ドゥルーズとDJ。

いや、続きの前にまたちょっと書くけどさ、DJっつー概念を中心にカルスタとかが面白くなってきたっつってもまぁようはそれは自分が主体的にカルスタをDJについてやるみたいなことなんだよね。別にカルスタの本を読んでいるわけではないんだけどねっていうより結局なんつーかカルスタとか関係なくDJという行為自体のポストモダニティだよね。それはポストモダンをもってDJを述べるというのではなくてDJという行為がポストモダン的なんだよね。でもやっぱりそれは現代においてってことなんだと思うのよ。DJの歴史とかを見ているとやっぱり場との関係性だったんだよね。いかにクラブで踊れる音か?みたいなものが中心になってたしまぁそりゃ今も変わらないんだけど例えばノーザンソウルのシーンなんてのは同時ですでにもうレアグルーヴ的であったんだよね。誰も見つけてなくてめちゃめちゃレアな踊れる音っつーのを競ってたっつーか。で、今の時代はそういう歴史とかの集積じゃん?レアグルーヴと言ってもあくまで考古学的な意味なんであって本質的なレアグルーヴというのは実質もうほとんど無いよね。まぁあとは個々の価値観によるんだけど。


で、このポストモダン性ってやっぱり「アーカイヴ化されている」ってことが大前提だと思うんだよね。ノーザンソウルからレアグルーヴまで色んなDJが掘って価値を見出してきたものってのが歴史化されてアーカイヴ化されてるわけじゃん?で、それをあたかも電脳と身体が直結しているかのように「そういえばあれは?」と思えば検索すれば一発で出てくるんだよね。まぁ大体のものがって意味だけど。ようはこれって情報がアーカイヴ化されていてこっちがそれにアクセスするか否か?っていうところがつまりはチョイスってことになるんだよね。昔は音源がばらばらに存在してたわけだ。どっかのジャンク屋とか倉庫とかに眠ってるとか。で、そういうのが掘り起こされて変な言い方をすれば博物館に陳列されてるっていうのかな?まぁでもレアグルーヴっつームーヴメントみたいなのがあった時点でもうすでにこれはレアグルーヴじゃなくなってたんだよね。価値を見出されたんでレコード屋が高い値段をつけてレアグルーヴとして売ってたわけだから。まぁあとなんかのミックステープに収録とかね。まぁすげーいやだったし不健全な感じだったと思うんだけどっつーかその不毛さが嫌だったしなにしろ金が無いからそんな高いやつ買えないってことだったわけでさ、で、再発出たなんつってもCDから起こしたような最悪のやつでCDが飛ぶ音とかそのまま入ってたりね、そういうのが普通にちゃんとしたレコード屋で再発として売られてたんだからまぁひでー話だよね。


で、今っつーかまぁネットでデータを買えるようになってからやっとちゃんと健全に機能するようになったって気がするんだよね。でももちろんそれは過去に倉庫とかを掘ってたDJとかの努力があってのもので掘られて価値を見出されたものをデータとして買うわけで、それはもう掘るということではないんだけど、でも逆に掘られてどこでも売ってるものになったからこそレア度みたいな不毛なものが無くなったと思うんだよね。その結果、フラット化してるんだけどそのフラット化があるおかげでその辺で売ってるスタンダードなジャズとめちゃめちゃレアだと言われていた珍しいジャズなんかも同じフラットなありふれた音源としてミックスできるようになったっていうのかな?両方ともアーカイヴ化された音だからレア度ってのが無いんだよね。ある意味全部イコールなのかな。だからまぁ掘ってる人じゃないと知らないようなものを自分だけが持っているみたいな特権性とかはなくなったんだけど、それが無くなったおかげでアクセスしやすくなって好きなだけ自分が「これはいいな」って思う音源を集められるようになってるわけじゃん?まぁ誰でもDJできるようになったっつーテクノロジーの面ってまぁ機材もあるけどやっぱ音源の入手が容易ってのもあるじゃん?


だからまぁ曲かけるだけなら誰でもできるみたいな意見も出てくるんだよね。昔はどこで買ったか分からないようなレコードと簡単に買えないような機材を使いこなして色々とミックスしてたわけでこれ自体がすぐにできることではないんで特権的だったんだよね。でも今は曲をかけるだけなら誰でもできるんだよね。んでもだからこそまぁ最近俺がオブセッシヴに書いてることだけどDJの本質ってのが重要になってくるわけだよね。そういう機材とかどこで買ったか分からないようなレコードみたいな強みが無くなった分、そういういわば機材的な面での特権性で勝負できなくなったからあとは求められるのはセンスの良さじゃん?もちろんこれって客が何を求めているか?っていう需要と供給の話でもあるんで一概にセンスが良いのと評価が良いってのは同じではないんだけどさ、まぁでもようは良いDJであるっていうことが必要不可欠になってると思うんだよね。それは曲かけるだけなら誰でもできるようになったからこそ内面的なものが無いとその辺の人とあんま変わらないみたいな状況になってるからだよね。まぁあとずーっと書いてた別に自動化でもいいんじゃない?的な話とか。


道具と音源入手が容易になればそうなるのか?っていうとそれも程度の話なんだよね。それこそ文字通り「曲をかけるだけなら誰にでもできる」的な状況になったのって多分まだここ最近だと思うのよ。まぁ2010年以降ぐらいかな?ネットで音源を入手するっていうのがかなりインフラとして馴染んできてんでまたさらに時間が経ったぐらいのときなんだよね。それは何かっつーと単純なインフラの整備ね。ようは「こんなのもmp3で買えるのか!」っていうようなものまで買えるようになってるっていう状況ね。俺の印象だと昔ってまだまだだなぁーって感じだったんだよね。まぁあれか、なぜかリージョン規制とかあるからアメリカとかの場合、availabilityみたいなのはもっと進んでるのかもしれないけどさ、いや、でもやっぱあれだよね、2010年以降ぐらいだと思うのよ。ブレイクコアのシングルでしか出てないようなやつとかが普通にあったりね。まぁでもその時点でもう昔のシングルがmp3で買えますっていうアーカイヴ化なんだけどね。まぁでもんでいきなり買えなくなったりもするから不安定だったりもするんだけど。


で、この整備が進めば進むほど音源の入手が容易になるんだよね。もちろん知識が必要とされるし何を求めるか?っていうことが問題になるんだけどこの辺がポストモダンっぽいっつーかドゥルーズっぽいんだよね。何を求めるか?っていう欲望が主体となって電脳アーカイヴを検索して音楽を消費するっていうさ、でもそれが新譜の消費の場合、それはただの消費なんだけど、DJで使うとかミックスの素材に使うっつー前提があると生成と消費ってのが同時になるじゃん?その音楽を消費すると同時にDJとしても使うわけで両義的なんだよね。新譜の場合、それは別に新譜を流すDJって昔からいるからそれは全然ポストモダン的じゃなくてポストモダン的なのってやっぱ何もかもが並列化されてアーカイヴ化されているっていうところから個々が歴史のコンテキストとかを抜きにただの私的な興味でそのアーカイヴを掘るって感じだと思うんだよね。


もちろんメディア主導の「今何々がアツい!」みたいなのはあるんだけどさ、そういうんじゃなくて「なぜかニューウェーブがマイブームでさ」みたいな凄く私的な欲望ってのが主体になって消費と生成を同時に行うようになるってことがポイントなんだよね。まぁただ私的過ぎて他人には伝わらなかったりするけど自分が楽しければいいやって思ってる人はそれで色々やるじゃない?ドゥルーズ風に言うと分裂病的ってことになるんだけど。「いや、そういう選曲は違うから」っていう突っ込みどころがなくなっちゃうっつーのがさ、色んな業界にあるであろうお決まりとかマニュアルみたいなのを脱コード化して私的なコードでやり続けるってことなんだよね。まぁ逆にここまで私的なままやり続けられたらそれこそ才能だと思うんだけどね。逆にまぁどんだけ自由でもやっぱ影響を受けちゃったりお決まりに抗えないみたいなところはあったりもするからね。だからやっぱそういう意味でスキゾな感じに勝手に組み替えるっていう意味でのミックス感覚って言うのもポストモダン的要素なんだと思うわ。すげー古いコードのままただインフラだけ便利になったから活用するっていうんだとまぁようはそれって簡単に言うと昔からDJやってた人が便利だからっつってPCDJに移行して音源もmp3でいいやって若干妥協するようになったっていうことだよね。


でもポストモダン的ってのはデフォでこんなに便利になっちゃってるっつーところからスキゾに勝手に組み換えをしちゃうっていうことなんだよね。そのハチャメチャな感じと私的な感じっつーのかな?まぁそういう意味だと俺もまぁ古いタイプのDJだとは思うんでスキゾタイプでは無いと思うんだけど、んでもGenre Bendingってスタイルが注目されてるじゃん?色んなジャンルを上手く繋いで聞かせるっつーやつなんだけどクロスオーバーとかとは違って個々が勝手に色々とミックスしちゃうっていうスキゾさがポイントっぽいんだよね。クロスオーバーとかの場合、流れとして色んなものを聞かせるって感じなんだけどベンディングって名前が示すようにGenre Bendingの場合、従来のコードではありえないような流れとか曲の順番っていうのを取るって感じだと思うんだよね。でも全体として見るとそれが成り立っているっていうまさにDJのスキルと知識とテクニックあってのものでさ、なんかあれかもね、曲だけなら誰でもかけられるようになったからこそ出てきた熟練の人たちじゃないとできないような特権的なスタイルなんだと思うんだよね。


で、どう意味づけられているのか?とか並べられているのか?っていうのは個々のセンスとか考え方に依存してるからマニュアル化できないっていうさ、これってやっぱ脱コード化ってことだと思うんだよね。つまりは楽曲を個々が独自に解釈して並べちゃうっていうさ、これもやっぱポストモダン的だよね。まぁこの辺はデリダっぽいのか。まぁようは解釈学ってことだよね。でも学というほど普遍性を求めていなくてむしろ個々の勝手な解釈というのが個々のスタイルになるっていうさ、で、それもある程度色んなジャンルが成熟し切ってから出てきたものって意味でもポストモダン的だよね。んでもGenre Bendingの場合、スキゾなやつがめちゃめちゃに混ぜているのとは違って多分おそらく大体はずーっとDJやってる人が膨大な音源と知識を活かしてやってるものだと思うんで、あくまで方法論的なポストモダン性だよねっていうかまぁ必然性なのかな。


だからインフラとしてのポストモダン性ってのとずーっとDJやってきた人が次のステップとして何かやってるって意味でのポストモダン性があるんだよね。前者はただの環境のポストモダン性なんだけど後者は今までのスタイルのDJという流れありきのポストモダン性なんだよね。前者は環境だからそういう環境でDJやり始めたやつがスキゾなスタイルになる可能性もあるってだけで別にそれ自体がスタイルを規定するわけではないんだよね。客観的にその状況がポストモダン的なんであって、個々のスタイルにその環境が直接影響して何かを作り出すのか?っていうとそこは違うんだよね。で、後者の場合、今まで色々やってきたっていう熟練ありきなんだよね。そうじゃないと「ポスト」って言えないっつーかさ、古いスタイルがあっての「次」なんだよね。でも環境においては古いスタイルって例えば「レコード屋でしか買えないレアグルーヴのLP」みたいなことじゃん?「ポスト」的な環境だと「レアグルーヴと言われていたものがmp3で買えます」っていう環境だよね。つまりはアーカイヴ化されているってことね。


あとまぁやっぱさ、「USBで何千曲持ち歩ける」みたいなこともやっぱテクノロジーって意味でのそのポストモダン的環境ってのを規定するものなんだよね。ポストモダン性自体は別に概念だから「今後そうなるであろう」とか「実質こういうことになっている」っていうことは言えるからそれこそ80年代ぐらいからポストモダン的なものってのはあったんだよね。でも今なんでポストモダン性なのか?っていうとavailabilityだよね。そんなに金もかからず機材も大掛かりなのがいらなくて誰でもやれちゃうし意図してないのに消費がそのまま生成に繋がっているみたいなことなんだと思うのよ。昔は意識的にやったりめちゃめちゃ金と労力を使ったりしなきゃいけないわけであくまで方法論的だったのに対して、今は作為的なものが必要なくてこういう環境で消費しているとそれが生成にもなりうるっていう潜在性だと思うんだよね。まぁでもあれね、そういう潜在性に憧れをもててたのがポストモダン思想とかが持て囃された時代なんだよね。


で、今色々と振り返ってみると状況はそうなっているけど、ではそこで色んなところで生成が起こるってほどの変化が訪れているか?っていうと依然として消費は基本ただの消費であり続けるってことなんだよね。これが示すのはつまりはポストモダン性って主体性にかかわってるってことなんだよね。ポストモダン性の特徴って主体性の無さと流動性と相対性だと思うんだけど俺的に言うとポストモダン性を発揮しようと思うとそれらの概念を意識的に援用して方法論として使わないとポストモダンとして顕在化し辛いってことね。まぁたまに天然で出てくるものもあるかもしれないけどっつーのはようは環境がポストモダン的なら表現もそういうものも増えるだろうってことなんだけどまぁ増えてはいないよね。ただ別にそういうポストモダン的な意図は無いんだけど結果的にポストモダン的になっちゃいましたっていうものはあるよね。これがまぁスキゾ的ってことだと思うんだけど。でもまぁ別にスキゾ的であるってのがポストモダン的主体の必要条件でもないし、でも依然として構造としては欲望する主体ってのと相対化された並列化された世界ってのがあるわけで、自ずと主体はポストモダン的に振舞わざるを得なくなるかもしれないよね。


で、自分の話をするとさ、なんで今更あえてぐらいの勢いのレアグルーヴとかUK Jazz Dance的なものなのか?っていうとそれが勝手にマイブームだからなんだよね。まぁ元々好きだったってのがあってそれをまたやりだしたんでそれが復活してるっていうだけで時代の必然性とか一切無いんだよね。そこがスキゾ的なんだよね。勝手なマイブームがスタイルになっているっていう。で、それ自体はめちゃめちゃ古いスタイルなんだけど相対化された世界の中であえてそれを選んでいるっていうポストモダン性だよね。流行り廃れとかがなくなってきてるから自由にやるのもいいし異様に特定の時代の音源やスタイルとかにこだわってもいいわけだし。それで言うとまぁ俺的にすげーアツい!のがUKの初期のクラブシーンなんだよね。ノーザンソウルからAcid Jazzぐらいまでの流れっつーのかな?あれってすげー面白くてさ、ノーザンソウルみたいなシーンってミドル以下のかなりドラッグまみれなストリートカルチャーだったんだよねっつーかUKのクラブカルチャーってそうなんだよね。


で、そういうところで全然話にもならなかった無名グループとか無名歌手のソウルのレコードとか7インチとかがクラブミュージックとしてかけられていたっていうさ、で、面白いのが時代的にファンクとかが出てきててもゆっくり過ぎてクラブじゃ踊れないっつーんでノーザンソウルを回すDJはファンクとか買ってなかったんだよね。で、それが「北から来るやつはファンク買わないやつが買うようなソウル」って意味でノーザンソウルって呼ばれるようになったらしいんだよね。いやー面白いよね!元はアメリカの音源なのにイギリスっつー離れた場所でドマイナーなソウルのレコードがクラブミュージックとして回されるようになったって凄いよね。クラブっつー場とドラッグカルチャーと音源が爆音でかけられることによる暴力化という名の異化によって元々の用途とは全く違った用途として使われたっつーのが自分的にすげーアツいんだよね。まぁ基本にこれがあったから後にレアグルーヴみたいなカルチャーも出てきたんだろうなっていうさ、まぁなんかそういうカルチャー自体にアツさを感じるんだよね。で、自分が掘ってた頃って「自分もレアなのをゲット!」みたいな踊らされてる虚偽意識みたいな中でやってたけど、今は当時とは違った環境と今の俺の知識なんかによって全然見え方や聴こえ方が変わってるって意味でのそういう初期のUKクラブカルチャーってのがあるんだよね。


で、マイブームって基本的に強度を生み出すじゃん?仮にシーンが無くなってたり昔のものであったりしても自分の中ではそれが明らかに生きている!っていうような意味での強度ね。でも今は実在してないものに勝手に強度を感じるってまさにドゥルーズ的なんだよね。外的なものというのが現代のものやそこに現前しているものである必要性は無いっていうさ、ある意味これって概念じゃん?概念から強度を得てるってことだよね。で、それがミックスとかDJっつーテクネーとか生産に繋がるっていう。自分にとって哲学とか数学が仮に生産的じゃなくても凄く概念的な意味合いと強度という意味で重要だったのに対して音楽って意外とそうでもなかったんだけど、今回の色々なDJ騒動をきっかけに音楽自体の見方が変わったよね。凄く概念的に更新されて重要になったっていう感じだね。なんつーかまぁ色々と勉強してきた結果、認識の体系みたいなのが変わるから機知であった世界の見方とかも変わるんだよね。今の俺にとってのこのDJ路線シリーズってまさにそれなんだわ。こりゃ凄いよな。これだけまた数年はいけるじゃないですか?なんか凄い安堵感よ(笑)


まぁでもあれだね、哲学の延長という意味では数学と同じかもね。根本はやっぱ哲学があるよね。機知だったものの見方が変わるって数学やると世界が変わるってのは顕著だったんだけど昔やってたDJとかレアグルーヴって概念とかをphilosophizeするってのは何気にやってなくてそれはやれてたはずなんだけど気が付いてなかったってのは今なぜかDJ路線?ってのがあってその表出したDJっつー概念を中心にして音楽全般への見方が変わったっつーのかな?分かってたけどよく考えてみると凄いね!これ!っていうことね。これはやっぱ関心がDJに行ってないと起こらなかったことだから。だからまぁすげーのよ。今回のやつは。なんかいつもあれだよね、年明けに大体なんかあるよね。今年もすでに上半期にしてすでに大成功!って感じだわ。


ってことで今日はこんな感じでまた次なんか書いてるかもしれないし無かったら続きを貼るんで。んじゃまた。