色々と最近思ったことを。

まぁようは所与の価値観とか快楽とかに価値を見いだせなくなったってのは内面の成長のおかげですよね。でもそれが結局有無を言わさない感じの能動的ニヒリズムに繋がってるっていうね、これって本当に諸刃の剣だよな。逆になんでそんなに生の肯定にこだわるのか?ってぐらい取り組み過ぎてる感じで「あるがまま」というのに最大の苦痛を感じるわけで意志をどんどんエンハンスして増大させるしかないんだよね。まぁその結果、こないだ書いたように考えることの規模が大きくなったりして取り組むことも変わってきたりするんだけどより世間離れしていくっつーのかね。まぁ小市民的なジレッタントになるぐらいだったら死んだほうがマシだと真剣に思う自分にとってはこれでいいんだと思うんだけどなんかまぁ毎日めちゃめちゃ辛いね。


完全に気が付いたのがもう気楽に生きられないということなんだよね。数学に目覚めて数学ばっかやっててそっから金融工学とか物理とかやってるときはっていうか自分的に実存に向き合わなかった時期ってのがかなり長かったんだよね。っつってもまぁ帰国後数年だけどね。で、そんなこと考えてもあんま意味無いとかって思ってまぁポジティブな意味での快楽主義に目覚めてこれでいいやーとかって思ってたけどまぁ色々あったのもあるし考え方が色々と変わるってのはあるにせよなんつーかここまで重くなるとは思わなかったね。なんか結構数学やってるときとか「あとこれだけやってればいいや」みたいな感じでちょっとした人生あがりっつーのかな?もう悩む必要ないやみたいなね、で、今はっつーとすげー実存とかについて悩んでたニューヨーク時代以上に悩んでるんだよね。その苦しみたるやヤバい感じででもなんかもう誤魔化せなくなってるっつーのかな?


誤魔化しって色々手段があると思うんだけどまぁ内面が成熟してきてるんだろうね。なんかもうほとんどのものがダメなんだよね。楽しめないし一瞬で飽きるし好きになれないし夢中になれない。それがまぁようは有無を言わさない感じの能動的ニヒリズムってことになるんだよね。ようはなんか自分で価値を見出したり作ったりっていう能動性が無いと死ぬんだよね。これまでずーっと受動的に生きてこなかったから受動的に生きるみたいな方法論もあるんだけどそれが無理なんだよねっつってもやろうとは思わないけどね。


何やってももう気晴らしにならないってヤバいよね。気晴らし的なのを趣味的にやってきたというのもあって慣れちゃってるのとあと恐らく刺激ジャンキーだから大概の自分がやりたいと思うことで得られる刺激っつーのを得てきちゃったんだよね。快楽を満たしてきた結果、色々なことに慣れ過ぎちゃって現在の快楽が無かったりまぁ快楽ってのが刹那的だからそれ自体に虚しさを感じるってのはあるにせよまぁそこそこ必要だよね。そういうのをだましだましやりつつ真面目なこともやりつつ・・・っつーバランスをとっていくのが恐らく人生なんだろうけどそういうバランサー的なバランスを取ったりするものとか娯楽ってのをやり尽しちゃった感じだよね。ようは娯楽は有限だから色々と悩みつつあーちょっと娯楽だ!っつって娯楽やりつつまたパワー充電してまた悩んだり考えたりっていうことができるんだけどその娯楽のホームグラウンドが完全に無くなったんだよね。もう不感症というぐらい過去楽しかったものがつまらなくなってる。逆にあと「なぜこれをやれていたのか?」って思ったりっていうね、なんかあれなんだよな、alter stateっつーか去年の年末ぐらいから躁状態が続いてまぁ色々作ったりハイパーだったのが一通り落ち着いてんでまぁそっから鬱になってるって言えばそれまでなんだけどなんかそれとは違うんだよね。なんか別人になった感じっつーのかな?


んでまぁオカルト臭い言い方にはなるけどまぁダークソウル3ばっかやってたりダクソ待ってたときも待てなくて色々ゲームやってたりしてかなりダメな生活になってたんだけどそっからまぁ自己啓発的に言うところのプライミングが働いたのかなんなのかゲームやったりして時間を浪費してたっていうこと自体に異様なまでの不快感を感じるっていうか完全に色々な意味で逃げてたなってのが分かるっつーか常に分かってるのよね。なんかだからその自己嫌悪みたいなのもあるんだろうね。でも向き合うっつってもどうしたら?ってのがマジで分からないって中でまぁ色々と見えてきてることはあってそれはマジで深遠の底にいるからこそ見えてくるものってのがあるんだけどでもいつからこんな壮大なプロジェクト始めたの?ってぐらい勝手になんか始まっちゃっててさ、んでもう体がそれを強制するんだよね。誤魔化そうとすると「誤魔化している」ということがすぐ脳裏をよぎってだから何らかの意味でプロジェクトに関することをやってないと精神がダメになるんだよね。


まぁ逆にこれって体が自分を助けてるんだけどね。ゲームばっかやってるんで「それ禁止!安易なこと全般禁止!」っつってすんげー精神へのダメージを与えてるっつーかさ、それが凄まじい自己嫌悪とか鬱とかの原因にもなってたりするんだけどそういう意味でまぁ正道を歩めよ!って体が強制してるっつっちゃー強制してるよね。でも今までと違って「じゃあこれをやりなさい」という分かりやすいサブジェクトが無いんだよね。すげーアブストラクトでそれを自分で見出しながらまた発見してこないだ書いたようにパラダイムを広げていって・・・ってことをやらないと体が精神を殺しにかかってくるんだよね。まぁ殺しにかかってくるのはありがたいことだけど具体的に何やればいいのか?ってのがまぁ一応分かってるんだけどまだ色々と書ける感じではないんだよね。それが凄く抽象的にあってまぁんで見えてくるから道が分かるんだよね。あとまぁそういう感じでやってるから「お!」ってのが来たりする。で、それがまたほかに繋がって・・・・ってことになってるって意味で今まで通りなんだけどでもなんつーのかな?ジャンル分けされたサブジェクトで次はこれで次がこれ・・・って感じじゃないんだよね。あと「こういうときどうしたら?」的なことでもないしそれこそネットとか探しても答えなんて出てこないっつーレベルでのアブストラクトさなんだよね。


宗教的なものへの傾倒ってのもそれもあるんだよねっつってもいきなり「神が」とかって言い出すんじゃなくてそういう世界も入ってきたってことなんだよね。あとそれでまぁ神秘主義に行き着いたとかって前に書いたけど神秘主義じゃないんだなってのが分かったのね。なぜ分かったのか?ってのがそれがまぁまだ書く段階ではないってことなんだよね。ただまぁ驚いたことにサタニズムってのがそれにすげー関係しててね、え?って感じじゃん?真面目に悩んでるのになぜサタニズム?ってことになるんだけどでもまぁ関係あるんだよねっつってもそれを信奉すれば解決するというような安易なものではなくてもっと高次な意味でそういう感じなんだよね。そういう意味でのオカルトってことなんだけどオカルトに目覚めたということではなくてこないだ書いた優生学みたいに一般的に倫理的にアウトだからタブーとされたり議論にすらならないものとかってのも含めて「隠れたもの」って意味でそれってオカルトなんだよね。だからジェノサイドの妥当性とかもまず真面目に語られないからそれもpolitical correctnessっつー常識によって無いものとかそもそも考えに浮かばないものとして処理されてるんだよね。いや、実はそういうのがいっぱいあるんだけどそれって倫理とかを外さないと見えてこないんだよね。完全にフリーって意味なんだけどめちゃめちゃ危ない世界なんだよね。そういう意味で。でも俺はそういう世界に足を踏み込めるだけの認識のステイトになったからこそ踏み込むようないろんなきっかけとか偶然ってのが重なったんだと勝手に思ってるんだよね。


いや、だから人類ジェノサイド計画とかのプランを生物学の知識なんかも身につけながら真剣に考える・・・とかってことでは当然無くて(笑)そりゃもちろん人類っつーよりかはまず自分なりに納得するなり生きていけるような納得がいく知識を身につけるということなんだけどね、でもそれがこないだ書いたようなただ知識欲を満たすだけの快楽主義ってのはまぁ小市民的なジレッタントになってる自分が思い浮かぶのとっていうかそれはまずありえないからこそそういう感じでしか知識と接してないっていう現状に対して凄まじい喝が入ってるんだと思うんだよね。それがまぁ今の精神状態というか奈落に落ちているという状態なんだよね。だからすげーawake!っていう感じっつーかスピリチュアルになっちゃうけど「目覚めろ!」って言われてる感じがするのよね。でもいきなりではなくて前触れはあるし生物学なんかもまぁもうちょうど一年前ぐらいにはなるけどなんとなくやろうと思ってたのもまぁフラグっつっちゃーフラグなんだけどさ、でもまぁそっからの色々な偶然ってのが重なって今のプロジェクトになってる感じなんだよね。


ただそこで「これが天啓というやつか!」っつーとかなりマッドな感じになるんだよね(笑)でもそれを真剣に受け取らないと生きるすべを失うんだよね。もうほかに道はないのはゲーム散々やったあとに凄まじい鬱になって痛感したでしょ?って誰かが仕組んでるとしか思えないレベルでバイオロジカルな指令が来てるっつーかね、まぁんでバークリーのバイオロジーの講義とか見てるんだけどね、まだまぁ本格的に始めたわけじゃないんだけどまぁ準備みたいな感じで見てたらさ、まさに「指令」ってのがあるんだよね。それがストラクチャであったりそもそもの構成要素が「こうなったらこうなるべし」というプログラムがされていてそれがなんかマイクロなレベルの色んなプログラミングされたものってので成り立ってるんだよね。で、それって結局人間ってことにもなるし人類ってことにもなりますよね?っていう初心者っぽい疑問ってのが実は当たっててバイオロジーっつー観点からの高次な意味での人間心理を分析する分野とかがあってさ、いや、分かるでしょ?なぜそんな悪が存在するのか!とかさ、不条理すぎるぜ!とかさ、意味の分からなさとやり場のない憤りに冷静な分析を与えてくれそうな知識ってのが今俺がやろうとしてることなんだよね。でも心理学とかああいう山っぽい感じのじゃなくて厳密な意味でのバイオロジーと化学なんだよね。そう。当然化け学もやらないと生物学なんてやれないわけでっつって早速1300ページとかあるテキストを買ったんだけど古いエディションのやつとかが安く手に入るからあとはまぁ時間と労力をつぎ込めばいいわけですよね。


っつってもそれで答えが出るとかってことではないんだよね。なんらかのものは得られるだろうなっていう実感とあとまぁ人文系とかであーだこーだやってても限界があるのと所詮人文系で出てくるアイデアってのはそういう限られた知識の中から人が考えそうなことってのが大半なわけじゃん?だからこそ横断する必要があるんだよね。そういう狭いジャンルとかをやり続けても自分が知りたいことは分からないんだよね。あ、でも化学も本を買おうとしてた時期はあったんだよね。なんか多分恒常性とかに関する数理モデルっつーと大げさだけどまぁそんな感じのを数学でやっててそれで化学にも興味が出てきたかも?とかって思ってまぁんでそのときは爆発物の本を買おうと思ってたんだよねって別にテロやるわけじゃないからね(笑)


まぁようはストラクチャ自体が行為体みたいなエージェントの行動を規定してたりそれはエージェントの行動自体が結果的にストラクチャを形成してるのかそれは分からないんだけどこないだ書いたじゃん?ルネ・トムの「構造安定性と形態形成」が本いじってたら出てきたって。いや、これなんだよね。まぁだからホントにマンデルブロとか複雑系とかも途中までやってやってないけどモロにそういうのと地続きなんだよね。まぁやっぱでもマルコフとモンテカルロはちゃんと理解したいなって思ったんで2万ぐらいした金融工学の本があるんだけどまぁー恐ろしい良書なんだけどね、手元にないんだけどまぁ一通りやったらまたちゃんとやろうかなっていうかそこは常にあったんだよね。


数学はどうでもよくなったことも多いけどやり尽してなくて気になり続けてるものってのもあってんででもそれが今のプロジェクトに直結するようなものってのが多くてなんかまぁ色々と有機的に繋がってるんだけどその様相がまさに生物学的というかさ、いや、もちろん生物学でこうだから一般的にストラクチャと言えるもの全般に関してこう言えるのだみたいなそんな安易なことにはならないんだけどただ構造ってのがあったり要素ってのがあってそれが必然性によって形成されているっていうこと自体がもうbig pictureに繋がるフラグになってるんだよね。なぜクズはクズなのか?とか生まれてきたこと自体がアウトなやつらがなぜいるのか?とかそりゃいるのは当然なんだけど必然性があるんだよね。でも機能はないよね。だって破壊的だもの。でも生物って観点から見るとそれが破壊的だろうが生産的だろうが関係ないよね。要素は要素だからね。んでまぁその社会的な破壊性とか倫理を逸脱した破壊性と生物学的な化学のレベルでの破壊とかは全然意味は違うんだけど意外とそうでもないだろうって気はしていてね、それがまぁマクロとミクロってことだよね。


いや、なんでクズがクズか?ということを解明するだけにやるんじゃないけどまぁそういうのも今とは違った意味で分かるようになるよね。生物っつー大枠で考えればね。で、まぁぶっちゃけ政策とかで虐殺してもいいんじゃないの?とかって話もまぁようはタブーをタブー視しないっていうそのタブー視とか倫理ってのがそもそもイデオロギーなんだっていうさ、で、それが科学の発展の邪魔をしてるってのは絶対バイオロジーではあるじゃない?そういうのも含めた生命倫理学とかも関係してくるって意味でまぁ哲学とも関係あるしでもまぁそれはオカルトって意味で考えられなかったり考えもしなかったり見てはいけないものとか隠されているとされていることもどんどん暴くってことだよね。そういう意味でのオカルティストになるってことなんだよね。オカルティストっつーとアレだけどまぁようは人道とか関係ないレベルでただ真実だけを求めるっていうことだよね。で、この真実を求めるっていうのと求める上で倫理とか関係ないっていうのがサタニズムに関係してるんだよね。それこそ過去の秘密結社とかフリーメーソンとかグノーシスとかの胡散臭い意味ではなく思想って意味でそういうオカルトとか宗教とか異端とされたものって何気に真実に近いんだよねっていうかまぁ真実を求めるattitudeだよね。


まぁだからあれですよ、単純にまた広義な意味でのサイエンスをやりますってことなんだけどね、ただまぁサタニズムとかオカルトとか宗教の歴史とか今の自分の世界観を作ってるいろんな要素ってのが無駄なく全部関係してるんだよね。そういう繋がりの中で見出したサイエンスってことだよね。まぁ相当マッドかもしれんけど順序立てて書くと全部論理的な必然性があるんだよね。極めて理知的なんだけどそれを極めようとするあまりおのずとベクトルが若干マッドになっていくってことだよね。で、サイエンスばっかやってたやつがこういう感じでやると素で倫理とかを無視したことをやったり言ったりしちゃうんだろうなって思ったよね。でもそれはすげー分かるよね。まぁそういう意味でサイエンスだけじゃダメで教養全般が必要でまぁそういう意味でサイエンスばっかやってる意味でのサイエンティストは軽蔑するけどね。教養がない専門バカみたいなのはすげー嫌いだしそれは数学でもそうだけどマジで体系的に書いてあることが明確に定義されていないから言説自体が全く意味を成さないとかコンピューターですか?あなたは?みたいな理系バカっているからね。そういうのはもう最高にクソですよねってまぁ前にさんざん書いたからいいか。教養の欠如ってのは最高にダメですよね。


まぁでもこれもサタニズムあってのものだけど澁澤全集とか読もうと思ったのもまぁサタニズム繋がりだしそっからフランスのロマン派とか読んでみたりとかさまぁそのやってこなかった文系の感じってのが今偶然に色々とできてるんだよね。まぁちょっと前にドストエフスキー関係のをすげー読んでたってのはあるからまぁ今に始まったことではないんだけどね。あ、あとミハイル・バフチンね。


まぁそんな感じで虚しいとか言いつつ書いてみると楽しいことだらけじゃん!って感じで若干テンション上がってきたかも。ただまぁあれなんだよね、虚しさっつーよりかは共感しあえる人とかってのがいないっつーかどんどん特殊になるから世界観がどんどん合わなくなるって意味でどんどん浮世離れしていくって意味でより孤独になるけどでもそれはしょうがないんだよな。それは孤高を気取るという意味ではなくて商売とか仕事ではなくライフワークとして探求のみに人生を捧げる人ってのがそんなにいないだろうってのといても個々が独特の世界でそういうのを追及してたりするだろうしすでに俺の世界はかなり異様になってるし(笑)自分でも「おいおい大丈夫かよ!」って思ったりするからねたまに(笑)あ、でもこれじゃん!って思ってさ、一番なりたくない小市民的ジレッタントにならない方法ってのがこれなんじゃんね!っていうそういう美しい必然性を感じるんですよね。そういうのを体は発してるんだなっていうさ、だからまぁ壮絶に鬱になるのかってまぁこれも勝手な解釈だけどやっぱ根本のソウルってことですよね。魂が何を求めてるのか?ってことだよね。


ここでまぁちょっと時事ネタぶっこむけどっつーかもうそろそろ終わるけどさ、震災関係のことで芸能人とかが寄付したりエール送ったりしてるっていうのに異様にディスが集まってるとかってのもまぁこの魂の問題なんだよね。魂がそうしていればそれは行動するんじゃなくて逆なんだよねっていうことだよね。魂の求めていることが結果として行動になるっていうピカソの芸術論なんかと似てるけどね、で、まぁこないだ書いたティーリケって人も似たようなことを言っていてまぁようはそこでそれって魂なんですか?ってところにディスが行ってるって部分はあるよね。そこは分かるんだよな。まぁそうだけじゃないただのヘイターも多いんだろうけどまぁようは魂がしたことに対してそれをいちいちツイッターで報告しないだろうっていうのは説得力あるよね。それはもう作為的に芸能活動だもんね。別にそれは素人でも同じっつーか前にさんざん自撮り女の狂気を書いたけどあれと一緒だよね。支援というところに「私」はないはずなのに「私がやりました」と報告してしまうっていう自我が前に出ちゃうんだよね。逆にではその行為が誰にも知られないとしていてもそれをやっていたのか?っていうことになるよね。まぁどのみちやらないよりかはいいんで批判する必要はないんだけどね。ただまぁすげーカント的な道徳の話ではあるんだよね。こういうのって。


規模は違うけどまぁさんざんさっきタブーがどうのとかって話をしたから特に心配することも無く語弊を恐れずに言うと心からやりたいと思ってやったことをいちいち写真撮ってそれを実況したりツイッターに乗っけるのか?って話だよねってのがまぁすんげー語弊があるんだけどあえて言うとニューヨークとかにいるホームレスに「チャリン」とお金を寄付して「寄付なう」って実況するのか?って話だよねってことなんだよね。「こないだ寄付したんだよね。1ドルだけど」ともまぁまっとうな感覚を持った人だったらあえて人にそんなことを言わないだろう。で、結局これが道徳の問題になるんだよね。これは寄付の額とかホームレスなのか被災者なのか?とかってことを抜きにしてっていうかそういうのは関係ないんだよね。本人が進んでやったことをいちいち本人が写真を撮るなり行動そのものを誰かに報告するのか?ってことだよね。だからまぁそういう意味で全然語弊はないんだよね。ニューヨークのホームレスと被災者を一緒にするな!って言いたくなるだろうけどそもそも問題は誰に寄付するか?ということではなくて寄付する主体の問題だからなんだよね。だから寄付される側は全くそれには関係ないんだよね。


そこになんで「わざわざ報告する主体」という余計なもんが介在しちゃうのか?っていうの話だと思うんだよね。まぁでも寄付してればいいじゃん!ってのはもちろんその通りでそれ自体は全く批判する気もないけどね。でもまぁその「魂がそうする」という行為自体に額とか相手とかって無いんだよね。そこはもう「ただそうした」というそれだけがあるわけだからね。まぁだからカントの定言命法と似てるよねっていうかほぼ同じかな。それは無条件であるので相手がどうだとか原因が震災とか不景気だとかってのが全く介在しないってことだよね。それが無条件ということ。まぁでも別にそんな厳しくなくてもいいんだよね(笑)ただまぁ芸能人だとどうしても山っ気が出ちゃうんだよね。便乗して目立とうとしてるっていう自分の広告って意味での寄付なんじゃねーの?って疑いたくなっちゃうっていうのがまぁようはこの「条件」の話なんだよね。


だからいちいち報告した時点で無条件じゃないんだなってのが分かっちゃうんだよね。でも別に無条件である必要はないわけだけどね。ただまぁ自然にやった行為をいちいち誰かに報告しないでしょってのがまぁようは原理ってことなんだよね。まぁ「飯なう」とかいちいち実況する人もいるだろうけどまぁ普通に考えて「今飯食べたんだよね」って誰かに電話してまで伝えたりしないでしょ。そういう自然な行為であるべきなんじゃないの?寄付ってのは?ってことだよね。作為性が無い自然なただ腹が減ったから飯を食ったという人間としてあたりまえのことをやっただけっていうところに実況する要素も取り立ててそれを「やりました」とあえて言う理由はないってことだよね。だからそこになぜそれをあえて言うの?それってそれを伝えたい以外の目的があるからなのでは?っていう勘ぐりが自然に働いちゃうってことだよね。


まぁでも震災自体が物凄いショックだからピリピリしちゃうんだよね。で、特にセレブっぽいやつが安全圏から「何々やりました!」って報告してるのが鼻につくってのはまぁーそりゃあるでしょうねってことだよね。最も震災の被害を受けた芸能人ですら配信していること自体を叩かれたりしてるからその光景は異様なんだけどでもまぁこれはノイジーマイノリティだよね。何も言わないか「頑張ってください!」とか「報告ありがとうございます!」って言ってる人がほぼ大多数の中で一人でも変なことを書くやつがいたらそれがセンセーショナルになるからね。でもそれは総意じゃなくてすげー変なことを言うやつはそりゃいるよっていう話だよね。まぁでも分かるでしょ?絶望ってそういうことだよね。まぁいるのは分かるけどなんでこういうことを言うやつがいるのか?とかさ、バイオロジカルなレベルで調べたくなるぐらい胸糞悪いでしょう。やっぱり。


あとまぁでもあれなんだよね、「震災がショック」と言ってもそれも「ショック」って言ってないと不謹慎的なムードがそうさせてるとかさ、ほかのやつなんて何考えてるかマジで分からないよね。だからそういうところも含めて震災!復興!みたいなお祭り騒ぎにしないですんげーシリアスに捉えて長期的に考えるってことをやるってことだよね。今何かやることが全てじゃないからね。何かやらなきゃ!ってのは分かるけどそこで千羽鶴送ったり着ようと思わないような古着送ったりとかちゃんと考えて行動しないと思わぬ迷惑になるってことだよね。そういうのも含めて「考える」ってことだから何も支援っぽく見えることだけが支援じゃないからね。


まぁあとやっぱ絶望感とか恐怖感のシェアだと思うよね。どの場所でも震災は起こりうるという潜在的な恐怖感ってのをあんまりまぁそれが支配し過ぎちゃってもアレだけど同じ日本人としてそれを感じているということだよね。それは自分のことでもあり被災者のことでもあるっていう自分の恐怖でもあると同時に他者の恐怖も自分の恐怖として理解するってことだよねっていうか理解せざるを得ないのが現状でしょう。で、そういうことを考えたり思う共感みたいなことってそれこそさっき書いたカントの話と一緒で原理の話だから何が起ころうと基本変わらないよね。逆に特殊なことが起こったから妙に行動原理が変わるとかだと逆に変だよね。まぁ別にその行動がプラスになればいいんだけどね。ただでもまぁこの「やらなきゃ!」っていう心とかってのも本当に難しいよね。山師みたいな意味でなんか目立とうとしてるのか「やらずにはいられない!」って行動したくなっちゃうって意味だとまぁそれって自分のエゴじゃん?


サイレント寄付が一番良いのになんかやりたい!ってのはそれはまぁお祭り気分と一緒だよね。それが本当に被災者のためになるならいいけど自分の「やりたい!」を満たすだけだったらそれはただのエゴだよってことだよね。だからそこに主体はいらないのよ。本当に利他的になるってことなわけだからね。あ、んでもmoney is powerですよ(笑)やりたい!ってのがそれをやって利益を出して寄付するとかね、まぁなんでもかんでもいいってわけじゃないけどやりたくなっちゃったらまぁとりあえず最終的に帰結がやりたい欲を満たすというのもありつつ客観的にはお金を寄付しましたっていうことになればいいんじゃないですかねって思うよね。


なんか予想以上に長くなったけどまぁ今回の一連の「叩き」って俺が自撮り女をボロカス言う心理と同じでまぁ勝手にやってりゃいいんだけどなんかまぁいちいちそれ報告すんなよ!って気に障るってことだよね。なんかそのツイッターにしろフェイスブックにしろコーデサイトにしろSNS全般にしろ構造的に気に障りやすいものなんだよね。もっとユートピア的に色々と役に立つものかと思ったらノイズを増やすだけだったっていうさ、あとまぁ有用に使えない人が多いってのもあるにせよあとまぁ音量設定とかできないからさ、すげー狭い範囲に対して言ったつもりでもそれは結局まぁパブリックな発言になっちゃうから下手するとそこだけ引っこ抜かれて晒されるってことがあるってことだよね。そういうのも含めてネットリテラシーとかネットを介在した時の人の心理とかさ、そういうのを知っておかないと別に芸能人限らず身を亡ぼすことになるよね。まぁなんで芸能人はそういうところに無知で失敗ばっかするんだろう?っていつも思うけどまぁ普通そうだよねっていうことだよね(笑)


昔はネットって限られた人が使ってて今は大衆化して何も考えないで使っちゃう人とかもいてそれが問題になってるけどネットもインフラ化してより存在が当たり前になればなるほどそれも一つの生活圏として認知されてようはそれがチャンスにもなりうるけどどちらかというとリスクのほうが高いってのが分かるようになってくるよね。ホント、ネットを介すと善意も悪意になったり逆もまたしかりだし他の人にどう伝わってるか?とかどう解釈されるか?なんて常に分からないからね。それは一概に発信する側だけの問題じゃなくてそれは受け手の問題だったりインターフェースそのものの問題だったりなんでも匿名で書けちゃうっつーようなシステム的な問題だったりとかいろいろあるからね。


まぁさっきの寄付云々の話もまずカント的な理屈っぽい面倒な利他的であることとか定言的な道徳みたいなね、そういうややこしい話があってなおかつツイッターとか芸能人だとかなんだとかっていういろんな要素が絡まってるわけだから一筋縄ではいかないよね。なんかまぁそこがあんま人にやさしくない割に寄付とか利他的行動に関しては妙に高い美徳のスタンダードを求める日本人っつーいやーな面が明らかになりますよね(笑)でもまぁ一概にそれはいやか?って言われると散々書いたように鼻につく感は理解できるよね。むしろそんなのサイレントにしとけよって自然に思える異様に高い美徳のスタンダードはヴァーチューと言えなくもないもんね。でもまぁそれも時と場合によるよね。とりあえずまぁお通夜ムードだけは避けないとね。なんでもかんでも不謹慎とするのはクソですよ。生きるにはパワーがいるわけでその活力自体を無くすようなムードってのはそれこそそれを自重して通常営業しないといけないよね。あとまぁなんかそれこそ便乗しちゃうけど大事なのは愛国心よ。同胞を思う気持ちってことだからね。だからいや、災害なんて世界の他でも色々起きてるのになんでこれにだけ過剰反応しなきゃいけないんだ?みたいに言う人もいるけどさ、まぁそりゃグローバルヴィレッジとして考えりゃそうかもしれないけど人種とか国とかいろいろなもんがあるわけだよね。そこでやっぱりそりゃ当然自分に近い人ってことになるでしょ。


そういう意味で同胞を思いやるってのはイコール愛国心なんだよね。それは現状の日本っつークソみたいな国家を愛するというわけではなくて自分の人種とか場所を愛するっていうパトリっていう意味でだよね。そういう意味でそれって目立ちたいだけじゃないの?とか自分の宣伝だろとかって色々ディスられても寄付という行為自体かは置いておいて同胞が困っている!なんとかせねば!というのを日本人として当たり前に原理的に思うっていうところが定言的にあればオッケーなんじゃない?って思うよね。だからまぁ大変なときに内ゲバしてる場合じゃないだろって話なんだよね。まぁでも鼻につくとかイライラするとかっていうまぁ心理は分かるってのはさんざん書いたけどまぁこれはさんざん書いたように面倒な問題とネットっつー問題とあとまぁ芸能人の場合芸能人っつー問題と色々あるけどまぁ大枠で言うと日本人ってことじゃん?まぁ逆に愛国心が無いやつってすぐ分かるけどね。


あー日本ヤバいから海外に引っ越すかなーっていう考え方があくまで「個」なんだよね。まぁそんなの個人の自由だからいいんだけどまぁでも同胞の危機だからこそイライラもするし色々と言いたくもなっちゃうっていうところでそういう「アツさ」があればいいと思うんだよね。そういう意味でこんなときに何やってるんだってテレビ局とかに批判が行くっつーのも同胞愛から来るものじゃん?まぁ一概にテレビ局が悪いとも言えないんだけどさ、込みあがってくるものだよね。それがナショナリズムなんだよね。まぁ結局だからもうこういう自然な同胞愛っていうところからもうそれがナショナリズムってことになってまぁおのずと国家の在り方ってことになるじゃん?個人がやれることもあるけど国家がやるべきことってのもあるわけでそこを民意として確固たるものを持つってことだよね。そういう意味での主権者ってことだからね。だからまぁ他のことはどうでもいいけど災害に関してはすげー政治的に言いたいことがある!っていうそういうところだよね。まぁそういう意味で今言うのは早すぎるかもしれないけど風化させないってことだよね。すんげー長期的な目線で見るってことでさ、だから今今!じゃなくてもう長期戦になるなって覚悟するんだよね。それを自分のこととして受け止めるっていうことだよね。でも世の中移り変わりが早いから忘れる人とかも出てくるからね。そういう意味でも大げさなナショナリズムって話をしてるんだけどね。それが本当の同胞愛だったら風化のしようがないでしょう。でも風化する可能性もあるんだよね。


さっき具体的な行動だけが支援じゃないって書いたのはそういうことなんだよね。思うこととか思い続けることってのも支援になりうるよね。最悪なのが忘れるってことでしょ。お祭り騒ぎみたいに一時だけ「支援だ!」っつってなんかやって満足して忘れるっていうようなね、そんなんじゃダメってことだよね。もしかしたら自分も被災してたかもしれない!っていうような無知のヴェールだよね。真に政治的で倫理が問われるってのはそういうところだよね。だからそこって金銭的に支援できるか?とか何ができるか?とかではなくて普段の政治的な心構えなんだよね。まぁこれは何気に敷居が高いしそんなの誰でも思ってるだろうっていうようなことも風化しうるって意味でやっぱり分からないんだよね。だからもう持てる人だけが持てばいいんだと思うし震災をきっかけにして改めて日本ということとか国家とは?とか同胞とは?っていうことを考えるとかね、そこで芽生える良い意味でのナショナリズムってのもあるだろうし、そこはなんか精神論みたいになっちゃうけど本当に心構えなんだよね。だからまぁ逆になんとも思わなかったり時間が経てば忘れちゃう人はまぁそれでいいんだと思うんだよね。


そういう人に日本人としての心構えなんて求められないからね。ただだからそういう意味でさ、いや、世界見れば大変なところなんていっぱいあるでしょって普通に言っちゃう人とかさ、それがさっきも書いたようにグローバル単位の人間って見た時にそれは一応論理が通るけどそんな風な思考をしちゃうっていうところの残念さだよね。でもそれはもうイデオロギーの問題なんだよね。そんな風に考えちゃう人に同胞愛だのなんだのって言ったところでなんにもならないからね。まぁそういう意味でじゃあナショナリズムってのもイデオロギーですか?ってある種そうだけどでも普通やっぱり人として同胞が苦しんでいるとか被害を受けているっていうことに心痛めるわけじゃないですか?それってイデオロギーじゃなくて感情だよね。でもみんなが同じ感情を抱いているかは分からないから強制はできないんだよね。心痛めてるふりをしてるだけかもしれないしね、そこがまぁやっぱすげー人間としての大事な部分だよね。だからこそ寄付とかの話がセンシティブなトピックになっちゃうんだよね。そういう人間としてのコアな部分に関することだからこんな時に売名行為かよ!とかって思っちゃうんだけどまぁでもそれだけ感情がむき出しになってるというか、変な言い方になるけどピリピリしているというところに希望を感じるけどね。そのイライラの原因は結局は同胞愛ということだし理不尽なことへの怒りとか何らかの原因でトリガーされた怒りとか憤りってのがテレビ局とか芸能人とかに向けられてるかもしれないわけだし、まぁなんでも怒ればいいってわけじゃないんだけど、そこがさっき書いた「アツさ」なんだよね。だからとにかくアツければいいと思うんだわ。最悪なのはシニシズムだよ。「俺のところは大丈夫だった。ラッキー」ってこういう輩に関してはもはや日本人ですらない。まぁでもいるからしょうがないよね。


まぁでも難しいよな本当に。相手の立場になって考えるってことができてりゃどんだけ世界が平和になることか。だからまぁ他者に高いスタンダード求めちゃいけないんだよね。自分が高ければいいのよ。んでまぁそれが別に他人から見て分かるようなことじゃなくてもいいんだよね。そういう心構えの高さとか国家とか同胞への考え方とかね、それってまぁすげー精神的なことだからさ、まぁあと俺がこんなに偉そうに色々言えるのもまぁ愛国心が強いからだよね。だから自信を持って色々言えるわけ。まぁ俺が何したってわけではなくてまぁ別に俺はどうでもいいんだけど何が言いたいのか?っていうとその普段の心構えの重要さなんだよね。緊急時だからどうとか例外状態だから変わるとかそういうことじゃなくて常にどうあるべきか?っていうことだよね。そこがまず人間としてって部分と日本人としてっていう部分とさ、逆にそれさえあれば生きてるだけでそれが不作為な行動に繋がるわけじゃん?別にそれが行動じゃなくてもいいんだよね。観念でもそれが自然に顕在化するっていう原理だよね。だからまぁ結局ヴァーチューってことだよね。まぁそれが普段から言う「善くある」ということが自然な振る舞いとして社会にとって有益なものになるっていうことなんだよね。俺が言いたいナショナリズムってまさにそれなんだよね。日本人として善くあれっていうそれに尽きるよね。


まぁそんな感じですね。んじゃまた。