ヴァーチャル系の話。その13。

では続きを。


あ、んでそれが現実を変えるっていうよりかは現状を変えるっていう意味でテクノロジーっていうものはそりゃ存在しますよねっていうか存在論の次元じゃないんだけど例えば電話って技術なんであって存在じゃないよね。でもそれがあることで現実が変わるわけだよね。まぁ電話なんてあるのがデフォだから無いなんてことがありえないんだけどさ、まぁでもそれ言い出したら原始時代なんてなんもないわけでね。あ、んであれあれディスりすぎかもしれないけど佐々木中ルジャンドルに依拠して言ってるデータベース的なものの批判とかさ(笑)まぁなんだろう、東浩紀への私怨なのか分からんけどまぁ本当に的外れだよね。


まぁんであれなのよね、まぁこの佐々木中の話っつーよりこの佐々木中的なさっきの「なんでも今は機械ですが」的なナイーヴな批判ってなんにでもあるじゃん?まぁこういうのってまぁ乱暴に一括で言っちゃえばそのさっきのカムイ伝の話と一緒なんだよね。現実がそうなっているということに批判もクソもないわけよね。結局佐々木中的な話ってアナログ回帰みたいなノスタルジーとかロマン主義だよね。近代的なものを批判してプレモダンなあり方ってのを再評価する的なさ、それってまぁぶっちゃけ電話が無い時代のほうが良かったとかっていうようなもんなんだよね(笑)


っつーか哲学とか文系のものってのをそういうところに埋没させたら終わりですよ。そういうんじゃなくて今の時代との相互作用とかさ、今の時代においての哲学とは?っていう常にアップデートされてるものっていう論の置き方をしなきゃいけないよね。データベース系の話を持ってくると哲学とかそもそものテキストっていうものの様相が変わってきちゃうから面倒なのは分かるけど現にそうなっていて知覚のレベルでエクリチュールへの感覚が変わってるわけだからさ、それをプレモダンに戻ってなかったことにするなんて無理だよね。


まぁデジタライズせよ!っていうとなんかダサいけどさ(笑)任意でいくらでもレベルの高い講義がタダで見れるっていうこととかまぁ知に関する伝達のレベルが変わってるわけでようは今のIT化っつーと陳腐だけどまぁなんでもオンラインで基本オッケー的な感じって本自体へのアクセスが限られていたっていう時代から本ってのが誰にでも読めるような時代になったっていうぐらいの違いがあるわけよね。だからそこでなんつーか変に迂遠な無駄な難解さを保つことで権威を保とうとするようなダメなベクトルっつー属性を含むんだよねそのプレモダン的な感覚って。


まぁでも基本的にこないだ書いたすきやばしの話と同じで色々と話はあるけどまぁあの職人っていうシステム自体に実は合理性があるっていうね、そこがまぁ真にesotericなところではあると思うんだけどようはさ、文献とかにおいて例えばまぁすげーぶっ飛ばして一気になんかを脳に接続して本の内容を理解とかってことが可能になっちゃったらっていうかまぁそれは脳の処理が追い付かないとか色々なことがあるにしてもまぁなんつーのかな?


学問の威厳みたいなのをインプットが面倒とか大変とか時間がかかるからっつってそれですげーコストがかかってるんだ的なそういうところに落としちゃいけないんだよねっつーかナイーヴなプレモダンなのだ!みたいな言い方ってそういう意味で貶めるやり方なんだよね。本当の意味で人文系の価値を抹殺するようなやり方だよね。だから本人は「文学万歳!」っつーつもりでやってても実際は根絶させてるっていうね、やっぱり花は美しい!って言いながら花壇で枯葉剤撒いてるようなもんだよね(笑)


まぁようは価値って常に発見されるものなんだよね。例えば今の俺がドイツ観念論とかを読もうって思うようになるのもオントロジーをよりディグろうとしたり歴史を知ろうとしたりっていうこともあるし考えるうえでのアクチュアリティがあるから全然関係なさそうな拡張現実の話とリンクするから勝手にこの現実ってのがすんげー過去のもんにリンクしてくるんだよね。それは謳歌することで生まれてくる価値なんじゃなくて概念の普遍性なわけですよ。なんでリンクするのか?って根源的な存在論ってことを扱ってるからだよね。別にテキストに価値があるからっつって読むもんじゃないわけよ。


んでも結果的に過去のテキストの価値を認めざるを得なくなるんだよね。あ、んで話を戻すとデータベースっつーか情報がすんげー簡単に手に入るってことの大きさってのはようはまぁ結局すんげー単純化すれば電話があるかないか?みたいな差なんであってね、それ自体がどうのって話じゃないってことだよね。だからまぁなんつーのかな、そりゃなんでもツイッターに上げられるとかさ、結局まぁネットがインフラ化したことで相互パノプティコン化がより進んで生きづらくなったっつーか窮屈になったっていう側面はありつつもまぁすげー安全もあるんだよね。あとなんか変なことをするとすぐ晒されるから下手なことをするとすぐそれが拡散してしまうっていう情報エントロピー革命ですよね(笑)


批評するときって負の面ばっか上げがちなんだけど絶対恩恵受けてんのよね。あとまぁ直接的に使ってないにせよ広義な意味で恩恵を受けてるっていうかそれがあるから例えばすげーコストカットができてることで経済的負担が減ってるみたいなことも含めてだよね。だからまぁそのテキストがどうのってすんげードメスティックな話で別にそんなもんテキストに限らずなんでも色々変えちゃうんだよね。でもまぁそういう意味で意味って変わってくるしそこでまぁ結局俺の言いたい存在論も変わってきちゃいますよねっていうことになるんだよね。


結局データの伝達が活発になるってぶっちゃけ観念がより世界を回るってことになるんだよね。ようはつぶやきみたいなあってもなくてもいいような観念でもそれを発話したいっていう欲求からそれが発話されるってことが観念の発露になってるわけじゃん?で、半永久的かどうかはともかくとしてネットに刻印されるんだよね。で、それ自体が力を持つとか権力を持つということではないんだけど観念的なものってのがより具体的なデータとして伝達しやすいっていうまぁなんつーか跳ねやすいっていうのかな。バウンスしやすいというかなんというか。


そこで発話される観念に存在論的な厳密性なんてないんだよね。真理のレベルで何かを述べるなんてのは相当難しいし何をもって真理とするのか?って話だしハイブローかローブローかってことが真理のレベルを表すわけでもないしね。結局まぁね、こないだ書いたイロニーとしての恋愛ってまぁ結局これなんだよね。確固たる自己なんてものはないわけだし立ち位置なんてのもないから視点として常に批判的でなおかつアイロニカルで自己を相対化するっていう視線がデフォになるよね。


そこの戯れってのが恋愛でまぁ文学での戯れってのがイロニーなんだとすれば恋愛も恐らくそうなんだと思うんだよね。でもそこはなんつーか感覚的に事象とか日々のこととかもあたかもエクリチュールに接しているかの如く解釈したりするんだよね。属性はただの現象であったり自分の人生っつー主観だったりするんだけどそれを「書かれたもの」みたいに解釈するモードもあるっていうことだよね。そういうのを読みながら常に自己生成を続けるってことだよね。


ってことでまだ続きますので。んじゃまた。