naoさんへの返信。3。

nao 2014/11/02 04:05


イデアについてなんか誤解している部分がありそうなんでまあもっと考えたり知識インプットしたりする必要がありそうですね。確かにまあその動的なものっていうその動的の部分は重要でしょうし。で、個々の事柄に対してイデアがあるかはまあいいとして僕が言いたかった真理の追求なんですが、数学において真理の追求っていうのはイデア的なものの追求ってことですが、社会、政治の真理というと本当戦争、虐殺、空襲、テロ、イデオロギー、嫌な人間ら、・・・ってことでこっちは現実の追求であり同じ真理の追求といってもまた別だって思うんですが、といってもまあこないだmimisemiさんがおっしゃった通りほとんどのものが数学的なものと関連している意味で数学とかの真理の追求をするってなると必然的にそういう現実的なことの追求をするってことにも至るのかもしれませんけど、それもやはり同じ真理と考えますか?いや、まあ散々結局は同じだとか言っておいて何でここで区別しようとするんだ?って思うかもしれませんが。


凄く良い質問だと思います。


おっしゃる通り直感的に数学的なイデアの追求と社会や政治の現実の世界の真理の追求は違うと感じられるんですが、イデア論の本質がここなんです。プラトンは現実の世界はイデア界の影にしか過ぎないって言っているわけですが、ではその現実の社会や政治におけるイデアとは何なのか?ということになるんですが、これがざっくり言えば「善き社会」ということになるんですよね。でも「善い」ということの定義は人に依るのでは?という話になるんですが、ここがイデア論の確信で、つまりは「人による」ということになると何が善いことで悪いことなのか?というのが相対化されてしまいますよね。でもイデアの存在はつまりは絶対的な善が存在するということを意味するんですよね。


凄く消極的な言い方をすれば、何で我々は人を生きたままナイフで首を切ってはいけないのか?ということを直感的に知っていますよね。もちろんサイコパスや一部のイスラム原理主義者とかはそう考えないわけですが、でも大抵の人間はそれに対して嫌悪感を抱きますよね。絶対に善いわけはないということはアプリオリに知っているわけです。ではなんでそれはアプリオリなのか?というのがつまりはイデアの存在を示すものという風に考えるわけですね。それは特に数学的理由にそれ自体の根拠が必要ないように、例えば8が8であるということ自体に意味は存在しませんが、そこで解釈の揉め事が起こらないのはつまりは8は8であるということがアプリオリに規定されているからなんですよね。ではそれを規定しているものは何なのか?というところがつまりはイデアってことになるんですよね。そういったイデアの断片や影を人間は見ていたり間接的に知っているわけです。でも完全に知ることは出来ないにせよ、そういったイデアを求めようとする姿勢自体がつまりは倫理ということでありエロスの追及ということになるんですよね。


もちろんこういう議論は近代的な思想家から見れば馬鹿みたいな話ですし、特に現代思想界隈ではプラトンの理論などは凄く不評なんですが、でも基本的に現代思想とか近代哲学がもたらしたものは何なのか?ということを考えると結局はただの相対主義なんですよね。あとまぁニヒリズムですね。論理的に考えれば普通はこういう風になるのは当たり前なんですが、でもイデアの存在を過程するとなると相対主義が真理ではないことは必然的になりますよね。なぜなら真理自体がイデアに内包されているからなんですよね。人文系のコンテキストで真理とは何か?というとつい神秘主義や超越論的な形而上学になりがちになりますが、それに比べて数学的真理というのは人間でも明白に分かりますよね。もちろん全体ではなくて部分的なんですが。そういった数学の絶対性ってあるじゃないですか?それはつまりはイデアの絶対性ということなんですよね。で、それは数学の世界に限らず全てにおいてイデアというのは存在するわけで、なのでイデアに数学の世界も現実の世界もないんですよね。イデアイデアなので。


凄く卑近な感じで例えるなら例えば誰もお金に困らないって理想的だと言えますよね。ではなんでそれは理想的だと思えるのか?ということ自体がつまりはイデアの存在ということなんですよね。それは現実的に善いことというのを適当に並べるだけで存在は確認できるわけですよね。五体満足だとか病気をしないとか何かに困らないとか毎日苦痛ではないみたいなことなんですが、例えば囚人って監獄の世界を善いものだとは感じませんよね。外に出て自由の身になりたいってみんな思うはずです。でも実際に外に出て幸せになれるのか?というとこれはまた別の話なんですが、監獄よりかは外の世界のほうが全然マシであると思えるこの根拠っていうのはつまりはgoodnessということになりますよね。それは特に理由も無く当たり前にその根拠は存在しますよね。だから必ずしも「善いこと」というのは別に幸せであるとか世界が平和であるということを意味しないんですよね。それは世界中で戦争が起こっているよりかは起こっていないほうが良いに決まっているというコモンセンスを与えるものが「善さ」ということの根本概念だからなんですよね。


特に言葉が通じなくても殺し合いをしないというのは良いことですよね。ではそのコンセンサスの基盤は何なのか?っていうと日常的に使われる言葉では常識とかってことになるんですけど、この「当たり前」という何の前提も必要としない理由とは?というところがつまりは先ほどの数学の話の8は8であるという理由と同じということなんですよね。もちろん理屈をこねくり回してそれが8であるとか殺し合いをしないことが合理的であるというようなことは説明できますが、でもイデア自体はそういった論理による説明を必要としない先験性があるので、それ自体が根拠であり理由足りえるわけです。ただでもそれは生得的に分かっていることなんだったらみんな善について分かっているはずだから教育や学習のプロセスを経なくても善い社会を本能的に育めるのではないか?ということになるんですが、でもそれは実際の社会を見ても分かるように違いますよね。数学的知識も学べばその先験性が分かるようになりますが学ばなければそもそも分かりませんよね。これはつまりは道徳全般にも言えるということなんですよね。


つまりはイデアは特に具体的な鋳型を提供するわけではないということなんですよね。現実の世界にも真理があるとすればそれはそういった社会制度なのか?そういった法律なのか?ということになるんですが、これはただの現実世界の構造の問題なのであって、社会制度や法律にアプリオリに決められたイデア的な絶対的善を提供する型が存在するということではないんですよね。具体性が無いのにも関わらずとりあえず世界は平和なほうが良いと何で思えるのか?っていうことですよね。これがつまりはイデアってことになるんですよね。で、ではどうやったら世界平和を実現できるのか?というのは現実の世界の話でイデアが存在するからといって現実の世界でそれがイデア通りに構成されるとは限りませんよね。たとえ実現不可能であっても「それは理想論だ」といって片付けないのがエロスの本質だと思うんですね。まぁようはそれが真理の追究ということですね。


最初にも書いたように数学的真理と社会や政治などの我々の卑近なものに関する真理を同じイデアとして扱うのには違和感があるんですが、そこを同じイデアとして扱うのがイデア論の本質です。まぁ一般的なイデア論がそうなっているかは分かりませんが、僕はそう思っています。