ネットぶっかけ。

素手だと痛いらしいんだよね。矢掛けってのがあってまぁ右にハメるグローヴみたいなもんかなってあ、弓の話ね。あんで明けましておめでとう。今年もよろしく。


まぁそんな感じなんだけど結局出不精になっている俺は全部通販で済ませようと思ったんだけど矢掛けは手形とか手の寸法を細かく記入してそれに合ったのを選ぶらしくてその手間がめんどいのと通販で済ませるメリットがないなと思って直接買いに行くかと思ったら藤沢にあるんですよね。弓具店が。だからまぁ時間が取れそうな時に買いに行こうかなって感じですねっつっても駅から徒歩20分なんでなかなかだけどねっつっても毎日駅まで30分歩いてたことから考えると徒歩自体の耐性ってのがすげー高くなってるんだよね。あ、フォレストヒルズに住んでたころの話ね。


あと寒さとかもそうなんだけどありえない氷点下を経験すると耐性上がるよね。「まだあれよりマシだ」っつー感覚ができる。あ、まぁいいや。そんな感じなんだけどそんなにまぁ書くこともないんだけどね、ゲームはとりあえずDying LightとDeux終わったんだけどDying Lightは後半クソだったなっつーか何が怖いって落下死っていうね(笑)ミッションも飛び乗るやつとかがやたら苦痛でっつーかアサシンクリードもそれでやってないぐらいああいうの嫌いなんだけどFar Cryって反省したのか3から4になってからはだいぶマシになったよね。そうでもないか。まぁいいや。んでDeuxはマルチエンディングでまぁ知らんかったから当然バッドになったんだけどまぁこんなもんだろうなって感じだね。


あとまぁMadmaxをちょっとやったんだけどボダランみたいな感じとあとベゼスタのRAGEってあったじゃん?あれを足しで二で割った感じっつーかまぁもう発売から結構経ってるゲームだから別にゲームの解説とかいらないんだけどまぁそこそこ遊べそうな感じっすね。んでまぁあれなんすよ、Watch Dogs2やってるんだけどいやー高評価の理由が分かったよ!っつーか化けましたね!!って感じだよね。1の硬派な感じから一転してSaints Row的なクルー感というか映画のHackersみたいな感じだよね。んでなんか服のバリエーションが多いとか武器が色々あるとかその辺も昨今のクオリティの高いオープンワールド系のゲームを踏襲してる感じだよね。Watch Dogsの1は銃の感じとかが取って付けたようでイマイチだったんだけど劇的に改善されてて操作性がまた神がかってるぐらい良くて本当はハッキングのステルスでクリアしたほうがいいんだけど操作性良すぎてgoing loudで行きたい感じになっちゃうぐらいなんだよね。そんぐらい銃回りが良い。スカーフェイス的な爽快感があるね。


んでスナイパーがマークスマンスキルの最後のやつ取るとなかなかぶっ壊れ性能になるんだよね。スナイパーライフルの威力が上がるっつースキルがあるんだけどそれとまぁすげー高いんだけど全然ゲームの世界観と合わないんだけど対物ライフルみたいなのがあるんですよね。で、それだとヘリも一撃で落とせるし車も一発であとアーマーが硬い敵も一発なんだよね。これあるとなんでもできちゃうっていう(笑)


まぁでもあとドローンいいよねー。なんか現代的要素がそのまま出力されてる感じだよね。現実のものがよりSF的にエンハンスされてる感じなんだけどドローンもバギーも普通にあるしドローンなんてブーム感あるぐらいメジャーになったもんね。モノ自体がね。だからそれを使ってハッキングなりReconするっていうのがここがまたハイパーリアル感なんだけど完全にSFじゃないんだよね。むしろ現実に寄って来てるのね。経験値がフォロワー数とかだったりさ、前にFF15の話で書いた現実がリファレンスになってファンタジーなりSFが生まれているっていうところでその現実を生きている人たちが現実ではないヴァーチャルなんだけど完全にヴァーチャルというよりかはリアルをエンハンスした感じっていう2.5次元感っつーのかな。イメージ的にフラクタルなんだよね。自己相似のもんがどんどんハイブリッド化してハイパー化して現実になったり仮想のものとして出力されたりっていうでも次元としての断絶が無いんだよね。


でもそう思うとまぁなんでもハイパーリアルにこじつけちゃうとアレだけどアサシンクリードとかにしても過去の体験のヴァーチャルリアリティって設定だしゲーム自体がヴァーチャルを作り出しているというよりかは「この装置でヴァーチャルリアリティとして経験できるんですよ」って言われている機会をゲーム内で使ってゲーム内でさらにヴァーチャルリアリティとしてアサシンになるわけなんだけどここがポイントだよね。ゲーム内だろうが自分自身だろうがそこに差はないんだよね。結果的にヴァーチャルでアサシンを経験してるとか海賊を経験してるとかっていうところではゲーム内での自分がヴァーチャルの装置を使っているということとなんら変わりないんだよね。


まぁ強いて言えば精度の差だよね。ゲーム内の主人公はヴァーチャルっつーか全身で完全な現実としてそれを体験してるっていうレベルなわけだけどこれってもうぶっちゃけインターフェースとかテクノロジーの問題だよね。もうそんなに遠くない時代にそういう体験は可能になるし実際にVRとかでFPSだのアサシンクリードみたいなのをやるみたいなレベルになったらマジでそうなるもんね。それがそんな先の話じゃないのが凄いよね。だからこそその現実そのものが「いや、似たようなもんが近い将来できるよね」っていうリアリティを作り出してるんだよね。それがゲーム内でのリアリティの形成の生成になってるっていうね、で、そこでゲーム内的要素と現実的要素っていうのが相互的に関わりあって現実を作り出しているっていうかもはやそれがサイバースペース内での仮想空間とは言えないレベルになってるってことだよね。


ようは「もっと現実を見ましょう」とか古いタイプの人はこういうヴァーチャルなもんを一緒くたにして自閉的なリアリティとかって勝手に決めるけどそんな簡単なもんじゃないんだよね。実際にそれはテクノロジーと関係があってなおかつ生きるっていう主観的体験において無視できない体験を作り出しているっていう意味でもうそれはリアリティなんだよね。もちろんまぁ見たいものを見て見たくないものは見ないっていうまぁそもそもの主観自体が選択的で主観的で何を持って現実的とするのか?って相対化されてるじゃん?


そこがなんつーのかな?一部のオタクとかじゃなくて文化人やらラッパーやら色んな人がゲームやってるわけじゃん?GTA5があんだけ売れてるってのがまさに端的にそれを表してるよね。もはやゲームというよりかは一つのリアリティなんだよね。でもそこで描かれてるのって人間の面白いところだったり中年のおっさんあるあるだったりアメリカへの批評だったりとかすげー現実的なんだよね。なんだろう、よりオタク的というとよりファンタジー的とかってことになるんだとすれば現実的なヴァーチャルなんだよね。


それは完全にオタク的なヴァーチャルリアリティと拡張された現実っていうような現実に付随するようなヴァーチャルリアリティってのがそういうリアリティをリファレンスにしたヴァーチャルリアリティってことなんだよね。だからまぁぶっちゃけヴァーチャルじゃないんだよね。あと人同士のやり取りで起こりがちな笑えることみたいなすんげー細かいところが切り取られてヴァーチャルリアリティで再現されてるじゃん?まぁドラマとかの手法だしまぁそりゃ映画とかでもそうなんだけどでもやっぱり映画と違うのは没入感だよねっつってもあれか、完全にFPS視点での映画とかも今年公開されるやつであるしまぁもう何もかもが変わって来てるよね。


まぁそれでもなるべくリアルを充実させるっていうことには苦心したほうがいいわけですよ(笑)リアルあってのヴァーチャルがまさにユートピアなんだよね。リアルが終わっててヴァーチャルが逃げ場になってるとそれ無くなったら終わるジャンキーみたいになるから実存的な脆弱性が半端じゃないしそれは完全にアウトだよね。でもまぁ不可避的なことでリアルがファックアップしちゃったとかどうしようもなかったって場合にでもゲームあるから生きていけるみたいなのは実存的救いでもあると思うけどね。それこそ歩けなくなっちゃってもVRで色んなところに旅行できたりスポーツができたりすればそれは体感としてやはりヴィヴィッドなわけでしょう。


そういうところのフラクタル的な自己相似によって現実を生成していくみたいなことに意識的になるっていうところの実践ですよね。だから弓やろうってことになるんだよね。スカイリムで隠密弓プレイ楽しい!で終わらないんだよね。Far Cryでも弓プレイ好きなんだけどそんなに好きなんだったらやればいいじゃん!って話なんだよね。それがまさにヴァーチャルによってprovokeされているリアルだよね。弓の「ピュン!」って音いいよねーってのも最近書いてるオツなスナイパーライフルのコッキングの音とかっていう酒の肴になるような質感のレベルのフェティシズムでんでもまぁ現実には銃を持てないわけだけど弓もオツななんだったら弓はできるわけだからやるべきだよね。で、ヴァーチャルでやってるぐらいのレベルまで達するべきなんだよね。


洋服とかもそうじゃん?いや、Saints Rowをだいぶ昔にやってたときにそれは思ったんだよね。こんなに洋服買えたら楽しいだろうなーっつってゲーム内で色々洋服買って楽しむっつってもなんでじゃあそれをリアルでやらない?ってことになるわけよね。思えば服買おうって思ったのもちょうど一年前ぐらいにGTA5やっててGTA5内で洋服買うのが楽しくていや別に現実でもそれやれよって話になったっていう流れはあるよね。だからそれでまぁナンパもやれよってことになるんだけどこればかりは自分がコントロールできない不可避的なランダム要素というかまぁそれがいいんだけど人間の醜悪さっていうのはやっぱりあるわけでさ(笑)まぁようはリターンが少ないって話なんですよね。弓なら弓で極めれば弓術というリターンがあってってまぁそんな功利的な考え方に染まってるわけじゃないんだけどまぁただ恋愛って徒労だったり勘違いだったり脳内物質の暴走だったりするわけでまぁ完全にファンタジーだよね。実際のそのファンタジーが終わってファンタジーがファジーになっていって離婚するっていうカップルが当たり前のようになっているなかでもはや恋愛に幻想を持つことはできないでしょう。


むしろストレスとかいつか飽きるとか(笑)裏切られるとか嫌な思いをするとかそういうことばかりが過るよね。まぁそれが現実なんだって言われてもまぁそこって現実のファックな一面じゃん?それも乗り越えて女性をゲットするのが真のリアリストだって言われてもヴァーチャルリアリティがもはやヴァーチャルではないレベルになっている世の中でそれのただのone of them感はさらに増しているわけでしょう。だから外出する人も減るし恋愛する人も減るんだよね。快楽の代替をヴァーチャルでやってるか?っていうとまぁそういう面もあるだろうけどもはや代替じゃないんだよね。それがもう快楽になっているから快楽欲みたいなのが満たされちゃってるんだよね。で、あえて防護服とかつけないで地雷が撒いてあるマインフィールドを歩くようなリスクを冒す必要がないように自分が凄まじいダメージを受けるかもしれないということにコミットする必要がないんだよねっていうかまぁ強いられている場合が大半でんだからまぁそういうところからフリーになるっていうことこそが真の自由だと思うよね。


そういうフリーマインドから出てくる今の俺みたいなフローだよね。まさにフリーフローですよ!現実もヴァーチャルもソースがなんであれとりあえず自分が「これだ!」と思うものには余念がないというね、そこでの分別をしないということだよね。で、まぁ自分なりに現実でもそりゃ楽しい要素ありますよね。膨大に読もうと思ってる本があってんでハイパーリアリズムの一環というか実践としての弓ってのがあってまぁんでさらに武術的な身体性の追求と思索とかさ、リアルに何かを求めるんじゃなくて何をやるか?だよね。求めるというよりかは欲望して実践していく感じだよね。ただまぁやっぱり人間が絡んでくるとそれはそんな簡単な話じゃなくなるから難しいんだけどね。


まぁでもあれでしょ、億万長者とかが色んなもん売り払って煩わしい人間関係とかも断ち切って山で暮らすようになるとかっていうそういう境地ってことだよね。人間関係なんつってもビジネス絡みばっかで本当の友達なんていなかったりして・・・ってまぁそういう人は多いでしょう。人間関係も分からないよね。本当に。相手は「あいつには勝ってる」って思うのが良くてそいつと友達でいてその友達がよりステップアップすると嫌がるとかね(笑)ソーシャルメディア関係の醜さに端的に表れてますよね。古い言い方になるけどミーイズムというかさ、まぁヴァーチャルでのむき出しのエゴの発露ってことだよね。ただまぁどっかでも言われてたけど今がピークなんだと思うよね。だんだんとSNS関係のリスクとかもわかるようになってきて手を出さなくなる人も増えたりあと単純に知識の二極化とかで使いこなせないっていう人もいたりね、いや、まぁSNSなんてどうでもいいんですよ。マジで。今がバブルなだけなんだよね。


ただまぁなんでもデータ化されるということでネット化が進むってのはそりゃ当然だよね。ただ自分もそこで自己をネット化するのか?っていうのはまた別じゃん?そこはまぁ任意になってて大半の人はただ利用するだけで自分をネット化しようとは思わないでしょう。まぁあとネット化してもロクなことにならないとかね(笑)まぁウォール伝では考えたことがそのままアップロードされるっていう近未来仕様をアナログな形で先取りしているわけですが(笑)これもまた自己生成なんだよね。考えた跡ってのをデータとして残そうとしてるって行為なわけだからいつも書くように常にネットに向かって射精し続けてるみたいなのがウォール伝だよね(笑)ネットぶっかけというかネット射精というかネットザーメンというかねっとりとしたザーメンというよりかは文章というか。


生きてたら勝手に作り出される精液と同じですよね。そこにDNAの情報が入っててまぁウォール伝もDNAのミームを残そうとしてるわけだよね。ただまぁ別にティッシュにくるんでポイ!ぐらいのカジュアルさでいいわけで(笑)まぁそんな感じで2017年も色々とぶちかましていく感じですかね。ただまぁ狭いディスクールに興味はないから哲学というコンテキストにおいてのみ考えられているものの結果の例えば思弁的実在論みたいなのには興味はないんだけど「まぁそうだよね」っていうやってる人たちは「ブロガーレベルの駄文と一緒にするな!」ってお怒りになるだろうけど(笑)それがすんげー哲学っていうコンテキストやテキストそのものを読むことから得られたものであれ形而上学的であれ非形而上学的であれ人間における存在論的な有・無とか存在論的なものを認めるか認めないか?とかっていうのは結局は論理なんであってそれを哲学という狭い分野の中で考えるかいろんな分野を勉強しつつ自分で考えて実践してそれを実感するかどうか?っていうようは体感の問題なんだよね。


まぁそりゃフラクタル的リアルとヴァーチャルの相互作用的自己生成とかまぁ結局はニーチェとかドゥルーズでしょってことにもなりかねないけど俺ってやっぱ勝手に自分で思ってるんだけどヴァーチャル感とかヴァーチャル的なものに関しては昔から凄く関心があったし心惹かれてきたんだよね。古くはメガテンで部隊が東京でダンジョンとかも六本木とか新宿とかそういう中で普通に悪魔とエンカウントする!っていうようなところに今思えばハイパーリアリズム的なものを感じていたわけだよね。だからまぁそこでやっぱり独我論的でなおかつ自分というコンテキストの中で存在論を考えたいんだよね。それは凄く私的で普遍性はないけどでもその最強の威力はめちゃめちゃ私的なもんが普遍性に繋がるっていうところだと思うんだよね。そういう意味でのtruthってのはあるよね。弓ってのはその実践の一つだよね。まさに。


まぁだからそれを本で読むのか哲学というコンテキストで学術的に大学のディスクール的な閉じた体系で考えるのか俺みたいなフリーフローで自由に行為しながら考えたり体を通して体感していくのかどうか?っていうことだよね。そのプロセスによって得られた認識というのは本だけで得られるものとは違うものなんだよね。そういう意味でやっぱり行為そのものが哲学に繋がるような実存的な探求ということが生きるということに直結するようなインプットとアウトプットにしていきたいと思うよね。


まぁそんな感じで色々な野望は尽きないわけですが(笑)そんな感じでまぁ今年もよろしくね。今年も相変わらずの長文に付き合ってくださいっていう感じですね。んじゃまたね。


PS


Watch Dogs2経由で知ったんだけど良さすぎるんで貼っておくね。