君もペルソナ使いになってみよう。

バイオ系のゲームは飽きたとかいいつつ娯楽が無さ過ぎるんでsteamで75パーセントセールやってたんでrevelationsと6買ったんすよ。いや、偏見は良くないね。普通に面白いどころかバイオとかサイレントヒルっぽいインターフェースに飽きた人にとっては別物でさ、いや、それが故の批判もあるんだけどね。別物になってるっていう。でもまぁーあれは良い進化なんじゃないかなぁーと思いましたよね。去年5買ってつまんねーつってやめたけど何でだったんだろな?まぁでもあれよ、オーディオブック聴きながらゲームなんつってもあれよ、PS2とかのRPGとかに限る話でバイオとかsteamでやるようなゲームは基本無理ですよ。まぁ裏でオーディオ流しながらゲームの音を切る設定にしてやるっつー方法もあるけど雰囲気ゲーでこれをやるのは意味無いからね。いや、んでオーディオブック聴きながらやれるようなゲームって限られてるじゃん?っつーかアバタールチューナーとか幻想水滸伝3と5とかね、4はクソ過ぎて挫折したけどまぁ色々やったんだけどまぁ例によって一瞬で終わっちゃうんだよね。だから結果的にやれるゲームが無くなっちゃうんだよね。だからまぁ非常に困ってますね。ええ。


あ、んでオーディオブックなんだけどさ、改めてまぁ色々と知識って何なの?って思うんだけど、オーディオブックで聴くような内容ってまぁ科学系のやつだったら実験の結果とか事実とかさ、それはサイコロジーも同じなんだけどさ、まぁ「そうなんだなー」って思う感じのファクトっつーのかな?あとあれ、書いたっけ?アーレント全体主義の起源ってオーディオブック化されててさ、ただまぁトピック的に正直あんま興味ないんだよね。人間の条件はちゃんと読んだけど。あれってでもまぁ人間とか人間の活動とか生き方に関する話じゃん?で、全体主義の起源ってまぁ歴史的な考察とかじゃん?まぁ重要なんだけど改めて思ったのが俺って歴史系ってあんま好きじゃないんだなってことね。いや、でさ、数学の本とか読んでるとなんか凄く満足感があるわけよ。いや、前にも書いたようにオーディオブックで活字系のやつは全部聞いてるから読むのっつったら数学書と数理ファイナンスのやつばっかなんだけど、数学って事実と同時にセオリーでもあるじゃん?


で、なんかね、これぞ知識だよな!って凄く感じるのね。数理ファイナンスがきっかけで解析と確率論にハマってるんだけどやっぱ数学の知識って俺が満足できるような知識なんだよね。だから乱暴に言えば俺ってどちらかというと理系なんだなって思ったのよ。頭がっつーよりかは興味がね。頭の理系文系って意味では俺は両方だしっつーかそれどころかまぁ文武両道ですから(笑)んでもまぁ好みってあるじゃないですか?で、まぁやっぱ人文系でもやっぱサルトルのやつとかはまぁさすがに退屈になるけど凄く人間とか存在の根幹に関わる話なんで興味深いし、あとはまぁ東洋哲学なんかにしてもっつーか仏教とかにしてもまぁようは人間の話っつーか自分の話ってことになるじゃん?でも歴史の話って違うよねってまぁそりゃ同じ括りには出来ないんだけどさ、もちろん歴史を知るってことも重要なんだけど史実って言い出したらキリないんだよね。まぁなんだかんだで科学系のは相当読んだけど膨大に色々と読んでても史実ばっかじゃなんかダメっつーかさ、なんかやっぱ俺が知りたいのってセオリーなんだよね。確率とかについても確率論の歴史じゃなくて確率そのものっていうさ、いや、今ってまぁ大量にオーディオブックを聴きまくっててほぼ自分が手を出してるジャンルを同時に色々と聞いてる感じなんだけど、そんな中で何が一番面白いか?ってそこがまぁすげー自分でも面白かったのがさ、結局数学ってところなんだよね。


あとは数理ファイナンスにしてもいつも書くようにリーマンショックがどうのっつーよりかはファイナンスの理論の部分でさ、んでもどう運用するか?とかじゃなくてやっぱバシュリエから始まってる数理ファイナンス全般のセオリーの話なんだよね。だからなんかあれなんだよね、色々とヘッジファンドがどうのみたいな本を読んでもいまいち面白いって感じないのはやっぱ自分の好みだよねってまぁヘッジファンドがどうのって話自体がそんなに面白いもんではないんだけどさ、んでもまぁファイナンスをやる上では知っておきたいことってあるじゃん?でもやっぱあんま興味ないやつに関しては興味ないんすよね。だからまぁある意味でお勉強的に詰め込まなきゃいけない部分ってのがあって、でもそういうのが一向に進まないっつーかさ、効率悪いよね。いや、進まなくはないけどつまらないから結構苦痛なんだよね。


あとファイナンス系でもad hoc過ぎてなんかがちょっと変われば全てが崩れ落ちるような脆弱なセオリーとかさ、一般性が無いやつとかってすげー冷めるんだよね。あと結局はただの金勘定が高度化したものってのが多くてそういうのもまぁすげーつまらないわけ。で、結局興味あるのがランダムウォークの話とかまぁマンデルブロ系の話とか大局的なマーケットの動きとかっていうようはマクロなんだよね。んだからやっぱ元が数学でんで現実に興味があることも結局は数学がベースのものばっかなんだよね。確かにまぁ運用の話とかも色々な数学が応用されてて面白いんだけどどうでもいい感が半端じゃなくてさ、まず俺自体がそれに興味があるわけじゃないし、逆に本当にハマれる人ってマジで株とかが好きな人なんだろうなって思ったわけですよ。で、俺はあくまで数学が好きなだけなんでだから部分的にしか興味が湧かないんだなって思ったわけですね。


まぁだからこれは好みの問題だからっつーかやっぱ結局は抽象的なものが好きなんだよね。あとは根本が抽象的で一般性があるやつとかね、まぁようは好きなのは数学なんだよね。まぁだから実利的な数理ファイナンスに興味が持てないのもまぁ別にいいんじゃね?って思うようになりましたね。自分にとってはそれはくだらないことなんだからまぁそれはいいじゃんっていう。ただまぁデリバティブとかオプションの理論とかあるじゃん?ああいうのって結局は確率論と微積分の話なんだよね。まぁ当たり前なんだけどさ、それ言い出したら何らかの理論は全部何らかの数学によるものなんだけどさ、んでも何が言いたいのか?っていうとデリバティブとかオプションに興味があるんじゃなくて確率とか微積分が応用されているのを観察するのが好きっていうことなんだよね。で、現実のものに応用してどんくらいまでそれが応用されるのか?とかあとは数学っつーよりかは応用する人間の限界とかね。


まぁそんな感じかな。俺的にこんぐらいの普段にしちゃー短い話をこまめに書いていきたいと思うわけですよ。ずーっと放置でいきなりガーッ!と書くのも面白いんだけどやっぱなんかどうでもいいことでも文章化したりするとなんか自分の思考がチェックできるじゃん?んでもまぁあれだな、なんか良かったなぁーと思って。いや、だいぶ前に買って興味なくて読んでなかった確率論の本を引っ張り出してきて今はむさぼるように読んでるわけよ。結局、数理ファイナンスってのがフックになって結果的に確率論にハマれるようになったわけでこれってまぁすげー進歩だよね。こういうことの繰り返しでどんどんと知のランドスケープみたいなのが広がっていくってのがベストだよね。あ、ちなみに確率論の本はA.N.ShiryaevのProbabilityっつーやつなんだけどね。俺ってまぁルベーグ積分とかが大好きなのよ。で、まぁ結局確率論なんてほぼルベーグっつーか積分についての話じゃん?あと変なカウントの仕方をしないように厳格に条件を定めるとかさ、まぁようはさっき数えたもんもまたプラスしちゃうと全体が狂うからその辺の調整を厳密に数学的にやっていくっていう作業だよね。まぁでもその条件付けとか調整って理論的な都合でやらなきゃいけないんだけど読んでる側にしたら自明なことだからさ、まぁだからそんなに頑張って読まなくてもいい部分も多いよねってまぁそれ言い出したら数学全般そういうのが多いんだけどね。


なんかやっぱmeasuresとかmetrizationが好きなんだよね。で、まぁこれってようはトポロジーみたいなもんだから結局は元々好きな数学の分野のパラダイムを確率とか実利的な偏微分とかに広げてるだけなんだよね。まぁそれで言うと数学って全部で一つだからね。ジャンルとか無いからね。全部繋がるし部分は全体だったりするわけだから。こういう感じで結果的に広い数学の視野が得られればいいよね。まぁそれを得たところでなんになる?って話は別として(笑)まぁとりあえず楽しかったらいいじゃん?って話だし、数学を究めるっつーのはまぁ元々目標にしてることなんだからそれはいいじゃないですか?なんかでもあれなんだってさ、まぁこれも最近聴いたオーディオブックとかからの知識なんだけど幸福度ってそういうその例えば極めるみたいなことに関してもそれでどうなる?とかそれで何をするか?っていうことに重点を置く人よりもプロセスそのものに集中できる人のほうが幸福度が高いんだってさ。


まぁ幸福度って言い方は正しいか分からないけどまぁでもそのプロセスを重視してそのプロセスの結果として何かが出来たりなんらかのことを出来るようになったりするっていうのがベストで「これをやって何になるんだろうか」みたいに考えちゃうのってある種のネガティブ思考っつーか脳の進化を妨げるんだってね。ようは脳の可塑性を妨げるものになるっつーのかな?それをやってなんになるっつーよりかは例えば数学にしてもそれ自体を会得してることで数学全般の思考とか考え方とか世界の捉え方が出来るようになってるっつー脳の進化なわけで、結局、「それでなんになる?」って話をしちゃうと脳を進化させたところでなんになるの?みたいな話になっちゃうんだよね。いやーそれはナンセンスでしょ。なんで条件も無しに脳の進化は良いことなんだ!って言い切れるのか?っていう問いには価値はあると思うけどまぁポイントはそこじゃないじゃん?まぁ育成全般良いことじゃないですか?


例えば字が上手くなるとかさ、英語力が上がるとかさ、なんでもいいんだよね。FPSが上手くなるとか格ゲーが上手くなるとかでもいいんだけど、特にニーチェなんかだと生の肯定に繋がるようなものってのがようは善なんだって言い方をしてるもんね。英語力と生の肯定は何の関係もないじゃん!って言われれば確かにそうかもしれないけど英語が出来てるに越したこと無いっつーこの自明性ってようはつまりはニーチェ的な善をアプリオリに受け入れてるってことなんだよね。ゲームが下手なよりかは上手いほうが良いのもなんでそっちのほうが良いのか?っていうとこがさ、ようはそのexcellency自体に善が内在してるっつーのかな?素晴らしい!って言われる技術とか特性とか特技とかに関しては何で素晴らしい!って言われるのか?っていうとそれは善が内在化されてるからなんだよね。だから無差別殺人に素晴らしさは無いわけよ。どんだけそれが鮮やかだろうが素晴らしくはないわけ。いや、このexcellencyってこと自体から帰納的に善が抽出されるっつーのかな?善の自明性ってのがexcellencyという概念自体に内在してるってのが俺的に凄くクールなわけよ。


んだからまぁ俺が色々と好きになったことを極めようとするってのもようは善へのコミットなんだよね。まぁそんな大それた動機付けでやってるわけじゃないけどさ、でもまぁ「結局それで何なの?」ってつい思っちゃうってまぁ病気みたいなもんなんだよね。だからそれに関してはようはそれ言い出したらなんで善くあることってことが良いの?とかさ、善くてんで結局何なの?って話になっちゃうってことなんだよね。ニーチェニヒリズムからニヒリズムの超越っつーのに向かったのも必然的なんだよね。別に俺自体は常にニーチェを意識してるわけじゃないんだけどいつもニーチェ的なものに帰結するんだよね。これって何なのか?っていうとやっぱり相対的な価値観の中でも絶対的に善と言い切れるものがあるっていうようなことに関する普遍性なんだと思うわけよ。まぁこれ自体も功利的で西洋的な考え方だって言っちゃえばそれまでだけどさ、でも俺的に言えば結果的にこれが功利的ってなおさら良いことなんだよね。


宗教が結局は統治に使われるっつーのも例えば悪いことをしたら地獄へ行くみたいなのもまぁ不安のポリティクスを上手く使ってるっていう例じゃん?いや、俺が思うexcellency自体の善はイデオロギーじゃないと思うけどね、でもまぁ何でも相対化しちゃえばそれもまぁ西洋的な功利的な考え方だってことになるんだけどさ、んでもまぁ相対主義って何もしない無の境地かニヒリズムぐらいしかないじゃん?結果的に生の肯定が出来ないってのが嫌なんだよね。人生自体に意味が無いからこそ意味を与えたいわけだし肯定したいわけじゃん?だからまぁ結局、いつも書くようなwant toベースの話になるんだよね。好きなことに没頭するのが一番!ってことになるわけよ。ようはこれ自体がモラルなんですよ。凄くない?んだからあれなんだよね、excellencyに向かうものを拒むみたいなのは必然的に悪になるよね。


まぁ善悪って考え方は単純すぎるんだけどさ、んでもまぁあえて便宜的に言うならようはexcellencyに向かっているのにも関わらず特に日本みたいな村社会根性持ってると誰かが凄く秀でるってことになっちゃうと自分の凡庸さが否定されるような気になっちゃうからんだからこのexcellencyっていう善を拒むんだよね。それを認めなかったり阻止しようとするのね。それは凡庸であるってことを自分で肯定したいからなんだよね。正当化したいし否定されたくない。そういう意味での防衛本能なんだよね。まぁ最悪のメンタリティですけどね(笑)あといつも思うのがなんで凡庸ならそれを変えようって思わないのか?ってところなんだよね。凄い人を否定したり僻んでるんであれば自分が変わればいいのになんで他を潰すってことに終始するのか?っていうさ、いや、逆に凡庸であるってことが良いことであるって思ってるなら他を攻撃する必要ないじゃん?んでも攻撃するってことはやっぱそれ自体を良いことだとは思ってないんだよね。あーでもそういうわけでもないのか。誰かが特出してると恒常性が保たれなくなるからっていうただの防衛反応ってことでもあるんだよな。それはまぁ動物が縄張りに入ってこられたらそれを守るために攻撃するのと同じ感じだよね。まぁでもそれが縄張りとかだったらそりゃ分かりますよ。Hey You Kids Get Off My Lawnってことじゃないですか?んでも凡庸さって縄張りじゃないしさ、まぁ縄張りなんだとしても侵略されてないのにこっちから攻撃するのってダメだよねってあーそういうことじゃないんだよな。誰かが秀でてるってこと自体が彼らにしたら攻撃になってるから結局潰すしかないってことになるんだよね。


まぁんでもさ、excellency自体がモラルなんであればそれを認めないっつーのはインモラルですよね。良いほうが良いっつーのは残酷なことかもしれないけどんでもそれはやっぱ絶対的な善だと思うんですよね。俺は。あと別にそれって技能とか才能とか知識においてのみexcellencyってのがあるわけじゃなくて馬鹿でもすんげー優しい人ってまぁその凄まじい優しさってexcellencyじゃん?で、これが功利的か?というとそうでもない。むしろ優しすぎることで損をすることのほうが多いかもしれないよね。んでもそうだとしてもそれは絶対的な善なんだよね。むしろ滅多にそんな人はいないってことで希少性って意味でも凄い価値があることでしょう。そうなんだよね。だから結局は価値ってことになるんだよね。何が価値なのか?って話なのよね。で、やっぱりそれは善なんだよね。もうこれに尽きるね。


で、善い社会ってのはそういった善が善として認められて成立する社会だよね。んだからまぁ大雑把な話をすると善人が善人であるが故に社会的な意味で損をして自殺するみたいな社会は善いわけないんだよね。別に日本に限らずなんだけどどこでもなんか重要視されるのって立ち回りだよね。それが凄いって?まぁそれがそうだとしてだから何なの?それでその人は食えてるの?的な価値観って根強いどころか近代になればなるほどこういう傾向って強くなるよね。どんどん善から遠ざかってるような感じがするんだよね。だから馬鹿みたいに正直なよりかは狡猾なほうが世渡りが上手いからそういう人のほうが凄いっていうさ、驚きなのは実際はたいしたこと無いただ世渡りが上手いだけのようなやつが凄い人扱いされてることだよね。value system自体にすげー歪みがあると思うんだよね。いや、んでさ、俺が武術とかに興味を持ったのもやっぱ技のexcellencyなんだよね。剣術にしても過去に侍が修羅場を潜り抜けてきた結果、行き着いた動作の論理的な帰結とかさ、で、それが研究されて最善の動きになってるとかさ、ここにも「最善」って言葉が出てくるじゃん?で、それとモラル的な意味での善って関係ないじゃん?って気がするけど関係あるのよね。まぁ結局は剣術なんつっても人殺しをする技じゃないかっつーのは正しいんだけどそれはようはそれの使い方の話だよね。技術を悪用するかどうかっていう話なわけで。だからそれと技術自体の善は違うよね。


あ、んでさ、俺がちゃんとしたやつじゃない俗悪な類の現代アートとかコンセプチュアルアートが大嫌いなのもようはこの善の欠落なんだよね。ただセンセーショナルとかツイッターで拡散しやすいみたいな話題性とかさ、全く芸術に関するexcellencyの部分が無いじゃん?それはただのセンセーショナリズムなんであってゴシップ記事とかと同じレベルなんだよね。まぁんでもこういうのは本当にクソだよねって分かってる人が多いからいいんだけど、それをもっと拡大して社会自体のあり方も同じなんだってことにしたいんだよね。基本的に善の欠落はダメなんだっていうさ、立ち回りだけでやってきたやつの人生の何に価値があるのか?ってことじゃん?食っていけるかいけないか?とかどんだけ稼いでるか?とかさ、それって重要なことじゃないよね。いや、なんかね、現代アートに限らず現代アートっぽい薄っぺらいやつらの活躍が多いよね。凄く表層的で本質を欠くような感じの輩が結構活躍してるっつー感じがするんだよね。で、それに違和感を感じる人が結構多くいるのにも関わらずなぜかそういうやつが活躍するんだよね。あ、んで一気に話は金融に戻るんだけど仮に金融とかの業界でも技術的なexcellencyってのが存在したとして、んでなんでそれが有用に使われないのか?ってことなんだよね。卓越した技術とか知識とか知性ってのが私腹を肥やすことだけに使われてるっていうさ、まぁ別に全部が全部そうじゃないにしてもなんかね、俺的にこのexcellencyって直に社会的な善に繋がってないといけないっていう感じがするんだよね。むしろそうなってこそそれ自体が善として成立するっていうのかな?んだから技術自体が素晴らしくても私腹を肥やしてるだけじゃ善でもなんでもないんだよね。


んでもまぁあれなんだよね、善自体が公共善にも繋がるようにするってのは社会の役割でさ、善そのものでは機能しないんだよね。善を走らせるインフラってのが必要でそれがようはまぁ社会ってことなんですよね。俺がすげー嫌だなぁーって思うのはさ、この不況は永遠と続くって言われてるけどまぁそれはしょうがないとして、この表層的な立ち回りとか上っ面の上手さだけが功利的なスキルとして使われ続けるっていう薄っぺらい社会が永遠と続くのか?ってことなんだよね。この薄っぺらさって例えば面接予備校とかさ、何を学ぶか?っつーよりかは就職がどうのっていうことばっかりが重要視される大学選びだとかなんだとかっていうまぁこれだけじゃないんだけど社会が厳しいからこそ悠長なこと言ってられないってことになって変に実利的であるってことが求められるじゃん?それがまぁ薄っぺらさなんだよね。まぁイノベーション的なことをする連中は別として大半のやつらはイノベーションとは無縁だから凡庸な薄っぺらさに終始することになるよね。それがスタンダードになるってのがすげー怖いよね。まぁそうなればなるほど俺は希少な人間になるんで市場価値はどんどん上がるのかもしれないけど(笑)絶滅危惧種とかになって最後は人間国宝とかね。


でもまぁこれって最高のリスクヘッジなんだよね。普通にしてたら多分何も起きないまま普通に終わるだけなんだけど普通であるってことをやめるとかあとはまぁこういう薄っぺらいスタンダードの型に生政治的にハメられることを強いられても抗い続けて「そんなの関係ないよ」っつって自分が価値を感じることを見つけるとか見つかったらそれをやりつくしてみるとか良い意味でのアウトローになったほうがいいんだよね。普通にしてたら社会とともに自滅な感じなんだったらそもそも守るものがないわけだからアウトローになってなんかやってみたほうがいいよね。それでなんかに繋がるっていうセレンディピティを上げたほうがいいんだよね。守りってのは守りに入るって選択肢も出来る人が選んでやるもんなんであって今の世の中じゃ守りに入れる人なんてごく一部なんだからさ、んだったらやりたいことやったほうがいいよね。どの道、普通にしててもダメなんだったら若干可能性があることをやったほうがいいよね。これって奴隷として生きるのか自分が自分自身の主人として生きていくのか?っていう選択なんだよね。で、まぁ大体迷ってて知らないうちに歳取っちゃって結果的に守るものもやりたいこともないまま終わるっつー最悪なケースが多いわけでさ、んだからそんな感じで詰むよりかはアウトローになったほうがいいわけだよね。


なんかやっぱみんな真面目すぎるのよ。まぁ俺も真面目だけど振る舞いとしては不真面目でしょ。なんかね、社会が求める真面目さってようは奴隷としての真面目さなんだよね。で、それ自体が価値になっちゃってるっつーかさ、奴隷としての立ち回りが上手いことに善もクソもないじゃないっすか?でもなんか奴隷道みたいな生き方ってのが確立されつつあるからすげー不気味だって思うよね。まぁそれは社会が奴隷を必要としてるから必然的に半ば有機的に生成されてるのかもしれないんだけどね。まぁさっき生政治って書いたのもそういうことで社会の都合ってまぁようは社会のバイオロジーじゃん?勝手に社会側から役割を決め付けられてあてがわれたもんで一生やっていくってこれほど酷なことはないよね。まぁマトリックスで言うところの養分なんだけどね。でもさ、まぁ誰かがね、権力者が意図してやってるとかじゃなくて必然的に生み出される奴隷ってことなんだけどね、でもそれってまぁようは主体性を奪われるってことなのよ。


映画のAkiraの最後で鉄雄にみんな飲み込まれちゃうみたいなああいう感じね。ああいう恐ろしい流れがあるのに抗わないってのはマジでヤバいよね。まぁもしくはdeterminism的にある一定の割合の人間はそうなるために生まれてきたわけだから抗わないようになってるって言われればそれまでなんだけどね。んでもいつも書くようにそういうやつらがそういうやつらとして存在するだけならいいんだけど最悪なのは他者を飲み込もうとするじゃん?自分も鉄雄の細胞になって他を取り込むってことに邁進するじゃん?んだから守る術とかそういうところから自律する術とかってのを身につけないといけないんだよね。それがまぁサバイバルのためのテクネーなんだよね。つまりはまぁリベラルアーツの根源ですよ。自由であるための術ってのが自明なこととして善であるってのはつまりはそういうことなんだよね。


ベタなRPGとかで光がある限り希望はあるみたいなさ、何もかもが闇に包まれてても光が残ってれば希望があるっていうさ、これと同じようなベタな構図で俺的にはこの今回俺が書いてる善ってのがつまりは光っていう感じなんだよね。それは知に宿るものだし自由のための術っていう光の術っつーのかな?で、それ自体はどんだけ世の中が闇に包まれてても光り続けることをやめなければ少なくともその光は途絶えないじゃん?まぁスターウォーズジェダイですよね。まさしく。リベラルアーツを生活で行使し続けるっつーのはすげー臭い言い方をすれば光の戦士であり続けるってことだよね。そんなかっこいい感じはしなくても行使を続ければ結果的にそうなるっていうそんな大それた使命を背負わなくても誰でもやれるってところがいいよね。だからこそ光が光足りえるんだよね。限られた人にしか出来なかったらそれはもう希望は無いでしょ。んでも誰にでも出来るから希望はあるよね。


まぁ今日はそんな感じなんですよね。結局、その知識って何なの?ってのを考えるとまぁこんな感じのある種壮大な感じの帰結になるんだよね。善足る所以ってのはつまりはこういうことなんだよなってことにならざるを得ないっていう感じなんだけどね。今みたいに確信出来てると虚しい病には陥らないんだけど、まぁ調子悪くなったりするとすぐに闇に飲み込まれそうになるからさ、まぁだから日々の訓練なんだよね。一回分かっちゃえばそれは不変ってほど強いもんじゃないし。あとはそんぐらい闇ってのは強いってことだよね。ファンタジーモノの話とかでもやたらに闇が強い理由ってそこだよね。まぁ結局、ファンタジー系とかおとぎ話なんかのメタファーもようはこれだよね。ペルソナなんかもそうじゃん?あれは現代のファンタジーでなおかつリアリティがあるからいいんだよね。リアリティってまぁ時事的って意味でのリアリティね。んだからまぁやれる人はみんなシャドウと戦うペルソナ使いになってほしいですよね。ペルソナは戦うって決めたらゲームみたいに勝手に降臨しますよ。それは俺が保障しますね。マジで。なんかね、これってやってみないと分からないよ。マジで。まずは体感!って感じだよね。ペルソナ使いになってみよう!っていう。


まぁそんな感じでんじゃまた。