意味論の主観的構造。

本を整理してたら未読の膨大な数学書の数々が出てきたんだけどとりあえず今はサタニズムとか悪魔学とかあとまぁ哲学ね、ネグリとか何気にまだ読んでないっていうか一人ブラックメタル始めてからそればっかで読書が進んでないんだけどまぁそんな感じでルネ・トムの「構造安定性と形態形成」が出てきてさ、そういえば全然通読してねーなと思って読み始めてるんだけどっていうかローティーとかマッキンタイアとか面倒で読んでなかった哲学のやつが結構あってそういうのも読んじゃおうって思ってるわけでだからまぁルネ・トムどころじゃないんだけどちょっと読み始めたら面白くてっつーか久々に数学に触れたけどやっぱり数学系の楽しみっていうか面白さは何にも代えがたいよね。他に代替できるものがないんだよね。


あ、んで本の序盤で構造安定性の話の簡単なイントロダクションみたいなのがあってその中で「意味論的実現」ってのが出てくるんだけどさ、あ、まぁルネ・トムの本に忠実である必要はないんでまぁ読んで思ったことっていうかまぁあたりまえのことなんだけどね、いや、んでまぁそれと宗教の話なんだけどさ、いやね、意味論ってユークリッド幾何学で言うところの公理と形式と論理じゃん?でも個々が幾何学的に厳密ではなくてすげーファジーで非論理的なんだけどまぁでも人間は意味論に生きてるじゃないですか?で、宗教って分からない部分とか形而上学的なものに関しての公理を与えるものだよね。


まぁそれだけじゃないんだけど公理が見えなくて分からなくて不安だからこそ意味論を与えて安心させるっていうかまぁそれが信仰ってやつなんだけどまぁオカルト全般そうなんだよねっていうかオカルトについても色々と調べてるんだけど中世の魔女狩りの話とかでさ、例えば飲もうと思ってたビールが酸っぱくなっててんでそのビールが置いてあった所の下っていうか家の窓の下に老婆が座ってただかなんだかでそれが魔女の呪文によってビールが腐ったからっつってその老婆が魔女と断定されて処刑されたとかね、まぁそういうめちゃめちゃな話が色々とあったっつーかだからまぁ魔女狩りってトピックになるほどのものだったりするんだけどこれも明らかな誤りなんだけど公理を与えてるものなんだよね。


まぁ公理というかなんでそのビールが酸っぱくなっていたか?ということに強引な意味づけを与えるっていうかさ、あとまぁ魔女的なものにあったらすぐ通報してください!的な宗教的支配があったっていう背景もあるんだけどこういう勝手な意味づけとか事象に対する意味づけとそれによって形成される世界観だよね。それがまぁ一種の幾何学のようなまぁ言語の幾何学というようなものを形成するってことなんだけどまぁ隅から隅までなんでも公理的に定義されてたり論理で進めればそれが数学的体系並の構造を与えるというわけではないにせよ個々は何らかのそういう公理と体系ってのを持ってるわけじゃん?


例えばジンクスを信じる人にとっては客観的に見ればそれ自体に何の意味もないというところに特別な意味論を持つわけだよね。で、例えば何かをするときに必ず何かをもっていかないといけないとか道具とか装飾品に特別な意味合いを持たせるっていうかまぁなんかのきっかけでそれが意味論を与えるものになるっていう主観による意味論の対応なんだよね。でもそれは本当にただの意識の問題でしかないっていう。まぁ英語で言うところのmeaningっていうのと対応するかは分からないけど漢字で「意味」って書くと主観性が顕著になるよね。意のテイストっていうさ、まぁそういう意味かは分からんけどまぁでも主観性なんだよね。で、あとはまぁただの偶然を奇跡としたりとか創作をする前にまず祈りを捧げるとかさ、でも一概にそれって意味無いとは言えなくて功利的な意味でも例えばなんかを作る前に祈りを捧げるとかあ、いやジャックケルアックがそんなことをしてたらしいんだよね。クリスチャンだったからなんかを書く前に祈りを捧げてたんだそうなんだけどもまぁでも結局神を信じないものにとってはそれってなんだっけラグビーのなんとか丸とかの儀式とかと一緒なんだけどでもそれがなんつーか精神統一とか集中力を高めるものだったりすると客観的な意味合いとしては「精神統一」とかって定義できたりするじゃん?結局宗教も一緒で「ご利益」と考えたほうが精神的に救われるんだったらそれを信じてたほうがいいっていうさ、信じる者は救われるってまぁそういうことなのかな?とかって思ったけど結局形而上学的なものとか偶然とかそういうもの全般に独特の意味合いを与えるって基本的に全部オカルトだよね。だからまぁ宗教もオカルトなんだよねっていうかオカルトとかの文献を読んでて本当に変わらないなって思ったんだよね。


でもそれは意味論でも次元が違うんだよね。凄く恣意的だけどすげー乱暴な言い方をすると趣味がアニメというのと趣味が倫理学というのの差というかさ、どっちも趣味であることには違いないんだけど倫理学のほうが交渉でアニメとかと一緒にするなっていうようなハイカルチャーというかハイコンテキストな感じがあるわけじゃん?まぁ宗教も同じなんだよね。ハイコンテキストなオカルトが宗教っつーかね、まぁんでサタニズムとかって色々あるけどまぁ仮に悪魔主義とかだとするとリバースクリスチャンだったりしてまぁ基本的な構造がキリスト教なんだけど反転してるというようなね、基本的にそういう意味でキリスト教の亜流でしかないみたいな感じなんだよね。まぁ俺が志向するものはそういうのではないんだけどでもまぁ結局はその意味論の形成とか解釈なんだよね。これはなぜこうなのか?とかスピリチュアルで言えば例えば気功では宇宙とか地球の内部みたいなのをイメージしてそこから気を循環させるというようなことをやるけどそのパワーソースっていう象徴でしかないんだよね。だから実際にそれで宇宙からパワーをもらってるとか大地からパワーを実際にもらってるかどうかなんてのはどうでもよくてそれをパワーソースとするっていう象徴なんだよね。そうそうまぁそういう意味でこないだ書いた象徴の話とも繋がるんだけどそれでまぁキリスト教の場合、パワーソースかどうかはともかくとして神の象徴みたいなのがジーザスだったりするわけじゃん?で、サタニズムの場合、それがサタンだったりするっていうね、本当に抽象化してしまえばそういう象徴の違いなんだよね。


まぁドグマってレベルでは当然体系とかが違うんだけどでも結局は宗教的な意味でのsalvationじゃなくて個々が勝手に信じて救われるって意味でのsalvationの場合、それがアニミズムだろうが汎神論だろうがなんだろうが基本同じだよね。それはようは宗教というものの内部というよりかは信仰ということの構造とか機能なんだと思うんだよね。そうなんですよ!だからまぁアイドルってまぁ偶像って意味じゃん?確か。で、まぁんなわけないんだけどアイドルとしての象徴性ってまぁ処女性だったり男の願望の反映だったりするわけじゃん?だからまさに偶像なんだけどさ、あ、んで俺も能年さんを崇拝するようになったけど前にも書いたようにメディアとかが変わりつつある中でのオルタナティブな女優みたいな道を歩めるんじゃないか?みたいな歴史の変わりどころの象徴みたいな意味での勝手な期待ってのがありつつもまぁ例のあのブログに癒されてるわけですよね(笑)


リアルではサタニズムだの哲学だの宗教だのなんだのってのを色々と研究しててまぁものすごく暗い音楽を作っててまぁそれはそれで楽しいんだけど完全な闇なんだよね。で、能年さんのブログを覗くと癒されるっていう完全にダメなおっさんみたいになってるけど(笑)まぁこの癒しってのがまさに偶像におけるsalvationなんだよね。カタルシスとは違うんだけど実際の能年ちゃんがどうかは別として勝手にこっちが期待して満足するっていうさ、まさに宗教ですよね。あの手の込んだブログも天然でやっててほしい!って思うわけじゃん?というかなんかの雑誌のアレとか商業的なのが絡んでるわけじゃなくて完全に趣味としてやってるっていうさ、でもすげー手が込んでるっていうまぁなんつーのかな?前に書いた自意識過剰な女の自撮りとは対極にあるもので本人の演じたい!っていう願望とかあとはエンタメ性ですよね。私を見て!じゃなくてエンタメ性があるというのがやはり女優としてのすさまじい能力なんだよねっていうかまぁ自撮り女と比べること自体がヘドロとエビアンを比べるようなもんで比較対象にすらならないんだけどあ、んで何の話だったっけ?あ、象徴とその機能ですね。


まぁこの偶像化という機能も個々の勝手な意味づけとその中における色々な対応関係とか願望と事実をごっちゃにしちゃってるというような論理エラーまで含めた構造なんだよね。それがまさに宗教なんだよな。だから宗教って極限までディグると実は至るところに宗教的なものってあるんだよね。俺が能年さんに感じるsacredな感じとかって勝手な思いこみと崇拝じゃん?でも俺がブログ見て癒されればそれでいいし小さなエンタメというか小さな幸せなんだからそれでいいじゃないっていうね、少しの救いってことですよね。もちろん根本はニヒリスティックだけど生きていくうえであえて信じる虚構っていうのかな?まぁ虚構じゃないと信じたいんだけどまぁこの信じたいってのがまぁすげー危険なんだけどリアル人間関係ならともかく女優とかそういうレベルなら全然問題ないですよねってことなんだよね。


なんか全然思ったより違う話になったけどそもそもあれなんだよね、その事象と意味づけという意味においてさ、その意味づけ自体が妥当であるなんていう根拠ってないんだよね。まぁそれがコモンセンスだったりするしそりゃそれこそ常識的なレベルで妥当だと判断できるものってのは確実に存在するんだけどそこでまぁあれですよ、ファイヤアーベントが言ってたような占星術と物理学の違いなんて実際はなくない?みたいな話になるんだよね。いや、俺はそうは思わないんだけどでもその論理は理解できるんだよね。確実だと言える意味論とか数式化とその客観性において担保される存在とか事象そのものが存在すると言い切れる根拠というのがその存在の客観性にあるっていうね、でもそれが実際に触れるものとか目に見えるものとかっていうのと関係ないレベルで極端に言っちゃえば全部概念じゃん?


何かを見た時にそれが「これは本だ」と判断する主観的な対応なんだよね。で、それが抽象的なものになってもその対応関係というのは存在し続けるからこそ抽象的なものとか形而上学的なものですらも概念化して確実と言える公理的な事実に立脚したというそこからスタートしているという点においてそれが事実だと言えるようなものというのを存在とか概念的に妥当だと言えるものだったりするんだどまぁ繰り返しになるけど基本は概念ですよね。逆に概念を介さない直観的なものなんていうのはないじゃないですか?いや、それが実際はあるんだけどね。それが面白いところなんだけどまぁでも基本概念じゃないですか?で、それで言うと結局は妥当性の問題とか個々の話になると信条の問題なんであって概念が何かに対応したり経験から普通は対応しないものまで対応したりするっていう意味で主観的な意味論ってのは常に生成され続けるわけだよね。


まぁ物理とか数学に信条はいらないと思うけどでもこれも一種の科学主義っていうイデオロギーだからね。まぁ俺はそりゃ当然数学を信じるし疑いようのない事実だと思うけどその一方で数の概念自体の妥当性ってのが例えば二つあるものを二つだと言える根拠は何なのか?とか言い出すとキリがなかったりね、それは言語ゲーム的な意味も含めてそこがまぁローティーとかが言う偶然性だったりするんだけどまぁでも二つは二つですよね。でも数学という時間軸を必要としないstaticなものですら選択公理っていうそれを取るか否か?という選択を迫られるようなのがあってまぁそれを選択したほうが数学らしい構造になるし成り立つものがいっぱいあるから便利っていうようなまぁ利便性ではないにせよそもそも数学というものに選択公理が存在すること自体が概念エラーなんじゃないか?っていうね、まぁ今言ってる意味とは微妙にことなるけどペンローズなんかも疑問を持ってたりするんだけどでもそれって誠実であればあるほど疑問になるしメタ数学とかって基本的にそうじゃん?


そもそも客観性というのがあるんだとすればそれが論理における選択公理とは違うにせよまぁすげー抽象度が低いレベルでそれを信じるか?とかそれを取るかどうか?で変わってくるような形式なんてのはもはや形式とは言えないよね。でも実際はそういうファジーな形式においてしか人間の認知という形式は作られないんだよね。まぁそこで面白いのがやっぱAIだよね。AI怖い!なんて言う映画とかテーマが多いけど楽しいよね。ようはあれじゃんね、我々が自分たちで信じてそれを選択していると思っていても実際は大枠の意味ではAIに支配されてるってのは例えばなんかを調べるときにグーグルに行っちゃうとか能動的に選択しているというレベルでもそれが完全なるAIの意図的な操作じゃないにせよ情報のストラクチャというのが人間の行動を規定するっていう意味でそのストラクチャのレベルで自立した知能というのが存在すれば人間をコントロールするなんてのは容易ってことになるじゃないですか?まぁでもこれってシステム的なものがもたらす帰結ってことと同じなんだよね。


システム自体が思考しているわけではないんだけどシステムそのものがあることで人間の行動もある程度絞られてきたりそうなりがちという傾向によってそれがまたシステムを形成することになるっていうそれは人間が選択しているのかシステムによって選択させられているのか?っていうどっちなの?っていうことの話なんだよね。で、これもさっきの象徴の話と同じなのよね。いや、それはシステムによって選択されてるんだろうって考えるのも人間の能動性を信じるのも信条なんだよね。つまりは確固たる客観性ってのがないんだよね。


でもそれを言い出すとさ、人間が寒いところを避けるっていうか仮に寒い場所ってのがあってそこにストーブがあればそこに人が集まるじゃん?で、それは人が暖を取るということを選んでるのか寒いところにストーブがあるという構造が人間にそうさせているのかさ、でもそりゃ生態のメカニズムとして身を守るために暖を取るのはあたりまえなんだけどそこでそれを意図的に利用して暖を取らせようとする意図が介在するとそこにコントロールという要素が介在してくるんだけどこのシステムと自然のメカニズムと生態の傾向っていうさ、この辺がどこまでが選択でどこまでがただのシステムの所産なのか?ってのが分からないわけだよね。そういうところでそういうレベルでAIが介在したら人間をコントロールするようになるだろうみたいな話がAI脅威論みたいな話だと思うんだけどでも別にこれってそもそも人間が人間である限り避けられないものだよね。細胞とかのレベルでもなんかに熱を加えればそれを避けようとして細胞が動くとかさ、まぁそれが菌とかでもなんでもいいんだけどその菌が死滅を避けるために熱を避けようと動くというのがその菌の能動的な行動なのかただのプログラムされた機械がそう動くようになっているという結果なのか?ってまぁ主体性と存在みたいな話になるじゃん?でもこれってどんだけ知性が備わってても別にそれが生態であるなら生態がプログラムされているという意味において選択せざるを得ないものとかってあるわけでそれ言い出すとまぁなんでもプログラムされたものってことになるよね。


ブラックメタルとかダークアンビエントみたいなのを調べててもすげー多いのよねっていうかまぁDawが便利になったから音楽が簡単に作れるようになったから絶対数が増えるってのはどんなジャンルでも一緒なんだけどでもやっぱそれなりにやってて考え付きそうなものってやりつくされてるってまぁ大体人間が考えることなんてたかが知れてるっていうとアレだけどユニークネスなんてめったにないってことなんだよね。大体が何らかの蓄積とデータベースとテクノロジーっていう環境の所産なわけでさ、そこでまぁすげーデプレッシヴなやつがいてなおかつ容易にリソースを利用したり参照できるっていうことになると暗い音楽を模倣して作ろうとする暗いやつらが大勢いるってのはあたりまえのことでそういうやつらが個々に差はあれど似たような音を作るようになるってのも大局的に見るとプログラミング的だよね。俺も作っててなんか聞いてて「やべー俺がやりたいのとそっくりじゃん!」とかって思うと今書いてたような考えになってまぁーそりゃそうだよな、人間だものってことになるんだよね。少なからず似たような人間とテクノロジーの発展によってdawの環境が均一化しているっていう環境ではあとはそれがそういった表現として出力されるかどうか?っていう偶然性の話でしかないんだよね。いや、まさに言語ゲームと一緒なのよね。


アングラ音楽でもサウンドクラウドっつーレベルになると世界全域ってことになるんでやってるやつが大勢いるように見えるのも当たり前なんだよね。こんなニッチな音楽なのにこんなにあるのか!ってぐらいあるからねっつってもEDMとかに比べればたかが知れてるんだけどでもまぁテクノロジーと情報の均一化っつーか並列化ってそういうことですよね。あとはそれを選んで出力するかどうかは主体の問題なんだけどそこで主体的な音楽ができるのか?っていうとそうでもなくて情報の蓄積と音楽の歴史とテクノロジーの所産っていうようないろんな情報がスープのように混ざってるって中から出てくるフレーバーの一つでしかないんだよねっていうかそのフレーバーを作ったというよりかはその混ぜ方なりだし方ってのをちょっとやってみましたみたいな感じになっちゃうっていうか最近ストックハウゼン音楽論集ってのを読んだんだけど60年代にストックハウゼンは今書いたようなことと似たようなことを言っててすげーな!って思っちゃったねっていうか先見性が半端じゃないよなっていうね、それだからこそのエレクトロニクスとか点描的な作曲法だったりっていうかまぁ現代音楽ってそういうもんなんだけどさ、そこで結局色々と考えると形式と音楽ってそもそも何なの?ってことになってさ、まぁそこで俺はフォーマリズムとしてブラックメタル的なフレーバーなりテイストってのを取りつつ自分が響かせたい音を作るっていうことを選択しているわけだけどまぁそりゃ外部なんてないんだけどまぁでも本当にシステムの内部だよね。所与の選択できるバリエーションの中の組み合わせの所産でしかないんだよね。


そこでもちろん個人の音楽性っつーか音楽の好みとか音のpreferenceみたいなのは出てくるにせよ大枠の構造で言えばシステム内部の所産でしかなくてそれこそルネ・トムの本に書いてあるような構造の形態の内部の写像っつーかバリエーションってことになるんだよね。それがカオス的でカタストロフ的な非連続的な無秩序なものだったとしてもそれすらも音楽のボキャブラリーの集合に存在しているものでもはやカタストロフということがありえないぐらい全てが形式化されてるんだよね。カタストロフをやりたかったってのがまぁ言わば形式的なものからの脱却とか非連続性というのを志向した偶然性の音楽とかさ、まぁケージとかになると東洋思想とかも入ってくるんだけどまぁでもランダム性ですらも構造化されるんだよね。


それはやはり音というのがもはや制約でしかないからなんだよね。音のバリエーションなんて決まってるし何億という人間が音をいじってれば組み合わせ論的に言っても音は出尽くすだろうってのは容易に想像がつくよね。んだからまぁビジュアルとかジャケとかイメージとかっていうところで差別化を図るっていうかまぁそういうところにバイアスを置いたりもするんだけどまぁでもそれすらもただの繰り返しでしかないからね。あとあまりにも非連続性っていうあ、その構造性の連続性が無い断絶したって意味での非連続性ってことなんだけどそういう形式のを志向しようとするとそもそもの人間のなんでも構造化したがるっていう志向と水と油になるんだよね。結局まぁ下手なんだよね。あと扱うとそれが形式になっちゃう。


だからまぁ完全に自動の音楽とかアルゴリズムのランダム性が支配する音楽とかってのとかねあとはまぁクセナキス的な事象の現象自体を数学的に抜き出して音に変換するとかね、まぁそれすらも形式なんだけどでも別にその非連続性があるから独創的ってことにはならないしそもそも非連続性を狙って奇抜なことをするやつらってのは大勢いるんだけどまぁ大抵が大道芸レベルになっちゃうじゃん?そこであ、そろそろ終わるけどね、高柳の思想ってのがすげー共感できる!ってことになるんだよね。独創性も何も何もないところからは何も生まれないからまずはアーカイヴの模倣だろっつって達人の演奏の完全コピーをできるぐらいにギターの腕を磨くっていうさ、あ、俺は別にギターをそこまでやろうとは思わないけど何もないところからの方法論的なカタストロフなんて素人の大道芸レベルになるってのはようはそれって基礎の欠如だからなんだよね。そういうものを徹底的にやった後のアクションダイレクトってさ、結局高柳は最終的に音響ノイズみたいになったけど音響ノイズなりが違うんだよね。


エレアコと即興演奏を混ぜようとしてるようなライブ音源にしても行き着いた先の実験性ってのがあってそれはデレクベイリーの即興演奏と一緒で徹底的な基礎とかイディオムの習得ってのがあってなんでもかんでも弾けますよっていう中で守破離をするっていうのかな?そこからのイディオムの脱構築とか解体とかってことになるんだけどまぁすさまじく高度なんだよね。こういうレベルに置いてのみ構造からの非連続性を志向するようなものってのがありうると思うんだけどそれは本当に素養と技術と知識と地頭があってのものでさ、超理知的なんだよね。まさに高柳とかストックハウゼンとかベイリーとかが志向してたようなものってのは高レベルでの行き着いた先のフリーフォームだったり非音楽性だったりするんだよね。でもそこで非音楽性っていうと何も知らないやつでもアンチ音楽だ!っつってめちゃめちゃやれるからあたかも誰でもできるように見えるんだけど結局はそこで思想とかやってきたことの経験の蓄積の差ってのが音に出ちゃうんだよね。


そこでブラックメタルとかの場合、音楽性もさることながらそいつ自体の絶望の度合いとかってのが音に出ちゃうんだよね。形式的に絶望とか闇だとかってのはいくらでもできるけど本当にそう思ってるか?ってのはそりゃジャケとか見た目とかバンド名とかは同じようで素人のめちゃめちゃの演奏とベイリーの演奏は差が無いように見えて恐ろしい差があるわけじゃん?それって結局やっぱり行き着くところ経験値ってことなんだと思うんだよね。生ぬるい生活送ってたんじゃ本当に闇に閉ざされたような音なんて出てこないし所詮はただの闇という形式でしかなくなっちゃうんだよね。だからさっき書いた経験の蓄積の差っていうのはまず音楽性ってのはあたりまえとしてもあとは闇とか暗部見たいなのに目を向けるものっていう意味だと後はもうそいつの生き方と経験でしかないんだよね。全てはシステムの所産でしかない以上、あとはもうその闇を扱うという表現の極北を目指すしかないんだよね。それすらももはややりつくされてるけどでも実際はまずリアルでそこまで闇に向かってたり直面してるって人は滅多にいないしそれが音に反映されるということも滅多にないからそういう意味でブラックメタルとかダークアンビエントってのは数はあれど所詮は普通の人がやってるだけだなっていう印象しかないよね。


本当にヤバいもののバッドなオーラって半端じゃなくてさ、だからこそそういう稀有なものってのを作りたいよなっていうことになるよね。そこはもはや精神性という話なんだけどまぁそこでだからあれなんだよね、今回書いたことの総括みたいになるけど宗教性と象徴とシステムと意味論と能動性みたいなことになるんだよね。それは相関しあっているからこそ音楽も結局は少なからずスピリチュアルな志向になったりもするってことなんだよね。そこがやはり人間が人間であることの所以なんだと思うんだよね。だからこそ人間臭いものほど愛着を感じるわけだよね。まぁそれが自己愛とか自撮りとかそういうもんだと最悪だけど切実なものの人間臭い出力の結果って良いよねやっぱり。


あ、あと別に伝わらなくてもいいのねっていうか伝わるわけないからね(笑)自分の中で自己完結していて内省してそれが表現しきれているものだって思えればそれでいいんだよね。表現ってのが伝えるためにあるっていう話があるけどこれは大きな間違いだよね。まぁ表現っつっても伝達を目的とするものならそれは当然だけど伝達を目的とするものじゃない表現ってのもあるからね。それは表現というよりかは意思の中に顕在化したまさにmanifestationという言葉がそのまま当てはまるような概念の具現化だよね。だから「自分はこう思いました」とか「こう感じました」というのが必ずしも誰かに共感される必要が無いように意思の中に顕在化したり鳴った音楽ってのを忠実に具現化したとすればそれ自体が表現なんだよね。伝えるためなんじゃなく浮かんだものを形にしたという意味での表現だよね。ここを伝えるというようなこととごっちゃにしちゃうと一気に低俗になっちゃうんだよね。すげー陳腐化してくだらなくなる。伝えるってまぁようは「分かりやすさ」だったりっていう要素が多いから簡略化したり伝達を優先することで失われるものってすげーあるからね。


そこはそもそも何かを作るっていう意味での表現っていう意味だとすげー個人的なものでぶっちゃけアール・ブリュットとかと同じ話だと思うんだよね。それは視覚的な芸術にしても造形にしてもなんにしてもそうでしょう。まぁあと俺がそういうものに惹かれるっていう好みはあるしその好みに定義が引き付けられてるってのはあるにせよでもまぁそもそも伝えるなんてのはショー的なものじゃん?規模は違えどエッセンスはショービズ的なものだよね。別にビズである必要はないけどそもそも理解される必要性ってのが全く分からないんだよね。そんな個人的なものなんて理解されなくてあたりまえだろうって思うしそれは人間同士が分かり合えるわけがないっていう決定的な断絶と全く同じことだよね。そこでましてや顕在化したものの具現化なんていう超個人的なものに関しては伝わらなくてあたりまえでしょう。でもまぁクオリティの差はあれど残るってそういう個人性の結晶みたいなものだよね。結果的にそういうものを志向したほうがサバイブなんて意識してないんだけど結果的にサバイブできるんだよね。それは完全に内在性に端を発するものだからシステムとか他者とかっていうことに全く影響されないからね。だからこそ強いんだよね。「勝手にやる」ことの強さってまさにこれだよね。


なんかまだ色々あった気がするけどそろそろ本読みたくなったからもう終わるわ。んじゃまた。