Pitaのカバー作ってみたんで。

ヤツ(ハズウェル)のリリースに気が付いて久々にMego関係のリリースとか見てたらPitaが12年ぶりぐらいのアルバム出してるのを知ってびっくりでしたね。で、内容がなかなかいいんですよねっていうかPitaらしい感じで変わってねぇーなっていう。



特にAahnとLine Angelは歴史に残るアンセム感ありますよ。


んでそれに触発されてPitaのカバー作ったんですよ。まぁ作業時間で言えば1時間もかかってないけどね(笑)


https://soundcloud.com/mimisemi/get-out-cover


なんかやっぱMego周辺の連中がパワーブックを武器にブンブン言わせてたデジタル初期の世代ってもはやノスタルジーだよね。んでもやっぱなんかPitaの新しいやつ聞いて思ったけどやっぱMegoと言えばPitaだよね!という感じがあるよね。ハズウェルって完全にただのゲテモノになったと思うけどPitaはフェネスとかみたいに洗練され過ぎずにMego初期のインテリに見えてやってることは単純っていう過激さってのが残り続けてるよね。だからまぁ曲にもよるけどゴミと神曲の差が激しいんだけどそれも含めてMegoなんだよねっつってももはやそれを体現してるのはPitaぐらいのもんだしラップトップパンクっつーとやっぱハズウェルと今は亡きカルちゃんとPitaの三羽烏って感じだったしまぁ当時から言わばレアな存在だったんだよね。荒いもんを荒いままやってたっつーね、ソフィスティケートされない良さだよね。


今はやもはやMego的なものを模倣するファッションも無くなったし模倣したところで誰得状態なわけである意味、Pitaみたいなのってワンアンドオンリーであり続けて今みたいなポストデジタル時代でさらに輝いてる感じがするよね。逆にまぁなんでもやれるし洗練されている方法とか綺麗に作る方法とかも色々ある中で荒さを残すって何気に難しいからね。楽曲をネットに上げるにしたって分かりやすいほうがアクセス数稼げそうだからうまく作ったり聴いた感じ良い感じに仕上げがちになるじゃん?まぁ俺はそれをやらないんだけどもね(笑)


なんかでも改めて懐古すると当時は必然性があってそのシンプルさもあったと思うんだよね。そんな凝ったエフェクトとかプラグインじゃなくて大体デフォのやつとかソフトとかについてくるやつとかさ、そういうやつのほうが軽いからライヴでも使いやすかったりして・・・っていうこともあって結果的にシンプルな荒っぽい音が作られてたと思うんだよね。んでまぁそっからハードウェアの能力が向上してやれることは増えたんだけど過激なもののラディカルさってのはどんどん薄れていった感じがあるよね。


ハズウェルなんかは完全にゲテモノ化したにせよあのクソ化も必然的っていうかそこで洗練されない荒っぽさとラディカルさっていうのを突き詰めてるって意味ではやっぱ最強だよね。そういう意味でまぁ愛憎があるよね(笑)だからまぁハズウェルウォッチは辞められないわけなんだけどね。ホームページの時代はラッセルハズウェル友の会ってのをやってたぐらい愛しているわけなんだがあの頃のスタイルってもはやオールドスクールと言えるものになったかもしれないけどやっぱ好きだよねっていうかまぁ実存的な思い出補正もあるにせよやっぱりまぁ90年代的な何かなんだよね。


なんか話が長くなりそうなまえふりだったかもしれないけど別に特に書くことはないですよね(笑)カバーしたよ!っていう報告だったんで。


んじゃまたねっつーかあ、んであれだわ、弓なんだけどね、良い意味で全く触ってないですねっつーのは独学でやることのリスクってのを本当に意識的に考えなきゃいけないわけで変に分からないうちに触ってみてとりあえず引いてみるっていうことをやると変な癖が付きかねないよね。だからまぁ型とか以前の問題の扱い方とか持ち方ってのをやりながら覚えるんじゃなくてゲンナリするぐらい読んでばっかだから嫌でも頭に入っちゃってるっていうぐらいのレベルになってから持つって感じだよね。だから今はイメトレと「あれなんだったっけ?」っていうのでまた本を読んだりして・・・っていうことの繰り返しな感じだよね。


あとまぁ前に書いた奇跡の最初の一発っての以来になんかすげーそれ自体に触発された感じがあって適当にやりたくないよなっていうガチ感が増したってのはあるよね。毎回あのぐらいの強度で引きたいってのがあってだからまぁ今みたいに相変わらずまぁ根が出ちゃうんだけどクソまじめな感じでやってますよね。まぁあと弓に関することとか歴史とかまぁ読んでばっかだけどまぁあと弓の力学だよね。それは単純に物理学的なファクターって意味でもそれが頭に入ってるのと入ってないのとでは全然違うからね。逆にそういうのが頭に完全に入ると何が良くないか?というのが分かるようになって自分の内面にすんげー厳しい先生みたいな視点を作り上げることができるんだよね。だからまず自分の中に先生を作らないといけないんだよね。だからまぁマインドの面ではもう先生っていうぐらいになってから身体はその先生の生徒っていう感じでやらないとダメだよね。


まぁただあくまで俺が関心があるのは弓術で弓道ではないから弓道の7割を占めるんじゃないか?ってぐらいの煩雑な作法とかはやらなくはないけどそういうところに時間は割かないよね。でもまぁそういうのがあることは知っておかなきゃいけないのと最低限の知識としてそれは知っておかないといけないよね。ただまぁやっぱさ、「弓道 その歴史と技法」っていう本読んでるんだけどそこでもやっぱ語られてるんだよね。美しさだの型だのってのがあってもそれは主観的でしょうっていうね、それがまぁ俺がいつも批判的に書くイデオロギーって話なんだけどお偉いさんとか制定を決めてる委員会みたいなのが「これです」って決めてるのにいかに忠実であるか?ということが美しさになってたら全然意味無いのとそもそも本当に美しくても武道として考えたときにそんな見た目の美しさとか必要なの?っていうね、まぁ読んでて嬉しかったのは保守的で体制的なものにズボズボな感じがする武道関係のことに対して「それってどうなの?」という視点が例えばこの本の著者みたいなこういう世界の権威の中にあるってことだよね。ようは別にこれって弓道に限ったことじゃないからね。武道全般に言えることだから。


だからまぁ結局技の形骸化とか見世物化っていうことの問題ですよね。重要視するところが間違ってない?ってのはあるわけよねっつーかまぁなんだろうね、習いもの化しちゃってるんだよね。戦の無い世の中で精神修養の方法としてベストな方法っていうある意味で現代社会的な功利主義的な感じになった結果ってのがまぁそういうフォームだの佇まいみたいなわけのわからない抽象的な話になっちゃってるっていうことなんだよね。んでもそれがなんで功利的か?っていうと実学的だからなんだよねっつーのはそういう弓道で培われた佇まいの品格みたいなのは普段の品格とか体の動かし方とかそれこそ歩き方とか椅子の座り方とかそういう所作に現れてくるじゃん?だからまぁ良いと言えば良いんだよね。人殺しの面ではなくリアルで役に立つっていう有用さという意味ではいいんだと思うけどやっぱそこで思うのがそれは分かるけどんじゃあもっと血なまぐさい人殺しの方法としての剣術とか弓術ってのはどうなのよ?ってことになるんだよねっていうかそこでまぁデフォが武道だと所作ばっかやらされて俺みたいなやつはそういうのに嫌になってやめちゃうわけじゃん?まぁ今はネットもあるし情報量が半端じゃないから独学で出来る余地ってのが出てきてるけどまぁそこであれだよね、道場とかに通わなくても恐らく道場でやらされるような長い所作みたいなのに時間を割かずに肝心の弓術の部分を極めるというかさ、そこに時間を使うってのとフォーカスするっていうことだよね。


胴づくりやらなんやらっつーそういうのに時間をかけすぎているから現代人にとってリアルで射れる時間なんて限られちゃうってのをもっと弓術というところにフォーカスして短時間でマスター!とかってことじゃなくて限られた時間をいかに重要な武術の肝要な部分にフォーカスするか?っていうことなんだよね。まぁ俺は時間あるからいいんだけどさ(笑)フォームとかやり方を自己流とするんじゃなくて方法論と何をやるのか?というところを自分でお膳立てするってことだよね。そこで日々考えて行く中でどうやっていくか?みたいなのが見えてきてんでまぁ内面に先生目線を作りつつそれがいよいよ実践というレベルにまでなったときに初めて弓を触るっていう感じになるんだよね。


やりながら覚えるのがマズいのは何にやってしまう分からないうちにやりがちな握り方とか引き方ってのを知識不足から自然にそういうことをやっちゃう結果、変な癖がついちゃうっていうことになるわけじゃん?だからもう何もかも知り尽くしてるし変な話、人に教えられるぐらいのメンタル面での知識のレベルだよね。それをマスターレベルにするってのがデフォな感じだよね。まぁすんげー時間かかるやり方だけど俺はそれができるからそれがベストだと思うしね。


「持ってみてください」っつって自然に持つっていうその自然に持つからすでに間違いだからね。弓の特に弓道なら和弓の最善の握り方ってのがあるわけでそれを全く何も見なくても自然にできるようにしなきゃいけないよね。よくあれだわ、戦争映画とかでブートキャンプでライフルの組み立てとか装填と構えってのを永遠とやらされるじゃん?あれと同じだよね。もう体が勝手に動いてしまうというぐらいのレベルで分かってないといけない。あとまぁ単純に本を見ながらやるというのが難しいというのがあるよね。いちいち見ながらやってると時間がかかるしなんでいちいち見なきゃいけないのか?っていうと頭に入ってないかならなんであって例えば「正しい持ち方」ならもう教科書を読まなくても分かるぐらいのレベルには達することができるじゃん?その結果、持つ際に自己流の変な持ち方とか間違った持ち方ではなくて正しい持ち方ってのが分かるわけだよね。だからまぁそれがさっき書いた何がダメなことなのか?っていうのが分かっているっていうレベルになるってことなんだよね。


んでまぁそれってもう反復なんすよ。毎日ちょっとでもいいからまず持つっていうレベルのことをやるにあたって必要な知識とか持ち方の具体的なやり方ってのを何回も読むんだよね。で、飽きたらそれで良くてまた次の日も必ず読む・・・っていうその習慣を繰り返すわけだよね。ぶっちゃけこれやってればどんだけ物覚えが悪いやつでも嫌でも頭に入っちゃうレベルで分かっちゃうよね。でもまぁ情報量凄いわけよ。全く知らない分野における話で手のここの範囲までをこうしてここに当たるようにして・・・っていう微細なレベルでのディティールを完全にフォローするってのは初歩的なレベルのものにしても大変だよね。情報量多いからね。その情報量をこんがらがったレベルにするのではなく完全に物理学的であったり身体の生理学的なレベルのディティールとその持ち方なら持ち方とされているものがなぜそうとされているのか?ということの必然性を論理的な帰結として理解するっていうことだよね。だからその弓を射るということに関する論理とか合理性とかっていうものに反したものは絶対やるべきではないし力学的に最適な運動量の出力を矢にリリースすることができないってのはそれ自体がもうアウトなんだよね。そのアウトな方法でやってても何もならないどころかただの悪癖になるしそのぐらい繊細なものだからこそ安易にやるということが凄まじいリスクになりかねないんだよね。


まぁこれはある程度居合とか剣術とか中国拳法とかやってきて自分なりに武道的なものをやる上での肝心なところってのが分かってるからできるようになったんだとは思うけどね。だからこそ何気なくとりあえずやるかっていうのがどんだけ危険なことなのか?っていうのが分かるわけよね。まぁそんな気張らなくてもいいじゃん!ってことになりそうだけどまぁそこはやっぱ俺はガチだからそんなカジュアルにやるつもりはないんだよね。あ、カジュアルにやりたいって前に書いたけどいや、全然違いますわ。居合で言えば常に真剣でやるぐらいの真面目と慎重さを持ってやらないとダメだなって思ったわけね。


なんかPitaのカバーの話から一気に弓の話になったけども(笑)まぁそんな感じっすね。まぁデフォの最近読んでる感じの本+弓のことをやろうとするともうそれだけで時間取られて終わりでゲームの時間無いんだけどまぁこれはこれでいいっすよね。んでまぁまたちょっと疲れたり煮詰まってきたらゲームやるなり映画見るなりすればいいわけだし。まぁまさに緊張と弛緩ですよね。これは精神的なものでもそうだけど身体性が絡んでくると余計に重要になる概念だよね。それが何かをやる上でのやり方とかいうレベルではなくそれ自体が身体性に直結するようなものだよね。


まぁそんな感じかな。んじゃまた。