イーストヴィレッジ・ノスタルジー。

I'm still high in the sky。太陽が上がったのを見て夕方っぽかったんだけど実は朝でさ、でもなんで朝なのに夕方っぽいな?って思ったんだろう?ってことを考えてたら夜中に起きてるから太陽がどんな感じなのか?ってのを忘れかけてるんだなと思ってね、で、朝と言えども夕方っぽい日の射し方ってのはあるだろうと思いつつもそんなことはもはや俺には本当に関係のないことなんだなってことを思いつつムムム・・・何か懐かしい感覚を覚えるな・・・と思い出したのがニューヨーク時代に永遠と本を地下室で読み漁ってた最後の二年ぐらいの頃ね。いや、本自体は帰国してからも読んでたけどようは内容なんだよね。政治哲学とか思想に没頭して外の世界が関係なくなってるっていうさ、政治学やってるのになんで外が関係ないの?って話なんだけど(笑)いや、んで色々と思い出してさ、St Marks Book Storeで色々と買った後に近くのスタバでスタバが閉まるまで永遠と本を読んでたなっつーさ、でも調べるとKim's Videoが無くなってたりっつーか最後の年に移転してたしネットで見たり聞いたりっつーのがかなりデフォになってた時期だったからしょうがないのかなーと思いつつSt Marks Book Storeも場所移転したとかもうイーストヴィレッジにあらず!だよね。だとしたら俺はニューヨークのイーストヴィレッジのボヘミアンな雰囲気の最後を満喫してたんだなと思うと感慨深いですよね。


https://www.indiegogo.com/projects/st-mark-s-bookshop-on-the-move#/


http://www.nytimes.com/2014/07/27/movies/kims-video-closes-and-a-village-sensibility-dies.html?_r=0



で、そうそう。まぁ逆じゃん?って話なんだけどイーストヴィレッジとかって昔の原宿とか渋谷っぽい雰囲気なんだよね。だからあっちにいてもイーストヴィレッジに行くとなんか落ち着くっつーか雰囲気があるわけじゃん?で、まぁこないだとか原宿行ったじゃないですか?で、昔の雰囲気とは違うにしろ渋谷に比べたらまた原宿ってマシだよね。だからニューヨークのイーストヴィレッジを思い出すって意味でrecallし合ってるのよね。イーストヴィレッジで本を買ってコーヒーを飲んで読書してた頃は昔の渋谷とか原宿っぽいなーって思ってて、んで今はかつてのイーストヴィレッジっぽいなっつー感じで原宿をノスタルジックに感じてるっていうね。まぁあとSOHOっぽい雰囲気もあるしね。だからなんか落ち着くんだと思うわ。


だから別に一人でも今後たまに行こうかなって気になってるんだと思うんだよね。あの頃の感覚って持っておきたいし、いや、あの頃の感覚って大事だよね!って今さら思い出したのよね。一番俺がアツかった時期はやっぱりこれじゃないか!とね。イーストヴィレッジで読書の時でしょ!っていうさ、ただまぁSt Marks Book Storeは場所柄ポストモダンとか左翼系の本とかアナーキズムの本とかいっぱいあったんだけどその頃はすでにレオ・シュトラウスに目覚めてたから場違いな感じではあったんだよね(笑)場所的にポストモダンでしょ!っていうさ、ニュースクールとか近いしニューヨーク大学すぐ近くにあるし聖地でしょ!っていうさ(笑)いつもニューヨーク大学の学生とかを見て「ブルジョワどもめー!」とかって卑屈になってたのを思い出すわー。俺も金払えれば通えるのに!とかって思ってましたよねっつってもまぁ奨学金とかローンとかで行ってる学生も多いからブルジョワ学園ってわけではないんだけどね。


いや、そういうあの頃の感覚ってのがすげーrecallされてるね。思えばあの頃ぐらいの貧弱な英語力の時にネグリなんかも読んでたからそれで思い出したのかもね。それとまぁその夕方っぽい朝っていう「あ、もう朝か」っていう外が関係ない感じね。そんなことを思いつつ今の視点でまたある種の原点に戻るみたいなのは良い流れになってるなーって思ったんですよね。で、まぁ色々と思い出すとまぁあれよね、ニューヨークの最後のあたりから帰国後は民主主義に対して批判的になってエリート独裁だっつってたけどまぁそれが今はマイルドなリアリスティックなリベラルって意味で止揚されてますよね。最近色々と書いてることの繰り返しになるから書かないけど全てが民主制だの独裁制だのっていう政治のメカニズムとか保守だのリベラルだのっていう主体の在り方とか思想に還元されるわけじゃないっていうことだよねって当たり前なんだけどね。そんなに簡単だったら苦労しないってな話で。


まぁただそこで最近の悪とか道徳とは?みたいな話から個々のヴァーチューの涵養みたいな話になるってのはまぁこれも昔から変わってはいないんだけど、そこで俺的にネグリ的なラディカルな左翼の革命的主体性ってのが組み込まれたことでよりハイブリッドになってる感じなんだよねって最近書いてることのサマリーみたいになってるけど、革命的とかまぁ月並みな言い方をすれば反骨精神ってことなんだけど、それはなんでもすぐに騒ぐ左翼みたいな意味ではなくて、生活みたいな卑近なものから政治までナイーヴなまでに明らかな悪とか良くないものとか善に対してharmfulなもんに関しては抵抗したり攻撃するっていうことだよね。そういう闘争的在り方とか能動性だよね。結局それがニヒリズムとの付き合い方になるっつーのかな?俺の中で結局このままじゃ仙人モードになっちゃうなーっつーんで色々と考えた末に革命的主体であり続けるっつー考えが思い出されたってのは本当に示唆的なんだよね。


でもそれは今まで考えてたようなグラムシっぽいヘゲモニーの確立とかネグリ的なマルチチュードとかじゃなくてリアルな日々生活していく上での生き方の作法っていうことなんだよね。ようは思想とかで涵養されてきた知恵みたいなのが過剰な理性とか膨大な思想っつー情報量に裏付けされるわけではない自然な在り方としての革命的主体ってことなんだよね。それがようはこないだは権力としての貨幣ってことを書いたけど、ようはいかに生活の必要性ということに縛られずに自由に生きていくか?っていうことなんだよね。で、その権力ってのは支配階級みたいなのが労働者階級から搾取するための維持してるみたいなんじゃなくて仕組み的にそういう風になっちゃって結果的に権力的なものになっちゃってるっていうことだと思うんだよね。だから貨幣に抗うというよりかは貨幣への依存度を低くするか生活への必要性ってのを下げていって脱権力化していくっていう感じだよね。で、理想を言えばみんなが好きなものにお金を使うってことだよねっつってもまぁパチンコとかギャンブルとかあるからなんとも言えないけど結果的にまぁそれが消費の増大ってことになるからね。ようは賃金とか高くならないわけだから生活のコストを下げていくしかないじゃん?でもそれは節約なんじゃなくてシステマティックに身体を雁字搦めにするような必要性から解放させるってことなんだよね。


だからまぁそういう意味で貨幣の否定っつーよりかは必要性から来る出費っていうところからの解放だよね。で、使うものに関しては能動的に好きだからとか欲しいからっつー理由で使うものが増えるっていうさ、あとまぁ趣味とか飲み食いとかでもいいんだけどね。マルクスが理想としてたのってまさにこれだからね。仕事は必要なぐらいやってそれで稼いだ金を趣味に使ったりして基本的に午後はまったりして過ごすみたいなさ、まぁそこまでのスローライフじゃないにしてもそこまで人材として社会から必要とされてない人たちにとっての理想ってこれだと思うんだよね。そこまであたふたしなくてもある程度生活はできててプラスアルファはちょっと頑張って仕事やって稼いで好きなことにお金を使うっていうさ、まぁかといってもね、今は自分は社会的には使えない人材だから頑張ろう!っていうイニシアチヴが無くなっちゃう!ってこともあったりすると思うけどまぁでも優秀なやつって最初から優秀だからね。で、然るべき職場に居て然るべき仕事してたりするでしょ?まぁそこまで簡単じゃないにしてもさ、結局まぁ生きづらさの原因ってここだからね。社会っつーか経済っつーか生活していくためっていう必要性に駆られた焦りみたいなのから頑張ろうと努力してスキルアップだの資格だのなんだのってことをやって色々とやろうとしてるんだけどうまくいかなくて挫折するみたいなさ、でもまぁぶっちゃけそこまで頑張らなくてもよくない?って話なんだよね。


頑張れば結果が出そうだったり磨けば輝きそうなものに関してはやるべきだと思うけどでもそういうのって努力必要としないっつーかやってる本人楽しいから涙ぐましい感じとは無縁だと思うんだよね。いや、だからまさにマルクスが言うような個々のニーズとか向いてそうなことに関して努力したり色々と磨いていくべきなんであって、労働力として数えられるために必死になるっていうことに関してはそろそろやめませんそういうの?って話になってるってことだよね。そういう心理を利用した結果、こないだ書いたような労働力のスポイルをして会社の利益を出すようなもんとかまぁあと単純にブラック企業みたいなのが横行するってのも生活の必要性に駆られてる人が多すぎるからだよね。でもまぁブラック企業って横行し続けるしそれでも働きます!って人が居続けるから成り立ってるわけじゃん?なんで行政のチェック入らないの?とも思うんだけどその辺の行政の働きへの期待ってできないからね。だからまぁ一番いいのはそういうところで働かないってことなんだよね。そういう意味においてネグリが言ってるような労働の拒否ってのはこういう明らかな労働力のスポイルによって成り立っているようなものに関しては本当に有効な抵抗の手段であり攻撃なんだってことになるんだよね。boys be freeterですね(笑)


そういう意味で結果的にブラック企業みたいなもんへの貢献をしちゃうような意味での努力ってのは無用な努力だからそんなもんはやめてまえって話だよね。でもそこで革命的主体であり続けるということが必要になってくるのはそれを理解しない家族とか周りから反発受けるじゃないですか?そういうのに対しても抵抗し続けなきゃいけないからこそ主意主義的な強さを持ってないといけないってことなんだよね。まぁでもなんだろうね、いかにも食えなさそうな芸術とか音楽を志すってこういう反骨精神が当たり前のように必要とされるってのがあったじゃん?だからなんかまぁアート=反骨精神みたいな文脈ってあると思うんだけど、まぁ昔で言うところのロックってことだよね。しぇけなべいべーなロックって意味で。で、そこがまぁようはフリーターとかニートであるってことがそのままロックンローラーであるということとほぼ同義になるみたいなね、そういう思想としてのフリーターとかニートってアリだよね。それは下手にバカな運動とかにコミットせずにひたすらバートルビーの如く「働かずにすめばありがたいのですが」っていう否定を貫き通すっていうさ、まぁでも根底的な労働の否定ではないんだけどね。向いてそうなやつとか好きなこととか単純にやれば美味しいことってのにはそりゃ食いつくべきでしょう。そこを思想的に労働=悪ってことにするべきじゃないのは明白だよね。まぁでもそれも個々の好みだけどね。やりたくなかったらやらなくていいわけだし。


幸福度指数なんてのがよく話題に出されるけどざっくり言っちゃえばブータンだっけ?第三国とかで貧しいのに幸福度指数は高い!なぜ?とかってああいうのってようは別にそこまで必死に働かなくてもなんとか食っていけるからだよね。生存権が脅かされる!っていう恐怖を感じてないからハッピーになれるわけでしょ。それは先進国では無理かもしれないけど実存的な闇とか抜きにしてまぁやっぱり生存権のための万人の万人に対する闘争が永遠と続く状態じゃそりゃハッピーになれないよね。雇用が安定してるときならいいけどやっぱ雇用がシビアになると市民社会なのに万人の万人に対する闘争が続くような自然状態みたいな退廃に繋がるじゃないですか?そんだけみんな必死になるっていう余裕さが無くなるからそれが生きづらさってことになるんだよね。まさにそれは闘争状態であるからなんだよね。


で、その闘争ってのはみんな経済ってのを軸にして考えて今の自分の状態を憂いてたりするわけじゃん?でも別に給料の低さが人間性の低さなわけじゃないし人間の価値ってそんなところで決まらないからね。そんなもんはただの力学的な所産なんであってそこまで憂慮する必要はないんだよねっつってもまぁ給料が低いってのは由々しき事態ではあるんだけどただそこばっかにフォーカスするからより不幸になるんだよね。そういう経済っつー概念に脅迫観念的に捕らわれ過ぎている精神を解放させる必要があるんだよね。それがまぁようは俺の言ってる革命的主体なんだよね。emancipationってことでもあるわな。給料が低いのはしょうがないとしてようはそれで生活が苦しいから問題なんだよね。だから生活のコストってのが問題になるわけじゃん?それが給料が低いのに生活のコストは高いままってことでアンバランスになっちゃってるんだよね。だからこその低コスト生活なわけで、そこがさんざん書いてきた資本主義的イノベーションによって利便性ってのは最大限まで追求されるべきなんだよね。それが結果的に生活を楽にするということに繋がるし早速届いたハイエク読んでてもまさに同じようなこと書いてありますよ(笑)


だからまぁそういう色々と便利になって低コストになるってことが必要性からの解放に繋がるってことが結局、権力って意味での貨幣の支配から自由になるっていうことになるんだよね。そういう意味での自由でそういう地盤があっての自由主義なわけ。だから自由主義語るにも地盤が出来てなさすぎるし、そこでイデオロギー的に新自由主義にしても自由主義にしてもそうなんだけどそういう考えが援用されて全部が自己責任とされるわけじゃん?でも実際の自由主義の思想ではそんなことは言ってないからね。地盤がダメ過ぎてうまくいかない人も自己責任だっていうような言説は皆無じゃないにしてもそんなの俗流自由主義なんだよね。本当の自由主義を成立させるのってようはそういう俺が言ってるような社会インフラが必要なんだよね。個々が任意で労働するなり消費するなりして、そういう中で育まれる市場経済とか自然な需要と供給の流れだよね。だからなんですよ。なんでミルトン・フリードマンに繋がるのか?ってそれがまさに自由をもたらすものだし健全な自由経済を生み出すものだからなんだよね。だからリバタリアンの場合、人間の自由もさることながらリアルな経済性ってのを第一に考えてるんだよね。そういう意味では左翼のヒューマニスティックなベーシックインカム論ってのには一切賛成できないよね。貧困層を救うとかそういうところばっかにフォーカスしてるのだと明らかにアンバランスだから、そういうもんを画一化してある程度までフェアにするって意味での負の所得税ってことじゃないですか?


これっていろんなもんを便利にすることで人員がいらなくなるみたいなさ、まぁ最初にイーストヴィレッジの本屋とかKim's Video然りなんだけどまぁこないだ音楽産業についても色々なもんがスリムになった結果、それで食える人が少なくなったってのを書いたけどまぁそういう意味で公務ってのも利権だらけだからね。負の所得税を導入することでいらなくなる人員ってすげーいるわけでさ、だからそういう意味で財政って意味でもシェイプアップさせなきゃいけないんだよね。まぁでも話としてはベーシックインカムさえあれば!みたいな話は弱すぎるし、だからまぁもっと包括的な実存って意味での主体の在り方ってのをここ最近書いてるわけだよね。だから考え方自体がさ、処方箋を欲しがるけどそうじゃないんだよね。結果的に主体の在り方と日々の行動と考え方ってのに良い影響を与えるもんじゃないといけないんだよね。そこがまさにひそかな徳の実行ってのがそのままアクションに繋がるっていうことなんだよね。まぁ最近の一連のシリーズのコアの部分はそこだよね。


例えばそれに気が付いてブラック企業やめるとかさ、仕事しますか?それとも生きるのやめますか?みたいになってる感じの人が仕事辞められれば一番いいんだよね。でもまぁそこでやめるってことは「あいつニートじゃん」とかって後ろ指をさされるっつー下世話な遅れている大衆的な感覚ってのから攻撃を受けるかもしれないっていうことも含めてコミットメントってことなんだよね。でもそれはドロップアウトなんじゃなくて人生に対してより能動的になるっていう結果として檻から出るってことなんだよね。プラトン的に言えばまさに洞窟から出るって話なんだけども。ね?シュトラウスとかの話にも繋がるっしょ。


イーストヴィレッジのことを思い出しつつ色々のあの頃のアツかった心ってのを思い出しつつまたそれが再燃してるってのがね、だからまぁ最近ハイなんだけど、その燃えてる感じってのが過去の蓄積がさらに色々な新たに手に入れた知識とかと有機的に繋がって進化してるってのが面白いんだよね。だからまぁなんかね、「あーあの頃みたいだなー」とか思ってまぁぶっちゃけそこまで大昔ではないんだけどイーストヴィレッジを凄く思い出したんですよねってな感じですわ。


で、そんな感じであの頃を思い出してたら異様にミックス作りたくなったんで今作ってるんですけどね、まぁホントに記憶による共感覚とでも言うのかね。いろんなもんがrecallされて想起されて顕在化するっていう。まぁこのハイなときの生産性半端じゃないからな(笑)それにしても今年はそれどころじゃなかったってのがありつつも何も作ってなかったんでなんかちょうど良かったなと思って。クリスマスプレゼント的なね、あとまぁ来年もよろしくって感じで近々アップするんでよろしく。


ではまたね。