保田与重郎にハマる。その3。

ある程度保田の本を読んだりしたから同時に再読してる橋川文三の日本浪漫派批判序説の印象が昔読んだ時と全然違うっつーのは細かい話は置いておいてまぁ簡単に書くと保田は全然政治的な人ではないということに尽きるよね。もちろん文芸なり文化を批評したり述べたりするうえで政治にも言及したり政治と重なる部分があっても基本的にコアな部分って美学だったり価値観だったりするわけで、まぁ言わば本当に思想家なんだよね。ニーチェは政治的かどうか?っていうとポストモダン系の連中がやるようにいくらでも政治的な部分を持ち出して政治的に語れることはできてもニーチェ自体どうか?っつーととりわけ政治的じゃないでしょっつーのがまぁようはホッブズとかオークショットみたいなのと比較したときに同じ政治哲学だったりしても踏み込み方が違うじゃん?政治プロパーじゃないってことだよね。でもプラトンなんかを持ち出して政治を語ることはあるだろうけども。

 

逆になんかそれってこないだ散々書いたような偉大な思想家の批判をすることで鬼の首を獲ったような気分になるっつーか批判対象がデカければデカいほど遣り甲斐があるっつーかまぁ功名心というと言い過ぎだけどなんか橋川文三のもこじつけが多いような気がするんだよね。一生懸命書いてる感じが見え見えで保田を無理やり農本主義とかって規定するのは分かるっつっちゃー分かるんだけどそれは例えばニーチェキリスト教批判をしているアナーキストとかって定義するのが無理があるようにあえて定義すればそうなることもないけど言い切るのは無理があるっつーレベルのものばっかなんだよね。ようは言葉の上辺だけを取れば論理的にそうなるのかもしれないけどその背後にある思想を考えれば保田が言ってるのは農本主義なんかじゃないのは明らかだし米作りをして本来の日本人的な生産活動をしながら生きるべきだっつーのもようはそこがまぁ反近代的なんだよねっつっても保田の反近代は反近代なんつー簡単なものじゃないから反近代とか言うのにも抵抗があるレベルなんだけどね。

 

それが仮に「米作り」と言われていてもそれを至上なものとして中心に備えるべきであるみたいな思想なんじゃなくて何もかもが功利的で西洋的な合理主義に囚われていると日本人の魂が無くなるっていうような意味での米作りなんであってね、それはようは時代と共に呼び名が変わる米作りなわけですよ。それはまぁなんだろう、ヨーロッパのムーヴメントで言えばスローライフに近いよね。合理化を突き詰めればチェーン店とかになるけどそうじゃないだろうっていうね、そこで地域に根差した昔からある肉屋とか総菜屋とかそういう地域に密着したものを過去のその土地の人たちがやってきたように今の人たちもやるっていうようなさ、そこでまぁ例えばそういう意識が強いヨーロッパの人たちなんかだとそういう昔からあるような店を潰して国際資本のチェーン店なんかができるみたいなことになると反対運動をするわけよね。保田の精神もようはこれだよね。まぁんで日本っつーadhocなコンテキストで言えば当時は文献的な意味でもそれが米作りということが一番合致するということだったというだけのことで別に米作りに固執する理由なんてないんだよね。ようは民族的な生産活動と今で言えばグローバルなもんに対抗するようなグローカルっていうことだよね。

 

グローバリゼーションに対抗する!っていうのはまぁ非現実的ですよね。そりゃもう必然的な流れなんだからしょうがない。でもそこでローカル性というのとも両立するというような概念での一つとしてありうるのがグローカルでしょう。別にそれはグローカルのアクチュアリティという意味ではなくて保田はそういうことを言っていただけということでっつってもその背景に色々と文化的な文脈があるわけでそれで済ませちゃうのは安易すぎるんだけどでもまぁ簡略化すればそういうことになるよね。そういう生産活動を中心とした資本なり生産形態なりっていうのを大きいグローバルなものとか抽象化して言えば精神性が無いただの功利的な合理性ということだよね。そういうのに対抗する精神ということだよね。だからそれは別に全然農本ファシズムでもなんでもないわけで言葉尻を取ればそうとも取れるけど全然そんなこたーないわけだよね。

 

保田が国粋主義とか右翼のボスみたいに変に捻じ曲げられて言われるのもそういうことだよね。言わばそれは俗流保田批判みたいなもんで結局、橋川文三の批判もその枠を出ないもんだと思うよね。保田自体が言っていることと時代の流れとをごっちゃに考えすぎでそれは例えて言うなら結果論ってあるじゃん?結局こういうことがこういうことに結びついたんだって結果があるから意味付けができるみたいな後付けの理論っていうことだよね。でも保田の理論なり言説ってのは実際に保田が戦後にも修正も言い訳もせずに終始、言うことや言ったことにエクスキューズせずに言論の筋を通したっていうのも後付けで言えば色々と批判できるしなんとでも言えるけど保田が言いたいことそれ自体は時代の流れ云々関係なく完全に独立した思想だったということだよね。

 

それがもちろん時代の流れで政治に動員されたり結果的に戦争に加担するようなことにもなるでしょう。でもそれは二次的なもんなんであって本質じゃないよね。もちろん時代の流れで戦争に加担したり当時の体制に加担するようなものも書いてたっつーことはあるにせよでもそれは芯が強い作家なり思想家でも時代に沿ったものを書いたりもそりゃするだろうっていうようなレベルのもんなんであってそれが世に言われるような排他的とでも言えるぐらいの国粋主義なのか?っていうと全然そんなことないんだよね。

 

それがまぁ俺が言ってるそれ時代の是非はともかくとしてなんでも画一化されてなおかつ相対化されてしまうっつー世界の中で相対化されないルーツがあったり文化に根差した論理や合理性ではないものというのにナショナルな本質を見出すっつーのは俺が最近比喩的な意味も含めてロボアニメとかって言ってるようなものなわけでさ、それは悪く言えばガラパゴスなんだけどでもロボアニメってのはめちゃめちゃ日本というローカルなものでありつつ世界でも評価されるものだったりするわけだよね。鋼鉄ジーグがイタリアでウケてて映画化されたりしてるっつーことなんかにも見られるように日本ってカッコつきで「世界も視野に入れた」とかってビジョンでやってたりすると日本自体がガラパゴス化してるから国際感覚みたいなのが無かったりするじゃん?

 

んで結果、その「世界を視野に入れた」っつービジョンが結局はガラパゴスの所詮であったりして大失敗したりするんだけど逆に全くそんなものを念頭に入れないでガラパゴスを地で行くようなものが素でやっているからこそよく理由は分からないけどあるところで異様に評価されたりすることがあるっていうことなんだよね。それはもうその価値なり良さってのが内在化されてるからなんだよね。だから別にグローバルなんつーチープなものにすり寄らなくても素でやっていけば天然の良さってのがあるわけで、まさにそれは自然っていう意味での天然だよね。

 

そこにマーケティングどうのみたいなくだらない戦略性とかがないただまぁこういうロボアニメを作りましょうっつーめっちゃローカルな発想があって、でもそのローカルな発想なり今までのロボアニメというのも当然踏襲したロボアニメってのがあってでもそれが国際市場なんてのを意識しなくてもっつーか下手に意識しないことで世界で評価されたりするっていうでもそれはローカルだったりめちゃめちゃ土着的であるからこそグローバル性みたいなのを変に意識したものなんかよりもよっぽどオリジナリティがあって良い意味で異質で面白いわけだよね。そういうところに力があるっていうことでしょ。

 

保田が言う米作りってのはようはこういうことだよね。ローカルな伝統性とか地域性とか価値観に根差した生産活動をせよ!ってことに他ならないわけだよね。それは米作りと言われるから米作りに限定されるようなものではなくて保田が言うような日本的な生産活動と生き方っていうことなんだよね。それは結局は絶対的な相対主義の権化でもあるような、どこにでもマックがあってそれが国際資本かどうかはともかくとしてとりあえず資本力があるようなところが経営するチェーン店みたいなのに町全体が埋め尽くされててローカル性とか場所に根差した土着性なんかをどんどん上辺だけの合理性と経済性によって上塗りしていくっていうような文化の破壊があるわけじゃん?それに対抗する手段としての反近代なんだよね。だからそれは過去に回帰せよ!とかあえて便利なものに抗うべし!みたいなことじゃないんだよね。文化ってのをもっと考えろ!って言うところから来る反近代性なんだよね。

 

だからそれは古いものを称賛するというような意味での反近代性でもないわけだ。それをモダンな感覚でポストモダン的なものに抗えるものとしてプレモダンなものやプレモダン的価値観をポストモダン社会で実践するっていうような究極的な文化的レジスタンス活動なわけで、党派性があるような例えばそれを日本浪漫派はこういう宣言をするのである!って「日本浪漫派」としてのステートメントとするとそれは党派性が出てしまってイデオロギー臭さが出てしまったりするんだけどそこは党として宣言を出しているっていう党派性っていう属性を考えないとダメでそれを文字通りに受け取ってると結局は俗流の日本浪漫派批判とかになっちゃうわけだよね。でも精神はそんなところにあるわけじゃないんだよね。党としてステートメントを出すとイデオロギー的になりがちだけど例えばそこで保田というところにフォーカスすればそんな党派性に還元できないような重要な思想と精神性というのがあるわけだよね。

 

橋本文三の批判も含めて大概の日本浪漫派への批判ってのは上辺だけでしかないわけだよね。精神性や本質を理解してでもここがダメだっていうような批判ってのは実質的に全然なかったりするわけでまぁ今読んでるのは保田そのものというより批判の類とか評論の類が多いんだけどどれもこれも全く正鵠を得てないよね。そもそも伝統なりローカルなものとか代替が効かないかけがえのないナショナルなものというのを批判するなんてことはできないわけで、もちろんそれをどう政治的に利用するか?みたいな方便という面ではその利用法に批判はいくらでもできるけど伝統的なもののカルチャーの良さというのに本質的な批判はできないしやっても意味ないでしょうっていうようなものなんだよね。

 

それは簡単に言えばなんだろうね、アメリカのフロンティアスピリッツとかってまぁ開拓時代のスピリットってことでしょ?ネイティヴアメリカンの虐殺というのがあるにせよまぁアメリカの魂っていう意味で先人がフロンティアを開拓していったっていうのを伝統としてのスピリットとして置けばそれはまぁ伝統的概念になるよね。もっとも日本の伝統的概念ってのはそんな数百年の歴史のものじゃないわけでもっと根源的なものだよね。もしくはそれを根源的であったりファンダメンタルだと言えないぐらい現在にはそれが形骸化されていたり形式としては残っていても魂は継承されていないっていう意味でその魂を取り戻そうっていう意味での日本主義なり伝統主義だよね。

 

だからそれは歴史によって断絶されたものの復権であってしかも現代的な洗練された復権なんであってね、それを現代に活かしていこうっていう現代思想なわけだよね。だからそれは懐古主義なり古典主義なんじゃなくて現代思想としてのロマン主義ということなんだよね。だからこそそれがポストモダン的なものや行き過ぎた相対主義なんかへのカウンターにもなりうるって言うような、それをヘゲモニーとして考えれば強いカウンタヘゲモニーなわけで、それは文化ヘゲモニーーの樹立ということなんだよね。それは右左を超えたレジスタンス思想なわけだ。

 

これ以上の革命的思想はありえないだろうというぐらい保田的な文化的ヘゲモニー潜在的な力を持っているわけだよね。でもそれが潜在性に留まっているのはそれを文化的ヘゲモニーとして樹立するほどの力を持ち合わせていない国民の意識にあるわけなんだよね。真に憂国を思うならそれはこの保田的な文化的ヘゲモニーを樹立するということに他ならないわけだ。

 

それは日本的な価値観以外を一切排除するというような排他的なものではないしそれはまさにそれはインターナショナルなものなんだよね。それは他国でその文化的ヘゲモニーが樹立されたような意味での民族的な精神性が達成されたグローバリゼーションに対抗できるような価値観と文化というものに敬意を表することができるっていうような、インターナショナルなものなんだよね。個々の文化的ヘゲモニーの樹立の成立と文化的背景の違いはあれど、文化は違ってもそれが真にナショナルで価値があるものにヘゲモニーが樹立しているというところに価値観を見いだせるというような真にインターナショナルなものなんだよね。

 

逆説的に左翼が夢想するような世界革命っつーと語弊があるけどすべてが統一されるみたいなことがあるとすればそれは極めてナショナルなオートノミーでしかありえないよね。それがピラーとして世界に樹立していてそれが双方の価値観を批判したり侵略することなく個々がナショナルでありながらオープンに開かれた真のグローバルなものとして成立しているっていうような意味での世界の在り方だよね。

 

クリント・イーストウッドなんかは見事に映画の中でその文化的ヘゲモニーの需要さと世界の均衡を描けていると思うんだよね。それはイーストウッドが真にインターナショナルなナショナリストだからそれが可能となっているんだよね。そういうわけで真のナショナリズムってのはよく言われるような排他主義とかネトウヨ的なアホな俗流右翼とは大いに異なるものなんだよね。それはマジで究極的に左翼的であればそれは革命的で世界革命的であるからこそ必然的にそれはインターナショナルなナショナリズムに繋がるのと同じで右翼のそれも同じなんだよね。そこに右左も全くないんだよね。強いて言えば天皇の存在ぐらいだよね。問題になるのは。

 

まぁそんな感じですわね。まぁまた保田に関しては色々と書くかもしれないんでまた書いたらよろしく。んじゃまた。