猛烈ダイエット中。

あ、んであれなんだよね、脂肪落とすべ!ってことでインテンシヴなトレーニングをしようと思って「あーなるほどな」と思ったのが弓なんですよねって前に書いたっけ?あとやっぱ塑さんが書いてくださった「観念的に分かってない状態で引く弓という経験はどうでしょう?」っていうそこだよね。ぶっちゃけ体術ってすんげームズイのよ。分かってても弓引くとまず知識が無くて素のまま引こうとすると無理やり力入れて引く感じになってフォームもクソもないような感じになるんだけどそこでまぁ弓は骨法で引くっていうんだけどさ、なんか今回のエントリーは自慢ばっかになっちゃうんだけど(笑)昨日3時間半ぐらいやってたのね。例によってフローが起きてハマるっていう居合の時と同じような感じでそれがあってんで一気に弓が引けるようになったのとあんままぁメイクマネーできそうな奥義は書きたくないから(笑)簡単に言うとまぁ弓の引き方ってすんげー重要なのよって当たり前だけどさ、ようは弓矢の持ち方ね。


あ、まぁでもいいか。テクニカルなことを学んでる最中のやつが書いてもしょうがないからアレだからさ、ただまぁあれなんだよね、前にも書いたと思うけど和弓って耳の後ろぐらいまで引くじゃん?で、今使ってるのは15キロだけどまともに引けないってことが今さら分かってっつーか矢を番えてると難易度が高すぎて「もう無理」ってレベルだったんだけど奥義があってさ、もう余裕なんすよ。引くのが(笑)柔らかいという感じではないんだけど「いやー無理!」ってレベルじゃなくて「なるほど!」っていう感じなのね。それは力がどうのっていうよりかは弓に体が入っていく感じね。そこで腕を開こうとすれば自然に弓が引けちゃうっていうそういう自然さなんだよね。で、困難を極めていたステディエイムなんだけどこんな短期間でいいの?ってぐらいなんだけど習得しちゃったんすよね。一切震えないんですよ(笑)マジか!と思うぐらいなんだけどね。


で、なんで3時間半もやれてたのか?っていうと力で引かないからなんだよね。力で引いてたら腕が披露したり肘がダメになってくるんだけどまず奥義だとそれがないのね。永遠に無敵モードでやれるみたいな感じで引けるのが当たり前になってくる。居合もそうじゃないですか?初期の力んでる時ってのが一番腕とかに負担がかかってて実際に右手の親指の関節がめちゃめちゃ腫れたりしたけどちゃんとした体で抜くっていう武道独特の力を使わないやり方ってのをやると腕の負担がほぼないんだよね。まぁ疲れるけど腕で抜いているときの比じゃないよね。


ようはこれと同じようなことが弓で起こった!ということね。居合はずいぶんそれまでに時間がかかったけどジャンルは違えどなんつーか「これは違うんだよな」っていうところと正しいやり方ってのを分かってるからっつーか弓は実際にやるより読んでる時間が大半でたまにはやれば?ってぐらいやってないんだけどさ(笑)まぁなんだろうね「よしやろう!」って思ったきっかけがダイエットっつーのも笑えるけど色々と断片的に習得してたことっていう頭での情報ってのに体が徐々についていく感じだよね。で、最初はその不一致が強烈で全然動かないんだけどだんだん自分が体の動かし方を分かってくるんだよねっていうか情報に体を合わせるという体術が分かってくるわけ。


あ、ただでもやってる最中はすんげー集中してるよっていうか哲学の本とか数学の本読んでる時並の集中力でやっててまぁだから耳栓つけてやってるんだけど身体の使い方っつーレベルでエラーが起こるわけじゃん?で、何がダメかが分かる。まぁ分からない場合もあるし全部わかるわけじゃないんだけど所謂初級のレベルならある程度勉強してれば何がダメかが分かるしそれが分からないと独学は無理よね。まぁそんな感じで情報を身体にフィードバックさせるっていう作業なんだよね。で、そこにはもはや弓術ということすらもないんだよね。剣術について書いたときにそれって抽象的に考えれば自分がどうっつーよりかは刀があって相手がいてそれをいかに効果的に切りつけるか?っていう道具でしかないんだよね。体がね。だからこそ雑念とかが邪魔なのもそこなんだよね。変な話、アルゴリズミカルにある種機械的に最適な動きというのをその場で判断して最速で出力すれば勝てますよって話だからね。そこが大変でそううまくいかないってのが本当のところだしそもそも真剣の斬り合いなんて普通経験しないから分からないよね。だから昔の宮本武蔵みたいな人が書いた本とか実際切った経験がある人の情報的出力ってのをインプットするんだよね。


んでまぁ最近気功の本を読み直してるってさっきだか昨日だか書いたと思うんだけど華法化ってもはや武道関係において不可避でどこでも書いてあるよね。太極拳なんかも実際のプラクティカルなまずは人殺しの超リーサルな拳法ってところが忘れられてて教えが途絶えてるとかまぁ物騒だからそれでいいのかもしれないけどあとまぁやっぱアクロバティックなのと見栄えが良いようなものばかりに比重が行くっていうまぁ武道のハリウッド化ですよね。で、その華法化は実に問題だ!って言ってるのが実際の実践者っていう武道家達からそういう声が出てるってのが重要だよね。俺みたいな理論だけの頭でっかちじゃなくて(笑)何十年もやってきてる人がそう言ってるわけでそれって説得力あるじゃん?


弓道なんかもまぁあんままた作法とかディスり過ぎるとアレだけどさ、結局まぁどこにあるのか?ってことだよね。本質が。それはやっぱ人殺しでしょう。いかに相手を射抜くか?ということなわけでさ、入りからお辞儀の角度から見せ方から・・・なんつーそんなもんに気を取られたりそういうものが例えば段位を取るときの重要な要素になったりとか本末転倒だよね。で、結局ああいうのっていかに見せるか?になるから弓術というよりかは緊張する場とかでいかに自分の力を出すか?とか緊張しない方法とかって人に見られながら弓を引くということに慣れるだとかそんな無駄なもんばっかにフォーカスが行くわけよね。これもまぁ華法化といっていいよね。まぁ武道の作法化か。居合とかも酷いっていつも書いてるっつーか制定居合のクソっぷりは動画とか見ればわかるけどまぁ弓道も大概だよね。


そりゃそんなもん正確性と精度と的中率に決まってるでしょうっていうさ、今の基準って弓術が形骸化して精神修養の方法になった後に作られた概念だからね。だからまぁただの作法というかただの芸で武道じゃないんだよね。もちろん武道としてのものが残ってるのもあるけどそういうのは弓道じゃなくて弓術と言われてまぁ差別化されるよね。まぁ別に選んで弓道やってるならいいんだけどさ、まぁんで俺はスタンスとして弓術でしょうって思うわけでもちろん武神的なのをペルソナ的に降ろすとかリスペクトするっていうアティチュードはめちゃめちゃあるわけですよ。でもだからこそ武神が好むような弓術をやりたいわけで人間が評定するような弓道なんて死んでもやりたくないって思うわけよね。


まぁそんな感じで弓道ディスはいいとしてまぁその情報的出力ってことなんだけどまぁようは抽象化すればメカニズムですよね。機械よね。あと解剖学的というか生理学的な人間の力がどう入るのか?とかっていうそういう知識でまぁそれって太極拳の本とかでも出てくるもんね。ようは人間のメカニズムよね。それをもってすれば必然的に例えばそれで弓を射るというようなadhoc過ぎることに関してはベストなやり方なんて限られてるわけよね。むしろそういう凄く狭い世界だからこそ何がダメなのか?とかってのが明らかで何がベストなのか?ってのが自ずと分かりやすくなるっていうのかな。それはある意味剣術とかより顕著かもね。


それがまぁなんで俺がステディエイムをこんな短期間で習得したのか?っていうところにも繋がるんだけど例えば手がプルプルするようなアウトな身体の使い方とか力の入れ方ってのをやめるわけよねっていうかそうなったらもう間違いだからね。逆にそのまさに骨法で引くというような、全く普段筋トレとかしてない俺でも楽に15キロの弓が引けるようになるってのはまさにその体捌きによるものなんだよね。まさに術理によるものなんだよね。それがありがたいことにそういう先人の技というのを研究できるっていう立場にあるわけよね。凄まじくプラクティカルな教えというのをじっくり研究できるっていう情報レベルで始められるってことなんだよね。だから頭で理解しているからあとは体がついていかないというエラーを無くせばいいわけで自ずと最善の動きとか体の使い方っていうものに繋がるんだよね。混乱ってのはどうしたらいいのか分からないっていうところから来るわけでその混乱はないんだよね。こんだけ座学してるから頭に入ってる。だからもうあとはそれをアウトプットするだけでいいってことになる。


だからより思うんだよね。俺がこんなに早く弓が引けるようになってるってのも例えば道場の掃除とかやらされたり(笑)先輩の弓を回収するだとかそういうことに時間を費やさないで最初から実践的にやるっていうのと無駄な作法とかは一切いらないし情報量が多くなってやることが増えるからプロセスを徹底的に実践的なものにしていくっていうシェイプを自分でしていくわけだよね。そうなるとまぁよく揶揄されるように弓道なんて7割作法ですよね。3割が弓術なわけでさ、楽だよね。1000ページあったら300ページの情報量で済むわけだからね。ただですら射なきゃいけないっていう状況にあるのに射るまでの姿勢がどうのとか肩の角度がどうのとかそんなことに気を取られてたらそりゃ散漫にもなるよね。


そんなもんにフォーカスしないということだよね。というか順番が逆なんだよね。ようはちゃんと射ようとするとそれは自ずと正確なフォームになっていくわけでっつってもまぁ自己流じゃダメでそれがまぁ大事な最善とされているフォームを叩き込むということでもあるんだけどさ、あとまぁあんなもん人によるよね。体格と弓の強さと大きさと・・・ってことでやり方が変わるわけで全部一律で同じフォームというか肩の位置だとか脚の位置ということにはならないよね。ましてや動くターゲットとかを射る場合どうすんの?って話になるわけだしまたディスばっかになっちゃうけど暗闇でも射ることができるってあれって完全にインチキだよね。


あれって的がどこにあるか分かってるから別に的を見なくてもどこからどういう位置でこういう感じで打てばいいってのが分かってるからできるわけでさ、本当の意味で暗闇でいるっつーのはランダムな的を見ずに射るってことになるでしょう。まぁでもそんなの超能力だよね(笑)すげー科学とかが進歩して情報量とかも多いのに武道とかってこういうインチキっぽい達人的な話とかさ、それってこういうことじゃない?ってすぐ突っ込みが入るようなもんもなんか否定しちゃいけないみたいな独特の武道の閉鎖的な雰囲気ってのがあって言えないみたいなところがあるじゃん?完全にイデオロギーだよね。そういうのが権威化して否定しちゃいけない理論とか考え方ってことになって一切人間が本来持っている創造性とかに結びつかないんだよね。そういうイデオロギーをトレスするだけでもっと改善しようとかさ、もっとクリエイティブに和弓というものを使って何かできないか?っていうところとかさ、そういうのも制定されるとはい的はこの距離でこういう感じと作法でやってくださいっつってそれで決まっちゃうもんね。


まぁ前に和弓Modっつって和弓にサイトとかつけたらどうなの?とか色々と書いたけどああいうのも色々と試せる余地があるよね。それも仮にサイトがつけれるとしてでもそれはサイトに頼っているのか?ってことにもなるし技の部分が無くなっちゃうってことにもなりかねないけどじゃあAcogサイトをつけた銃というのは銃の技術っていう意味でズルをしてるのか?っていうとそうじゃないじゃん?単純に視覚的に見やすくするためなのとそもそも銃なんつー物騒なものを使うわけでそれを使う状況といったらそりゃ生死を分けるようなものに限られるわけよね。まぁ限られるかは分からないか。ただまぁそういう生きるか死ぬか?という感覚だよね。華法化した武道はそういうのが一切無くなるからだからダメなんだよね。


まぁだったら別に今時そんな時代遅れな弓なんて使わなくてもいいじゃん?ってことにもなるんだけどそこはまた違うよね。それ言い出したらそりゃアサルトライフル最強になるわけでさ(笑)まぁただその批判的な観点よね。なんでそれがアプリオリにそうって勝手に決められてるわけ?っていうさ、俺はやっぱ制度的なものが嫌いってのもあるしそういうのに盲従してみんなでやってるってのが全体主義的で生理的に嫌悪感を感じるってのがあるんだよね。特にそれが日本的な村社会の全体主義的な前習え的なのと結びついていやーなものになってるっていうさ、そこでやっぱだから俺が思うのはそんな制度のことじゃなくて武術としての弓術ってどうなの?ってことになるわけよね。重要なのはそこだよね。


で、まぁそれってのがようは結局抽象化すればメカニズムとかダイナミズムとか人間の生理学的なこととかっていうことになるわけでさ、まぁある種の無だよね。でもそこで面白いのが的を射ようとしないことみたいないかにも達人っぽい理論があるけどそれはある意味正しいんだよね。正しく射ようとすればそれは必然的に当たるわけで狙おうとすると無駄に力んだりそこにフォーカスが行ってフォームが雑になるとかまぁ行間読みですよね。そういわれているけど本当の武人がそう言っていたという意味は何なのか?っていうことだよね。で、それは別に武道の協会とかがちゃんと継承してるなんていう保証はないわけだ。だからよりrawな形骸化してない弓術の理論を学ぶということになるわけだしんでもじゃあ出版されてる本はそういう制度を通したようなイデオロギー化したものばかりなんでしょう?っていうと意外とそうじゃないっていうかむしろ出版物とかのほうがrawな情報が多いんだよね。そこがなんか日本の武道の矜持みたいなのを感じるんだよね。


それは剣術もそうだけど死んでるわけじゃないんだよなーってのを感じるよね。まぁ別に出版物の全てが良いわけではないんだけどもね。まぁあと俺が何が良くて何がダメか?なんて言えるほどの経験も知識もないんだけどただまぁ「あーこれは例の形骸化してるやつですねー」ってのはすぐ分かるわけよね。無駄な情報だなーってのはすぐ判断できるわけよね。いや、それが後に効いてくるんだってのもあったりするんだろうけど逆にそんなもん思想とかやってれば敏感だから一見関係なさそうなのが相関しているとか実はその型に隠されている秘術とか教えってのがあるっていうのも分かるわけよね。つまりはそれがさっき書いたその情報っつーことなんだよね。


ただそれを引き出さなきゃいけないんだよね。引き出すためには知識も必要だけどやっぱりある程度の知性とセンスとかを必要とするんだと思うんだよね。で、すぐできるようになるっていう人はその情報の引き出し方が上手いとか元々そういう知的作業を他でやってるから応用が効いて慣れてるとかっていうことであったりあとはまぁそれを身体のレベルにフィードバックさせるのが上手いということでもあるよね。そこがやっぱ俺の場合、居合を一時期集中的にやってたってのが効いてるんだよね。身体のフィードバックを徹底的にやるという経験をしてるしそれを独学でやってきたっていう実績っつーと大げさだけどまぁそういう訓練の賜物ってのがあるわけよね。


でもそれはできたら「はいできました」じゃないよ。それは常にどんなものにおいても改善の余地があるわけだしより良いやり方とかもっと最善のやり方ってのがあるっつーかまぁそれが仮に型という形で継承されていたらその型の理解を深めるということでもあるしさ、それってようは情報処理だよね。本当に概念的で学問と一緒なのよね。数学とか哲学とかと同じ。でもまぁ身体性を伴うっていうところがポイントなのとまぁそこでなんかさっき奥義とかって書いたけどようは気なんですよね。


弓の持ち方とかっていうその厳密には違うんだけど手の形が太極拳の気をリリースする形とほぼ一緒だったりしてさ、ようはそこなんだよね。強く握るということは諫められてるんだけど諫められているというだけではないようはそれは弓を持つというよりかは気をリリースするんだっていうことなんだよね。打つときにその気の流れってのがちゃんとして調和してただそれを矢に送って気を放つかどうかは分からないんだよね。そこはまぁ俺も別に気功初心者だしさ、そんなにすぐ応用できるわけじゃないんだけどそれはまぁどのくらいの比率で内功と外功なのか?っていうところでもあるんだよね。だからそれは太極拳とか気功とかで武器を使ったものの際にそういう外部の道具を使って気功をやるというところにポイントがあるんだよね。


阿波研造とかも結局はそうだよねっていうかあの深遠な文字にできない感じってとりあえず気功のことだって措定すると相当分かりやすいよね。もちろんただ気功自体がそもそも道教とかと結びついたものだからある意味宗教的なんだけどそこでまぁ禅が宗教かどうかはともかくとして禅的なものと弓っていうものが必然的に結びつくっていうyoutubeの右側に表示されるおススメ動画がメタレベルでの情報の繋がりなんかを提供してくれる的なまぁグーグル的なものは怖いっつっちゃー怖いんだけどまぁあれって便利よね。で、自在にできる人ってインターフェースとかおススメ機能とかを使わなくてもそれを引きせよちゃうような能力がある人なんだよね。それがまさに俺!ってことなんだけど(笑)まぁでもそれは好きなものに限るけどね。あとなぜか分からないけど凄く惹かれるものっていうのに限られる。ここになんかスピ的な余地があってロマンあるっしょ?(笑)


一方でマトリックス的な全部が情報っつー事実があってその一方で凄くスピ的でまだあんま科学的に分かってないようなレベルの話のようなものが介在する余地ってのがあるっつーかまぁそれもようは情報なんだけどただまぁまだ分からないものであるんだよね。んでもそれを感じたり使うってことはやり方によってはできたりするからそれが面白いんだよね。まぁただあれよ、プルプルしてる人を見て何にもわかってねぇーなとか批判するのは無しね。それは思ってもあんま言わないほうがいいと思うわけで。それってまぁどういう観点で弓をやってるか?っていうイデオロギーであったり考えの違いだったりするからね。その結果、菜食主義やってる人とかに「バカじゃねーの?」っていうのは簡単だけどまぁ本人なりに色々あってそれやってるわけだからそこをディスる必要は無いってことね。


まぁでもここまで大風呂敷広げるとさぞかし強烈な弓をお引きになるのでしょうねっていう必然性が出てきてやるしかなくなるからいいよね(笑)やる必然性に飲み込まれるっていうさ、まぁそんだけ理論あるわけだからあとは実行でしょっていうことで逆にそこで実行して実証しないっていうことは理論がダメかあとはただの怠惰っていうことになるよね。んでもそこは俺は求道的なものが好きだから追求するんだよね。それが結果的に技を究めるということに繋がるし色んな情報の統合をするっていう凄く知的好奇心をワクワクさせられるような知的活動に弓を通じて従事できるっていうことになるんだよね。そんな風にしてくれている武神に感謝だわー(笑)こないだもう完全にキテるなって思ったのが弓を放った後にさまぁ落ちるじゃないですか?んでその弓矢がクルクル回ったかと思うと勝手に震えだしてさ(笑)まぁそりゃ物理的な説明はつくんだろうけど思わず「おお!キテるね!」ってなっちゃったんだよね。


まぁそれを見て思ったんですよね。ようはもうそれは遅れでしかないんだとね。もう実際は弓矢は的を得てるんだけどでも実際はまだ放たれていないというその遅れが現在ということなんだよね。でもそれも相対的で結果だけ見ればそれは的を得ているということになるけど時間軸をまだ放ってないというところに置けばまだ的は得てないんだけどでも実際はもう的を得てるんだよね。逆にそういうステイトに自分の情報処理を持っていけるかどうか?っていうところなんだよね。それが自在になるとオカルトレベルみたいな弓術になるんだよね。超能力で引いてるんだ!みたいな話になる(笑)弓が好きになってからというもの観念的に考えている時間が凄まじく多いからたまにアウトプットで身体レベルで出した時のフィードバックから得られる情報とエラーと気づきってのが半端じゃないんだよね。で、それをまたその場でトライとエラーを繰り返して実証していくっていう作業にハマるからいくらでもできるようになるんだよね。訓練というよりかは情報レベルの実行と実証ということなんだよね。で、物理レベルでそれが可能になるとまぁあんまり思い込み過ぎも危ないんだけど仮にうまくいったり何度も検証してそれがある程度妥当なものだと分かると「やはり正しかったのだな!」っていう認識に繋がってそれの興奮が半端じゃないってのがあるよね。


もちろんそれは色々と情報を処理して自分なりにシェイプしてアウトプットした結果ですよ。それは武術なんであって俺が凄いわけでもないし俺の創作でもなんでもないんだよね。ただその情報の凄く重要なコアな部分ってのを取り出してアウトプットするということに体がついてきて上手くアウトプットできたときにそれが「良い射」という形となって現れるんだよね。そこが理論だけじゃないっていう実証に直にその場で繋がるっていうところになるから知的興奮が半端じゃないんだよね。で、それをもっとより良いものにするためにもっと研究したくなるし気功も単独で人を転ばせるぐらいに自在に使いこなせるようになりたいとは思うけど(笑)それ自体でもまぁ健康に良いけど弓っていうアウトプットとか気功の実践の仕方もあるっていうところで楽しくてしょうがないですよね。


居合やってたときになんで気がつかなかったか?ってそれは居合を集中的にやってたときにまだ中国武術とか気功の世界を知らなかったからなんですよ。だから知らないところから気づくわけがない。まぁ気づく人もいるのかな。ただまぁ俺はある程度の元になるrawデータが無いと無理よね。で、今の俺の頭だとそれが可能になってるってことだよね。なんか言ってるだけだと超人か!みたいな感じだけど実際はただのデータの積み重ねと実証なんだっていう(笑)凄くベタな落ち着き方になるんですけどね。まぁそういう意味で別に俺は超能力者じゃないからね(笑)ただやり方が分かってるっていうだけよね。あとまぁそのコミットの深さと好きさ加減が半端じゃないところから来る気の充実だよね。凄く多くの気を必要とするものってのに対してそれが知的好奇心ということによって凄く気が集まるということになるってことなんだよね。


まぁそんな感じっすね。弓と気功のおかげでなかなかのリア充っぷりですよ(笑)んじゃまたね。


PS


あ、んで補足ねっつーか制度とかあり方としてそれって武道的にどうなのよ?っていう批判はいいんだけどどうなのよ?っていうような制度の中でやってる人たちを批判しちゃいけないってのがまぁ本文で進んで菜食主義とかやってる人たちをディスってもしょうがないっていうところになるのね。まぁそれが完全に社会的な悪で有害だったらともかくただの考え方の違いとかってなるとまぁ宗教と同じじゃん?っつってもまぁそこで許せる宗教と許せないっつーか放置してたらヤバいレベルの宗教ってのもあるわけでっつってもまぁそこで武道への考え方とか取り組み方ってのは別にそんな社会悪にならないし個人の問題だからいろんな形であれ取り組んでいる人たちを批判するってのは絶対ダメだよね。俺はそういうつもりは一切ないのでね。それだけはクリアにしておきたいのでっつーか相変わらずハーシュになって(笑)思わず補足を書かずにはいられない感じになったんで書きましたってことで。