クレジオさんと通りすがりさんへの返信。

クレジオ


はじめまして。クレジオといいます。ミミセミさんのブログは今年の九月に見つけて以来、過去記事を含めて読ませていただいています。更新されるたびに欠かさずに読んでいます。

 

僕の理解が正しければですが、ミミセミさんは人生といいますか都市や社会でのいわゆる「普通の生活」に虚無感を抱いていらして、その虚無感に対抗するために日頃様々な趣味に時間とお金それからエネルギーをつぎ込んで現代の高等遊民のような生活スタイルを確立していらっしゃるように思います(ギター、数学、思想、弓道、ゲーム)。

 

僕の考えていることや、僕の生活が今抱えている問題や困難がミミセミさんが直面し解決し続けていらっしゃることに関わると思い、文章として僕のことを少し書き込ませていただいて、よろしければミミセミさんが僕の生活についてどう思われるか、コメントいただければ思います。

 

僕は、国立大学の文系学部に通う大学2年生(19歳)です。少し冗長になりそうですけれど、少し過去に遡って僕の思想や精神が歩んできた足跡を文章にしたいと思います。

 

大学入学した頃僕はITに興味があって、流行の起業をしようと考えていました。ですので、サークルはそういう社会活動をするような学生団体に入りビジネスパーソンに営業に行ったりしました。それからくわえて、個人的にもハッカソンや学生起業イベントに参加して、名刺交換(自分でつくって)をして社長さんやプログラマーの方など、大人の人たちと話をする機会がたくさんありました。

 

その頃の生活というのは、朝起きてプログラミングの勉強をコーヒーを飲みながらやって、大学の授業はいい加減に(単位はきっちりとりますが)受けて、講義が終わった後は学生団体の活動(だいたい三時間くらいの活動が週に三回ありました)に明け暮れ、休日はフェイスブックツイッターを使って知ったイベントに参加したり。読む本といえば、自己啓発本ロジカルシンキングのようなビジネス本とプログラミングの教本ばかりでした(RubyPythonやC)。

 

そんな生活を冬まで送っていたのですけれど、ふと、なんだろう霊感とまではいいませんが、途方もない虚無感に襲われたんです。何やってるんだろう、僕はこういうビジネスマンや社長や起業家になって、効率やコスト削減(だいたいのビジネスは時間かお金を従来よりも削減するか、人の満足度というか快感を与えるものだと思いました)を実現するためにあくせく仕事をして、仕事終わりには酒を飲んで、休日になると話題の映画を見たり海外にバカンスに行ったりして、そうんな生活を送りたいのだろうか。

 

違うな、と僕は思いました。こんなことを言うとあまり良くないのですけれど、それまで出会った大人の人たちの考えていることが少し淡白な感じがして、社会の鬱憤や目の前のワークをどう片付けるかばかりを考えて、人生だとか幸福だとか正しさだとか善、そう言う本当に人間として大事にしないといけないことを目下無視しているように思いました。

 

実際、かなりえらい社長(社会的に認められている)に、どうして仕事をしてるんですか、みたいな質問をしまくったことがあるんですが、もらった回答が、だいたいはそう言う答えが出ない問題は考えないようにしてる時間の無駄だから、のようなものでした。そうでない答えも、なんだろう、僕にとってはしっくりこないものでした。

 

こんな感じで大学一年生と言う時間をかけて、目標としてきたことや目指していたものがバラバラと音を立てて瓦解して、別の何か、価値のあるものを追い求めたいと思ったのです。ですから、冬のくれ、僕はこれまで時間とお金を費やしていた起業活動や学生団体をやめて、読書を始めました。

 

まずやり始めたのは、哲学です。ちょうどその時期にとっていた講義の中で哲学の講義があって、そこで出会った哲学者の先生がものすごく自分にとって輝いて見えたので、その先生の本や講義で配られたプリントを参考にして、とりあえず哲学史とフランスの哲学者のアラン、プラトンを読み始めました。ひたすら、読書、読書の生活を送りました。

 

哲学史の本をいろいろ買ってきて、最終的にはオックスフォードの分厚い洋書買い込んで読みましたね。で、プラトン岩波文庫でババっと読んで、アランは白水社から出ている著作集を買い込んで読みました。そこからデカルトの合理主義、シモーヌヴェイユ神秘主義や政治論、科学哲学、現代思想、消費社会論(ボードリヤール)と進んでいきました。

 

そんな生活を、今年の二月ごろから九月まで送りました。本を読んで、線を引いて、ノートに本の中からテクストを取り出してきて、その下に自分の思考を展開する。それをひたすらやる。そう言う生活を送ってました。

 

で、九月中旬ごろですが、また、これも違うなと思いました。哲学は確かに面白い、けれど哲学で説かれる真善美は、所詮、一つのフィクションに過ぎずなんら普遍性もパワーも持ち得ないのではないか、と。哲学史なんか見てもそうですし、哲学とは何かみたいな本を読んでも書いてあったのですが、やはり永遠不変の真理は存在しない、哲学者一人一人が打ち立てた哲学体系を深く理解してそれを現代社会に適応するのが哲学だ、と。そう考えると、なんだかものすごく虚しくなってしまって、だったらもう、人間としての善だとか正しさとか考えないで、ひたすら世界に存在している趣味という趣味をしらみつぶしにやっていこうと思いました。

 

もちろん、僕のような青年が哲学をきちんと理解しているとは思いませんし、かけた時間もごく些細なものだと言うことは重々承知しています。けれども、直感としてこれじゃないな、哲学がやってることはフィクションを創り上げてそのフィクションをあたかもありがたいもの正しいものとして文章に組み込んで自説を主張する根拠にしてるかんが(特に日本の文壇が創り出した文章や、現代思想を振り回す日本人)あって、虚無感を感じてしまいました。

 

哲学書を読む量を減らして、文学(小説も書きます)、音楽(クラシック、ジャズ、洋楽)、絵画、ゲーム(PS4スマホゲーム)、アニメ、そういう多くの人が楽しいと感じる趣味をひたすらやっています。それが、今の僕の生活です。

 

文学も集英社の文学全集88巻と、筑摩の日本文学全集、音楽もジャズやクラシックのCDボックス買い込んで、絵画も死ぬまでに見ておきたい1001だとか西洋絵画図鑑だとか、物質的な所有もかなりあって、毎日読んだ入り見たり聞いたりしています。村上春樹的な生活です。ゲームは昔からあまり好きではなく、それでも改めてPS4買ってモンハンやドラクエやをやって見たのですが自分にはゲームは合わないようで、すぐにやめてしまいました。

 

村上春樹はそうして何十年も生きてこられたようですけれど、僕の場合、どうも(こんなことを言うとかなり生意気ですが)世界にある趣味というものをあまり楽しめないようなのです。何をしても快感が得られませんし、深めると言ってもかなり自分に鞭を打たないとエネルギーを費やせないようです。

 

それで今、少し精神がおかしくなってきていて、自生思考がひどくなったり感覚過敏になっていたり、何をやるにもやる気が出なくなって大学にも出られなくなっていたり、不眠症になったり。それで、精神科にも複数行ってみたのですが、統合失調症うつ病といった類のいわゆる精神的な異常ではなさそうだ、ひょっとすると言語性I.Qと動作性I.Qのバランスが悪いのかもしれないから詳しく検査しましょうとだけ言われました。検査は、年明けにやります。

 

ですが、僕は思うのですけれど、上に書いたような自分の存在に関わる問題は精神科よいうよりも、文学や哲学や芸術というもので解決しなければならない問題だと思います。あるいは、自分の生活を変えるというものになるかと思います。

 

自分は存在する意味だとか意義だとか価値だとか快感だとか、そんなもの、微塵もないじゃないか。だったら、これから80年近くどうやって何をやって何を生きがいにして、
呼吸を身体と精神が支えるのか、と思うわけです。苦しみしか先には待っていないような気がする。でも、生きねばならぬ。そういう義務というか、権利というか。じゃあどう生きるのか、何を仕事にするのか。

 

皮肉にも、僕が哲学や文学を少しかじって見て気がついたのは、絶対的な真善美は存在しない、人間という存在を維持できるのはひとえに信じるという行為のみだ、ということです。ですから、多分僕が感じる苦しみは何かを信じないことには解消されないんだろうと思うわけです。それは、都市が提供する記号か、異性からの性的な承認か、学問か、芸術か。

 

こんな問題が頭の中で意識がある間中、ものすごい速さで言葉としてくるくる回っていて、気が狂いそうになります(ひょっとすると言葉が頭の中で回るのは、これまで19年間ほぼ読書量皆無だったにもかかわらず、一年も経たない間に500冊本を買い込んで、図書館のぞいて読んだ本が180冊だったからかもしれません。多いか少ないかは、正直なところ周りに比較する友人がいないのでわかりませんが、一応の目安として書いておこうと思います)。その苦しさは、精神科で治療できるようなものではなくて、精神に文字や映像や音楽といった糧や薬を食わせることでしか、解決されないだろうと思います。僕の周りの友人には、こんな話をする人は皆無で皆サークルやバイトや酒宴に精を出しています。

 

それに、街を歩いたりテレビを見たりラジオをつけたりネットサーフィンをしても、なんだかすごく居心地が悪い。なんでそんなことをするのだろう、とすごい違和感に襲われます。いわば大衆や社会というものが僕にとってはすごく楽しくないように思えて、ますます社会不適合さを強めています。友人とも家族とも本質的には感じ方や考え方が違って、孤独を極めて生きます。

 

そういう違和感で、社会が間違っていて知識人たる俺たちが正しいのだというような軽蔑を懐けば楽になるのでしょうけれど、それも違うと思うのです。例えば資本主義は欲望や妬みをくすぐってるんだだからくすぐられる大衆はバカだ、とは思わないし、「そういうもの」だといわばエポケーでいるべきだろうと個人的には考えます。軽蔑すべきではないと強く思うが違和感や不快感を感じる。だからこそ、自分が感じる違和感や孤独感に自己嫌悪を感じてしまうんです。

 

あるいは、単なるロマンとリアルの間の埋めがたい距離に悩んでいるだけかもしれません。兎にも角にも、僕の趣味がないだの存在がどうのという問題を抱えて苦しむ自分は、異常なのかと思うのです。

 

このような具合に、19の僕の頭はパンクして破裂して、もうわけがわからなくなったので、日頃読ませていただいている(かなり生きる励みにさせていただいています)ミミセミさんに、自分の頭の中を晒して、コメントをいただければと思い書き込ませていただきました。ミミセミさんが間違っていると思われたのでしたら、ズバッと指摘していただければとてもありがたいです。

 

読み返して見て、あまり記事に関わりのない個人的なことばかり書いてしまったなと思います。場合によっては、哲学のために宗教をエネルギーを注ぐ、あるいは信じて救われるために宗教の世界に入る、ということにもなるのかなとも思っています。

 

すごくまとまりがなく、稚拙な文章ですが、返信をいただければ、とても幸いです。読んでいただきありがとうございました。

 

クレジオ

 

クレジオさん、書き込みありがとうございます。凄く興味深く読ませていただきました。そしてまぁそんなにお若いのに恐るべき知的エネルギーと思考力と行動力を持っているというところにもはや可能性しか無いなこのお方は!って思ったりしました。僕が19歳ぐらいの時なんて確かセブンイレブンかなんかでバイトしつつ変なノイズを作ったりダラダラ過ごしているだけで本当にどうしようもない生活を送っていましたね。まぁ音楽への情熱はありましたけど思想とかはマルクスなんかには興味は持っていましたが
難しすぎてさっぱり分からなかったのか、とにかくまぁそんなに真剣に読書もしていなかったと思いますね。

 

というかまぁ僕の19歳ぐらいの時の話はいいですね(笑)で、今の僕なんですが、クレジオさんがおっしゃるように所謂、高等遊民的な生活を確立して日々楽しくやっていたはずがコンテンツや世の中にあるものを消費し過ぎて遊ぶためのものが無くなっているというような危機的状況の中、日々もがいているという感じですね。

 

ところでそのクレジオさんが感じた虚無感というのは宗教臭い言い方をすればCallingなんだと思うんですよね。天職というよりかは啓示というか、まぁ認識的に言えば気づきなんですが、なんていうんでしょう、ビジネスパーソンとしてキャリアを築いた来た中でふと感じる虚無感といったような、長い職務の経験から来る虚無感みたいなものをある種の準備段階でもう気づいてしまったという聡明さですよね。別にそれはビジネスが間違いで意味や善について考えるということが人として正しいことなんだみたいなヒューマニスト的な価値観は別として、どちらが正しいか間違いかではなく、それはもう直感としてビジネス的なものを追い続ける生活に虚無感を感じてしまったということですよね。

 

大人たちの反応というのも妥当というか普通に社会でやっていく上で人間的な善や形而上学的な問いなんかは非効率的なものの代表みたいなものなのでそんなことに時間を割くのは無駄だと言うような反応が返ってくるのも必然的だなと思います。別にそれはビジネスパーソンに限らず特に何をやっているわけでもない人でもそんなことを考えてもしょうがないって思う人は多いと思うんですね。ただそれは考えない=人間性の浅さではないんですよね。社会に適応しようと思えばそんなものは邪魔なだけだし空気的にも仮にそんなことを飲み会とかで語りだしたら一気に引かれたりとか、それが普通だと思うんですね。

 

そこでまぁそういう場から離れて読書を始めたとのことですが、また驚いたのが壮絶な読書量もさることながら哲学への批判的直感が凄まじいなというところなんですよね。あ、クレジオさんのということです。大体そういう年齢の場合、思想にかぶれるわけなんですよね。僕で言えば二十歳あたりとかはバリバリのバカなタイプのマルキストです(笑)下手すると思考がそこで止まったまま永遠に浅はかなマルキストでいる人たちなんかもいたりなんかして、それがマルクスであれ形而上学であれ哲学体系であれ疑問を持ち始めるというのは大きな次のステップでそれは思考的な契機だったりするんですが、それをそれだけの短期間で得られたというのは凄いと思います。滅多にいないんじゃないですかね。

 

哲学も結局はフィクションの産物で絶対的なものは存在しないというのはポストモダン的態度であったりもしくはニーチェキリスト教批判なんかもそうだったりするんですが、結局そのフィクション性というのも特に僕が最近宗教関係の本を読んでいて思うんですけどニーチェにしてもニーチェの思想の多くは何気にその批判しているキリスト教に大きく影響されているんですよね。反何々・・・みたいなものはその反するという面ですでにその逆を行くかそれに飲み込まれないようにするための考え方だったりして、それは仮に反何々・・・であったとしてもその反するものに属するものなわけで、仮にニーチェニヒリズムの深遠を覗いたものがそれをどん底と思わずむしろ至上のものと考えてニヒリズムを契機に絶対的な価値観にコミットするというようなことも構造的には神学的で言わばディオニュソスを神とするようなある種の一つの宗教体系なんですよね。

 

で、そういう考えを敷衍しますと結局はスピノザの汎神論的なものも言わば神学体系なんですよね。マルクス主義キリスト教みたいなある種の宗教と同じような雰囲気を持っていたりマルクス教のような宗教性を帯びるのも、そこに神的なものが介在するかしないか関係なく、ある種のフィクションを定立させてそこに存在する価値観ももちろん論理的根拠があったりもするんですが結局はその価値観に定立するドグマになるわけですよね。

 

では神学的というか宗教的な匂いを持たない哲学はあるのか?っていうとぶっちゃけないだろうなっていうのが僕の考えで、クレジオさんはそんなお若いのにもうそれに気づいてしまったわけですよね。政治活動にしても例えば昔だったらマルクーゼみたいな、消費するばかりの社会や資本主義に反対するような思想をレペゼンするようなイデオローグがいたわけなんですが、まぁ言わばこれって教祖様みたいなものですよね。そういった運動を率いるイデオローグがいるということがもうすでにそれが宗教的な雰囲気を帯びてしまいますよね。ではその運動している人たちは個々の考えを持ってやっているのか?って多少はあるんでしょうけどイデオローグありきの、もしくは聖典ありきのものであると所詮はそれは宗教ですよね。極端な例を出すと毛沢東語録を持ち歩きながら色々な破壊活動を行っていた紅衛兵と変わりないですよね。

 

僕が「それは所詮はイデオロギーだよね」って言うことの多くはつまりはそれは聖典ありきの価値観による大衆活動に過ぎないっていうような軽蔑があるんですよね。反原発とかもまさにそうですね。逆に人権派なんてのもイデオロギーまみれですね。ヴィーガンとかに関しては昔からディスりまくってますがクソみたいにバカバカしいイデオロギー丸出しですよね。

 

じゃあ自分が依拠している価値観って何なんだ?っていうと結局はなんかだったりする場合がありますよね。ヴィーガンをバカにしてるけど実はスピノザ主義者であるというようなイズムを持っているという、ようは思想の支柱を持っているようなプリンシパルだったりするわけで、結局はそれもイデオロギー的であるという意味で無に帰ってしまうようなところがあるんですよね。僕がここ数年で感じているニーチェとか関係ないリアルな空虚感というのはまさにそれなんです。

 

哲学を勉強しなくなったのもそういうのがあるんですよね。恐らく過去ログに書いてあると思うんですが、まさに哲学なんつっても所詮は体系的な宗教だよなーって思ってたりしていた時に、まぁアメリカに居た頃なんですが数学との出会いがあって哲学を投げ出して一気に数学に没頭し始めたわけなんですが、結局数学も高等遊民的な生活を送る上での遊びのone of themでしかなくて、もちろんあと圧倒的な才能の欠如というか、普通よりかは得意だと思うんですがプロフェッショナルレベルが数学はヤバ過ぎるのでバカがやったところで何にもならないだろうなっていうような虚無感なんかもあって、まぁそこからも金融工学だの武道だの色々なことをやるわけなんですが、結局は消費するだけで生きる原理になるようなものは見つからなかったというか、もちろん色々やってきたことは身になってはいるんですが、虚無感から脱出することはできなかったんですよね。

 

で、そこでまさにクレジオさんがおっしゃるような、それは都市が提供するような記号や流行りやもしくは性的な享楽なのかなんなのか、とにかく色々と考えてはやってみたりしましたがどれもしっくりこないままなんですよね。で、もちろん現在のクレジオさんがとにかく面白そうだと思える趣味をしらみつぶし的にやっていこうと思うことに異論はないのですが、ぶっちゃけその道の先達である僕から言わせるとそこの先にあるのは消費してきた趣味の山があるだけで生きる意味や原理などは見いだせないということなんですよね。

 

それを解決できるのは文学や芸術なんではないか?というのはある種のニーチェ的なディオニュソス的思考法で、でもそれも色々とやってきた僕から言わせるとロマン主義的でヒューマニズム的過ぎてリアルな虚無感には全く歯が立たないというところが実際のところという感じですね。もちろん無駄だから諦めななんていうつもりはなくてまずはやってみなさい!没頭しなさい!っていうそこはもうここでいつも書くことなんですが、これ面白そうだな!って思ったら金とか時間とか気にせずに没頭するべきなんですよね。もしかしたらそこに生きる原理を見つけるヒントみたいなのがあったりする場合もあるわけで、ただ僕の場合、膨大な時間とお金と労力をかけてきてもそれはいまだに見つかっていないという現状があるだけで人によってはそれは違う場合もありますよね。

 

ただクレジオさんの僕が今感じている雰囲気で言うと僕と同じような感覚を持ってるなっていうところで多分色々やり尽くしても虚無感は残るタイプなんだろうなって思ってるんですよね。精神がおかしくなるというのも認知的斉合性が鋭すぎる認識によって言わば世界観が壊れてしまうが故に精神的に不安定になってしまうというところで、それはメンヘラだったり脳の異常というよりかはそこはまさにそこは精神医学とかではなくて、文学や芸術といった文化でなんとかするような領域だろうっていうところに僕は全面的に賛成しますがぶっちゃけまぁ処方箋にはならんだろうなというのが今の僕の考えと実感ですね。

 

特に文学なんかではそういった世界観が壊れるようなモチーフや発狂寸前みたいなテーマがあったりしながら書いてる作家も同じような実存的不安とか憂鬱を持ったまま自殺したり自殺とまではいかないまでも結局死ぬ直前まで生の肯定なんてできないまま死んでいった人たちが多いっていう気がしますね。逆にまぁ生きてるって素晴らしい!なんてことがテーマになっている文学なんて見たことないわけですが(笑)文学はそこまで読んでませんけど色々本を読んでいる中で生の肯定ができているものってほぼ無いに等しいと思っているんですよね。

 

もしくはステイトメントとして「こうなんだ!」っていう帰結があったりしてもそれを書いている本人はそれを実践できないまま死んで行ったり所詮は画餅だったというような実益が無いような理想論だったりして、まぁそこでニヒリズムの段階だと所謂なんていうんでしょう、キリスト教的なものがベースにあるような文化圏の場合、鋭い人は神は死んだ!というかまぁ神なんていないよねってことに気がついて唯物論的なものであったりもっとオルタナティブな思考を求めたりして、そこで所与の宗教とは別の超越的なものであったり形而上学に救いを求めようと思ったりして、そこでまぁ例えば西洋の場合、全く思考体系として経験が無かったような禅や仏教に傾倒したり、最悪な場合、オウムみたいなカルトに入っちゃったりしますよね。

 

ドミナントイデオロギーというものに嫌悪感を持っているのに結局は生きる原理みたいなイデオロギー的体系を求めてしまうというのが人間の性というか、弱さなんだと思うんですよね。そういう弱さに付け込むのは宗教は得意ですよね。クレジオさんが結局は何かを信じるしかないんだと思うプロセスは分かるんですけどそれは結局は超越的なものに救いを求めるというような意志に過ぎないんですよね。例えばそれは奴隷の場合というか僕がディスっている働くということを凄く正しいことだと思っているような人はめちゃめちゃ働いているということに信仰を持ってそれを軸に生きているわけですよね。

 

ソ連とか中国のプロパガンダなんてまさにそれなわけなんですが日本はとりわけ自発的にそういう思い込みに信仰を持っている人が多いと思うんですが、若い世代はだいぶそういうものに自覚的に気がついて生きる意味みたいなのを探している人は多くなっているという印象はあるんですが、ただそれは難しいことで青い鳥症候群みたいになってしまったり本当の自分を探す旅みたいなのに出たまま戻ってこないとかっていうことになってしまったり、言わばこれといった処方箋が無い中でどうやっていけばいいのか?というのに迷っている人は多いということですよね。

 

それは文化的にも当然今はハイテクな時代ですから宗教なんかが昔みたいな強さを持っていなくて、それでまぁ情報はすぐ手に入りますから原理だと信じたいようなものであったりこれなんじゃないか?と思ってもそうじゃないんだよねっていうことが瞬時にわかってしまうとかっていう分かることは良いことなんだけどそこで処方箋が無いというところに行きつくのが早いが故に悩んでしまう人たちが多くなってしまうっていう、まぁ都市化が進んでいたり所謂ハイテク化が進んでいる国ほど幸福度が低かったりするっていうのもこれだけじゃないにせよ理由は必然的な価値の相対化による結果というか、価値観というものが宙づりになってしまっていて、何も信じられなくなっているか、もしくは弱い人間は信じることに救いを求めようとしたりするか、ただまぁ結局どれも解決にはなっていないんですよね。

 

僕がニーチェ的帰結であったり禅だったり仏教的な無とかを解決法として禁止しているのも確かにそれを措定することで問題は解決したように見えるんだけど根源的に何の解決にもなっていないというか、現に生きることにダルさとか退屈や虚しさを感じてしまっている自分がいるということで何らかの解決に繋がるようなロジックというのを禁止しているというのもトートロジーみたいになってしまいますけど結局は解決にならないからということに他ならないんですね。

 

そこでまぁ今僕が神学や宗教を勉強しているというのも結局はニヒリズム的なものの研究というか自分の問題としてのニヒリズムというものから目をそらさないでいよう!と思った結果、そういう道に誘われているというところでまぁその誘われているというさっき書いたようなCallingを感じるということなんですね。

 

それはもちろん即物的な考え方をすれば認知的にそして直感的にこれはどうなの?と感じるような悟性だったりするんですが、ただ今までの僕の経験を考えても誘われているという感じを抜きに考えることが不可能なぐらいの「何か」の介在を認めざるを得ないものがあって、それは下手するとただのスピリチュアルだったりニューエイジだったりするんですが、そこはそもそも哲学を散々やってきた理性というのがあるので安易なスピリチュアリズムなんかに傾倒することはないだろうっていう自負がありつつもアレルギー的なまでの嫌悪感があった仏教とか善ではないドミナントイデオロギーとしか考えられないようなバカバカしいと思っていた西洋の宗教に誘われているというところに言わば出来事自体や世界を暗号として考えたときにそれが表れてきているという現前性にただ従うのみというか従ってみるというその流れに乗るという認識ですよね。

 

誘われているのかただの論理的帰結なのかそれはどうでもいいところで、ただ結局、個人の価値観でしかないんですよね。普遍的な価値観は無くて、価値観って結局勝ち取るものというかそこでピン!と来るところが所謂パッションと言われるような受難を経て絶対的な価値観に行きつくというような、別に西洋の宗教に限らない神話的体系の類型にヒントを得たりするわけなんですね。

 

そこで最近読んだ宗教哲学に良いことが書いてあって宗教を研究する上では全くそういうのに興味無いんだけど事象として歴史として研究したいというようなことは原理的に不可能で少なからず宗教体験や絶対的ではないまでも信仰というものがないと研究は出来ないというような、自分の宗教に対する能動性や経験が無いと本質的な研究は不可能だって書いてあってそれに凄く納得してしまったというか、まさに僕が誘われているという感じだとか、他の細かい個人的過ぎて書くようなことではないような体験とかも含めてそういった色々な積み重ねが現在の宗教研究に行きついているという風になるとそれ自体がある種の宗教的体験だと言えなくもないというか、そこを頑なに神なんているわけねーだろ!なんて否定しなくてもいいじゃないかっていうオープンな感じになっているというのはありますね。

 

ただもうこれっていうのは凄まじく個人的なことでしかも偶発性なんかも含めた産物なんですよね。人によってはそれが悲劇によってもたらされたり長年の悩んできた経験とか大きい事件なんかで気がついたりとか、そういう生きる原理とか生の肯定に繋がるようなものに王道は無いというところなんですよね。そこにはもう個人的過ぎる体験しかなくて、でもそれは別に神秘体験とかではなく、結果的に生きようという風に思ったきっかけになるような出来事とかそこにまぁ文化というのが介在する場合もあるということですよね。それがまさにクレジオさんがおっしゃるような芸術や文学である場合もあるということなんですよね。

 

ただまぁこういった知的行為とか認識を求めるような求道性というのは社会との相性はすこぶる悪いでしょうね(笑)社会不適合者になってしまうのは必然なんですが、逆に僕はそういった人間としては凄く真っ当なことを考えているのになぜ社会不適合者になってしまうの?っていうような、そういう人間として生きる上で本質的なものを求める姿勢というのが社会との相性の悪さとなってしまうというような社会の在り方に疑問を持つわけなんですよね。というかまぁ社会が出鱈目だらけであるというのは自明でそれはさすがに若い時の自分も気がついていましたね。

 

だからそんな出鱈目なものに適応してたまるか!というような反骨精神と言えばかっこいいんですがまぁ反骨精神というのも例えばパンクスピリッツとかって言い出すとそれも結局類型でイデオロギー的で宗教的なので個人的に抗うということしかできないわけなんですが、それに抗い続けるということが自分の求道なんだなというのは自分のミッションとして自覚しているというのはあるんですよね。ただそれはもうデフォルトになってしまっていて適応するということがありえないことなのでもはや無自覚なんですけどね(笑)

 

ただまぁ世の中的に若い人を中心にクレジオさんレベルの認識とはいかないまでもそれってどうなのよ?って疑問を持っている若い人は昔に比べたら多くなったと思うんですよね。あとはそれってどうなのよ?って言っていた人に触発されていや、本当にそうだよねって思いながら育った人たちが成人していたりするというような、ある種の社会的ヘリテージみたいなのもあったりするんだろうなって思うんですね。

 

で、ちょっと話を戻しますと、今も僕はそういうニヒリズムに飲み込まれながら色々とあがいているっていう、高等遊民と言えば聞こえはいいんですけど最近よく書くように副産物として高等遊民すぎるとコンテンツを消費しきって何も無くなるというようなことがあるんだぜっていうところで結局実存を問われてしまうというような根源的な問題に必然的に結びついてしまうっていう、ただまぁその中で色々やっても結局こうなんだよっていう経験談と実際に長い時間とかお金とか労力をかけてこうなんだよっていう実体験とは全く別なので僕みたいにやり尽くしても何もないんだぜっていう人間の話も聞きつつ自分もやれる限りの楽しそうなこととか気になることはやり尽くしてみるということは絶対に必要だと思うんですね。

 

ただまぁそこで孤独の問題があるんですが、そこまでの実存的不安とか問題にまで行きつく人はそんなに多くはないのでそれに気がついてしまうとどんどん孤独感が増してくるというのはしょうがないことなんですね。今まで親しかった人たちと全く話が合わなくなるというのは悲しいことである反面、言い方は結構キツいんですがそれだけ自分の認識のレベルはあがっているということなんですよね。特に真理みたいなものにコミットし始めると話が合わなくなるというのがもう当たり前になるのでそういう道を選ぶと孤独なんてのはデフォルトのもので根源的なニヒリズムや実存の問題と比べれば大したことないという風になってくると思うんですね。

 

ウォール伝をやっていて書き込みをくださる方でそういった方は凄く多いんですよね。そういう問題に気がついたのはいいんだけどどんどん孤独感が増してくるとか周りと話が合わなくなるとか、そこで僕がよく言うのは僕を筆頭にっていうとアホみたいですが(笑)むしろそういう問題に取り組んだり解決しようとするような前衛っていうのがいて同じく迷っている人たちというのは大勢いるといってもマイノリティですけども一人じゃないっていうことなんですよね。もちろんリアルで周りを見れば孤独なんですが今はネットがあるわけで、例えば変なたとえになりますけど性的倒錯者なんかがリアルではこんなド変態なのは俺だけなんだよなーって思ってても変態フォーラムとかを作って見ると同じような性癖の人が集まってくるというので意外にこういう変態って多いんだなって思ったりするわけなんですよね。

 

まぁただその実存問題というのは文学のテーマになっていたり映画とかにもなってたりするんでポーズで実存問題に悩んでいる自分というのを演出してるような人たちもいると思うんですけどまぁ例外なくそういう人たちは本質的には悩んでいないので浅いわけですよね。で、まぁリアルの悩んでいる人たちというのは本当に精神科や心療内科に行くしかないっていうようなレベルで悩んでしまっているわけででもそれは異常でもなんでもなくてむしろ知性や感性が優れているが故のものだっていう風に考えることは凄く問題を考えていく中で重要なんですよね。全く他の人が周りを見る限りそんなことで悩んでいるなんてことが無いような悩みをこじらせて心療内科とか精神科に行くなんて完全なアウトサイダーだっていう感じがしてしまうと思うし、精神科とか心療内科ってまぁ今でもネガティヴなイメージがありますよね。通ってるだけでもう負け組みたいな感じですよね。

 

でもまぁ全然そんなことはないんですよね。少なくともそれは僕やクレジオさんにおいては精神が健全であるが故に社会との折り合いがつかなかったりそれこそ即物的な薬とかで治るようなものでもないので心療内科とかに通うことになってしまうんですが、それは病んでいるのではなくて虚無感と戦っているが故のものだっていう風に考えることは必要ですね。まぁ僕はそれとは別に実存問題とか関係ないレベルでの気分障害とか他にも不眠症とか書けば腐るほどあるようなメンタル系のディスオーダーがあるのでぶっちゃけ大量の薬を飲んでいるというのが現状なんですがいつも書くように客観的には完全に狂ってると思うんですね。

 

心療内科に通っていて大量の薬を飲んでいてしかも急に神学がどうのとか言い出している社会不適合者ってまぁ記述だけ見れば完全なる狂人ですけど内容は極めて真っ当というか人間的であるが故にそうなってしまっているっていう、むしろ健全すぎるからこそ悩んでしまうっていうところがあるわけなんですよね。そこを結果的に心療内科とかに通うようになってもそこにネガティブなイメージを持つ必要はないんですよね。

 

まぁ端的に言ってしまうとそういう悩みや頭がグワーッ!としてしまう混乱とかも含めて結局は真理に向かうプロセスでの苦難ということだと思うんですよね。苦難が無いところに真理はないというのは神学関係でよく語られることですし、別に神とか神学とかを介在しなくてもまぁそもそも哲学者って色々考えすぎているから精神的にまともだった人とかって逆に少ないわけですし(笑)その辺の悩める力とかっていうのは一種の才能だと思って矜持として認識するのがいいと思いますね。

 

まぁこれは開き直りとかではない真実ですからね。大抵の人はそうは思わないだろうけどそういうところは他の人がどう考えようが関係ないわけですよね。ただまぁ救いっていうと宗教的ですけどまぁ即物的に書くとRewardっていうことなんですけど色々と悩んだ末にいつになるか分からないけど得られる認識というRewardは文字通りプライスレスなもので自分の人生の凄まじい無形の資産になると思います。まず損はないと言い切れますよね。苦難は多いんですけども。

 

発狂寸前になるぐらい読書ができるとか思考ができるというのは体感的にこのまま狂うのでは?みたいな恐怖感があると思うんですけどそれは知的な凄い契機なんですよ。逆にそのぐらい知的なものを渇望していても凡庸なまま終わってしまう人というのが大半の中で、そういった問題意識から頭がパンクするぐらい読書ができるというのは恵まれているというか、体感的には幸福!という感じではないんですが、それ自体が言わばチャンスなんですよね。

 

そこでまぁベタな言い方になりますけど色んな意味で不幸になるかもしれないけど真理を求めるか、虚構の中で体感的にfeel goodな表層的な幸福感のために生きるのか、映画マトリックスの選択みたいな感じなんですが真理を求めたほうが人生の価値は高まると思うんですね。体感的な幸福というのは言わば刹那的なもので行き過ぎればそれはただの快楽主義になるし快楽を求めれば求めるほど快楽は無くなっていきますから結局、結果が幸福になるか不幸になるかは関係なく真理を求めるような知的態度で生活したほうが人生のクオリティが上がると思うんですね。これから先、あの時にああいう知的な苦労があったりしたから今の認識があるんだなとかこういうことができるようになっているんだなって感じることが多くなると思うんですね。快楽に没落しているとその時はいいですけど後にはぶっちゃけ何も残りませんからね。もちろん快楽自体が無駄だとは言わないんですけどね。

 

クレジオさんの選択としては今のところやっぱり虚構だと分かっていても哲学や芸術や文学や宗教などを掘り下げるというチャンスがあるわけで、そこは現状の虚無感をすぐに解決するということではなくて、虚無感を抱えたままその心の引っ掛かりを手掛かりに色々やっていけば何か見つかるときが来ると思います。それが学問なのか宗教なのか分かりませんけど「これだ!」って思うものが見つかる可能性は高まりますよね。ましてや学生なわけですからそういうのを掘り下げるって言わば勉強するということになるので学科の勉強とは違うかもしれませんけど社会的にも十分なぐらいのエクスキューズがありますよね。就職したりしていると結構厳しかったりというか会社を辞めざるを得なくなったりとかする場合もあると思うんですけど学生の身分なんですからそれをフル活用して道を切り開いてみてください。


普通か異常か?みたいなのってまぁミシェル・フーコーの著作なんかを読めば分かると思いますけど凄く恣意的なもので例えば僕なんかで言うと自分的には認識的にどんどん深まっている気はしますけど世間的に見ると狂気度がより上がっているとしか見えないわけで(笑)普通か異常か?なんてのはどうでもいい話なんですよ。常軌を逸していようが例えば芸術でも文学でも思想でもいいんですが究極ぐらいのレベルまで極めてしまえば社会も認めざるを得なくなったりすることもあると思うんですよね。

 

まぁ永遠と異常者扱いされる場合もあるとは思いますけど、基本的にそれを考えると人間的には真っ当な実存への問いを問い続けているという立場が異常とされるなら、はっきりいってそれを問わないで表層的なものばかりに囚われている世の中のほうが異常ですよね。その辺はまさにプラトンの洞窟の比喩そのものなんですが、そういった意味で知的に逸脱することへの恐怖感というのは最初はあると思いますけど慣れてしまうとデフォルトになりますし歴史的に見ても偉業を成し遂げているのは変人だらけなので(笑)逸脱することの問題は問いがまともである限り問題ないと思います。

 

・・・とだいぶ長くなりましたがこんな感じです。もし返信やコメントがあればまた書き込み宜しくお願いします!

 

通りすがり


返信ありがとうございます。 「これだ!」という必然の感覚は、とてもよく分かります。 自分の苦悩/問題系と響く直感だと思っています。 キリスト教に関しては、ひまがベースにあった為、必然性はありませんでした。 一方で、色々と見聞が得られたのは、彼らの熱意に依るところが殆どだったと思います。 感覚の地続きについては、言われてみれば、この感覚を核にすると西洋哲学や歴史が読み取りやすい気もします。

 

日本人の宗教的無知に関する一節をもらいましたが、これは経験的にわかるかもしれません。 あくまでも経験の範囲内ですが、日本の"キリスト教信者"やアジア系キリスト教コミュニティに触れた時は、この感覚を覚えることが無かったので、何かありそうです。 日本人の哲学の取り扱いについても、同じ何かがありそうです。 個人的には、儒教的な親子/上司部下/夫婦/先輩後輩/同僚など、現世的な間主観性が前面にでる生活道徳が、無意識にキリスト教的な焦点を結ぶことを阻害していると考えています。

 

「世界は暗号だ」というフレーズには、初め Intelligent design を想起しました。 しかし、ここではシンプルな一元論的ではないと思います。 解釈者としての実存は、わかるようなわからないような。 私は怠惰なので、"未来の解釈を減らすための、今の解釈"、または、"詩"なら、なんとなく腑に落ちるのですが、 "常に解釈し続ける"態度は、ピンとこないものがあります。 社会学イスラム教も、良くわかっていないのですが、 キリスト教自体、植民地支配と結びつきがあるので、イスラム教と同じく過激だと認識しています。

 

信者が直接手を下すことはあまり無い思うのですが、アメリカの保守層がトランプを生んだことを考えると、今でも間接的には過激だと思われます。 暴力の表出の仕方には、教義が関わっているかもしれません。 京都学派は、全くわからないので、申し訳ないのですが飛ばさせてもいます。 劣化ダビングの問題については、時代に合わせて神話を作り直すと言う意味では、普遍的なのかもしれません。今もやってますね。 オリジナルを保存しているか、と言う意味では、ライブ(ソクラテスブッダ、キリスト)を録画した時点で、既に断絶があるのでしょうがないですね。

 

確かに日本の儒教的な感じというのはキリスト教的なものと相反するものが多いかもしれないですね。それが良い悪いではなく単純にそれが国民性や文化だと言えばそれまでなんですが、僕らもそういう文化の中で育っているので逆にキリスト教がベースにある文化というのを生活レベルで理解しづらいというのがありますよね。

 

それを敷衍するとそういった国民性や文化で育った人間が読む西洋哲学だったり西洋文化だったりするのでその理解の仕方が独特なものになるという可能性があって今の僕はそこにキリスト教ベースの考え方から見た通りすがりさんがおっしゃるような現世的な間主観性を手に入れたいなと思ったりもしているんですね。グローバルな観点とかって言いますけど別に劣悪ではなくグローバルが意味するところは今のところ西洋が大半なのでキリスト教的な文化ベースというのは別に宗教学や哲学に限らず理解する必要があるんだなって今さら気がつきましたね。まぁ本当にこればかりは興味が無いものに関してはどうでもいいという感じなので理解しようとすら思わなかったことでもあるんですけどね。

 

僕は今のところは敬虔に真面目に教えを学んでいればそれが暴力や支配に繋がるようなものではないとナイーヴに考えているのでコーランにせよ聖書にせよそれがいかに誤読されたり歴史的に書き換えられたりしてそれが戦争に繋がったり何かを支配するというような思想に繋がったりするのか?っていうところにも凄く興味があるんですよね。まぁカルトにすれば例えばオウムなんて色んな密教とかのミックスアップなんでしょうけど結局まぁテロやりましたし他のカルトでも集団自殺したり事件起こしたりとか宗教的なものが持ちうる暴力性というのがどういうものなのか?というのが気になりますよね。

 

もはやそれは暴力とか戦争に繋がっている時点でもう宗教じゃないと僕は思うし、かといっても人間を律するための道徳律としての教えとかっていう全てを人類に還元してしまうようなものでもないと思うし、その辺は勉強しないと分からないところだと思うんですけどまぁ通りすがりさんもおっしゃるようにアメリカの右派はヤバいですからね。IQの低さと宗教の関係性というのも恐らく学術的には大っぴらに出来なさそうな感じがありますけど明らかに相関関係がありますよね。バカの心に響く換骨奪胎されたドグマということですよね。言わば悪用なわけなんですが、宗教というともうこういう胡散臭いイメージしかない現代においてしっかりとした宗教の理解というのは世界を考えるうえで必須なことだなって思ったんですよね。

 

あとそういう宗教が起こしてきた歴史的な暴力や侵略や戦争というのを神学者たちはどう考えていたのか?みたいなのも気になりますよね。まぁとにかく今は色々なものに手を出して勉強している感じなんですがまだこんな知らない大きな分野があったのか!なんて改めて感動したりしていますね。