通りすがりさんへの返信。

通りすがり


昔のとても暇だった時に、The Bible 読みました。10ページ/日、サボった日もあり200日。旧約は血潮たぎり興奮して読んだのですが、新約は抑圧的な感じがし、苦労した記憶があります。Genesis/Exodus/列王記/ヨブ記 など、物語としての強度は凄まじいです。堕落した神父が証明していますが、この物語の構造は、悪用できるな...と思います。

 

今思えば、膨大なキリスト教芸術を並行して鑑賞すべきだっと後悔しています。

 

その後、いくつかの宗派のキリスト者と話す機会(オセアニアにて)があったのですが、彼らの持つ雰囲気(?)はとても心地よかった記憶があります。私は信仰を持たず、核心部について話すといつも平行線だったのですが、何か肯定したいものがありました。

 

前回のコメントにて、カント(ヒューマニズム)に関する一節を頂いたのですが、感覚的には地続きだと思います。この感覚が抜けると、キリスト教もカントも全てが台無しになるような気さえします。空の鳥籠ですね。

 

私的かつ経験主義的ですが、そんなことを思い出しながら、読ませてもらいました。

 

聖書の話ができるなんてめちゃめちゃ嬉しいです!まさに通りすがりさんが言う「並行」がまさに僕における現在の神学にあたりますね。西洋哲学に限らず歴史全般というのがすでに宗教ありきなので宗教的なコンテキストを抜きにして理解してもそれってどうなんだろうな?っていうところがあるんですよね。

 

それにしてもリアルなキリスト者と話す機会があったとかなかなかの経験をお持ちですね。キリスト信者ではなく「キリスト者」って書くあたりガチでキリスト教知ってる人なんだなって思いました。

 

その感覚の地続きなんですけどまさにカントもそうですけど結局ヤスパースの超越者にせよキリスト教を否定するニーチェにせよキルケゴールにせよキリスト教への理解が無いと本当にすっからかんっていうか論理だけ理解してもしょうがなくて、まぁもちろん意味がないわけではないんですけど内面的に発する意味合いというのが変わってきますよね。

 

あとあんまりこれは私的過ぎることなので詳しくは今後も書かないつもりなんですが、かなり神秘主義寄りにはなるんですが自分が神学や主にキリスト教に興味が出るきっかけっていうのがあって、ヤスパースだかは世界は暗号だとかって言ってるんですけど僕はだいぶ前に書いたことですけど色々と起こったこととか文字にするに値しない取るに足らないこともエクリチュールっていうか成されたというと大げさなんですがそれは語られたものであったり書かれたものだったりして自分はその解釈者として実存しているんだなっていう実感があるんですね。

 

だいぶ前にヴァーチャルとリアルの話をしていてまぁ長くなるんでここでは書きませんけど自分の思考の流れと蓋然的な日常に生活において起こることの間に相関性があってその結果、今神学になっているっていう感じがあるんですよね。暇だから読もう!というより必然性があったというか、まぁ私的なことなんですけどそれは奇跡!とかこれは凄い!ということではなくて苦悩ですね。かといっても別にキリスト教信者になるかっていうのは別なんですけど人類の歴史は精神的なことや物理的な衣食住とかも含めての苦悩との闘いの歴史だったと言えなくもないと思うんですね。

 

そういう意味で自分の中では意味のないただのアヘンとしての宗教ということではなくて人類を考えるうえで切り離せない宗教や神学というのが凄まじい必然性として迫ってきている感じなんですよね。で、まぁこれって宗教とか神学って簡単に言えるものではなくて膨大な量なんですよね。神秘主義なども含めたドイツ神秘主義もさることながらこれまた昔に研究しようと思ってやらないままだったイスラム思想だったり、あとは社会学的な宗教学ですよね。

 

こうなってくると社会学の分野としての宗教学というのは基礎的な社会学の知識を必要とするので社会学をちょっと齧った程度の自分の知識じゃダメだなっていうのもあって社会学も勉強しようと思っているんですけど量が凄いのでそこは宗教社会学に関係してくる社会学に一旦は留めておこうかなというのはあります。

 

あとは京都学派ですかね。西谷啓治ニヒリズムの本を読んでバカみたいに頭が良いなというのを感じてやはり京都学派の知的精鋭感というのが凄いなって思ってて、んでまぁ京都学派って宗教研究している人も多いんですよね。で、そういうところもああいう年代に研究していた宗教学とはどうだったのか?っていう教科書的な意味合いではなく歴史的な意味合いで考えるのも面白くて、そこで京都学派のメインみたいな人だった西田幾多郎鈴木大拙なんかと交流があってというか交流っていうレベルじゃないぐらいの交流があって禅的な無とエックハルト的な神学的な無というのが全く違うコンテキストから極め切った一つの論理的帰結として無に至っているというのも宗教的な必然性を感じるというか、そこは宗教どうのというよりも意味に生きる人間にとってどう神を見出すのか?というところにかかってるみたいなところがあるんですよね。

 

これは完全に内面的な意味合いのことで世俗的な宗教や宗教活動や団体などとは関係が無い思想としての宗教と神ということですね。京都学派なんかにしてみればというかあの世代のガチの哲学者にしたらこんなの当たり前のことだったんだろうけど自分の宗教への理解の浅さと宗教的なものを低く見ているというような、ある意味でのポストモダン的なニヒリズムとかも含めてといってもポストモダン哲学者なんかも当然聖書は経由してたりするわけなので、平均的な日本人がポストモダンとか言い出すときにそこに恐ろしい宗教的無知というのがあるんだろうなっていうのを自分自身がまさにそうなのでそれを痛感しているんですよね。

 

そういう意味で思想的な意味での仏教は結構勉強した感じがあるにしてもイスラムキリスト教に関してはさっぱりであとまぁ日本人的な感覚から言うと理解しづらいなんていうところもあったりしてだから今はよい機会だなと思っているんですね。これが自分の認識的な意味での宗教体験や認識のレベルを上げる知的体験になったらいいなっていう思いはあるんですよね。でもそれは色々と困ってるから宗教に助けを求めるというようなことではなくて自分の哲学なんかも含めた学問的な経験の地続きの次のステップとしてあったらいいなと思っているんですよね。

 

ただまぁ「これだ!」という感じって分かりますよね。僕は「これだ!」という感覚のみでやってきてるみたいなところがあるので今はまさにキリスト教にこれだ!というものを感じながら宗教学全般にも興味がいっているという感じですね。

 

長くなってしまいましたが聖書を読んでなおかつキリスト者と会話もしたことがある通りすがりさんとやり取りができてうれしく思います。自分の中では言わばこれも宗教体験なんですよね。私的で主観的なので客観性はないんだけど主観的な意味合いとしてはそれに属するという感じです。

 

あ、あと書き忘れましたけど通りすがりさんがおっしゃるような「悪用」ですね。イスラム教がなんであんな自爆テロに繋がるのか?とか逆にカルトとかの場合、精神的に弱っている人を見つけて一気に洗脳するっていう方法論があって分かりやすいんですけど文化的に根付いている宗教からそれがなぜ戦争になるのか?っていうロジックですよね。それは別にイスラムに限らず宗教全般にあることですよね。まぁあと世俗化してキリスト者とは言えないような神父ばかりが跋扈するような教会とか何も今に始まったことではなくて昔からそうだったというのも凄く興味深いところなんですよね。

 

むしろこういうところになるとイデオロギー的な悪用と個人による誤読っていうエクリチュールなり神学的体系というのが誤って解釈されたものというのがドグマの上塗りをしていくというようなループですよね。仏教なんかも結局は原始仏教以来はそういう流れだし、ただ仏教は全然許容できるというか歴史的な進歩と言えるような形態が変わるっていうところがあると思うんですけど、それに比べるとイスラムキリスト教などの劣化はダビングを繰り返して映像がなんだか分からないような裏ビデオみたいな不穏な感じがあってそこは凄く気になりますよね。

 

多分こういうところを理解しないと現在起きている戦争なんかも理解できないだろうなって思ったりして、でもまぁそれはよくよく考えれば自明なことなんだけど全然勉強しようとは思っていなかったというか、関係ないことだって思ってたりなんかして、でもまぁ関係なくはないんですよね。それは世界情勢に目を向けるというような視点を広げるみたいなことではなくて個人的な意味論とか苦悩とか思考のプロセスが必然的に視野を広げるきっかけになるというような契機ですよね。

 

やはりそういう意味で僕は思想的なものが好きなのでそういうところに惹かれるというのがありつつ私的な意味合いだと宗教的なものを意識せざるを得ないような経験があったりとかしてそこもまた面白いところなんですよね。

 

なんか色々と長くなってしまいましたが現在の読書ラッシュと共に聖書もコーランも通読しないとなとは思ってましてまぁ本当にギターの練習ぐらい長丁場を覚悟している感じですね。ただまぁ本当に数週間前まで超絶的に調子が悪くてニヒリズムどん底にいたはずなのに一気にバリバリキレキレモードになったりしている現在のインプットと体験の強度といったらないですね。凄まじい強度です。

 

そんな感じでまた何かあったら是非書き込みください!