資本主義と共産主義の止揚。

ヤッホー!ハイな状態が続いておるよ。で、まぁこないだ書いたネグリ的主体みたいな話なんだけど、まぁ主体論はともかくとして話として面白いなって思ったのがホリエモン的な考えととネグリが結果的に同じ同じような話になってるってことだよねっていうかまぁその労働の拒否って意味でまぁホリエモンっつーか新自由主義者的って意味なんだけどね、これってまぁベーシックインカムの話に繋がるよね。資本とか貨幣っつー権力に対して抗うのはそういうもんに依存しないとか巻き込まれないってことになるんだけどまぁでもかといってもじゃあ生活どうすんのよ?って話になるじゃん?それとは別のベクトルで新自由主義的な考えの人たちが生産性が低いやつらは仕事すんな!みたいな極論を言いだすわけじゃん?まぁ両者はコンテキストが違えど別な形で「労働するな!」って言ってるんだよね(笑)


いや、それは別に一般論ってことじゃなくて前にも書いたように有能な人の席を奪うような無駄な雇用は避けるべし!っていうような意味で労働全般の否定とかではないんだけどまぁそれで言えば別にネグリ的な労働の拒否にしても良い仕事に恵まれてる人なんかは別に拒否しなくていいわけだからね。ただまぁそこで仕事ができない=ダメなやつみたいなレッテル貼りをしないでっつーか別に仕事だけが人間の価値じゃないじゃん?っていうような意味での価値創造だよね。あとまぁ価値観を経済活動を軸に考える傾向をやめるってことだ。そういう意味で概念的に貨幣っつーのを権力として捉えるっつーのは価値判断っつー価値観に関わってくるってことになるよね。まぁでも金がパワーだなんてのは自明だけどそういうことじゃなくて我々が日常的に当たり前のように「良いもの」とか「望ましいもの」と思われているものに対して疑問を抱くってことだよね。なんでそれをやることが良いことなのか?ってそれが仕事に繋がるからとか経済活動に繋がるから意味があるっていうような、そういう経済活動っつー概念に縛られるってことがそもそも貨幣の権力の力なんだよね。


生きていかなきゃいけないから金を稼がなきゃいけないって当たり前なんだけどそれが当たり前すぎるからこそ半ばアプリオリに経済活動は良いものだとされるじゃん?まぁあとそういう風に教育されるよね。でもそれってそもそも貨幣っつー権力による洗脳なわけでさ、それってようはただの価値関係なのにも関わらず凄くドミナントなものになってるってことじゃん?じゃあ金にならないことはダメなことなのか?ってそんなことないよね。だからまぁ金にならなくても人間的活動をするべきだってのは前から言い続けてるしそれは繰り返しになるから書かないけど、いや、今回書きたいのはさ、まぁその前に話を出した共有型経済とまではいかないけどまぁいろんなもんが共有されたりそれ自体にそんなにお金がかからなくなるってことはそれだけ貨幣ってことに生活が縛られなくなるってことだよね。まぁぶっちゃけ権力のヘゲモニーから逃れられるってことだよね。


まぁでもその便利なもんとかインフラってのが資本主義的なイノベーションによってもたらされてるってのは事実なわけだからそこで資本主義批判ってことにはならないんだよね。ようはまぁすげー有能な人たちが作ったシステムとかインフラっつーのに乗っかるってことだよね。でもそれは資本主義的なイニシアチブで作られたもんだからようはプロダクトなんだよね。で、利用に金がかからないから貨幣から自由になるということを言いつつそういうのを利用するっていうとあたかもタダ乗りしてるように見えるんだけど、そういうものにタダ乗りすることこそシステム側が求めているものだよね。ようはそのサービスが利用されるってことがサービスとかシステムを作ってる側の目的の一つだからガンガン利用すればいいんだよね。


なんかまぁそこはアイロニーっつかさ、まぁ革命全般はともかくとして仮に打倒資本主義!みたいなことを言ってるセクトみたいなのがいて、そういうやつらがSNSとかを利用してやってたら結構笑えるよね。資本主義的イノベーションによる産物に乗っかって打倒資本主義!って言ってるわけだから。まぁそれ言い出すと法治国家っつー武力の独占が国家によってなされているからこそある程度自由でいられるっていうことに乗ったまま「軍隊反対!」とかって言ってる左翼連中とかも同じなんだけどさ、まぁそういうのはもう概念エラーを起こしてるからどうしようもないとして、ただ貨幣からの自由ってのはマジで本当に重要だよね。んでもそれをどう考えるか?なんだよな。貨幣ってのはただのシステムだからようはそれを権力として考えるというよりかは生きるということが貨幣に極端に依存することなくやっていける世の中ってことだよね。


だからまぁそういう意味で絶望世代の若い人たちが金銭的にストイックになってるとか昔の世代みたいに散財したりしないっつーのもまぁようはそういう権力からの解放ってのを無意識的にやってるってことなんだよね。派手な消費とか凄まじい出費ってのに生活が依存していると常に自分が金に支配されちゃうからね。だからそういう支配をされないようにシンプルに生きるってまさにそれだよね。でもそれってのがネグリみたいな学術的研究とか運動からきてるんじゃなくて資本主義的なものの衰退の結果として必然的に出てきてるってのが面白いんだよね。でも貨幣に依存しないってのが資本主義の自滅なのか?っていうとそんなことなくてそれってまぁようはポスト資本主義なんだと思うんだよね。何しろ依然としていろんなもんがフリーになったり利用しやすくなるっつーもんは優秀な人たちによって開発されないといけないからね。


あ、でもこういう構造だとアレなんだよな、それが資本主義的イニシアチブにしてもそういうのを開発したものを都合良く使って自分は経済活動にはそこまでコミットしないってタダ乗りとかテクノロジーへのパラサイトみたいに思えるかもしれないけどそれは凄まじい間違いだよね。いや、金がかかるか微々たるもんにしても基本的にシステムってのはユーザーがいないと成立しないからガンガン寄生しちゃっていいのよね。いや、それ言い出すとさ、いや、それを寄生とかって言っちゃうとなんでも寄生よね。だって何一つとして自分の力があったからこそ得られたものなんてないわけじゃん?大抵のもんが誰かの発明だったり誰かの資本だったりっつー誰かが作ったもんを利用して生活してるわけじゃん?でもそれは使ってるんであって寄生じゃないよね。


そういう意味で権力によって支配されてしまうっていうものを分離していくってのがようはなるべくフリーなもん利用して生活するっていうシンプルライフってことだよね。で、これって別に資本主義へのアンチテーゼとかっていうポーズでやってるんじゃなくてそれでやってけるしそれのほうが生活しやすいっていう利便性で得られているんだよね。だからこそそれはポスト資本主義的なんだよね。まぁあとあれじゃないですか?そういうでかいもんを開発する優秀な人たちとあと他は大体オートメーションで済んじゃうか過去ほど人の手を使わなくても済むようになったらそれこそすげー昔から言われてるような中間が無くなるって意味での高級な仕事をする人と低級っつーと問題だけどまぁ肉体労働をする人みたいな感じになるじゃん?でもじゃあ今までその中間って何だったの?って考えるとようは結局それっていろんなもんに付随してた余計なもんだったんだよね。なんかの業界が今ほど便利じゃないから成り立っていたからこそそれこそそこに規制して仕事っぽいことをやって食っていける人たちがいっぱいいたわけじゃん?で、今はそういうのがすげースリムになって余計なもんで食えるって時代じゃなくなったからこそまぁようはそこまで人が必要とされてないってことなんだよね。あとまぁ席が限られてるから有能な人だけ仕事してくださいってことになるしあとはまぁ高級なことができる人に仕事が開かれてるってことになっちゃうのもしょうがないよね。


そこで差別なく雇用せよ!ってことになると本当にそれはナイトメアなんだよな。その辺をネグリが半世紀以上も前に考えてたってのがすげーな!って思って。ようはそういう社会主義国家ってまぁようは金の分配をするって意味で貨幣っつー権力から距離を置かないどころかそれを所与のもんとして認めるってことになっちゃうから結局貨幣依存ってのは変わらないってことになっちゃうんだよね。そうじゃなくてそういうもんに支配されないって意味でのコミュニズムなんだってことだよねっつっても別にそれはもはや別にコミュニズムなんて呼び方しなくても世界的にまぁフリーカルチャーになってるじゃないですか?だから別にあえてコミュニズムなんて言葉出さなくても資本主義の世の中を賢く生きていくって作法を実践してればおのずとそれは貨幣っつー権力に縛られないっていう生き方になるってことなんだよね。これが凄く良いのはマルチチュード的な民度の高さを必要としないってことだよね。あくまで生活の当たり前の帰結としてそういう風にシステム的になるってことだからイデオロギーとか思想が介在していない分健全だし現実的だよね。


ネグリ然りマルクス然りだけどまさに俺が最近書いているヒューマニズムって意味でそういうドロドロしたイデオロギーとはフリーのフリーカルチャーを生きていく上でマルクスとかネグリ的な主体の在り方ってのが有効になるってことだよね。結局まぁ簡単に言っちゃえばマルクスってその人の必要と能力が理想的に社会に反映されてそれでやっていけるっていう世の中っつーかまぁユートピアだけどさ、で、まぁ午前中理想的な向いている仕事をやって午後は釣りをするみたいなそういうのがいいんじゃね?って言ってたわけで、そこをまぁようは貨幣に依存しない職業とかにも依存しないフリーライフを満喫するっていうコンテキストで捉えるってことだよね。必要と能力が理想的に社会に反映されるってのは無理だしそれは個人の能力に依存しちゃうしあとまぁ半ばタブーだけど明らかに生まれつきの能力差ってあるわけだから、社会は依然として徹底的な能力主義のままでいいんだよね。で、すげーやつらがすげーのを作り続けるってのをやり続ければいいわけで、そこで変な左翼思想とか平等思想でそういう文化を育む経済活動に横やりを入れる必要はないんだよね。そういう意味で産業も徹底的に自由であるべきなんだよね。


いや、ミルトンフリードマンネグリ弁証法止揚を垣間見たかの如くでしょ(笑)二つの両極にあるエクストリームな思想ってのが合意ってわけではなくて個々のパースペクティブを維持したまま止揚されてるんだよね。あ、んでもちろんその自由を育むには平等の機会ってのは当然必要だしそれはそれこそフリードマンもそういうことは言ってるからね。新自由主義の権化ですらそういうことを言っているっつーよりかは新自由主義的な社会をエンジョイするには機会の平等は必須なんだよね。それが無いと成立しないわけで。


でもこれってよく考えれば当たり前なんだよね。産業っていうような社会のレベルと経済とかに縛られない人間の活動って意味での芸術とか運動とか趣味なんかも含めてレイヤーってのが社会に矛盾することなく存在してるってそもそも社会ってそういうもんだもんね。ただでもここで重要なのが仮にネグリだなんつっても行き過ぎたコスモポリタニズムってのは非現実的だしそこはあくまで強固な国家ありきだよね。コスモポリタンなんじゃなくてそのご当地での生活をエンジョイするためのナショナリズムだよね。そこは単純に他国より地元っつーことだよね。あまちゃんじゃないけど(笑)何気に郷土愛って意味でのナショナリズムってすげー大事だからね。この辺は左翼思想になるとインターナショナルになっちゃうからダメなんだよな。文化的なコンフリクトとか実際の人間同士のすげーファジーなややこしい部分ってのが全く考察されないままグローバルヴィレッジとかって言いだしちゃうからね。そういうユートピア主義はダメだよね。


だからなんだろうな、そういう意味でイデオロギーとかの作為とかを抜きにして自然に人間が貨幣的な支配からフリーになっていくかっていうことだよね。んでもフリーになるためには資本主義的イノベーションってのはやり続けないといけないからそういう意味で貨幣からの自由=資本主義からの自由ということなのではなくて資本主義と共産主義止揚ってことだよね。でもまぁコンテンツとかに関して言えばホントに消費のされ方は共産主義的だもんね。過去にはナップスターとかってああいうのは明らかな共産主義的なイデオロギーがあったけど今って違法なもんはともかくとしてグレーゾーンなもんに関しても別に単純に便利だからって理由で共産主義とか抜きに共産主義的なコンテンツの消費の仕方をしてるからね。その作為性のなさがポイントでその作為性のなさをもたらすものってのがまさに資本主義的経済活動とイノベーションだよね。すげー止揚だと思うんだよなこれ。


でもそこを学問的だったり工学的にやろうとすると結局は計画経済みたいになっちゃって破たんするからまぁ話はすげー簡単で資本主義と共産主義止揚して使いこなすっていうことに尽きるんだよね。で、それを工学的にやらずに常に現実とのフィードバックによる生成として考えるんだよね。そういうところに関しての抽象性ってのは必要で、例えばネグリが生産は差異のカテゴリーだなんて言うときのこの抽象性ってのは言わばリアリズムなんだよね。システム的な構成要素として存在するもんなんであってシステムの動的な性質と理論はともかく現状どうなってるのか?っていうフィードバックが無いと観察できないんだよね。だからそういう意味でレッセフェールとは違うにしてもある程度自己生成に任せてみるっていう手が重要になるんだよね。まぁでも結局ハイエクとかが言ってた秩序なんてのはつまりはそういうことだよねっつってもそれはあくまでその秩序を成り立たせる必要性に駆られないといけないので、そういったautonomyってのを阻害するような要素に関しては常に目を光らせてないといけないんだよね。


まぁそういう意味で例えばまぁ今思いついたのだとJASRACとかだよね(笑)フリーカルチャーとは反対のベクトルどころか実際はただの利権のためにやってるだけっていうさいや、それでもJASRACが存在することによる社会的秩序ってのがあるならわかる。でもただの利権団体だからな。そういうのはどんどん解体させるようにしなきゃいけないし攻撃しないといけないよね。そういうもんを破壊するってのもようはautonomyなのよ。ようはautonomyにとっての害悪な要素ってことだからね。まぁJASRACしか浮かばなかったけどまぁほかに色々あるでしょそういうの。パチンコ業界然りヤクザ然りってことを言いだすとまぁ身を乗り出そうとする人が殺される可能性もあるっていうところになるからアレなんだけど(笑)


まぁでも自由への闘争ってそういうことですよね。まぁ別にだからといって命をかけてヤクザを撲滅しようとしなくてもいいわけで(笑)まぁやれそうなところからやっていこうってことになるんだよね。その一つがまぁブラック企業なわけでそういうところに就職するってのをやめるとか片棒を担ぐのをやめるってことだよね。で、親には「あそこはブラックだから」って説得できるぐらいのある程度の論理的思考と「就職先ブラックしかないから仕送りよろしく」って言えるぐらいのboldnessだね(笑)ブラック企業に勤めていること自体が反社会的で言わばダサいことなんだからそれだったらautonomy気取って反骨精神としてフリーター続けたほうがいいのよ。マジで。まぁんでフリーターやりつつなんか面白いことをやってればなお良いよね。それだけ社会が面白くなるからね。別にすげーアクセス数とかなくてもローカルでもいいからなんかやってたほうがいいよ。マジで。そういうなんかやってるってことが今後生きてくるような世の中になるからね。マジで。だから今のうちに自己投資しておいたほうがいいぜよ。マジで。


んでもマジでネグリのラディカルさには驚かされるね。最近になって言いだしたならともかく60年代ぐらいにすでに昨今の議論に繋がるようなことを言ってたっていうさ、まぁエクストリームってことなんだけど、そういう意味でミルトン・フリードマンみたいなのもラディカルっつっちゃーラディカルだったんだよね。二人とも同じ時代を生きてて同じような時期にアクティブに活動してて色々書いてたんだけど今っつーかまぁ近年になって「あれ?繋がっちゃった?」みたいになってるってのが面白いよね。それはアイロニーというよりかは希望でしょう。まぁでもそういう意味で新自由主義ってのもちゃんと理解されないといけないよなって思ったよね。左翼にせよ保守にせよ変な部分ばっかピックアップしてごちゃごちゃになってるわけで、ちゃんとした理論家のものを読めば難解にしても論理は明快で、んでまぁ論理的帰結なんてそんなに違わなかったりするんだよね。そんな意味でフリードマンハイエクもちゃんと読んでみようかなって思うようになったわー。あ、んで一応言っておくけど帰結の一つとして成すべき政策みたいなものの一部が一致したからといってそれが合意なわけでもなければ和解でもないわけで、両者ともに全く違う社会観とか国家観とか人間観に立脚しているんだけどそれを厳密にやっていくと成すべきことについて一致したりすることもあれば時代性によってそれがクロスして同じコンテキストで考えられたりすることもあるってことだよねっていうかまぁその別な例としてはハイエクと仮想通貨とかだよね。


そんな感じでんじゃまたね。


PS


あ、なんかまた急に左翼思想にハマりだしたとかじゃなくて元々左翼であるが故に左翼が大嫌いになってアレルギー反応が出たうえでのrevisitで純粋な思想として読み直してるみたいな感じかっていうかsealdsとか大嫌いだし坂本龍一みたいな理念ばっか言っててエコだの脱原発だのって言う感じの左翼ってのは相変わらず大嫌いなんでその辺は変わってないですよ。ただまぁ何が言いたいのか?っていうと左翼に位置する思想だとそういう左翼の人たちの論拠になってたり何かしらの形で言及されたりするじゃん?いや、そういうのとは全然関係ない自分史で勝手にそのラディカルさに立ち戻ってるだけなのでね、通俗的な左翼は本当に大嫌いなのでね、それだけはマジで言っておきたいです。あ、でもまぁあれじゃん?sealdsはバカって言われるけど昔の学生運動とかみんな同じよ(笑)中には賢い人もいたけど大半はただの流れとか盛り上がりとかオルグされたとかでバカ騒ぎしてただけなのね。アメリカのヤッピー然りだけど仮に運動してたところにマルクスちゃんと読んでたらあんな大人にならないじゃないですか?で、挙句の果てに「学生運動とは何だったのか?」とか「俺はあのころ何をやってたんだろうか?」とかって回想したりするわけじゃん?


右翼思想がダサいバカな右翼とかによってイメージが悪くなっちゃうのと同じで左翼思想もまた同じなんだよね。いや、シャンタル・ムフとかそれこそドゥルーズなんかも左翼と言えば左翼じゃない?でもそこで坂本龍一とかsealdsとかと繋がっちゃうのがまずいっつーかあんなのとは実際は全く関係ないってことなんだよね。それは思想全般同じ。そもそも思想を実践してたらあんなバカな大衆運動しないからね。だからまぁ左翼はダメだけど左翼思想と呼ばれているものがsealds並に実際は何も考えてなくてダメなわけではないってことね。いや、ナイーヴでマジでダメなのもあるけど少なくともマルクスとかあと最近完全に再マイブームになってるネグリなんかのラディカルさってのは凄まじいもんがあるわけよ。思想の威力ですね。まぁそこは右翼思想も同じなんだけどね。そういう意味でイデオロギーと思想は分けて考えなきゃいけないね。思想=イデオロギーじゃないんだってことね。むしろ運動=イデオロギーかもね。思想は考えなきゃいけないけど運動はとりあえず騒ぎに参加すればできるからそういう意味で空虚なシニフィアンの集合体と言えますよね。その辺のラクラウの大衆心理学なんかも踏まえた大衆運動の分析とかって凄くてさ、だからなんつーのかな?ちゃんとした左翼こそ大抵の左翼運動に対して否定的なはずなんだよね。たまにそこそこの大学の教授でsealdsを評価してたりする人とかいるからやっぱああいうのがイデオロギーなんだなって思うわ。


あ、まぁでも目的が一緒だったらバカでも多いほうがいいから共闘できるならやったほうがいいって意味で運動っつーのは色んな空虚なシニフィアンの集合体だけど左翼ポピュリズムという意味でのヘゲモニーという意味では有効であるみたいなことはラクラウも書いてたと思うけど左翼が問題なのは性善説に立った非現実的な社会観なんだよねっていつも書いてるけど。で、結局は元が左翼と言えど色々やってみるとやっぱ人間クソだなってことになって寡頭制しかねーなってことになるってのはミヘルズとかガエターノ・モスカなんかも言ってたわけじゃん?そんなの20世紀初頭に明らかになってたってことなんだよね。で、だから民主主義って微妙じゃね?ってことになってトクヴィルとかの議論なんかも説得力が出てきちゃったりなんかして、それでも死守しなきゃいけないという意味でのリアリスティックな民主主義の在り方ってのがむしろレオ・シュトラウスのような保守思想家から出てくるんですよってのがまぁざっくりとした俺の流れのサマリーですよね(笑)で、現在はそっからネグリとかマルクスにラディカルな意味で立ち戻ってるみたいな感じだね。で、明後日ぐらいにハイエクの本が大量に届きますよってのが今の俺ですね(笑)


ネグリのドキュメンタリー発見したんで見てみて。