仏教のゼロポイントについて。

Metro ReduxのBundleとかやってて遅くなったけど仏教のゼロポイント読み終えたんだけどさ、本当に評価が高いのが頷ける内容だったよね。スタンスとしてよく通俗的な仏教書で「人としての生き方」なんかを説かれたりするけど、ルーツの仏陀はそんなこと言ってないんだよっていうことを原典を忠実に読み解くことで明らかにしてるっていう点が凄く評価できるよねっていうかなんだろうな、さすがに東大で哲学やってきてるだけあって良い意味でドライだよねっていうか学者的なんだよね。


通俗的な仏教書の問題って本人が仏教徒だったりして教義的にモラル的なことを仏教徒繋げて語ってしまったりするんだけど、ゼロポイントの著者はそんなことにならないだろうってファンダメンタルな視点から言ってるんだよね。それをああいうクリアな形でモダンな形で世に出したってのが言わば事件みたいなもんなんだよね。ましてや若手だから今後の著者とか活動に色々と期待できるしああいう良い意味でドライな態度で学問的に仏教に取り組んでいるっていうこと自体が凄く価値のあることだよね。学者的になり過ぎてもアレだし仏教徒的になり過ぎてもアレだし・・・っていうところの絶妙なバランスが著者にあるってところなんだと思うんだよね。


あ、んでこの本へのディスとかではなくて改めて悟りとかミニマリストっていうとちょっとニュアンスが違うけども滅していく系の話について改めて思ったのはっていうかまぁ最近はその改めて思ったことってのを色々と書いてきたけど、ゼロポイントを読んで改めて思ったってことを色々と書いてみたいんだけどさっていうか大半が前に書いたのと重複してるとは思うんだけどまぁやっぱり簡単に言うとモラルの問題だよね。しつこいようだけど何が悪かはともかくとしてアプリオリに「これは良くないことだ」って知覚できるっていうことが言わばギフトなんだってことだよね。モラルってのはインストールしなきゃダメなのか?っていうとまぁある程度はそうだけどアプリオリに「これはダメだな」ってことは何となくわかるからあえて悪いことはしないっつーか基本的に自分のためにもならないし徳とかそういう崇高な概念は別にしてまぁ卑近な物理的な意味でなんのメリットもないからやらないってことなんだよね。


で、まぁ何が善なのか?というよりかは何が悪なのか?っていうのをすんげーシリアスに考えるっていうことが倫理学とか政治学とかにも繋がっていくわけだけどやっぱりそのね、個ってのを考えたときにやっぱり個ってのは独立してないじゃん?なんらかの形で社会と繋がっていたりするわけだからやはり個の在り方ってのを考える必要があるんだよね。まぁそんな中で思想の一つとして悟りってのもあるけど前にこれは観念論だって書いたけどさ、なんで観念論なのか?っていうとようは想像の共同体とか言って国家とかも全部妄想なんだって言ったところで国家はあるじゃないですか?国家があるから福祉があるし国は守られているし秩序も守られてるわけだ。その辺歩いてても襲われないのは国家があるからでしょ。でも「国家がある」ということを体感はできないよね。それが所与のもんだったらそれがデフォルトになるから体感できない。でもどんだけ酷い国に比べたらまだマシな国家があるということで良いとは言えないまでもある程度まともな暮らしができているのかってことだよね。


水道ひねれば飲める水が出てくるとかさ、これだけにしてもまぁすげーことなんだよね。で、乱暴な言い方かもしれないけどまぁでもなんつーか国家なんて妄想だなんて言う輩って妄想だって言っている地盤の中で国家とか社会の恩恵受けて育ってきてるし生活してきてるじゃん?それで国家否定したところでどうにもならないよね。それこそクソみたいにナイーヴなアナーキズムと同じだよね。で、それをそのまま代数的に考えてみようっつーか位相してみようって話なんだけどさ、悟りにしたってそんだけ色々と修行できるっていう地盤自体が秩序によってもたらされてるってわけなんだよね。


全くの自然状態での悟りって言っているわけではなくてあくまでいろんなプロテクションありきじゃん?何もかもが観念だと言ったところでトラックに撥ねられれば死ぬし飯が無けりゃ死ぬよね。その現実性は否定できないでしょう。人間である限りの必要性と認識は違うのかもしれないけどまぁでも結局なんだかんだで生きられるってそういうことじゃん?ある程度のインフラがあるから生きられるわけだし生存権が脅かされてるわけじゃないから高尚なことを考えられるわけだよね。そういう上で成り立っている認識なわけで、そこには物理的なインフラだとか安全っつー確固たる物理的な地盤があるってことだよね。


それと悟りは関係ないのかもしれないけどやっぱ俺はなんかさ、そういう安全な場所にいて悟りって言ったところで色々と守られてるじゃないですか?って思っちゃうんだよね。それで分別しないとか有とか無じゃないといったところでいきなり空爆されたりとかテロリストが襲ってくるとかそういう環境じゃないから言えることなんであってさ、ようは自然状態だったらそうは言ってられないだろうっていうところに限界を感じるんだよね。まぁマジで悟った人は自然状態になっても悟ったままでテロリストが自爆してても微動だにせず死ぬなら死ぬで普通にそれを受け止めることができるのかもしれないけどでも逆にそれってどうなのよ?って話だよね。


まぁだからこそ小乗に留まるって話で解決しちゃうんだけどね。生活に困らない人たちでなおかつ頭も良くて悟れる素質があるって人たちがそういう認識の道を歩むっていうまぁ認識的超エリート主義って定義すれば全然それで済んじゃうんだよね。ただまぁそこで出家っつーシステムとか上座部仏教っつーインフラがあれば生まれとか経済的なこととかさ、そういうのを気にしないでその道を歩もうと思ったらやれるっつーシステムがあれば問題ないよね。でもまぁやっぱ世捨て人だよなーって印象は変わらないよね。っつーかあとはやっぱ政治なんだよね。さっきも書いたけど個ってのを考えると政治とか共同体ってのを考えざるを得なくなる。そこで俺は仏教的な求道的な認識の修行みたいなところをね、いや、そういう内面のことじゃなくて政治とか人としてどうあるべきなのか?っていうヴァーチューに向けるべきだって思うんだよね。


そこは仏教並みにストイックにそういうことを考えて実践するってことだよね。で、そこから導き出される人としてあるべき姿とか価値とかってことになるんだけど、まぁこの辺のテーマってドストエフスキーなんかがよくモチーフにしてたみたいなんだけどさ、やっぱりまぁニヒリズムに抗うってことだよね。人間の本性ってやっぱり意味に生きるってところなわけでもちろんそういうところを超越していくってのも含めて悟りなんだけど、でも意味に生きるっていう本性があるからこそ生まれてくるイノベーションとかよりよい社会を目指すっていうモチベーションが生まれてくるわけじゃん?って前にも書いたけどね。


あと明らかに良くないものには抗うとか異を唱えるとかさ、具体的なアクションだよね。そういうのが人間的活動ってことだし市民社会を育むってことになるんだよね。まぁわからん、悟った人がどう考えるのかわからないけどさ、明らかに惨いことがあってそれが社会制度的な不備とか機能不全によってもたらされてたら心が痛むわけじゃん?で、そこに怒りを感じたりなんとかしなきゃ!っていう思いに駆られるわけだよね。人間的な感情とか意味に生きる人間っつーところを超越しちゃったら怒りとかも生まれてこないわけでそれって市民的に問題アリだよね。アクションを起こさない市民ってのは問題なわけよね。いや、行動したところで何も変わらないかもしれないけどコミットしたこと自体が価値になることもあるでしょ?自己満足的かもしれないけどさ、あ、でもまぁそういう意味で前にsealdsをディスったけど何もやらないよりかは全然いいんだよね。ああいう能動性は評価できるよね。


あとあれ、まぁ否定ってことじゃないんだけどさ、ちょうどまぁ仏教的な悟りみたいなのを色々と読んでいたり勉強していたときにさ、まぁ実際に当時も書いてたと思うんだけどスイーツとかバカの極みだよなー的なことを言ってたのが凄く象徴的っていうかね、結局はあんなもん砂糖の塊をバカな女が喜びそうなデコレーションをしてるだけではないか!みたいな考え方をしてたんだけど、これってパティシエとかさ、人類の文化的なものを一切否定する感じになるよね。まぁ今の俺ってテクネーみたいなのを凄く評価するようになってると思うんだけどやっぱりそこってパティシエの技術とかさ、見栄えっていう美術的な価値とかさ、それって結局まぁ人類が育んできた文化ってことになるよね。美学然り、何が美しいのか?というような形而上学然り。そこを考えないとするような立場からは新しいものは生まれないし、あと美しいってこと自体に価値があったりするじゃん?あとはそれを感じられる感性とかね、それって素晴らしいものだと思うんだよね。


仏陀の話でさ、美女に対して「こんな糞尿に満ちたものに触れたくもない」って言ったみたいな話が出てくるけどこんな感性寂しいよねっていう(笑)あとそれが生殖の否定というところからきているんであればドグマ的過ぎるよね。生殖の否定っつードグマがあるからあえて「糞尿に満ちたもの」みたいな言い方をして遠ざけないといけないっていうさ、何も分別しないみたいな観点だったら全部がイコールなわけだからあえて美女を否定するということにはならないよね。そこは本能に任せていれば美女を犯したくなるからそれを戒めるためにエクストリームな考え方をするってことなのかもしれないけどでもそれって欲望を消すってことがベースにあるよね。で、やっぱそれが本性だし人間の本能なんだって認めてるってことだからね。


まぁそういうのを超越するための修行といってもやっぱりまぁ普通に性欲があってムラムラせざるを得ないような美女が溢れてたらセックスしたくなるわけだよね。それを我慢するために山に籠るなり寺院に籠るならそれは逃げですよね。ムラムラするのが分かってるから避ける必要があるんだよね。じゃあ悟れば娑婆に戻ってもムラムラしなくなるのか?ってムラムラしなくなるらしいけどまぁ本能ってのがあるからね。悟っても飯食わなきゃいけないし安全なところに住まなきゃいけないし内戦とかしてたら心の平穏なんてすぐ壊れるのはわかりきってるわけじゃん?で、まぁだからこそそういう人間の本能とか物理的なものが結局は何もかもを支配しているっていう現実には通用しないんだよね。結局は悟りといってもそのステイトをキープできるような環境自体をキープしてないと維持できないわけで美女だらけのところ行ったらムラムラするわけだよね。銃撃戦が行われている場所に行けば身の危険を感じざるを得ない。それと悟りは別っつっても結局はやっぱり物理空間と悟りってセットじゃん?ってことになっちゃうんだよね。


だからまぁなんか結局はやせ我慢にしか思えないっつーのかな?生殖の否定にしても否定しないと愛欲に溺れちゃうだとか恋愛のもつれみたいなしがらみができるだとかなんだとか、結局、悟りのプロセスの中にそういう物理的なものに取り込まれないようにそういうものから逃げるっていう作法が内包されてるんだよね。結局はそれって悟りを得るためのインフラ作りなわけでさ、精神とは関係ないよね。でも何気に物理的な環境を整えるというところがすでにプロセスになってしまっているっていう。あ、何が言いたいのか?っていうと何もかもが任意でやっちゃいけないこととかは一切ないって中でそういう境地に至れるのか?っていうところだよね。だからそもそも生殖の否定とかしてるところですでに性欲ってそんぐらいヤバいもんだから関わっちゃいけない!っていう隠匿マニュアル的な様相を示しちゃってるわけだよね。


まぁだからこそ世俗に塗れていろんなしがらみに悩まされながらも認識を磨いていくっていう娑婆での修行ってことなら分かるけどどっかに逃げて修行ってことならそれはまぁシェルター的っていうかさ、そんな安全圏にいて欲望を滅するっつってもそれって欲望が生じない安全な場にいるからできるんであってさ、でも本当は欲望だらけの場所にいても平然としてられるみたいな修行をしなきゃいけないんじゃない?って思うんだよね。だからまぁ前にも書いたようにブラック企業とかにいながらにして平穏でいられるってのが成立するとすればそりゃすげーな!ってことになるけどそれってまぁ違うじゃん?そもそもブラック企業にいること自体が問題だし社会的に問題がある例えばサービス残業だとかパワハラとかモラハラとかを悟りの境地で受け流すっつってもそれが行われているということ自体が問題だからむしろ戦わなきゃいけないよね。ノーダメージってのはそれでいいかもしれないけどその相手の攻撃自体に何もしないってことなわけだからそれってまぁ放置っつーか事なかれ主義だよね。


結局なんつーかね?悟りの境地ってのが文字であらわせないってようはありえないからだと思うんだよね。精神的なこととか最低限のニードっていうところも含めた物理的な制約から完全にフリーであるということなんてありえないし、ありえるとしたらそれは物理的な制約を生み出すようなものを滅却するってことで身体の否定ってことになって結局は死ぬってことになると思うんだよね。これってなんか結局は帰結はカルト的だよね。集団自殺とかにもなりかねないっていうかさ、仮に教義で仏陀が「最後は肉体までをも否定するのである」とかって言ってたら相当ヤバい宗教なわけだよね。そこで謎の論理の飛躍というかさ、有も無も無いみたいな境地に至れたからこそ全てが楽になるみたいな、なぜかそうなったら至上の喜びが生まれるみたいな話になってるじゃん?そこで普通は意味の喪失があってニヒリズムに陥るはずなんだけど悟りを開いているからこそなぜかそれが楽しくなるらしいんだよね。ようはこの違いだけなんだよね。


身体すらも否定してくみたいなヤバいロジックが無くて、なぜか最後は至福があるみたいな話になってるから教義として成り立ってるみたいなさ、でもぶっちゃけあれなんだよね、悟りまでのプロセスってそこまで難しくないんだよね。超ドライに考えれば現代の人ならそんな風にも考えるでしょうっていうね、没価値ってことだよね。まぁそんな簡単なものじゃないんだけど、まぁだからこそ本当の悟りってのは悟った後に何もなくなった状態で永遠にハイな状態が続くっていう境地らしいから謎なんだよね。で、そんな境地に至った人を見たことが無いしそんなことを書いているものもないっていう。ただ単純にそれはありえないからってことだと思うんだよね。


それは結局人間である限り物語に生きるしかないし物理的な安全とか最低限の衣食住ってのはなきゃいけないし何もかもを滅却するっつっても極寒の中で袈裟一枚とかで外にいられるわけでもないし逆もまた然りだよね。灼熱の中にいたら普通に死ぬわけだから。それって身体がある限り絶対そうなんだよね。最低限のニーズってのが必要になっちゃう。で、結局はそのニーズってのがどんだけ観点的に分別をしていなくても結局はそれがないと生きられないというところから有を認めるしかなくなっちゃうんだよね。水が無いと死ぬよねっていうそういう当たり前のところから有が生まれちゃう。で、水を飲むか飲まないかは任意じゃなくて飲まないと死ぬよね。だからもう水ってのを認めたことになるよね。まぁあとそれとは別に水を水として認めて体に取り入れるべきか?みたいなレベルの生活をしている人の生活ってのが決してハッピーじゃないだろうっていうことだよね(笑)いや、でも結局観念論ってこういう狂気になるのよ。結局は。


なんか逆に観念論が行き過ぎて最後のほうでは狂気みたいなレベルになってたら説得力あるけど最後のほうでやっぱりヒヨってる感は否めないよね。なんで悟りに至った後はあとは楽しむべし!ってことになるのかわからないし、そもそも悟ったら楽しさもクソもないだろうって思うし、それが悟りかはともかくとして物語とか価値観を失った人間ってのはニヒリズムに陥ってどん底の精神状態になってうつ病とかになって自殺するんですよっていうさ、それって別に経済的に恵まれててもそうなる人もいるっていうぐらい深い人間の心の闇じゃないですか?悟りを開けばそれが無くなるらしいけどそこの違いが判らないよね。ニヒリズムとの決定的な違いってのが結局はよくわからない。ニヒリズムは何もかもの否定で仏教は分別しないということという違いらしいけど客観的にそれって同じと言えば同じだよね。善悪もクソも価値もクソもないんだっていうことなわけだから。


そんな相対主義に悩まされてきたのが西洋哲学っつーかまぁロシア文学とかもそうだし、いや、だからこそレオ・シュトラウスなんかはニヒリズムって超ヤバいからだからこそモダンな時代のプレモダンっつー感覚なんだよ!ってことを古典とかを引き合いに出して力説してたわけだし、まぁようは物語とか価値の喪失ってさ、いや、喪失ってこと自体が物語とか価値を在るものとして認めているからこそ喪失が生まれるといってもそれ自体は存在してるとしか言いようがないじゃん?それって栄養とか水分とかと同じなんだよね。どれだけ存在の否定をしても飯食って水分取らなきゃ人間は死ぬし、それが無い状況だと認識がどうあれすんげーひもじい思いをしちゃうんだよね。価値とか物語もそうだよね。無いと死ぬというのは言い過ぎにしても水分と養分ぐらいの重要なものなわけだよね。無いと脱水症状とか栄養失調の症状が出てきちゃうんだよね。それが人間ってもんなわけだ。


あ、んでね、超エリート主義的認識論としての悟りって意味だとあれなんだよね、仏陀にせよジャンルは違えどロシアの文豪とかアナーキストとかニヒリズムに抗おうとした人たちとかってまぁ大体貴族だったり元々頭良いじゃないですか?で、元々卑しくないどころか生まれが良いからこそヒューマニズムとかに関してシリアスに考えることができたっていうのはあるじゃない?ようはストリートからはそういうのは生まれないってことだよね。仏教然り。だから現代で言えばさ、やりたいことやり尽して自分の会社とかも作って名声とかも得て引退してやることなくなって虚しくなった・・・ってあとに仏教が来た場合、それは成立するよねっつーのは例えば美女とかにしても美女とさんざんヤッてきたからもう特にそこまで固執しないみたいな認識になっちゃってるんだよね。物欲とか名声然り。得ちゃってるから満たされちゃってるのね。


で、何もかもが満たされても虚しいっつーよりかはもっとなんかないのかな?ってことで上のレベルを目指すって意味で精神修養とかになって悟りを開くってことになるとするとその例の超エリート主義的認識論という意味での悟りっていう道が開かれる気がするんだよね。やせ我慢じゃないマジで別に金とかいらないし美女とかも飽きたし・・・っていう一切のごまかしが無いわけじゃん?まぁ仏陀もそうだったとかって言われてるけどだから凄いんだよね。凄いのはやっぱり王子だったってところなんだよな(笑)贅沢の限りを尽くしてやることやり尽しちゃったからなんかねーかな?ってことで内面世界に行ったっていうさ、この物語ってすげー重要だよね。


結局、凡夫と覚者の違いってここなんだと思うんだよね。ようは生まれと環境ね(笑)もしくはやりたいことやりつくしたCEOみたいな感じで上り詰めた人ね。それがあって悟りフラグってのが成り立つ気がするんだよね。凡夫がそれをやろうとしても所詮は背伸びとかやせ我慢がつきものになっちゃうんだよね。大抵は金に困ってるからそりゃ金いる?って言われたらいるしさ、美女とヤリまくった経験なんてないわけだから美女とやりたい放題できるならやるでしょう。


まぁ逆にまず世の中でやれることとか欲望限りを尽くすっていうことが悟りのプロセスの入り口なんだとすれば一気に悟りのプロセスって説得力を増すんだよね。凡夫が煩悩を滅するには?とかってやってるから形而上学的になっちゃうんであって、仏陀とかみたいに滅するというよりかはやり尽しちゃうっていうことで経験してしまうってことだよね。でもそれをやれる人は限られてるわけだ。でもこれって凄いことだよね。自称覚者が二人いたとして片方は色々とやり尽してきて悟りを得た人と片方は普通の生まれと育ちで修行をしてきて悟りを得た人だったとして、前者は美女がいても「あーもう過去に腰がバカになるぐらいやり尽したんでもういいです」みたいな感じで特に執着することもなく、そもそもそれはやり尽してきたっていう経験からそこまでの煩悩が生じないっていうね、で、後者は童貞でAセクシャルならともかくまぁやせ我慢で頑張ってきた人だったとすればまぁ「あんなもん糞尿の塊だ!」って考えることに必死でしょう(笑)実際は膣にちんぽを入れてみたいという性欲と好奇心はあるんだけど「あーダメだダメだ!」って考えるしかないっていうね、まぁ悟りを開いてるからそんなことは浮かんでこないのかもしれないけど、でもまぁ浮かんでこないってことはないでしょうね。だから教義として生殖の否定とかってのが規定されるわけでしょ?まぁその分、やり尽してきた人は経験から分かってるからある意味で経験という名の覚者なんだよね(笑)


悟っているというよりかはやり尽してわかっているからこそ別にそんなに固執しないっていうさ、俺は仏陀はそういう人だったんだって勝手に思ってるけどね。そういうコンテキストありきだと仏陀が言ってることってすげーな!ってことになるんだよね。別な言い方をすればその物語無しには仏陀は理解できないって勝手に思ってるよね。なんで仏陀って美女を糞尿の塊みたいに思えるようになったの?って抱き尽して飽きたからっていうことなんだとすればまぁすげーリアルでしょ。超越したというよりかはやり過ぎて飽きたっていうね(笑)そういう意味で究極の勝ち組のロジックだよね。滅したというよりかは飽きたし世俗的なことはやり尽したっていうさ、まず普通の人が無理なことをやり尽したから故の引き算の世界っつーのかな?でもそれは断捨離的なメソッドとしての方法論なんじゃなくて「いや、ガチで色々飽きたんだよね」っていう実感っつーのかな?凡夫には無理ですよね。大抵の人に贅沢の限りを尽くせる機会はないわけで。


元が王子でやりたい放題だったか色々とやり尽したレジェンダリーなCEOだったか、とにかく悟りのpre requisiteが「現世で欲望の限りを尽くして飽きること」なんだよね(笑)まぁ別にCEOだからっつって欲望の限りを尽くしているとは限らないけどようは値札が付いてる限り実質的になんでも買えちゃうっていう状態で色々とやり尽した後に特にモノとかお金に執着しなくなるっていう境地だよね。それはまぁ大抵の凡夫には無理なことでしょ。pre requisiteの時点で満たすことが無理だよね。だからそれは無理だから滅却するっていう贅沢の限りを尽くしてはいけないけど尽くしたっていう体にするか尽くした人の境地ってののまねごとをするしかないんだよね。でもそれはハードルが高い。なにしろ経験してないからね。あと金があるに越したことはないわけで、金がありあまっちゃってもういらねーんだなっていう境地を真似るといっても大抵の凡人には無理でしょう。あ、まず俺は絶対無理ね。100パーセント不可能。だから悟りなんて得られるわけないのね。だからそもそも悟りを開こうなんて思わないのね。自分に素質ないからね。そんぐらい狭き門なんだと思うんだよね。


でも仮にそうだったとしても仏陀の教義自体は全く揺らがないからね。ただまぁ雲の上みたいな話だよねーってことだよね。凡人には本当に関係ない話っつーかなんつーか。あ、でもあれね、悟り世代なんて言われる世代の無欲さってのはそういう意味で文字通り悟り世代ではあるんだよね。昔の人たちがブランドものだの車だのなんだのって言ってたのがまぁ全然意味ねーしあんなんで競ってもしょうがないしあんなところに価値ないし金もないし金あってもあんな大金つぎ込むつもりもねーしっていうような意味での無欲さだよね。ポストモダン的な感じだよね。それはさっき書いた悟りのpre requisiteってのが上の世代とか過去の物語によって満たされているっていうのかな?経験はしてないけど経験したうえで特になんもなってないとか満足してないとかハッピーになってないとかあとただ満たすことに何の意味も価値もないんだなっていうのを実際にやってきてた人たちのその後とかやってきた人たちの心境なんかを物語として消化しているからこそ生まれる無欲っていうのかな。まさにpre requisiteの追体験なんですよね。やり尽してはいないけどやり尽した後のことは容易に想像ができるっていう世代だよね。


それは当然追体験できるぐらいの情報の速度とavailabilityだよね。とはいっても実際にやってみることとなんとなく想像がつくのは違うにしてもさ、でもまぁやっぱ今ってそういう意味である種電脳的にいろんな経験を追体験するとか個人体験が鮮明にブログに書いてあったりみたいな意味での色々な物語の消費の仕方ができるっていう意味での情報の速度だよね。それによって結果的に悟りのプロセスのpre requisiteが満たされちゃってるっていう。恋愛とかにしても結局面倒で煩雑なだけだし、かわいい子なんつっても歳とるしあと中身わかんねーし失敗してる人の話とか見ると悲惨だしそんなリスクとりたくないし性処理なんてオナニーでいいしみたいな犬儒派的な感じだよね。これは怠けとは違うんだよな。


色々と暴露された物語の結末を知っちゃってるからこそ物語とか欲望への幻想ってのが無くなっちゃってるんだよね。ラカンで言うところの対象aが完全に喪失してしまっているみたいな意味での悟りだよね。でもそれは能動的に悟ったというよりかは幻想ってのが勝手に情報の速度とか物語の消費によって喪失しちゃうってことなんだよね。まぁポストモダン的でしょ?で、何もかもが相対化して価値観すらもわからないってことになるニヒリズムになるんだよね。それが必然的な帰結なわけだよね。だからそういう意味だと悟りってのはニヒリズムとは違う意味での分別の消去っていう能動性によって得られるものだからニヒリズムとはベクトルが違うともいえるんだけど、ただニヒリズムと近いというのはやっぱりポストモダン的な状況ってのが悟りのpre requisiteを満たしてしまっているというところからも如実に分かることだと思うんだよね。


で、そこで仏教のゼロポイントに繋がるんだけど著者の魚川祐司氏って「ニート学生」を自称してるけどそこがやっぱり示唆的なんだよね。つまりはポストモダン世代の申し子なんですよってことなんだよね。本人も恐らくポストモダン的状況によって悟りのpre requisiteが満たされてしまっているからこそどーすっべか?みたいな感じになった後かなっている最中に仏教と出会って「これ面白くね?」ってことで積極的に研究するようになったっていうさ、そこが求道的なのではなくて自然なんだよね。今の時代に仏教かーっつよりかは今の時代だからこその仏教!っていう次世代感覚があるんだよね。そこがやっぱり若い人を惹きつけたんだと思うんだよね。そこには今の世代にしかわからない独特の疲弊した感じと物語の喪失ってのがあるんだよね。明示されていなくても無意識化で若い世代ってそういう感覚を共有してるからね。まぁ全員そうだとは言わないけども。


で、そういう人が実践をしながら「いや、道徳とかそんなのとは関係ないんですよ」ってことを次世代感覚で明確に言っているっていうのが急所なんだよね。むしろそういう次世代感覚があるからこそ世俗化された仏教とは違う原理的な仏陀の教えというのを読み解くことができたっていうかさ、まぁあと世俗的な話に引っ張られないドライな感覚っつーのかな?ニートとか脱社会化された人たちってそういう達観あるじゃん?この本の著者の場合はそういう達観とは違うんだけどでもかなり良い意味でニート的なんだと思うんだよね。だからこそ方法論的悟りっていうのを明確に分析しているっていうさ、物語の中を生きてないんだよねっつっても別に社会問題についてどうでもいいって思っているわけではなくて、仏陀の教義とかをいろんなものとリンクさせて語るということをしてないということだよね。そういうのをごっちゃにするからわけがわからなくなるわけだし、大乗なんてようはそんなものの産物でしょ?っていうのを言ってる気がするんだよね。まさにその通りなんだけど。


そのおかげで仏陀の論理に問題があるように見えちゃってるけどいや、実際はそんなことなくて後付けのいろんなもんでめちゃめちゃになってるのが実際の数ある仏教なんですよっていうことなんだよね。そういう意味で徹底的に原理的なんだよね。その原理的な感じが達観している悟り世代特有のものだったりして、まぁ仮に悟り世代とかじゃないにしてもこの著書がそういう今の我々の物語の中から出てきたものっていうことの重要性はあるよね。コンテキストの中から出てきた脱コンテキスト的な原理的なテキストの解説っていうね、それがまぁすげー次世代的な感覚だなって思うのね。だからこそ仏教って面白いんだよね!っていうのはそういう意味で極めてポストモダン的感覚だと言えるしある種の時代精神だよね。


そんな感じで今日はこの辺で。