ヴァーチャル系の話。その5。

では続きね。


ラカンで言うところの現実界と似てるけどラカン現実界の場合、その定義がしっかりしてるっていうかかなり絞られてるって意味で俺の言いたいこの存在の位相ってのはもっと曖昧で広いんだよね。心的現実ともまた似てるけどでもそれと違うのは心的現実は外部の存在とかその心的現実がありうるかもしれないっていう実在性の蓋然性には依存しないというところなんだよね。ようはそれは完全に主観化されているという意味で「心的」なんだよね。で、ここでヴァーチャル的なものに戻るけどポケモンGoで「そこにいる」とされるモンスターは心的現実ではないよね。そのソフトウェアによって「いる」とされる仮想現実における存在だよね。だからそれはソフトウェアというプラットフォームによって存在が生成されているからこそそれは同じソフトウェアを使っている人たちにとっては共有可能な「現実」なんであってなかなかヴァーチャルとは言いづらいものがあるんだよね。ここがまぁ俺の強調したいところでもあるんだよね。ようは主観的な体感とかプレゼンスの差でしょ?ってことなんだよね。


じゃあその仮想現実が物理的な実態を帯びるようになったらどうなのか?っていうさ、まぁまさにロボットとかそうだよね。ソフトウェアとアルゴリズムの集合体という意味でヴァーチャルだけどでもロボットであるっていう物理的現前性があるから人はそれをロボットという存在として存在を認めるよね。でもそれっておかしいんだよね。そもそもありもしない人工的に作られたものを存在として認めてそのロボットの発話も本来の発話じゃないのに発話として認めるなんて!ってことになるけどさ、いや、おかしくないよね(笑)人工物だろうが有機的なっつーか自然によるものだろうが存在は存在だからね。別にロボットという意味で言えば何も大層なAIが搭載されてなくてもおもちゃでもまぁそれはおもちゃのロボットっていう存在というかまぁモノだよね。でもじゃあモノが存在化するというのはどういうことか?っていうのがようは人間の主観に依存した存在として認めざるを得ないプレゼンスという意味での存在なんだよね。ようはそのロボットが「おはようございますご主人様」と発話することで存在として意識せざるを得なくなるという現実だよね。


でもそれは普通「おはようございます」って発話するのは人間なんであって人間じゃない何かがそう語りかけてくるわけはないんだけどでもAIの場合それがありえるってことなんだよね。で、人間はその発話という人間的な行動である名残によってそれをあたかも本当の発話として錯覚してしまってロボットを存在として対象化せざるを得なくなっちゃうんだよね。でもこれは認知的なエラーなんだけどでも果たしてそうなの?って話でじゃあ植物状態にある人間は発話できないから存在じゃないのか?っていうとそんなことないよね。でもプレゼンスとしては言葉には問題あるけどモノに近いでしょう。もしくはそれっぽくなってしまうよね。同じ病室にいてその人の意識があったらやらないようなことを相手が植物状態ではできてしまうこともあるよね。そこがまぁようは対象化ってことだよね。その植物状態の人を人間たるものにしているのは周辺の人間によるその人に意識があったころの存在という名残だよね。


それで言うと故人もそうだけどでも故人はいなくなった期間が長ければ長いほど意識されなくなってくるよね。忘れられるという意味ではないんだけど例えばその故人が使っていた部屋というのがもう故人のものじゃなくなって必要なくなったから仮に物置にしたとしたらその故人が居た場所という意味でのプレゼンスってのも場が物置にされたことでよりプレゼンスが薄くなるよね。まぁもちろんそれは心にどう存在するか?っていう問題でそこを唯物論的だったりただの主観みたいに語りたくはないけどでもまぁ現実そんなもんだよね。人ってのはそんなもんだからね。


逆にまぁ悲惨な事件によって子供を失ったとかの場合、その子供の部屋はそのままに残しておくっていうこともあるでしょう。でもそれはまぁまさに心的現実だよね。いなくなったとは思いたくないという意味でプレゼンスを常に残しておきたいっていう親心の表れでしょう。だからまぁそれは不在という意味での存在ということが成立するんだよね。ラカンとかでもよく言われるように不在ってのは存在があるということを前提にしなければありえない概念だよね。


ヴァイシェーシカなんかの外界実在論はまた実在における独特の考え方ってのがあるんだけどあんままぁなんたら学派みたいな感じのものの存在論ってのを持ってきちゃうとそのパラダイムにおける存在規定ってのがあって俺がやりたい存在規定の線引きと全然違うものであったりするからあくまで部分的に似ているっていうところに留まるんだけどでもまぁそもそも存在論ってのは色々あっても存在について語ることができるっていう言説の範囲は無限じゃないからどこかしらどことどれが似ていたりとかすでにどこで語られているものがどことリンクしているとかそういうことになるんだけどまぁそこを別に俺は文献がどうのってことじゃなくて勝手に色々と考えるってことなんだけどね、あ、んで何が言いたいのか?っていうとヴァイシェーシカなんかで出てくる「知覚できるもの」としての存在論と「死んだ息子」ってのは次元が違う話じゃん!ってことなんだけどそこがまぁラディカルなところでさっきの父と女生徒(笑)の存在のフェーズというか位相と同じでこれもまた本質的には同じなんだよねっていうのがそれは本質なんて存在しないという意味での本質って意味でなんだけどね。


まぁそのままサルトルみたいになっちゃうけど幻想かどうかはともかくとして例えばフロイト的なヒステリーの分析のやり方としてその患者の不安神経症が実は性的欲求が満たされていないというその欠如によるものだみたいなものもあったりするじゃん?なんでなんでも性なの?って批判されがちだけどそういうことじゃないんだよね。たまたまフロイトの場合やたら性ってことに結びつけるpansexualismだって言われがちなんだけどそこがそもそも間違いでフロイトの場合、そのdriveとするものに性関連のものが多かったというだけで人間はそもそも根源的に生存欲求という意味での欲求を抱えているっていう意味でその時点ですでに欲求が存在してしまっているからこそ欲求の不在もまた存在することになってしまうっていうアンビバレントな感じがあるっていうことなんだよね。


そりゃ食欲があればそれが満たされないという欲求の不在ってのが成立しちゃうよね。で、そこでリアルってのを考えてみてほしいんだけどさ、よくリア充って言葉があるけどこれも存在の位相としては父とか脱糞女生徒と同じ次元なんだよね。つまらないリアルというのがあるけど充実してる風に見えてたりそう見えるように腐心するツイッターとかフェイスブックってのがある中で過剰に演出されていてなおかつ日常のファジーな部分っつーかクソみたいな部分は一切見せないというところであたかも仮想現実が成立しちゃってるんだよね。パーリーピーポーだってクソみたいな日常を生きてるわけでしょうっていうか日常がクソだからこそお祭りで満たそうとするわけだよね。そういう意味でニヒリズムとか虚しさそのものと隣り合わせだからこそお祭りってのは存在するわけだよねっていうかまぁハレとケの話だよね。パラダイスガラージの話でだいぶ書いたからそれは繰り返さないけどね。んでまぁそういうリア充だと思わせるようなっつーかまぁ思わせるという意図が無いにしても勝手にそこだけ切り取ってそれをその人の生活と勝手に認識の中で色々と補完して自分のクソみたいなリアルを比べるっていう言わばヴァーチャルとリアルを比べて自分のリアルに落胆してるみたいなとんでもないことってのが起こるわけだよね。


ってことでまだ続きますので。んじゃまた。