深みの外出。その21。

では深みシリーズの続きね。


あとあれ、時間っつーとマクタガートとかさ(笑)あんな一世紀も前の哲学者が言うことを真に受けるのが変っていうかまぁそれはいいのか。妥当性があればいいからね。で、まぁ明らかに古いじゃないですか?でもあの時代の哲学として考えれば別に違和感はないんだけどそれを現代のコンテキストであたかも現在の哲学のように論じるから違和感があるんだよね。


いや、今時間ってこと考えようとしたら量子論とか科学においてどうなってるのか?とかってことが考察されてないと意味ないよねっていうかこんな感じでさ、「今と言った時点ですでに今は今では無くなる」とかさ、こういうのってただの言葉の問題じゃん?そういうのをあーだこーだやってたのが20世紀初頭の分析哲学とかだったわけでさ、そんなの今はどうでもいいよね。ナーガルジュナとかも基本全部これだからね。なんか真実を言っているもんだと思ってたけど全部同じ論法で空に結びつけるんだけどあれって完全に思考停止だよね。


「暇」とか「退屈」とか「存在」とか「時間」って多角的じゃん?暇とか退屈にしたって電車が来るのを待っているときの退屈さとか暇だと感じるということと人生でやることがなくて漠然と退屈を感じているとかって全然性質が違うじゃん?そんな「退屈」の一言で済むような簡単な話じゃないんだよね。あとまぁ刺激ジャンキーが刺激が無くて退屈だって感じる退屈もまた違うよね。


人生でやることが無くて退屈とかつまらないと感じるということかって別に日々の生活のためにやることはあるから暇ではないんだよね。でも何もないからつまらなかったり何もないと感じられるからつまらないわけじゃん?でもそれって人によるよね。それこそ個々の意味論とか心情とか人生への考え方とか個人史とかも含めたカオス的な複合性があるまぁ簡単に言っちゃえば変数だらけなんだよね。結果としてはそれは普遍的な「退屈だ」という感覚に集約されるかもしれないけど個々によってその退屈が導かれたプロセスとかって違うわけじゃん?


面白いと思っていたことが一気につまらなくなった結果の退屈とかだったらさ、例えば俺がレコード屋巡りか本屋に行くために外出をしていたから出不精でも外出する機会があったんだけど今は無いみたいな話をずーっとしててんでもまぁ家にいてもつまらないんだけど外に行く用事もないしだから用事を作ろうってことで洋服屋とか古着屋見て回ったり眼鏡屋行ったりするっていうさ、これって単純に「退屈」ということでも奥が深いじゃん?ようはなんでレコード屋に行かなくなったのか?ってまぁもうレコードは買わない!って決めたってのもあるけどなんでもネットで聴けるようになっちゃったってのがデカいんだよね。


それ言い出すと本屋も一緒で在庫とか気にしなくてタイトル分かっちゃえばアマゾンで一発でむしろ本屋のほうが在庫とか限られてるから不便とかさ、でも前に書いたように目の前にバーっ!とあることの刺激はいいよねーとかさ、こんだけ見てもテクノロジーによって生産性が高くなったっつーかわざわざどっか行かなくても情報が手に入るようになった結果の退屈さでもあるわけじゃん?それ言い出すと洋服にしたってオンラインストアあるから中身見れちゃうんだけどまぁ実際に行けば試着できるじゃん?それは音楽の試聴とは全然違いますよねってことなんだよね。


でもまぁようは退屈だから外に出たいしまぁナンパをするためなんだけどさっつーのは散々書いてるけどまぁそんな感じでなんの退屈なのか?ってのがもうすんげー奥深いじゃん?人によって全然違うよね。だからこそただのおっさんが立てた退屈論とか一人のおっさんの体験ってのが権威的な言説になってさ、あ、そのおっさんってハイデガーなんだけどね、それでハイデガーで語ればそれっぽく見えるって全然妥当性ないよね。


そういう意味で文学者が書いたエッセイとかのほうが良いって書いたのはまぁ人にもよるけど文学者のエッセイとかの場合、漠然とした本人が感じていることとかっていう凄く私的なものになるじゃん?私はこういう状況に置かれてこうなってこう感じたのだが・・・みたいなまぁ本当にプライベートなことだよね。でも退屈するってプライベートなことじゃん?退屈という普遍的概念はあるけどその概念で語れるほど簡単なものじゃないんだよね。


だからもちろん文学者が書いたっつーか仮に「退屈について」みたいなエッセイがあったとしてそれは普遍的な論にはならないけど退屈論の一つとしては凄く妥当だよね。本人がどう感じてどう退屈に思ったのか?っていうことが事細かに書かれているわけだから考えるうえで参考になるよね。なんかだからそういう意味でそもそもの退屈の性質ってのを分析しなきゃいけないよね。


で、それをカテゴリー分けとかしたくなっちゃうけどそんなの無理だから退屈の性質を分析しつつあとはいろんな人のケースだよね。バンドマンがバンドに飽きて退屈になったと感じているのは自分にとってバンドが全てだったのにバンドに飽きてしまって心に穴が開いたように退屈に感じるようになったとかさ、これってではなぜ飽きたのか?っていうところに個人史があるわけじゃん?


それはテクノロジーによっていろいろ聞けるようになっちゃって音楽へのロマンが無くなったとかさ、評価がすぐ下されちゃうっつーか大体なんかアップロードしても再生数が伸びなかったりリアクションが無いとかさ、そういう現実的な面とかあとはまぁ人間関係とか本人の音楽の好みの変化とか加齢とともに変わった精神面のことであったりまぁ俺がさっきカオス的って書いた複合的なことってようはこういうことなんだよね。


で、それを分析したところでそれが完全な分析になるわけはないしあくまで退屈というものの性質に迫るためにできる限り分析するっていうことだよね。あとまぁなんだろう、仕事人間が引退して退屈しているとかさ、あとまぁなんだろうな、授業に退屈しているとかまぁその色んなケースを考えたら膨大になって実質的に取り扱い不可能なんだよね。そんぐらい壮大なもんなんだよね。


それ言い出すとなんでもそうなんだけどね。そんぐらい複合的で複雑なものだからこそ昔の哲学者なりなんなりが論じたものってのはone of themにはなりうるけどあくまで一つだよね。それをボディにして論じることができるほど簡単なものじゃないしあと昔の哲学者の特徴ってのがそこだよね。なんたら論っつってそれで普遍性を語ろうとするんだけどまぁ無理な試みをしてるんだよね。


だからこういうところの全般のアプローチって結局一番真摯なのが科学的アプローチになっちゃうんだよね。古臭い文献とかじゃなくて科学と現象とデータを元に分析するっていうさ、所与の哲学概念で述べるってのは本当にただそれをだれだれのなんたら論で分析してみましたっていうことなだけで普遍性は無いよね。まぁ狭いんだよね。それがおかしいんだよね。哲学の言説だけでは語りえないことをなんでそこだけで語ろうとするのか?っていうことだよね。


この辺で切るわ。んじゃまた明日。