは関係ないって言われちゃそれまでなんだけどさ、ただまぁあれなんだよね、知を有する条件っつーのかな?知識だけあってもダメってことなのよね。つまりは。まぁだからそういう意味で中身が重要っつーまぁただの普通の話なんだけどね(笑)色々と理論武装したところで中身がなきゃどうにもならないってことでさ、まぁ当たり前のことなんだけどさ、いや、最近まぁ凄いペースで色々と吸収してるわけだけどまぁこれを続けたところで何にもならないっつーかただの物知りになるだけだよなぁーっていう先が見える感じっつーのかな?だからまぁなんかその色々と知識を吸収してるってだけで満足してたらダメってことなんだよね。まぁそういう意味でただの自戒なんですが。


まぁそんな感じなんですよね。こうなりたい!っていうような具体的な目標は昔に比べてなくなっちゃったわけだけど、んでも「これはダメだな」っていうのは分かってるっていうのは良いことですよ。いや、知識だけある人を見ててマジで思うんだよね。いやーこんなんでずーっとインプットだけやってきたんだなぁーって本当に惨めな気持ちになるんだよね。これが惨めなのは本人は惨めだって感じないところね。本人はすげー頭を使って色々と吸収して色々と述べてるつもりでいるんだけど実際は全然そうじゃないっていう。そこの空虚さだよね。なんか本当に脅威を覚えるレベルで怖いよね。


まぁそんな感じなんだけどさ、んでも結局なんか思うのはその肝心な中身ってやっぱどうにかならない部分もあるよね。こればかりは努力でどうのってレベルの話じゃない場合もあるわけで。そうそう。こういうのもニーチェが言うところのthe last manなんだよね。でも本人はカウチポテト族とは程遠い知的な存在だと思い込んでるんだけど本質がカウチポテト族と変わらないっていうさ、まぁだからなんかそこの俺が普段から言うビジョンなんだよね。必要なのは。っつってもまぁthe last manはそれなりにビジョンを持ってたりもするわけじゃん?ようはその人自体が完全に終わってる人だとその人のマインドセットがどうであれ基本的にオワコンなんだよね。それを本人が知る術はないっていうこれって最高に恐ろしいことだよね。そうね、こういうところに関しては本当に不安だよね。なんかでも必要な不安っつーのかな?すげーインプットしてるぞー!なんつーことで満足しないようにするっていう自戒でもあるし、本質はインプットとか知識量がどうのって話じゃないんだぜってことなわけだからね。そうそう。読書ってまぁそういう意味でfalse consciousnessみたいなのを与えやすいよね。なんかやってる気分になるしそれ自体で何かを成していたりするような気分になるじゃん?でも実際はそういう知の部分で自分が一体何をやってるのか?とか考えてるのか?ってところが重要なわけだからね。んだから読書自体で満足するってことはまずありえないわけで、んだからまぁこの俺の不安っつーか満足しない感じって間違いじゃないんだよね。それが分かってるからこそ満足しないんでしょってことなわけだから。


まぁそんな感じですわ。んじゃまた。