ドゥルーズとDJ。その3。

まぁあれね、音源の入手が容易でコストも昔ほどではないっていうところで一昔前のレコード一万枚とかそれ以上持ってるプロDJ並の自分のアーカイヴと知識ってのは身につけることができるじゃん?基本的にこれってあれなんだよね、普段俺が書いてるさ、それを極めたところで活躍の場とかないかもしれないし別に金になったりもしないけど極めたいことなんだったらある程度のレベルまで行くべきなんだよね。それは俺の学問も同じじゃないですか?そこをアマチュアでいいっつーんじゃなくて好きでやってることに関しては玄人はだしになるっていうさ、やっぱりドゥルーズとかを読んでて改めて思ったのはっつーかまぁ勝手に俺のコンテキストで解釈しちゃうと知識にしても音楽とかにしてもそれを学ぶとか消費するとか所有するっていうことだけじゃなくてそれが即生産っつーか生成に繋がるような有機的な動きっていうのかな?常に微分的に生成が行われていてそれを運動体として見ると生成する有機体みたいな感じになってるっていうね、簡単に言えば自分が没頭できる分野に関してのものの知識とか音楽にしてもそういうのを消費するってことが消費なんじゃなくて植物における光合成みたいな感じになってるっつーのかな?その植物における光は消費なんではなくて合成するための必要不可欠のものなんだっていうさ、まぁ栄養ですよね。ようは。


栄養を取ること自体に目的はないじゃん?っつーか栄養を取るのが目的だよね。だからなんつーかそれで具体的に活動をするっていうことに固執しなくてもそれ自体をやるっていうことでとりあえずいいんじゃないか?って思うんだよね。やっぱり活動ってことで言うとまぁ俺のDJの場合、クラブ借りなきゃいけないからキツイし、ある程度資産形成してないとやれねぇーなっつーのがあるわけじゃん?さすがにコストが下がってるっつっても今は出費の全部が音楽だからさすがにそこまで手は回らないよね。だからなんつーのかな?そういう活動以前にやっておくべき下準備の段階でもうレジェンドレベルになってるっていうさ、普通はまぁやりながら音源買ってクラブでかけて試して・・・っていう試行錯誤をするんだろうけどそこはリアルにコストがかかるからとりあえず家でオブセッシヴなリサーチをするっつーのかな?実際に学究肌のDJってそうだからね。科学者的なDJっつーか。


食える食えないとかイベントで元が取れるってことが関係なくなるよね。これって。確かに実践の場としてクラブとかイベントってのがあるにしてもベースは家でのリサーチっていうさ、これで言うとやっぱそのリサーチと造詣を深めるとかね、あとやっぱ頭の中に何千曲っつー自分が使えるって思う曲を記憶するってことだよね。基本これがないと臨機応変に対応できなくなるし事前にセット組んでやるみたいな即興性が無いDJになっちゃうからね。でも何千曲も頭に入ってるなんてちょっとやっただけじゃ無理ですよね。相当なキャリアが無くては・・・っていうそのキャリアの部分を家でやるリサーチで補うっつーのかな?でもまぁあくまで現場主義なんだけどとにかく浴びるほど音楽を聴いて色々読んだりして知識を増やすってのは現場でやってるDJだろうがどんなDJだろうが基本なわけじゃん?で、これは別に現場でやってなくてもやれることだからね。っつーかむしろこれが軸だよな。とりあえず使えそうな曲を持っていってかけるだけみたいな最悪の短絡的なDJって一番嫌なんだけど結局はあれだよね、腕ってもちろん実践の経験ってのもあるけどやっぱり家でcultivateしたまぁようは修行の産物ってことだよね。そういう意味でまぁめちゃめちゃ求道的でストイックだよね。起きてる時間のほとんどを音楽鑑賞と研究に費やすっていうまぁ媒体が違うだけで基本的に研究者と一緒だよね。そう。だからこれをやろうと思ったんですよね。全然手法的に学問と同じなのよね。


昔やってた頃はどうだったのか?っていうとさすがにこういうストイックさは無かったよね。レコードが好きでしょうがないっつーそれが軸だったけど今は別にレコードにこだわらないってことでまぁようはこだわる軸がモロに音楽そのものなんだよね。だから音のレア度とか所有欲を満たすみたいなそういう物質的なものがほとんど無くてさ、もうひたすらその知識のアウトプットとしてのミックスってのの深さを追求するためにストイックにやるっつーのかな?あとは結局またこれもドゥルーズ的なんだけど、俺が一貫して魅力を感じているダンスフロアにおいて爆音でかけるってことで異化する音っていうね、まぁノーザンソウルとかがその祖先だって前に書いたけど、それ以外に散々書いてきたポストモダン的インフラでの意味論の異化ってのを個々が勝手に起こすっていうことの生成の面白さなんだよね。音が異化するしもしくは異化する可能性があるものをダンストラックとしてミックスに混ぜるんだけどそれをコンテキスト化するってことがもうすでに異化だよね。異化による生成なんだよね。


そもそもまぁ昔の音楽を現代的なサウンドシステムで爆音でかけてダンスミュージック化するって異化だしそれ自体がもう脱コンテキスト化されているんだけど、そういう元々の異化とは別に個々の意味論って意味での音の異化ってのが個々の生成の中で起きるんだよね。このファンクのトラックをこんな解釈でこんな風に混ぜちゃいましたとかね、それってのがようはマニュアル化されたコード化されたようなやり方なんではなく個々が勝手にそれをやるんだよね。でもそれは別に脱コード化ってことでもなくて無意識で行われる異化と脱コンテキスト化なんだよね。もちろんそれを方法論的に異化させるというやり方もあるんだけどそもそも現代のこのなんでも大体の音なら手に入るっていう状況だと個々が勝手に混ぜるっていうイニシアチブが働きやすいんだよねっていうか別に何にも考えずに色々と混ぜるとそうなるよねっつってもまぁやっぱ生音って難しいんだけどね。


でもやっぱこれは生音に顕著なのがさ、ダンスを目的とした打ち込み音楽の場合、時代の差はあれやっぱり統一したものとしてかけられるじゃん?ハウスでもまぁ最近のハウスとかEDMなんかと混ぜつつクラシックなハウスもかけるってこれはやっぱハウスとかダンストラックっつーコンテキストだよね。でも生音の場合、クラブトラックってのが想定されてないのにも関わらず爆音でかけることによってダンストラックに変化するっていうさ、やっぱりこの異化が前提なんだよね。これ自体がまぁようは音のハードコア化なわけで、元々の音楽の聴き方とは違った聴き方になるわけだよね。でもそういう異化を起こせるものって意外と少ないと思うんだよね。ダンクラなんかはもうそれがダンクラとしてあるしハウスとかでカバーとかもされてたりするから意味論的にクラブ的だよね。でもそれこそさ、極端な話だとロカビリーとかね、初期のR&Bなんかもかけちゃう!ってやっぱ異化なんだよね。きわめてミュージックコンクレート的な。なんか同じことばっか言ってるような気がするんだけどまぁいいか。


んでこれって例えばね、音楽自体も生物っつーかさ、情報自体を生物という風に見るとこれって音楽にとっての生存本能っつーのかな?一時期に消費されて終わるんじゃなくて異化作用があって後世になってもクラブでかけられるようになるとかさ、これって音楽としての生存って意味だとその辺の流行の音楽なんかより凄く強固だよね。例えばここ最近のEDMのトラックなんて一時期の流行ったタイプのトランスとかと一緒で時間が経ったらゴミになるじゃん?でも昔の異化作用が見込めるような生音のトラックって「使えるかも」っていう潜在性とかもう使えるってラベリングされたらもうそれはクラブトラックとして認知されるわけでさ、まぁ半永久的に残るよね。これって何気に凄いよな。で、またすげーアツいな!って思うのがファンクの45とかでもそうなんだけど当時はさっぱり評価されなかったりゴミ扱いされてたってことね。そういう意味だと音楽史って意味でも最初に活きたのがレアグルーヴ的なコンテキストだったりDJ ShadowとかKeb Dargeみたいなディガーの手によるものだったわけでさ、だからこれは過去の音源が甦るっつーよりかは現代の目で見るとめちぇめちゃ実は使えるんじゃね?っていう目線を与えられて音が活きてくるっていうさ、まぁようはDNAとかミーム的なことなんだけどね。


で、前にも書いたけど80年代とか90年代だと進行形のものだったからそれはポストモダン的ではなかったんだよね。ポストモダン的になったのは掘られつくされて昔は死ぬほどレアだったやつとかがコンピとかになってツタヤとかでレンタルできるレベルにまでavailabilityってのが上がってるって意味でそれはアーカイヴじゃないですか?one of themなんだよね。現在形だとone of themじゃないわけ。で、俺みたいにそういうものをone of themとして選択して好き好むっていうのはさ、レアグルーヴのレアさとか自分で発掘してやろう!みたいなことではない掘られつくしたもののアーカイヴを細かくチェックして自分というフィルターを通して再構築するみたいな話なんだよね。これがつまりは個々が勝手にやる脱コンテキスト化と生成ってことなんだけどね。だから音楽を聴き続けるっていうことが有機的な行動になるんだよね。


「あーこれ良かったな」とか「これ好き」で終わるんではなくて自分のDJ脳の中での位置づけとか使い方とかっていうメタ情報が常に更新され続けるっていうのかな。これって生成的だよね。結果的に音楽としてもすんげー昔のものなのに常に新世代に聞かれ続かれてむしろポピュラーにすらなっていくっていうさ、情報自体に生存欲求があるって考えるとこれは音楽のミームの伝達ってことなんだよね。個々のdeckで勝手に甦る過去の音源たちってすげーロマンあるよね。結局でもこれって思想とかが色んな時代のコンテキストで別な目線で理解されて甦ったりするのと同じ現象でさ、結局それはエクリチュールに限らず情報全般そうなんだよね。まぁ音楽を情報とするのはあれだけどまぁそれで言えば美術とかだってそうでしょ。時代が変わって再評価されるとかさ、全然違うコンテキストになったことで異化するとかさ、常にそれが生成的なんだよね。で、それはもう作者の意図とか元々の作られた意味合いとか使い方なんてのは全く関係なく時代の中でそれ自体が勝手に生成をし続けるっていうさ、なんか同じことしか言ってないからそろそろやめるけど細胞っつーかまぁバイオロジー的っつーのかな?


っつーか中途半端だけど今日はこれでいいや。んじゃまた。


あ、んで書き忘れたけどあれね、情報がフローっつか液状化してるからこそ生成が起こるっていうのかな?この流動性ってまたドゥルーズ的なんだよね。アーカイヴが液状化してるっていうコンディションね。蛇口を捻れば音楽が出てくるぐらいのフローな感じっていう環境で起こる生成ね。


で、このDJっつー形態の表現ってのがこのレクチャーで言われている鳥の巣の話なんだよねっつーかアレだったら最初から見たほうがいいかもしれないんで気になる人は1から見てくださいっつーわけで2を貼るけど。聴衆が思わず「ハァーア」って言っちゃうのが頷けるほどのWow!な話だよね。



Manuel DeLandaって人はシミュレーション的なオントロジーみたいなのをドゥルーズを使いつつ論じてたりしてなんつーか例の俺のオワコンシリーズからのヴァーチャルな世界観と現実っていうオントロジーってのに凄く近い気がするんだよね。俺がドゥルーズにさらに反応したのはこれなんだよね。取っ掛かりはDJとかアーカイヴ化されている音源みたいな話だったけど原著を読んでいくにつれて自分の世界観と凄く繋がるものがあるんだよね。んだからまぁ色々と読んでますね。