強度かサステイナビリティか。

怪談とか心霊に飢えてるんだけど見過ぎて見るのが無いんだけどそんな中でっつーとアレだけどyoutubeのサジェストにひろゆきの動画が出てくるんだけどなんか配信かなんかやってるのを賢者の言葉だとかなんだとかっつって10分ぐらいに切ったのがアップされたりしててたまたま見たやつで旨いものを食べると不幸になるっつーロジックで話してるのがあってまぁなんか昔の俺みたいな話してんなとか思うんだけどまぁこれって考え方なんだけど飯に限らずクオリティに関してどうなんだろうな?って思ったんだよね。

 

ひろゆきどうのはいいとしてまぁ飯の論理は例えばひろゆきはフランスに住んでてまぁ適当に買ってきたチーズでもそのチーズが旨いんだよね。だからたまに日本での会食とかなんとかで高級レストランに行ってフランス直輸入のチーズなんです!なんつって出されてもあんまり旨くないなって思ったりするのもまぁ舌が肥えたからでまぁそれをもって不幸とするんだけどっていうかまぁフランスの旨いチーズをそんなに高い金を出してもずーっと食えるって環境が格下のチーズを食うと旨いと思えなくなるっていうまぁ相対的な感覚っつーのかね、まぁそれってすげー分かるんだよね。

 

キリないからグルメとか言い出したら金かかるし変に旨いのを食って舌が肥えることでコンビニとかの飯が地獄のように不味く感じるようになるっつーのもまぁ確かに不幸になると言えばそうなんだけどとりあえず飯の話は置いておいて他ので考えてみようってことで考えてみるっていうプロセスをそのまま書くけどね。

 

まず女性だわ(笑)こんな美人とヤッたらその辺のありふれた女とヤレなくなるってまぁ基本これも飯と一緒だよね。基本的に「食えなくもないね」っていう水準をキープしたほうが単純にヤレる機会が多くなるから相対的にはそっちのほうが幸せってことになるよねっていうかまぁありふれた女なりの良さがあるって話は別としてまぁ抽象化して考えて欲しいんだけどまぁこれってあれなんだよね、大いなるテーマですよね。瞬間の強度かサステイナビリティかってことなんですよね。瞬間の強度で言えば旨いものを食ったときの強度なり感動は代えがたいでしょう。

 

逆に向こう数日間食うデフォのものがクソみたいに思えてもそれをその時に食う!ってことがまぁ瞬間的な強度ですよね。ただまぁ対価として舌が肥えてしまって例えば俺も旨い焼肉食うようになってから弁当屋とかコンビニとかの焼肉弁当が食えなくなったっつーか元々マズいけど息止めて噛んで飲み込まなきゃいけない感じになっちゃうってまぁ別に全然今食ってないからいいんだけどねっていうかたまごかけご飯が主食だから困ってないんだけどね。

 

まぁあとあれですよね、ゲームとかもまぁ神ゲーみたいなのがデフォになってからはアベレージのゲームがクソに思えてくるっつーのもまぁ飯の話と同じだよね。昔のゲームの思い出補正ってのも例えばペルソナ5だのスカイリムだのみたいな異次元クオリティのゲームが無かったからこそこんなの売れるわけない!みたいなのも平気で出ててまぁそれなりに楽しめたんだよね。でもまぁ今は神ゲーデフォだからなかなか心の底から面白い!とかって思えるゲームって無いわけでしょう。

 

そういう意味でなんつーかソシャゲーとかが流行るってのもゲーム性っつーより色々やったポイントが加算されるとかオンゲとかもそうだけどそういう蓄積にハマるようになってるみたいなね、まぁこれはこれで別にありなんだろうなって思うようにはなったけどまぁソシャゲとかは関係ないか。まぁそのゲームに関して言えば基準が上がるってことの感覚が果たしてそれは不幸なことなのか?ってことだよね。

 

まぁそれは別に細かく書く必要なくてそりゃ神ゲーやれたら幸せに決まってるわな。それで大半のアベレージのゲームがつまらなくなってもその神ゲーやれただけで最高でしょう。ただまぁゲームと違って飯は何かしらで食わなきゃいけないから舌が肥えるとサヴァイヴ能力が無くなるってのはあるよね。クソみたいなチーズにも文句を言わず食べてぶさいくな女も平気で抱くってのはまぁ逞しいってことになるよね。ワイルドだね!ってことなんだけどそこでやっぱり贅沢物は弱いってことになるんだけどどっちが幸せなのか?ってのはまた別問題だよね。

 

そこでやっぱり道楽ってことに行きつくと思うんだよね。日々食うアベレージのものが不味くなるから旨いものは食べないようにするってのは精神的に貧しすぎるわけで食をエンターテイメントとして考えればいいわけだよね。旨いものを食う時はディズニーランドとか行くような非日常的なことなわけでまぁ子供の頃ってディズニーランドの帰りとか暗い駐車場を歩くと夢が終わった・・・みたいな感じでまたクソみたいな日常が来るんだなっつーか学校行きたくねーなーって思って鬱になるわけなんだけど旨い飯を食うと不幸になる理論だとだったらディズニーランドなんて行かない方がいい!ってことになるよね。

 

でもそんなに鬱を感じるぐらいの夢と現実のギャップを感じるぐらいのものを感じられたらその現実に戻される鬱は対価みたいなもんでしょう。相当な幸せをその夢の国から得てるわけでしょ。むしろ大人になってからだよね。リアルな鬱は。俺もそうだけどそういうものに感動しなくなってデフォで鬱みたいなね、だから逆に落差を感じられるぐらいの揺れがあるんだったらもうそれはそれでオッケーだよね。最悪な鬱は何もかもがフラットでつまんないってことだからね。

 

ぶさいくも抱ければ逞しい理論もまぁ飯と一緒でってさっき書いたけど今書くのは違って例えばジャンクフードだったらジャンクフードなりの美味しさってあるじゃん?だからまぁテイストの問題だよね。そもそも美人とぶさいくは差になっていないっていう全く別の経験なんだって言い出せばそれまでなんだけどまぁ飯理論で行くと美女を抱くと不幸になるってことになるけど例えばいつも書いてるようにこんな子とヤレたら今昇天してもかまわぬ!ぐらいに思える子とヤレたらもうそれは何にも代えがたい経験の財産でしょう。その瞬間の強度も財産だよね。

 

だからといってぶさいくを抱けなくなるとは限らないけどまぁそこは飯と一緒に便宜上考えるってことでまぁそれで向こう数年間一気にセックスレスになってもいいと思うんだよね。なんだろう、そこは極端に言うと自分の好みの最高の美女とヤレるけどそれ以外はセックスできないってのとセックスできるけどその最高の美女は永遠に抱けないってことになるとどっちを選ぶか?だよね。そこでまぁサステイナビリティで言うとぶさいくも抱けたほうがサヴァイヴ能力はあるってことだけど最高の美女を抱いたときのような感動は得られないわけだよね。

 

これって結局知能指数に一番言えるんだけど知能指数が高いと退屈になりやすいっていうかパンピーが楽しめるようなものを楽しめないから大体の人と気持ちがシェアできなかったり何が楽しいのか分からなかったりして孤独になりがちになるんだよね。でもなんか好きなことがあるとそれはその人特有のものっていうかなかなかそこまでディグれないよねってところまでディグれたりなんかしてそういうところの没入における幸福度は高いわけだよね。

 

でもまぁ孤独が常にあって一般的に楽しいとかって言われてるものが全然楽しめないっていうね、これってまぁ結局なんにでも言えるんだよねっていうかまずゲームとかにしたってすぐ飽きるでしょ。あとまぁ全然楽しいと思えなかったりそれ言い出すと映画とかもそうだよね。でもこれだ!というものに出会えたときの幸福感は半端じゃないっていうそこは逆にパンピーじゃ味わえないようなものがあってどっちを取るの?って言われたらやっぱり知性を取るでしょう。知性を犠牲にしてくだらないものでも楽しめるようにしたほうが恐らく体感的には幸せだけど知性がある状態ではそれは不幸としか言いようがないんだよね。

 

旨いものもそうでしょう。これを食べずに死んだら人生の何パーか損してるなってぐらいのものに出会えたら舌が肥えるっていう副作用なんて吹き飛ぶでしょう。それももちろん食い続ければ飽きるけどそういうことじゃないよね。食にこだわりがなかったらいいけど外食するようになってからってのは明らかに幸福度高くなってるからねっつーかまぁエンタメが増えてるっつーことだよね。まぁようはサステイナビリティか強度か?ってところですよね。まぁこれはホント、一概に言えないよね。

 

ただまぁ俺みたいなタイプだとその強度を続けることがサステイナビリティになるんだよね。鈍らせたり我慢したりそれを知ったらもう全部変わっちゃうみたいなことも知りたがるというかさ、もうそんなんじゃ満足できなくなるぞってのをむしろ求めるわけよね。まぁこれって贅沢とはまた違うよね。テイストを究めるみたいなところだから。

 

まぁ最近顕著に感じるのはギターだよね。ちょっと前にすげー!とかって思ってたのが全然凄いと思えなくなるどころかつまらなくなってくるっていうまぁそれって耳とか感覚が肥えてくるって話なんだけどその結果、全然聴くのが無くなるっつーか大抵のもんがイマイチになるんだけどその中で残るものってのがやっぱエッセンシャルなものになるんだよね。

 

で、そういうものは少なくて当然っていうか抱きたい!と思う美女がゴロゴロしてないっていう意味でのレア度と一緒なんですよね。凡庸なロック聴いててもなんとも思わないっつー感覚はそういう意味で別に悪いもんじゃないどころかむしろエッセンシャルなものを見分けるための実はサステイナビリティに繋がっている生存の感覚に繋がってるんだよね。

 

まぁでもぶっちゃけ生存って意味だと適応性が高いってのが一番なんだよね。ようはまぁコンビニ弁当だけでも別に問題ないしやっていけるけど旨いものも知っているっていうマルチな感じだよね。それに依存しちゃうような弱くなる贅沢じゃなくてテイストとか感覚の幅を広げるって意味での良いものとか旨いものに接するってのはむしろプラスにしかならないと思うんだよね。

 

あとまぁあれか、音楽が好きだからこそCMで流れるような音楽とかに耐えられないとか大衆居酒屋で流れるようなJ-POPに苦痛を感じるとかまぁそれは音楽が好きだから不快になる場面も大きいんだけど好きな音楽を聴いているときは音楽なんてどうでもいいと思っている人よりよっぽど幸せに感じてるわけだよね。

 

まぁなんかRPG的な攻撃に振り過ぎたら防御とか素早さが失われるとかまぁそりゃ長所と短所はあるけどその長所が短所をキャンセルするぐらいのものであればいいんだよね。逆にまぁあれだよね、J-POPを聴いて苦痛に感じないように好きになろうなんて思う方がよっぽど不幸だよね。そりゃ好みの問題とか言いつつクソみたいなバンドを好きだとか言ってるような感覚を持って生まれてこなくて本当に良かったっていうなかなか「あれいいよねー」って共感は得られなくても凄い良いテイストを持ってたらもうそれだけでいいのよね。それがまぁそれこそ他の短所をキャンセルするでしょう。

 

なんかまぁ面白い話だよね。そっちのほうが幸せなんだろうけどそんな幸せいらないわって思える感覚なり知能は今の自分にはあるけどそれがあるが故にむしろ鬱になったりすることが多いわけで逆にバカだったらそんな悩みとか出てこないしくだらないもんで満足してそれで人生やってけるなら幸せだろうなって思っても羨ましい幸福ではないよね。幸福の質が違うと言うかね、くず肉集めた偽ステーキを旨い旨い!って食えるバカ舌を持ってた方が食えるものは多いけど羨ましくはないよね。だから結局どうありたいか?にかかってるよね。欲望に忠実だから旨いものを食べたいのではなくてテイストに美学があるから旨いものを食べるってのだったら旨いものを食べるにしても全然食欲の質が違うよね。

 

まぁそんなところなんだけどなんつーか自分的に飯がどうのっつーよりサステイナビリティか強度か?っつーところでむしろその二項対立じゃなくて止揚されるってところがいいなって思うんだよね。強度がサステイナビリティに結果繋がるっていうね、まぁただそれを追い求めるのにパワーも金もかかるから別に何もしたくないっていう意味でのサステイナビリティもあってもいいんだけどね、ただまぁ俺はそれだと退屈過ぎて精神的に死ぬから無理っていうそこはもうあり方の違いだよね。

 

まぁそんな感じでもう寝るわ。んじゃまた。