またネグリとかの話。

構造主義的に考えれば何でもそれが構造における効果ってことになるよね。物理現象という枠組みで構造的に規定されている効果ってのはとりあえず量子論とかは置いておいて、古典力学的に考えれば様々な諸要素の相関関係と現象ってことになるよね。それが構造的である限り様々な物理現象というのも構造的に規定されたルール内の現象ってことになるよね。で、マルクスなんかはそこで生産とか消費とか資本ってのを構造的な構成要素としつつ抽象化した分析を加えて唯物論的にそれを実体化させて概念と物理現象の対応をさせたって感じなんだけどまぁぶっちゃけイデオロギーではあるんだけどネグリの「マルクスを超えるマルクス」を読んでて思うのはまぁネグリがそこまでアルチュセール的だったというわけではないにせよ、資本主義の構成要素としての生産と消費っていうのを現象の単純化なんではなくてそれ自体を構造的な現象として捉えるための抽象の方法として考えると分かりやすいし示唆的なんだよね。


数学なんてそうじゃん?とりあえずただそれだけみたいな数式なり現象があるんだけど抽象化してそれを分解するとか抽象的な分析を加えて抽象の世界に持っていってそれをこねくり回した上でまた具体性の戻すっていうさ、この場合、抽象ってのがまさに咀嚼って感じになってるんだけど、それが普遍的な原理であるとか真理であるとしてそれを置いちゃうってのが言わばドグマ化じゃん?でも別にこれは分析の一つの方法なんだって考えればいいんだよね。それはイデオロギー的になりがちな思想全般そうなんだよねっつっても元々凄まじい党派性があるような思想とかについては別にしても、ある種、そういう歴史的な意味でイデオロギーに汚染されちゃった思想を抽象化するなり、あとは汚れを取り除いて抽象性によって本質を取り戻すみたいなさ、まぁでもこれってそもそもイデオロギーに侵されてない人たちにしてみれば最初からイデオロギーフリーなわけでそれはそれでいいんだけど、ただまぁやっぱり時代性もあってマルクスなんかは当然党派性がありますよね。共産党宣言なんてのがあるぐらいなんだから。


でもそれを現代的な観点から「これラディカルだなー!」って思えたり「おお!」って思えるところを抽出するって思想のアルケミーみたいなもんなんだよね。まぁ色々と考え方はあると思うけど、例えばバルトにしてもネグリにしてもシュトラウスにしてもそこまで色々と言いたいことあるなら自分の言葉で述べれば良くない?って感じになるじゃん?そこをなんでキリストの言葉とかマルクスのテキストとかプラトンのテキストってところに依拠しないといけないの?って話になるよね。でもこれってまぁようはシュトラウス的に言えばプラトンソクラテスっつーキャラクターを利用して自分の言葉をソクラテスに述べさせるっていう方法で自分の考えを述べてたのと同じでさ、体裁としては学術的な哲学研究になってるけど実際は思想的なアジテーションだったりするんだよね。でも直接アジるだけだと党派性のあるなんかしらのステイトメントのパンフレットみたいになっちゃうから、なんかの権威的なテキストなりイデオロジカルなものに依拠しつつそれを異化させるんだよね。で、自分のものとするっていう結果的に効果として「自分がこう思う」って単純に言うより効果が大きいんだよね。


まぁそれはともかくとしてその構造的な生産と消費の話なんだけどさ、当然、生産と消費のやり方が変わってくれば構造自体は似たような形を維持していても関係性における意味論って変わってくるよね。それはすげーユートピア的に言えば生産が即消費に繋がったりテクノロジー的な恩恵による自給自足とかね、あとは限られていたリソースが実質的に無限になるから生産が容易になるということも含めてなんだけど、例えばね、俺ってまぁ昔は月に何万って音楽に金使ってたわけっつってもまぁDJやってたからネタ探しって言う動機づけがあったしあとまぁヴァイナルジャンキー的な感じもあったから一概にそれが普通の消費とは言えなかったんだけどさ、今ってまぁグレーだけどアーカイヴ化の流れが凄まじいな!って思うんだよね。


いや、そのうちアーカイヴ化されるだろうみたいに言われてたけど実質的にそうなってるっていうか、前にも書いたけど驚いたのが超マイナーなシカゴハウスの12インチとかがアップロードされてるんだよね。まぁjukeとかfootworkで再評価されたりしてるってのはあるにせよ過去にマイナーだったダンスマニアのレコードとかが何万っつーアクセスを誇ってるとかすげーな!って思うんだよね。単純に流通って意味で限定されてたもんが流通が無限になるとヴァイナルの流通自体の少なさってことに流通が制限を受けないから無限なんだよね。もちろんそんな中でコレクターっているから12インチを探し求めているって人はいるんだけど面白いのがそれが半ば過去のレアグルーヴとかのレコードを手元に持っていたい!みたいなヴァイナルジャンキー的なコレクター的欲求だったりするんだよね。聞くだけだったらアーカイヴ化されてるんだけどレコードで持っておきたい!って人は少なからずいて中古の値段が結構したりするっていうさ、面白いよね。


でもこれってさ、生産と消費っていう関係から見るとstaticに見えるっつーかシカゴハウスのプロデューサーが音源作ってマフィア紛いの連中がレコードを生産していた(笑)っていう事実は変わらないんだよね。で、時が経つとそのレコードなり音源自体がプロデューサーとか生産者の手から離れて浮遊するようになるんだよね。で、半ば伝説化されたようなトラックが再評価されたり「これだったのか!」ってことで注目されたりだとか、ここには生産と消費っつープロセスは無いんだけど、でもこれって生産=流通だったもんがネットにアップされるってことで生産自体で利益を生み出すということにはならないにせよ、過去に生産されたものが再生産されてるかのような現象を生み出すんだよね。かといってもmp3で売り出せば売れるのか?っていうとまた違うと思うしタダだから聞くんだとは思うんだけど、ユーザーに触れられてナンボのコンテンツとしてはコンテンツ冥利に尽きているでしょう。あとまぁ20年前ぐらいにシカゴハウス作ってたやつらがjukeとかfootwork作って今はまた一儲けしてるとかさ、再生産と再循環っつーのかな?


そこで面白いのはさ、最初に出した構造的に抽象化された構成要素としての消費と生産ってのを考えたときに、それ自体の構造というのは過去のもので今はその構造自体が変わってるってことなんだよね。でもかといっても実質的に変わっているのではなくて過去の構造によって生産/消費されてたものってのが現在の構造で独特な消費のされ方をするようになってるってことなんだよね。でもそれは過去の構造による産物であるというのはこの先も一切変わらないことなんだけど消費のされ方とかその生産物自体がまた新たに生み出すかもしれない再生産性とか他の生産に結びつくかもしれない潜在性とかってのが良い意味で色々と予想できないっていうことで無限の可能性を秘めてるんだよねっつってもまぁそんなものは一部のものだけで大抵は時代と共に忘れ去られるんだけどさ、まぁそこでサンプリング文化とかリミックスカルチャーってのがポストモダン的消費を繰り返すってのはもう80年代から言われてきたことだけど、それをもっと卑近なインフラとかに置き換えられる時代になってるってことだよね。


言わば生活自体がサンプリングされたりリミックスされたりするってことだよね。過去のリジッドな構造ってのは根強く存在しつつもそれはあくまで原理なんであってテクノロジーとかリアルタイムな環境の変化によっていくらでも変化したり異化したりすることができるってことだよね。そういう工夫を個々がやっていくってことなんだけど、それで言うとファストファッションなんかも行き着いた先って気がするんだよね。単純に不景気っつーことで安くてまぁまぁ良いものってのが価値のあるものっつーかニーズを満たすものってことになって、で、生産者側が一流のデザインからサンプリングして経済的なニーズにあった洋服を作るっていうさ、まぁそこにサンプリングっつーよりかはただのパクりっていう搾取とかあとまぁよく言われる第三国への搾取ってのがありきであの安さが成り立っているんだってのはあるにせよ、でもこれも生産と消費の構造がそのままとは言え多様化していたり過去ほどの決まりきった規定性みたいなのが無い分、フレキシブルで悪く言えばよりアナーキーになってるってことだよね。


これが俺の最近言いたいことでさ、いきなり労働の拒否なんつっても「は?」って感じだけど、ようは前にも書いたけど貨幣への依存度を下げていくっていうなるべく権力に取り込まれない生活をするってことだよね。だから単純にファッションにしてもすんげー安価に色々と揃えられるってのは権力依存からの脱却として解釈できるんだよね。まぁ世界的な風潮ですよね。不景気だから金を使わなくなるしもっと金を使わなくてもハッピーに生きられる方法って無いものか?みたいなさ、そういうライフスタイルが模索されているってのは思想とかじゃないイデオロギーなんかとは縁が無いような資本主義社会末期の必然的な市民の生活の流れになっているっていうさ、そこがまぁようはポスト資本主義的っつーか、よりいろんなもんがシェアされたり一人が高いコストを払うことなく生活できるようになっていくっていう社会って意味である種社会主義的じゃん?でもその原理はあくまで自由主義的な資本主義のイニシアチブありきなんだよね。


だからそういう意味でイデオロギー臭い「貨幣からの自由」ってのは害悪でしかないんだよね。それは資本主義が根底的に否定されてるって意味なんだけど、さっき書いたフレキシブルでいろんな多様性がある生産と消費っていうシステム自体が資本主義的なものから作られているイノベーションの結果でしょ?だからあくまでそういうシステム開発的な部分とかインフラの部分って資本主義的イニシアチブによって作られ続けないといけないんだよね。まぁようは少数の精鋭がそういうのを作っていくわけじゃん?


そこでまぁようは便利なインフラを享受しながら生活するっていうレイヤーと資本主義的にいろんなものをより便利にしていくとか競争していくことでテクノロジーの発展を促すみたいなレイヤーってのがあって両者が「資本VS労働」みたいな対立軸になったりすることなく共存していくっつーよりかは相互的に作用していってより良い社会を育んでいくっていうことだよね。まぁもちろん敵対するべき資本ってのはあるにせよ、でも少なくともインフラとかシステムを便利なものにしているっていうものに関しての資本に関してはむしろ貨幣の支配からよりフリーになれる生活を送るために重要なものだったりするわけだから促進しないといけないんだよね。


でもそこでやっぱポイントなのが大抵そういうもんはフリーだったり過去と比べると料金が破格だったりするわけじゃん?まぁそれは生産として見ると料金を破格にできる中央集権的なものが生産手段の独占をしているから可能になるみたいな問題はあるにせよ、でも例えばアマゾンVS書店みたいな構図ってさ、単純に利便性VS本屋のメリットだったりするわけじゃん?で、これってVSじゃないんだよね。preferenceなんだよね。本屋のほうがいろんなものを見つけられるし楽しい!って人は本屋で買えばいいし、単純に行く時間が無いとか在庫がそんなにあったりするもんじゃないもんばっか普段から買うみたいな人はアマゾンってことになるしさ、共存なんだよね。パイの奪い合いなんではなくていろんなpreferenceの多様性による消費のデマンドだよねっつっても当然やっぱ圧倒的に便利なもんが権力を持つことにはなるんだけどね。


でもそこで書店が無くなると仕事も無くなる!的な話になっちゃうとラッダイトみたいになっちゃうじゃん?それは音楽然りなんだよね。流通が近代的になったから必要なくなる職種とか職業自体が成立しなくなるってのはあるわけで、それはもう近代化の流れとしてしょうがないんだよね。いや、そういうもんがあらゆるところで進んでるからそりゃ仕事無くなるに決まってるんだわ。で、仕事無いし食うのが大変だから子供もあんま作らないってことになって少子化になって国自体が縮小していくってのは当然の流れだよねっていうかそれでいいんだと思うんだよね。


で、そこでのテロスってことなんですよ。ようはそこで必要性からの解放ってのを掲げるわけ。free from laborっていうことなんだけどそこには貨幣っつー権力に支配されないっていう自由と、そういう自由を満喫しつつより良い人生を送っていくっていう積極的自由の両方が必要なんだよね。でもそこでそもそもの権力に支配されない自由ってのは積極的自由ありきだから、別にそれがプロレタリアとかマージナルな人たちっていうことに限らず主意主義的である必要があるんだよね。あと人生自体が金銭に左右されなくても仮に満ち足りててもクソみたいにもなりうるって意味でニュートラルな状態としてのニヒリズムだよね。あとまぁぺシムズムか。まさにこの辺が俺にとってタイムリーなのは面白いことにドストエフスキーネグリヨブ記からインスパイアされてるんだよね。


まぁちょっとこの辺は勉強中だからあんま書かないけどようは何が悪で何が善なのか?とか、満ち足りてるのになんで悪に出くわしたりそれに侵されたりするっていう理不尽なことが起こるのか?っていうこととかね、そういうところからネグリスピノザとかニーチェなんかを手掛かりにしつつ今までやってきたマルクスなんかをベースに主意主義的な連帯の思想ってのを編み出すことになったってのが本当にクリアに分かるよね。それはドストエフスキーの創作然りなんだけど、二人とも監獄経験してるんだよねっつーかネグリは明確に挫折と監獄生活っつー実存的なことにフォーカスせざるを得ないっていう状況もあったってのがあって、ドストエフスキーヨブ記にインスパイアされたのと監獄にいた時期が重なるかはともかくとしてまぁ関係してるのは言うまでもないよね。


まぁまさにフーコーじゃないけど生きるってこと自体がようはビオスってことなんだけども、その生きるっていうこと自体に不可避的にニヒリズムとかペシミズムとか貨幣による支配とか必要性に追われ続ける生活とかっていうようなことが内在されてるんだよね。これがやっかいなのは仮に恵まれたところに生まれて生活の部分はなんとかなっても精神の部分はなんとかなるかどうかは分からないし、それこそ下手に時間があったり余裕があったりする分、より内省するようになってよりニヒリズムに陥りやすいと言えなくもないし、生活の必要性に関しては言うまでもないよね。みんな大変です。そういうものからの解放というのが俺が書いてきた革命的主体であり続けるということに繋がるんだよね。それは徹底的に主意主義的でニヒリズムを認めながらもそれに負けないという精神的なタフネスと理論的な根拠だよね。まぁ結局、ソクラテスが言ってた魂の配慮ってそういうことだしハイデガーが言うところのゾルゲだよね。それはどれも結果的に主体というのを考えていく上で政治/社会的なものとか振舞いに繋がっていくから結果的に革命的主体っていうことに必然的に繋がるんだよね。それが主意主義的にニヒリズムに抗ったりそれから逃げるとか超越するとかではなくてニヒリズムを現象として認めたうえで意志のオプティミズムを貫き通すっていうことだよね。


それを貫き通すという姿勢自体がそもそも主体的なアクションで、貨幣の支配ってのは人間の主体性みたいなのを奪うものでしょ?まぁかといっても一概に貨幣を否定はできないんだけど貨幣っつーかまぁ生きていくというだけで膨大な金がかかるという必要性だよね。それがどうしても疎外に繋がってしまうっていう。だからこそ人間的な市民社会を育むにはどうしたらいいのか?ってのがキーポイントになるんだけど、それってのは本当に複合的なんだよねってのが今回色々と書いてきたことなんだよね。


まぁでもあれなんだよな、抵抗ってことでそれ自体がシニフィアンとして成り立っちゃうからいろんなもんに繋がっちゃうんだけど根本的に抵抗といっても本当ラディカルな抵抗なんであって賃上げ闘争とかじゃないんだよね。そもそもの生活していく上で金がかかり過ぎてたり普通にちゃんとやってても貧困になっちゃうっていうこと自体への問題提起だから局所的に賃上げすれば生活が楽になるからって意味で労働者の生活を守れ!とかそういう形骸化された左翼思想ではないってことねっつーか賃上げもさることながらユニオン系って本当に害悪多いからね。こないだも書いたけどそういう意味でティピカルな左翼ってのは本当にクソなわけで、だから現代的に有効な左翼であるってことはラディカルな左翼であること以外ありえないんだよね。で、それは現実的な国家観とか社会観を持たざるを得ないし現実主義者じゃなきゃいけないってことで結果的には大きいところの国家とか経済って意味だとナショナリスティックにならざるを得ないんだよね。


でもそれはヘイトスピーチとか移民反対!みたいに言うような低能な右翼って意味ではなくて良いものをpreserveしていくって意味での保守で、でも根底がリベラルで革命的だから定義的にはネオコンってことになるんだよねっつってもまたアメリカ的なネオコンって意味ではなくて保守的な内在性における徳とか教養とか文化というものに重きを置きつつ楽観的過ぎるコスモポリタニズムなんかに傾倒したりしない現実性を持ち合わせたリベラルって意味だよね。そういう意味で俺の中でレオ・シュトラウスアントニオ・ネグリってのは全くぶつかり合うことなく共存してるんだよね。それは本当に前にも書いたようにシンボリックにベーシックインカム的な議論が労働の拒否を唱えるようなネグリみたいな議論と使えるやつだけ使えばいいし使えないやつの生活は税金で賄うしかないって考えるような本当の新自由主義的考えとが議論の立脚点は違えど帰結においては類似するところがあるって意味で両方とも成立しているっていうのに凄く希望を感じるんだよね。イデオロギー合戦の時代ではなくて論理的必然性の時代ってことだよね。だからそういう意味でイデオロギー的なものからいかにフリーになるか?っていうことが思想的に必要とされるよね。そういうことに気が付いたからこそまた色々と再読してみようって思ったわけで。


まぁあとあれだな、党派性臭いのを意図的に排除していく必要があるな。例えば「同志よ!」って言っちゃうような感じとかいかにもな左翼っぽいふるまいとか言葉遣いとかファッションとかっていうああいう形骸化されたものってのはラディカルな左翼とは似て非なるファッション左翼みたいなもんだから徹底的に壊滅するべし!っていうところだよね。ようは思想的に本当にマジになってガチになるってことだ。その深さよ。まぁもちろん危険と隣り合わせですけどね(笑)でもそこを理性で律するってのが言わば保守的な徳とか教養とか自由の作法のためのリベラルアーツってことになるよねっつってもまぁ武力は当然否定しないけどね。それは右も左も同じだったりするってのはようは極左も極右も行き過ぎると画面スクロールしちゃって右と左が繋がっちゃうみたいなことなんだよね(笑)


そこがやっぱりあれなんだよね、象牙の塔に籠って理念と理論だけでやってる思想と実際にやる思想の違いなんだと思うんだよね。そういう意味で思想って常に荒いはずなんだよね。ソフィスティケートされたものとは程遠いはずなんだよね。音質がクリアで音色が「ペターッ」としてるもんが形式的にパンクであれパンクじゃないってのと同じことだよね。実際のパンクは荒いでしょ。かといってもローファイ信仰みたいなのがあってもダメなんだけど、ようはまぁストリートってことですよね。まぁそういう意味で三島由紀夫なんかも色々と思うことがあってああいう最後になったわけで三島の実存を理解すれば分からなくもないよね。だからこそ身を徹してやってない学者とかからああいう帰結が精神も理解されずに批判されるってのはようは軸の問題だよね。自分あっての思想なのか?っていうところでしょう。


ああいう切実さなんだよな。そういう意味で三島もドストエフスキーネグリグラムシも実存的だよね。そういう切迫した思想的実存性っていうのが彼らの存在とか人生っていうところから来てるんだよね。まぁそういう意味でニーチェとかもそうだしまぁもっと言えばもっといろいろな思想家の名前を出せば含まれる人たちっていっぱいいるとは思うんだけどね。


あ、あと右翼思想に関しても当然同じことが言えるわけで、国粋主義なんかに悪用されたっつーイデオロギー的なものとはフリーな状態か汚染されててもフリーに読むっていうことをすればイデオロギーフリーな読み方はできるんだよね。言わばイデオロギーとか歴史的な蓄積って純化された思索とかを汚染するんだよね。で、先入観みたいなのを与えちゃう。そういう意味でもっと言っちゃえばタブーなんてないんだよね。それが大虐殺のロジックに繋がったとは言え、それはただの党派性だったり当時のヘゲモニーとか世論の結果だったりもするわけで、その元となった思想そのものが悪かどうか?なんて読まないと分からないよね。まぁウェーバーが言ってた価値自由ってことですよね。でもそれがようは行き過ぎると相対化ということにもなるんだけど、だからこそ思想をやるうえで涵養するべきなのは徳とか善とかモラルっていう感覚なんだよね。それは武術とかでやることは結局は殺人術だからそういうものを律することができる人じゃないと教えられないとか自己を律するということが修練の一つとなるみたいなことと理屈は同じなのよね。


極端な話、価値自由だったらヒトラーも思想として読めるけどまぁ「思想として読める」なんつったら社会的に抹殺されるからそんなことは誤解されるという意味も含めて大っぴらには言わないんだろうけど、仮にそこで優生学的なことにある種の論理的な説得力を感じたとしてっていうかそこは逆に工学的に考えれば説得力しかないんだよね。そこを「ダメなもんはダメ!」っていう思考停止的にタブー視するっつー言わば善のイデオロギーとも言うべきものによって徹底的に否定されるわけだけど、本当の否定ってのは頭ごなしの否定なのではなく徳とか善っていう強固な地盤があってのものじゃないといけないんだよね。だから本当の否定ってのは「ナチスだからダメ」なんじゃなくて「優生学とかヒトラーが言ってたことのこういう部分は言えてるけどでも・・・」っていうすべての否定ではないある程度の論理の妥当性を認めたうえでなぜそれがいけないのか?ということを語れないとそれは善とは言えないし本当の否定にはならないよね。そういう意味でちょっとでもナチズム的要素とかがあるとすぐ騒ぎ出すユダヤ系の団体とかは本当にどうかと思うんですよね。まぁそれは従軍慰安婦問題における韓国とかも同じで、何も考えずに脊髄反射的に否定をしたりするってことがいかに問題の解決を妨げるのか?ってことだよね。


なぜいけないのか?ということがオープンに語られないでタブー化されるってのはそれだけ善とか徳とかモラルの歩み寄りが浅いってことだよね。歴史的にタブーだからってのは思想的には妥当な理由にはならないわけで。だからそういう意味で別にリベラルだからといって博愛主義者ってわけでもなければ人権主義者とも限らないんだよね。思考停止的なレッテル貼りって「リベラル」とか「保守」って言うことでいろんなほかの複雑な要素ってのをセットにしちゃうじゃん?で、左翼ならこう考えるとかさ、そういう形式的思考になっちゃう。まぁあれだよね、原理主義的なものって全部そうだけどねっつってもマルクス主義が必ずしもマルクスに忠実だとは限らないのと一緒で、イスラム原理主義なんてのも本当にコーランに忠実なのか?っていうと明らかに踏み外してるわけだよね。それはそもそもちゃんとしたムスリムとかイスラム系学者が指摘してることなわけで、だからイスラム原理主義なんていう言葉自体に問題があるんだよね。あたかもそれはイスラム教自体が邪教みたいな印象を与えかねないでしょ。


まぁそういう意味で言葉の力とか表象されたもの自体がシニフィアンになって勝手に浮遊しちゃうっていう表象自体の力ってあるわけじゃん?ぶっちゃけそんなもんばっかなんだよね。だからこそ主体的に思想を掴んでいくとか思想を持つってことが重要になるんだよね。それはつまりは原理ってことなんであって原理を磨くっていうことになるんだよね。あとはよく言われるように最終的な非合理性だよね。工学的に言えば優秀な人間だけ残してあとは奴隷化するとか必要ない連中は殺すのが一番良いっていうことになっても、そこでそれは効率から考えればそうなのかもしれないけどそういうことじゃないですよねってことを永遠と説得できるってのが徳とかモラルとか善ってことでしょ。そういう意味では功利的な「便利なことは良いことだ」ということにはならないのね。いや、そんな風にもなりかねないじゃん?でもそれはあくまで根底に徳と善とモラルっていうことの涵養が無いといけないんだよね。そういう実存的で実在的なものに繋がっていくからこそ主体の在り方ってのが革命的な遊撃手でありながら内面的なニヒリズムにも積極的に対峙するっていう姿勢に繋がるわけだよね。だからこそプラトンは善というのを真理としたわけでしょ!


それは神学における「神」と同じような構造だといっても、その「善」とか「神」ってのが述べることってのがめちゃめちゃだったらそんなもんに納得できないしっつーかそれがエロスを求めるという知識の探求ということに繋がらないじゃん?まぁそこは普遍的じゃないし人によるにしてもかなりの部分をアプリオリに「そうだよね」っつって知識の探求を始めることができるっていうのがつまりは善が真理だからこそ成り立つ!っていうことなわけじゃん?そこには思考停止的な真理主義とポストモダン的な相対主義の結果のニヒリズムとかぺシムズムに立脚したそこであえて絶対だと措定するものとしての善っていう大きな差があるんだよね。ドゥルーズが実はプラトニストだったってのもまさにそういうことなんだよね。


相変わらずハイな状況が続いてるけどまぁいつまで続くか分からんけどまぁそんな感じで今日はこの辺で。