「何」が何でもないというね。

これなんだけどさ

 

https://www.gamespark.jp/article/2017/04/11/72668.html

 

これだよね。基本的に。「何なのか?」っていうのがなんでもないっていう、この不毛なレベル上げを不毛と言ってしまうのは簡単なんだけどようは「何なのか?」の「何」の部分がなんであれなんでもないんだよね。昨日久々にCODやる気が起きて色々やってたんだけどすぐ飽きるよね。んで評価が微妙なんだけど久々にやりたかった鉄拳7をダウンロードで買ったんだけど実際微妙だったけどこれも何なのか?って鍵かっこつけるの面倒だからもうつけないけど何の部分の何でもない部分なんだよね。

 

それが神ゲーの場合、一時的な高揚感を覚えたりとにかくハマるっていう意味で時間の強度はあるんだけど結局強度ということを見るとサステイナビリティって絶対ないよね。飯にしても食ったら終わりだしまぁでもこれは意味なくないけどね、でもまぁ高揚感は続くし何より欲求を満たすってのは快楽があるよね。んでもんじゃあ帰って何やるか?っていうと何もないんだよね。

 

やることは腐るほどあるんだよね。中途半端に色んな本とかやりかけのもんが残ってるんだけどこの何なのか?ってのに囚われるともう何も手につかないっつーかさ、そこで思い出したのがっつーのがこないだ書いたカフカの城とあとサルトルの嘔吐なんだけど両方中途半端に齧ったままで読破しきれてないから改めて買ったんだよね。英語のやつとか城もオーディオブックあるんだけど全然聴いてなかったし。まぁ城と嘔吐を同等に語る必要はないし今読んでる最中だから色々書くのは読んでからにして城のあの出られない感じと役割が果たせない感じと・・・ってまぁあの場末もいいところみたいな集落にいるような気分にさせる環境ってのもあるんだけどあれってようはただの比喩なんだよね。衣食住完璧でも常にああいう状況に主観があるっていうかさ、それが物理的なものに規定されないんだよね。

 

こないだアニメ映画を見た虐殺器官で誰かが地獄は頭の中にあるから外が地獄だろうが天国だろうが関係ないっていうさ、ピザ食いながらアメフト見てる時でも戦場にいるときでも変わらないんだよね。さっき城について役割が果たせてないって書いたけど別にこれって関係なくてさ、なんかやっててそこそこ上手くいってる人でもふと「これでいいのだろうか・・・」って考えたりすることもあるわけじゃん?状況とこれは関係ないんだよね。自分の能力を活かせるような仕事なんて滅多にないっつーかこれはゲーム化する社会だったか本の名前忘れたけどって今調べたら「幸せな未来は「ゲーム」が創る 」だったね。ペーパーバックで読んだから原題はreality is brokenなんだけどマジでリアルは壊れてるよね。

 

カフカの城的な不条理っつーか全然あれって不条理じゃなくてリアリティだよね。そういうリアリティの中で寒々しい集落にも端末はなぜかあってオンゲはできるっていうみんなそんな状況でしょ。仮にリアルが充実しててもふと間が指すとこの城の城下町っつーか城のどうしようもない感じに主観が転落するんだけどそれって主観が転落してるんじゃなくて冴えた精神で現実を見れてるからこそ芽生えてくる感覚なんだよね。ようはそういう感覚が鋭いからこそ本質を見抜けちゃうっていう、まぁここで言う本質ってまぁ中身っつーかアクチュアルなものって意味なんだけどね。

 

嘔吐のロカンタンが色々ある意味どうでもいい好事的な研究をやりつつ「あー今日も意味ない一日だったなー」とかって思って酒を飲もうとしたり女将とやろうとしたりまぁ女将とやれる時点で全然いいじゃん!っつー話なんだけど(笑)サルトルの嘔吐の感じはゲシュタルトが崩壊した、かといっても精神的に参ってるからそうなってるんじゃなくて精神が冴えてるからこそ感じられる嘔吐っつーさ、ゲームやった後にそれがキャンペーンとかシナリオだったらある意味映画見たようなもんでそれってまぁ連続ドラマ見るようなもんじゃん?

 

そういうのを日常的に数時間やるっていうね、でもそこでオンゲーっつーそりゃ良いものもあるし楽しいものもあるんだけど終わりがないからこそレベルカンストしたところでどうなの?って話だしプレステージしたところでどうなのよ?っていう何しろそれってヴァーチャルなもんじゃん?ってことを言いだすとゲームの否定になるってこないだ書いたけど、意味なくはないんだよね。不毛でもない。でも本質的に不毛なんだよね。何をやっても吐き気を感じずにはいられないっていうそもそもそれが何なのか?とかやったところで何になる?っていうのがね、それこそそれが社会的スキルとか実益に結びついたところでそれってまぁ前にも散々批判したけどなんでも実益に結びつけようとするっつーのがある意味考え方ってのが金の奴隷になってるってことなんだよね。

 

でもそういうのから解放されるとっつーか仮に解放されたとして何をする?っていうとまぁ欲求を満たすってことになるんだけどその欲求をね、俺みたいな好事家が満たし続けてきた先にあるのは無っていうね、で、散々ゲームとか好きなことやってるくせになんか満たされなくて「はぁー・・・」って感じになりつつ眠くならないけど寝ないとダメな時間だから最強の睡眠カクテル飲んでちょっとラリって寝るっていうね、むしろこの寝る前のラリってる時間がむしろ色々忘れることができて体感的にはハッピーだっつってもそれがすげーヤバいハッピーなんであってね、良いもんじゃないよね。村上春樹師匠って尊敬って意味じゃなくて落語の師匠って意味で春樹師匠がよく出してくる寝る前に飲んで寝に入るまでにちょっとの時間酔っぱらいながら本を読んだり映画を見たりっていうささやかな時間が好きだとかって書いてるような意味での寝る前のリラックスとかならいいと思うんだけどね、んでまぁアスパラでも食べながらとかね(笑)

 

「やれやれ・・・」とか思いながらも美酒に酔いながらあんまカロリーが高くないおつまみを食べながら本を読むとかそれはいいと思うんだけど実存の深みのレベルって「やれやれ」じゃないよね。心の底から出てくる深い溜息っつーかそれってため息にすらもならないんだよね。固まっちゃうっつーか体が浮いたような感じになってなんなんだなんなんだ?のループになってパニックになりつつでもパニックにはならないんだよね。正体が結局何なの?っていう何ってのがなんでもないっていうところから来る混乱だからね。それが分かってるからパニックにはならないわけよね。

 

あ、んでそのゲームの話に戻るけどゲームってのはまぁ良い面があるっつーかよくテレビの特集ではネガティヴに報道されやすいけどあれにハマりやすいのって例えばゲーム内ではグループのリーダーであるだとかさ、裏表のない良いフレンド達と遊べるみたいな、結局は人間が根本的に求めるような理想的な人間関係が少なくともリアルよりかは構築しやすいからだよね。でもそこでリアルでそういうものを構築できないのが果たして負けなのか?っつーとそうでもないでしょ。そこに差別があるんだよね。

 

リアルで友達がいっぱいいて・・・ってのがステータスになるとかSNSだとかなんだとかってのがまぁその最たるものなんだけど別に直接会うってことが友達ってことでもないしこれはいつも書くけどリアフレっつってもなかなかそんな深い悩みを打ち明けるとかってできなかったりするじゃん?まぁそこまでの友達がいればいいけどそこが不思議なもんで会ったことないけどたまに連絡取り合うみたいなネットっつっても匿名っつーよりかはほぼリアルにただ場がネットとかメールっていうところで繋がってるっつーかまぁやり取りする友達っているわけでしょ?

 

SNS映えはしないけど(笑)逆にしょっちゅうバーベキューとかやったりなんかしてSNS映えするような友達がいっぱいいてもそんな深い悩みを共有できるような友達がいるか?っつーと別だし、そこでまぁネトゲー廃人とかって極端な例で家賃2万ぐらいのトイレとかが共同なところで永遠とネトゲーやってるみたいなそういうリアルの惨めさを強調するんだけどあれって別にその人の経済状況とかっていうことから左右されてる環境なんであって実際やってることは同じでも金持ちの実家暮らしで小奇麗で家の立地も良くてたまに出かけたりもするけどネトゲーやってる時間が多いみたいな人とどんな差があるか?ってただの経済格差だよね。やってることは同じなわけだからね。

 

小奇麗で良いところに住んでて友達いても別にそれとは別にネトゲーやるわけでしょ。もしくは山田孝之がインタビューで言ってたけどボイスチャットでお疲れーとか言いながら声で乾杯して一緒に酒飲みながらゲームやってるとかね、オフ会ってのに憧れてっつーかまぁこれはリア充がオタク趣味に憧れるっつー類のものだと思うんだけどまぁオフ会してあとは戦場で!っつって最終無くなる前ぐらいに家に帰って続きはオンラインで飲み会の続きをやるっていうまぁリア充っつーか惨めじゃない人の場合、使い方がエレガントに見えるけどやってることは同じゲームだからね。

 

それが何なのか?っていうと何でもないでしょう。友人と和気あいあいとやってるから意味あるっつーのはゲームっつーのを媒介にした人間関係だよね。小藪だかが将棋強いのも芸人の先輩に将棋を通してかわいがってもらってたなんつーのがあって将棋の腕を上げたらしいけどまぁ将棋っつーのを媒介とした人間関係じゃん?これって。もちろんそれは芸人の先輩とやるっつー意味で実益なんだけどでもやってることはゲームだからね。将棋はなんとなくステータス高い感じがするけど将棋について色々調べると結局時間の無駄だと分かってやめたとかさ(笑)んでもそれ言い出すと全部時間の無駄なんだよね。

 

何でもかんでも実益ってのを中心にまぁようは何かしらの形で金になるものっつーのをベースに考えてたら仕事関係のもの以外は全部無駄でしょといっても意味がないとか無益という意味ではない客観的な無駄って意味だよね。格闘技やるにしても色々とエクスキューズはあるだろうけど基本まぁ無駄だよね。使わない技術学んでるわけだから。いや、無駄じゃないんですよ。それ自体が楽しいわけだからね。俺も何回も書いてるけど今は棒術とか警棒術とかシステマがマイブームだからやってるんですよね。単純に面白いからね。

 

でも何ってことを出すとなんでもないよね。使わないわけだしまぁ練習は運動になっていいっていうような考え方もあるけど基本無駄だよね。まぁそれ言い出すとランニングとかも無駄ってことになっちゃうか。まぁ無駄じゃないんですよね。でも走るって何なの?ってことを考えると何なの?っていう地獄のループに陥るよね。体の維持とか分かるけど体を維持して何をするのか?っていう何があいまいなまま生きてるわけよねっつーかそこをよくそこが気になって狂わない人がいるのはなんでなのか?ってことを言うと大抵の人はそこまで物事を深く考えないっつーんだけどそれがそうなんだとしたら深く考えすぎるってのは一種の病理だよね。

 

深く考えるほうが高尚な気がするけど結果的にそれで病んでたりすると全くそれこそ意味がないってことになるんだけどでもそこはソクラテス的なThe Well Examined Lifeなわけですよね。かといってもそれは安易にポジティヴ心理学とかに結びつくようなもんじゃなくて病むものであってもそのダークネスと向き合って逃げないってのもExamined Lifeだと思うんだよね。

 

俺はそこから逃げないようにしてるわけだよねっていうか逃げようと思っても相性が良すぎるのかいつも引っ張られて戻ってきちゃうんだよね。結局それって逃げられてるとか考えずに済んでいるっていう時間がようはただそういう色んなことで紛れてるだけで剥き出しの実存がそういう紛れているものが無くなって顕著になるとまたその無と向き合わなきゃいけないっていうね、でもそれって仏教的な観念的な無ではなくて身体とかリアルってのを介在したいろんなものが媒介になって複合的になった上での無だよね。まぁようはさっきロカンタンの生活で書いた自分なりに好きなことはやってるけど「あー今日も一日無駄だったなー」なんつってとりあえず酒、んであとセックスみたいなね(笑)

 

ダラダラとトランプやってんなー何のためにやってるんだろう?っつーと結局は時間を埋めるために違いないって思ってもそれは永遠に埋まらない時間っていうさ、図書館に行ったりしても新聞とかが置いてある階に行くと人生を持て余した老人が大勢いてなんか調べ物をしてるならいいんだけどすんげー低俗なスポーツ新聞とかっつーかスポーツ新聞が低俗なんじゃなくてゴシップとかも含んだようなしょうもない類の新聞を読んでたりして吐き気を感じずにはいられないとかって思っても基本的になんでもそうなんだよねっていうのがオンゲーだろうがリアルで充実した時間だろうがなんだろうが結局は時間と共にその時間も体験も無くなるからね。いや、だからこそ強度のある時間が重要なわけで逆にそれが低俗な新聞だろうがオンゲーだろうがセックスだろうがそれを感じられればそれはとりあえずいいのよね。

 

んでまぁそんなダルンダルンな世界というよりかは実存ってのを生きてる中でロカンタンがジャズのレコードを聴いてて最後の和音が鳴り終わった後に吐き気が消えた!っつーシーンがあるけどこれって芥川の蜜柑の例のシーンだよね。芥川もダルンダルンの実存を生きててんでも一瞬そのダルンダルンさが無くなった!っていう瞬間があったりもするっていうことだよね。孤独のグルメの原理もこれだよね。飯食う時ぐらいは自由で有意義であっていいはずだ!っていう意味であれが海外とかにも翻訳されて海外にも通じるのは基本的に扱ってるのが実存だからってところがあると思うんだよね。いや、全然的外れかもしれないけど(笑)俺はそう思うんだよね。

 

そこをあそこまでエクストリームに飯で実存をあぶりだすっていう実存の空虚さを逆説的に表してるよね。んでもまぁそこでトーンが暗いと受けないから小金持ちの独身貴族の道楽っていう趣にしてるんだけど少なくとも自分にとっての最近の飯を食うっつーか旨いものを食べようとして食べるってのは孤独のグルメごっこというよりもダルンダルンの実存で一瞬だけ吐き気を忘れる瞬間ってのが必要でそれを渇望してるっていうところにあるんだよね。それが昔は音楽とか映画とか本とかで得られてたけどそういう方面をやり過ぎるとそういう新鮮さみたいなのも無くなってくるわけよね。

 

まぁ昔は思想なり数学なりやってると「おお!」っていう瞬間が訪れてそれが強度になってたりしたんだけど色々やり尽くすとそういう発見って無くなるよね。ある意味全部自明になっちゃう。まぁ興味がない分野については無知なままだけどね。調べようかな?って思うような分野に関しては調べ尽くしちゃうってことだよね。かといってもディティールを全部覚えてるみたいなことではなくて大体フレーバーが分かるってところでなんかつかめるとそこで満足しちゃうんだよね。

 

あとまぁいつも書くけど基礎やってあと理論になると理論のための理論になるじゃん?経済学とかにしてもなんたら論が正しいのか?とか実際の経済ってのは別にしてガチガチの理論ってのが勝手に歩きだしてまたそれが色んな評論なり思想ってのを生んで・・・っていうでもそこで実際の経済どうなのよ?ってことになるとまた応用となると別ですよねー的な、別に応用できることが全てじゃないしそれ言い出したら数学もそうなんだけどそこでまぁ思想もそうじゃん?

 

仮にそうだとしてでも一人でどうにもできるもんじゃないし大衆ってところを考えると政治やら社会ってことも含めてまず無理でさ、馬鹿にしてるわけじゃなくて無理なんだよね。希望を持ちたいのは分かるんだけど構造的に無理ってことがある。んでもそこもまぁ研究するってことになるとまぁ社会変革を目指して!って大義名分はいくらでも掲げられても例えばグラムシの革命理論の研究なんつってもまぁそっから変革が生まれることはないわけだよね。逆にあとまぁ理論ばっかやり過ぎて実践はないみたいなこととかさ、かといっても運動することで別にどうにかなるわけでもないしっつーまぁ例の何かってのの何ってのがなんでもないっていうところに行きつくんだよね。

 

アパシーとか脱政治とかとは違うんだよね。革命は無理でも革命を求めるっつーメンタリティはそのままなんだよね。ただ他の何かっていう要素が必要になったときに自分だけじゃどうにもならないことを求めても無理だし不毛だからそこはやめましょうっていうことでとりあえずリーサル武術と思想の実践ってことになるよねってのが今の俺ですよね。まぁんでさ、あとなんか「はぁー・・・」ってなるところでそれはなんでもそうなんだけど自分に何かが無いからこんな風になるに違いない!って思いがちになるじゃん?そこで彼女を作れば変わる!とかさ、でも彼女がいる側の意見を聞くとこれはこれでまた別の「はぁー・・・」があるっていうね、まぁただ何事も経験だから経験は必要だからそこは修身だと思ってやればいいんだけどね。セックスしてないからこんな満たされないんだろうなって思ってもセックスしてる側から見ても満たされなくて不倫しちゃうとか虚しさを感じちゃうとかさ、独身貴族か結婚か?っつー議論でよくあがるよねこういうのって。

 

結婚しちゃった側から見ると独身貴族が金使えていいよなー時間使えていいよなー自由でいいよなーってことになるんだけど独身貴族から見ると仮にまぁかなり孤独な場合だと結婚自体に魅力を感じるかはともかくとして彼女いるっていいよなーとかって思えるんだけど基本的にこれって本質的に実存が持ってる空虚感ってのを何かに投影してそれが無いから自分は満たされないんだって思っちゃうっつー錯覚なんだよね。だから仮に何もかもが満たされても満たされなかったりするわけでしょ。

 

まぁんでミニマルライフっつーのはそれがあってそうなるんだよね。億万長者が何もかもを得た上でミニマルになるっていうところに喜びを感じるみたいなことだよね。まぁでもそのプロセスを踏まないでいきなりミニマルになってもダメだとかって前に書いたけどでもこれってようは億万長者ですらも何もかもを得てもそうなるなら別に最初からミニマルでよくね?っていうような考え方でもあるよね。究極的に合理的だよね。

 

んでもなんか怖くない?何もない部屋にVR装置だけあってそこで生活してるってギメルの千年王国と同じじゃん!っていうさ、んでも仮にオタクグッズだらけの部屋でも実際には存在しないものを崇拝するなりモチーフにしたものに囲まれて暮らしてるわけだからそれもまぁ言わばヴァーチャルみたいなもんだよね。かといっても何がアクチュアルか?ってそれなら美術品に囲まれて暮らしてればいいのか?ってそういうことでもないしね。まぁだから全部一緒なんだよね。

 

基本実存で周りのものはただのオプションなんだよね。まぁでもそれにこだわったり好きになれればそりゃ最高で例えば車とかバイクとかアンティークとか家具とかなんでもいいんだけどなんでそんなもんに金かけるの?って言われても好きならそれでいいんだよね。少なくとも吐き気はそれで抑えられるなら最高の吐き気止めでしょう。ショーペンハウエル的な消極的な幸福論ってことになるといかに苦痛から自由になるか?っていうことが幸福っていうことになるんだけどそれで言うとそれと同時にいかに吐き気を止めるか?っていうところでもあるよね。

 

でもそれはいつも書くようサステイナビリティが無さ過ぎるんだよね。ずーっとうまいものを食ってセックスできればいいかもしれないけどそうもいかないだろうし食ってばっかじゃ太るだろうしんでも結局俺の趣味と一緒でやり尽くすと飽きるかもしれないわけでさ、洋服とかもそうだよね。ずーっと買ってると買うの無くなるよね。あと結果的に似たようなの買っちゃってあんま意味なかったとか、まぁそれはなんでもそうだと思うんだけどね。まぁーでもフィクションってなんであんなにカタルシスがあるのかな?って考えたときにさ、あ、別に嘔吐とか城がフィクションってことじゃなくて最近はとにかく欲望を満たして果てまで行こう!って思ってるからAVとか買いまくってるんだよねっつーかダウンロードめっちゃ安いよね。

 

ツタヤも一か月見放題ってのに入ってみてラインナップがクソだったからすぐ解約したけどとにかくもう見たいものを見まくったよねって普段も見まくってるけど無料動画とかで上がってるやつを今日のおかずみたいな献立にしてるわけじゃん?(笑)でもダウンロードだと特にちょっと昔のだとすんげー安かったりするんだよね。300円とか500円とかレンタルか?っていうぐらいの値段でダウンロードできてなおかつものにもよるけどその販売してるサイトが終わっちゃったら見れないような類じゃなくて動画としてダウンロードできるんだよね。ただで見られるやつだけでも色々あるにせよ俺ぐらい極めると本当に見つくしちゃうんだよね。

 

だからもっと見つくそう!と思ってAV買いまくってるんだけど最近だと規制がアレで無理になってるってのもあるのかもしれないけど2000年代前後の露出モノってすげーカタルシスあるよね。

 

やらせじゃなくてマジでやってるっつー実質的に犯罪ってものも一昔前は普通に撮ってたわけじゃん?んでまぁそのまさにロカンタンの吐き気が止まるような瞬間ってのを露出にも感じるんだよね。相当倒錯したセックスでも長年見てれば慣れちゃってそれが当たり前でもはや変態という概念すらも無くなるんだけど無料のやつ中心だと自分の性癖中心に検索するからいつも見るのが同じようになるっつーかまぁそれはそれでいいんだけどツタヤのAV見放題とかで色々見たんだよね。んでまぁ露出いいなーと思ってさ、でも別にそれで抜くわけじゃないんだよね。

 

ただまぁなんつーのかな、裸になるってだけであんなに開放感があるのか!っていうつまりは雁字搦めになってるってことだよね。あー露出やってる人いるなーって露出が合法化されたらどうなるんだろう?って思うんだけど結局そこも何かの何は何でもないっていうのに行きつくのかなっていうかまぁようは仮に大麻とかが合法化されてもまぁあれは体験として素晴らしいしインフラみたいなもんだから酒とかと同じだけどさ、露出も普通にできるようになると飽きたりするのかなー?って思うよね。バタイユじゃないけど禁止されてるからこそそこやっちゃうのか!っつーところで興奮するっていうところはあるよね。それ言い出すとJKとかとセックスするのも合法化されたらそんなに燃えなくなるのかな?って思ったりね。

 

まぁでもその吐き気が止まるってまぁそのロカンタンのそれは具体的な胃からオエッと何かが出そうな吐き気ってことじゃなくてムカつきとかdisgustingってことなんだけどそれがまぁデフォというか、カフカの城なんかは感覚的に分かるーって人しか共感できないようなサルトルの嘔吐じゃなくてもう誰もがおぞましく思えるような悪夢ってことじゃん?んでも人って常にそういう中にいるんだよね。ただ気がつかないだけなんだよね。んでも別に気がつかなければそれでいいんだとは思うけどね。でも気がついちゃった人はもう一生抜け出せないでしょう。

 

吐き気止めとしての至高な瞬間!ってのもサステイナビリティとは相反するものだから何かをサステイナブルにしようと思うとそれこそ宗教がかったポジティブ心理学とかポジティブシンキングになるしかないんだよね。自分は可能性の塊だ!とかね、まぁただぶっちゃけ考えようって意味では勝手に勘違いして勝手に燃えて行動するってほうが楽しいしそこは自分の能力を見限る必要はないんだよね。まぁ逆に俺は何でもできる!って思ってるからこんな色々と手を出すわけでね、なんつーかその実存の闇と消極性って違うんだよね。俺はむしろすげー能動的な人間なんだけど存在するって言うこと自体がデフォで消極性を生み出すんだよね。存在が存在に対して無力なのは別に個々の能力性とかには規定されないっていうことだね。

 

っつーかあんままだまとまってないから今日はこの辺でいいやっつーか本の続き読みたいから(笑)んじゃまたね。