ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/ジーザスの徒による日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

ひたすらインプットな日々。

南直哉さんの超越と実存っていう本を読んでるんだけどっていうか小林秀雄賞を取ったのか!ってまぁ小林秀雄自体は全然好きじゃないっていうかああいう知的スノッブな感じの人がむしろ大嫌いなんでどうでもいいんだけど南さんの本がメジャーな賞を取ったというのは凄いな!と思ったっつーのもくだらない本ばっかが出版される中で南さんの本って絶妙なエンタメ性がありつつシリアスで学術的過ぎないっていうバランスがあってまぁようは作家としての才能が凄いっていうことなんだよね。

 

一時期っていうか実存的にヤバい時期って常にまぁそうであったんだけど帰国後の何年後かいつごろか忘れたけど南さんの本をまとめ買いして読んでたときからまぁファンだったんだけどまぁ久々に読んでるとまぁ改めて文章が上手いなーっていうか本っていう作品としての質が高いよなーってすげー思うと同時に改めて南さん的な問題意識を持つ人っていうのは本人も自分は異常なのではないか?って思ってた時期があるっていう中でブッダとか道元と出会うっていうドラマがあるわけなんだけどなんだろうね、哲学病とかとはまた違う青年期特有の実存的悩みとかではない根源的な悩みってのに悩まされちゃう人ってのがめっちゃ少ないけどいるんだよね。

 

で、南さんは仏教と出会えたことで色々と開眼することになったんだけど宗教的契機と考えたときに僭越ながら俺がキリスト教に開眼したのもようはヤスパース的な限界状況がマックスになっちゃってある意味ニヒリストとしての自分が死ぬっていう機会からキリスト者として生まれ変わるみたいなドラマティックに言うとそんな感じになるんだけどこれってまぁようは南さんの場合もそうなんだけど根源的な宗教的契機ではあるんだけど世俗的な宗教とは違うんだよね。

 

っつーのも南さんが対談したことがある偉い坊さんとかでもなんで出家しようと思ったか?っていうのを質問したときにようはそれが切実な実存的問題っつーよりかはただの就職だったっていう人も少なからずいてっていうかまぁ僧侶っつってもそりゃキリスト教もそうだろうけど例えば実家が寺で継いだとか家がクリスチャンでまぁ日本だとあんま考えられないけどまぁ割とカトリックの神父になるみたいな道はあるっつーことで宗教っつーより惰性みたいな感じでそれを選んだっていう人がむしろ大半だと思うんだよね。

 

まぁ職業的宗教家ってまぁそういうことだよね。だからまぁ生臭い胡散臭いのが坊主でもキリスト教カトリックとかプロテスタント問わずに僧侶でも全く宗教性を感じない俗人中の俗人みたいなのが職業として僧侶になってたりするんだけどまぁそういうのってまぁ制度としての宗教だよね。

 

だから逆に根源的な宗教的契機みたいなのをきっかけに開眼するみたいなのっていつの時代もレアだったと思うんだよねといっても昔の場合、死がより身近にあったり今ほどちゃんとした社会じゃないっていうとあれだけどまぁ原始的というかプリミティヴだから開眼しやすいとかもっと宗教が制度というよりリアルなものとして存在していたっていうことがありそうだけどただまぁそれも仏教にせよキリスト教にせよ歴史を見ると俗化してどうしようもなくなってるのって割と早いんだよねっつーかもう中世とかですでにそうなってるっていうかね、そう思うとガチで宗教に目覚めるってのは本当にレアなケースなんだと思うわけなんだよね。

 

んでまぁ南さん曰く相手が偉い坊さんだろうが基本的にその契機が切実な実存的問題だったりしない場合、「あ、こいつ俺とは関係ないな」ってすぐ思ってスパっと切っちゃうらしいんだよね。あ、そういう感じなのねってまぁ同じ仏教者でも距離を置くっていうとアレだけど違うベクトルだなって思うらしいんだけどむしろあれなんだよね、南信者みたいになり過ぎるのもアレなんだけど基本的にリアル宗教って南さんぐらいの切実な実存の問題が無いとむしろシリアスに修行なんてしようと思わないだろうっていうまぁ色々と出家する理由はあるんだろうけどそれ言い出すとまぁ哲学もそうだよね。

 

考えなくてもいいようなことを考え続けてしまうみたいな持病みたいなのがエクストリームになり過ぎてそれで食うとか生活するとかっつーのと関係ないところでただ意識とか実存とか人生っていうことにおいて取り組まざるを得なくなるというかね、ただまぁそれでも大半はそう見えて実はただの青年にありがちな一過性の哲学病だったりあとまぁなんか大学行って専攻しなきゃいけないっつーんでかっこよさそうだからとか面白そうだからみたいな適当な理由で哲学科に進むだとかまぁそんな中でリアルに開眼する人もいるにはいるんだろうけどまぁ稀だよね。

 

逆になんつーかそれがシリアスになり過ぎる人ってのはようはアウトサイダーだよね。アウトロー的な意味じゃなくてマージナルな人ってことになるよね。もうそれが気になり過ぎて生活どころではないというかそれについて考えたりなんかしらのヒントを見出すみたいなところから抜け出せないっていうまぁもちろんその中に知的快楽とかってのもあるしまぁ俺の場合、快楽主義的だったんだけど実存的な問題な切実にリアルになったのってまぁぶっちゃけ帰国後だよね。

 

アメリカに居た頃は数学に目覚めたってのもあるしなんかとりあえずそれなりに悩んでるんだけど日々のお勤めっていうか学校に行くだとか宿題をやるだとかっていうような今思えばただの雑事なんだけどまぁそういうのがあると永遠と実存の問題に向き合うってことにもならなかったりしてまぁマイルドなんですよね。生活があるとある意味考えるっていうことから離れるというか考えてばかりもいられないっていう目の前のやらなきゃいけないことをまずなんとかしなきゃいけないっつーところから実存の問題から離れることができるっつーかなんつったらいいか分からないんだけどまぁやることあると紛れるんだよね。

 

まぁんで帰国後はっつーと数学に没頭してた時期がまぁ長いからその間も別に実存の問題が無いわけじゃないんだけど数学に没頭するっていうことでまぁ当時も色々書いてたと思うんだけどまぁそういう問題と向き合わなくても没頭することでそういうところから逃げられるとか誤魔化しっつーとアレだけどまぁ夢中になってると優先順位がまず数学!ってことになるわけでしょ。

 

んでまぁある程度数学熱が冷めた後にもっていうか冷めてないんだよね。ただまぁ金融工学とか確率論とかが面白くなってっつー流れがあるわけでまぁ数学に救われてた時期ってのが相当長かったと思うんだけどまぁその後ですよね。その間にもリアルで色々あってただまぁプライベートすぎることが多いから書くようなことじゃないんだけどまぁ意外にアメリカの時並にドラマティックだったりしたんだよね。まぁ色々大変だったんだけども。

 

んでまぁそういう日々の大変さってのがだんだん落ち着いて来てまぁそっからですよね。散々いつも書いてたけど日々つまんねーなーっていうことばかりを言いだすようになってっつーかまぁ実際つまんなかったわけでまぁあと虚無感ですよね。ただまぁ武道やったりマーシャルアーツだの弓だのっつーその時々にハマれるものってのがあったんだけどまぁいよいよそういうのも尽きてきたなっていうときにっていうかまぁあれか、それがまぁギターからの燃え尽き症候群の後に超絶的にヤバくなった後にキリスト教に開眼してっていうかまぁ前にも書いたけどバルトのアレ読んでないなってことで読もうかって思い出したところからまぁキリスト教の基礎からやるかっつーんでやり始めてすぐに個人的過ぎるんだけど決定的な契機があってまぁ開眼したわけなんだけどこの差が何気に凄いんだよね。

 

バルト読むためにまぁキリスト教の基礎からやるのも悪くないっていうかまぁ暇つぶしにはなりそうだって思いながらまぁそれなりに楽しんでやるっていうところから一気にそうじゃなくてリアルに開眼するっていうところからの流れが激しいんだよね。まぁ数学の開眼の時以来の衝撃ですよね。まぁ数学もそうなんだけど数学の場合、繰り返しになっちゃうけどまぁ大学の入試試験っつーと大げさだけど学力テストみたいなので分数の計算すらもできないで小学校の数学の基礎から補修コースで受けるぐらい数学がダメっていうかまぁ嫌いだったんだけど数学基礎論のコースで集合論をやってからまぁ一気に開眼したってまぁそれは当時も散々書いたんだけどキリスト教にしてもある意味自分が数学に開眼するよりももっとありえないぐらいのもんだと思うんだよね。

 

もう生涯関係ないどころかサブジェクトとしては所謂宗教社会学的な感じでとかイスラムって何なのよ?っていうのがあってイスラム教を勉強しようと思ったっつーことはあったけど自分が主体的に開眼してそれを学ぶというよりかは信者としてキリスト教をやることになるっつーのはまぁ本当に数奇なことなんですよね。まぁそりゃそうだわな。元々マルクスから哲学入ったようなんでまぁそっからチョムスキーの影響とかでアナーキズムに傾倒したりなんかしてまぁ極左ですわな。

 

んでまぁ極左過ぎて逆にまぁそっからレオ・シュトラウスとの出会いもあって極左兼極右っていうまぁ簡単に言うと元トロツキストならぬ元マルキストネオコンみたいになってまぁそっから保田師匠との出会いがあってまぁあと311ですよね何より。日本との出会いというかまぁ日本なんだよなっていう必然性を感じたというかもうそれは体験ですよね。そういう意味でなんつーか全部が論理ではないんだよね。なんで?って言われると論理的な回答ができるわけじゃないんだけど自分としては必然性があるっていうことなんだよね。

 

まぁその最たるもんが今のキリスト教なんだけど今までの思想とか自分なりに切り開いてきたのってのが全部そこに繋がっているっていう断絶が無いんだよねっていうか地続きとしてのそれがあるんだけどただまぁそれは論理的な意味で必然的にそうなりますわなっていうところではないところでの必然性ってのがあるんだよね。ただまぁ思想的にグルングルン色々行った末にキリスト教に行きついたっていうことでもないんだけどただ客観的にはそうなんだけどでも行きついた先ということでもないなっていうところでもあったりしてそこがまぁ難しいところなんだけどそれも含めた体験なんだよね。

 

それを俺は自分の体験を持ってして啓示だと思ってるんだよね。だからそこに必然的な聖霊の働きってのがあるんだけどただ学問的にそれを真面目に論じようとすると結局はただのオカルトになりかねないっていうような個人的過ぎる体験なんだよね。でも神学者なり哲学者なりっていうのでまぁキリスト教的なことを述べようとしてきた人たちってのは必死にそれを言語化しようとしたり客観的に記述しようとしたりするんだけどそこに本質的な神のロゴスとしての真のロゴスっていうところとただの人間の言語としてのロゴスとの決定的な乖離があるんだよね。

 

そこが違い過ぎるから体験を持ってして言う人のロゴスに宿っているかもしれない聖霊的なロゴスの働きというのが啓示を受けていない人には全く伝わらなかったりするんだよね。かといっても分かる人には分かるっていうような理詰めのことでもないわけでんでまぁそこで南さんの本に一気に戻るんだけど超越と実存の中で南さんはブッダがどう悟りを得たのか?っていうのが教典を読むだけじゃ全く分からないって言ってるんだよね。

 

まぁでもそれってまぁそうでしょうね。悟りを得てニルバーナに至ったのでしたって言われても「は?」っていう感じでしょう。ただまぁブッダが生きていたような大昔と違って今はその悟りの学術的な解説書とか研究所ってのが山ほどあるわけで簡単ではないけど頑張れば理屈として分からなくもないっていう意味で論理的に理解できたりもするよね。

 

ただでもその理屈としての悟りと実際の悟りには恐らく大きな差があってここがさっき書いた聖霊的なロゴスとただの人間のロゴスの差みたいなのと似てるところで言葉としてはそうなんだけど例えばじゃあ認識としてとか体験としてそれはどうなっているのか?っていうのは記述は不可能だよね。まぁ可能なんだけど完全に伝わる誰でも分かる記述とか誰でも聖霊の働きを感じられるとかブッダの悟りが分かる記述ってのは
ありえないんだよね。

 

で、そこはまぁ最近ずーっとまぁおかげさまでキリスト教に目覚めてから毎日膨大なインプットの連続でインプット三昧で幸せな生活を送っているわけなんだけど俺がこの三昧になってるっていうのもようはその聖霊の働きというのを体験する前と後では全然意味合いが違ってくるんだよねっていうのがまぁとりあえず読んでないバルトを読むかっつってんじゃあキリスト教の基礎からやろうかなっつってやるっていう開眼してないながらもとりあえず興味があってやってみるっていうのでやるっつーのと開眼というかまぁ啓示を受けた後の体験が自明になった後の自分にとってのキリスト教とかキリストの言葉っていうのが全く違ってくるんだよね。

 

なんつーかこれは知性がどうのとかではないんだよね。いろんな体験とかまぁ人生経験とか積み重ねとかっていう中での偶発性としての啓示というかたまたまそれが体感できたっていうところから分かる聖霊の働きだよね。

 

まぁ胡散臭い宗派のキリスト教の一派とかだと「神様が来てるんです!」みたいなことを神父なり牧師がアジりながら教会の上からキラキラした金粉みたいなのを撒いてようはそういう体験を演出することで開眼させるみたいな外道みたいなやり方をやってるのとかがあるんだけどぶっちゃけこれは完全な外道だけどでも少なからずまぁ基本的に布教をしようと思ってもそれって無理なんだよね。

 

なにしろもうそれはすさまじく個人的な体験でただの神父とか牧師とかが開眼させられるようなものではないんだよね。だからもう布教っつーのはもっぱら宗教的っつーより職業的に行われることになるんだよね。で、まぁ布教する人が本当にそれを体験した人かどうか?なんてのはあんまり関係なかったりするわけでだからまぁ耳障りの良い言葉を選んで信じさせようとするっていうまぁニーチェが批判してたような俗化した弱者の宗教としてのキリスト教だよね。

 

ただもうそれは世俗化するとなるとそうならざるを得ないんだよね。だから俺は根本は全然変わってないんだよね。そういう弱者の宗教的なキリスト教イデオロギーは今でも大嫌いだし今後も変わらないと思うんだよね。ニーチェが間違ってる!なんてまず思わないわけでキリスト教を体験した後だから分かるそっちの俗化したキリスト教のことを言ってたのねなるほどってことになるわけなんだよね。

 

ただ真のキリスト教!なんつったところで言葉で伝わるようなものでもないしそれは体験が先行しないと結局は神のロゴスと人間のロゴスとの決定的な断絶っていうのがある限りそれは伝わらないんだよね。逆に伝わる場合もあったとするとそれは聖霊の働きによるんだけどただまぁそれも伝わったんです!とか分かったんです!って言う人が実際に分かってるのか?っていうのはブッダの悟りと全く同じで分かった!といってもそれはどういう意味で分かったっていうことなのかが分からないし言語化しようとしても言語そのものに限界があって言語化できないような体験のレベルでのことっていうのは結局は言語化できないから分からないままなんだよね。

 

ただ恐らく南さんレベルの死ぬか生きるか?ぐらいの瀬戸際で実存的な問題に取り組んだ後に覚者になったようなリアルな人にとってはやっぱり言説にしても職業的だったり商売としてやってるだけの仏教なんだなっていうのとリアルなものっていうのはある程度見分けはつくんじゃないかなと思うんだけどでもまぁ言葉だけ見れば覚者っぽく見える言葉遣いっていうのもある意味で研究されてるわけだからそういう風に見せるためだけのソフィスト的な言葉遣いというのはいくらでもできるわけでそういうのに長けている人の文章を見る限りではそれがソフィスト的な動機付けで行われているものでも南さんレベルのリアル覚者でもさすがに文章だけ見ても分からないっつーことになると思うんだよね。

 

ただまぁ会ってなぜ出家したのか?とか凄くそういう認識に関わる個人的なことを色々と聞けば偽物かどうかの見分けはつきやすくなるけどただまぁそれすらも覚者風にエピソードを語るとか覚者と思われる振る舞いとかエピソードってのを研究し尽くしてそういうので盛ればリアル覚者ですらも騙されるかもしれないわけでまぁそんぐらい悟りとか啓示ってのは言語化できないものなんだよね。

 

だからまぁそれはそのまま俺にも跳ね返ってくるよね。理由は書いても陳腐になるし伝わらないし逆に意味分からんだろうっていう書くようなことじゃないみたいに言ってただでも啓示を受けたんだ!っていうことを言っても「は?」っていう感じでしょう。まぁ逆にその信ぴょう性ってのはここで書いてきたことに依存するわけでまぁ俺は小さい嘘はリアルでも功利的につきまくる人だけどウォール伝みたいな場で嘘をついても意味ないしましてや大きな嘘をついてそれをベースに色々書くなんつーことはむしろできない人間なわけでだからもうそれは信じてもらうしかないんだよね。

 

逆にまぁ俺がこんだけキリスト教にどっぷりになったっつーことが証明してると言えると思うんだよね。付け焼刃的なこれならハマれるかも!っつって必死に虚しさを誤魔化すようなものってここでも書いてるように長続きしないじゃん?(笑)ギターは微妙っつーか別に諦めたわけじゃないんだけど将棋とかは完全に勘違いでしたよね。まぁ今でも好きだけどプロパーになるようなもんではないっていうことで続かないんだよね。

 

んでまぁ話を戻すとシュトラウス的な秘教とか秘儀としての哲学っていうところに似てるんだけど所謂キリスト教的な言説とかそれが護教的なものであれなんであれブルトマンじゃないけどケリュグマ的な部分と真面目に読んでると矛盾してたり論理から外れてるとしか思えない神秘主義的なものであったり霊性みたいな意味分からない言葉に逃げていたりっていう風に見えるところでも体験をした人とか分かっている人にはそれが伝わるっていうところの秘教的な要素ってのがむしろ哲学より宗教とか宗教的なもののほうが多いと思うんだよね。それこそ理詰めで見ればただの電波としか思えないようなものとかも実は分かっている人とか体験してる人が読むとそれを読解できたりする場合もあるっていうようなまぁよく題材としてあるような狂気と聖性みたいなところだよね。

 

ただ本質的に狂人しか理解できないようなものが国教になったり国教的なオフィシャルな人畜無害の宗教になったりするわけがないから結局俗化する宗教というのはそういう本質的な狂気と聖性みたいなのが徹底的に抜かれた炭酸が抜けたコーラみたいなものになっちゃうんだよね。そういう意味で隣人愛とか当り障りのないような本とかに引用されるような道徳の授業とかで進んで教えられそうな福音の言葉だとかっていうのは狂気と聖性を抜かれた炭酸無しのコーラみたいなもんなんだよね。

 

だからこそ当たり障りがないからこんだけ世界人口で見れば世界宗教と言えるぐらいの信者数を誇るような宗教になってるんだけど実際は散々ディスりまくってるカトリックもさることながら世俗化した宗教みたいなのに命を削るような切実さなんて無いわけだよね。皆無ではないんだろうけど俺が思うキリスト教の本質的な部分っていうのを追求するとまず世の中とうまくやっていけるわけがないんだよね。そんぐらいラディカル過ぎるというか聖性という名の毒気が凄まじいものなんだよね。

 

ただまぁその俗化したものも一つの宗教とあり方として考えると名前はキリスト教になってるけどまぁ実際は全然違う世俗化された宗教っていう意味の宗教っていうかまぁニーチェが批判したキリスト教然りだけどそっちのキリスト教ねっていう認識になるよね。だからまぁ大体においてもうそれは自分と全く関係ないんだよね。南さんが名前は高名でも職業的な坊さんに「俺とは関係ないな」と思うのと全く同じなんだよね。まぁ自分と南さんを比べるのは恐れ多いんだけどただまぁ「そうそうそれなんですよね!」っていうところがあるんだよね。

 

南さんの場合、同じ仏教でも全く関係ないと思う人とか宗教の在り方のほうが多いわけでしょ恐らく。そこがまぁ俺がキリスト教に感じている自分とは関係ない名前だけのキリスト教と同じものを感じるんだけどただまぁ南さんも言っているように自分が正しいんだ!とか自分の仏教がリアル仏教なんだ!みたいなことを言いたいわけじゃなくて自分の意識としての仏教の在り方っていうのが自分にとっての仏教っつーところなんだよね。恐らくそれはリアル仏教なんだけど南さんはそこを別に自分が真理なんだ!とは言わないんだよね。

 

まぁそれは社会的配慮というかあとまぁ単純に身の振りようっていうところもあるんだろうけどまぁでもそういうのとは関係なくまぁ本当にどうでもいいと思ってるんだろうなって思うんだよね。あ、まぁその同じ仏教でも職業的な全く自分とは関係ないと思うようなものに関しては無関心なんだよね。その徹底した無関心さっていうのはある意味で自分が関心があるところへのベクトルの強さの表れでもあるんだよね。

 

むしろそこしか気にならないしそれ以外はぶっちゃけどうでもいいっていう立場でしょう。いや、まぁ南さんがそうかどうかは分からないけど俺はそういう印象を持っているんだよね。だから自分が真理を背負うんだ!とかリアル仏教を教義化するんだ!みたいな世俗的な野心みたいなのとも全然関係なくて自分の問題としてのそれを解決してくれる道具としての仏教っていう認識なんだよね。

 

まぁそれはある意味で世俗化した仏教とは違うから異端だとかって言われたりもするんだけどむしろそのラディカルさってのがブッダのラディカルさそのものなわけでつまりは俺がジーザスに感じてることっていうのがまさにそこなんだよね。んでそこにしかぶっちゃけ興味が無いんだよね。もちろん歴史としてのキリスト教とか学問としての神学とかキリスト教ってのはやらないと始まらないし知的関心はめっちゃあるんだけど自分とジーザスとの関係という点においてはどんな高名な神学者とかがこうなんだ!みたいなキリスト者としての在り方みたいなのを説いてたとしても俺にとってはどうでもいいことなんだよね。

 

もう完全に内在化しているものだから逆に教会とか世間とか社会と関係ないと言うと語弊があるけどまぁ究極的にはジーザスと自分なんだっていうところにおいては大抵の教義学なり神学者が書くようなことってのは社会にとって教会はどうあるべきか?みたいなことをシリアスに考えてたりするしまぁそれは必要なことではあるんだけど教会の現状というか世界の宗教の現状を見ると絶望的ですよね。

 

体験が伴っているかどうかはともかくとして超エリートのインテリが言うようなキリスト教ってのは世俗化したものと全然違うわけでしょう。でも教義的には誰でも理解ができる普遍的なものっていう建前はあるんだけど実際はすげー秘教的でそれは隠そうとして隠しているわけなんじゃなくて啓示自体がデフォじゃ見えない隠れたものとしてしか存在しなかったりそれを必然というか偶然というかはともかくはっきりいってそういう啓示的な体験ができるかどうか?ってのはぶっちゃけ運なんだよね。

 

でもその啓示の体験をした!っていうのが所謂運が良かったからっていうかどうかはもはや価値観の問題だよね。宝くじが当たったらそれは運がよかったって絶対言えるだろうってのは金が入るってことに関して言えばその後得たことで生活が破滅したりする場合もあるにせよまぁそれ単体では掛け値なしにまぁ誰でもが恐らく良いということだよね。ゴミ捨て場にアタッシュケースが捨ててあって明けて見たら札束が入ってたらまぁ良心によってそれを交番に届けるかどうかはともかくとして(笑)まぁそりゃラッキー!ってなりますわな。

 

ただ啓示に関してはそれがラッキーかどうかは分からないよね。ただまぁ俺はすげー感謝してるというかそこがまさに聖霊の働きだと思うわけなんだけどかといって自分が選ばれしものだなんて思わないし色んな積み重ねの上での偶然の出来事なわけでまぁそりゃもうぶっちゃけ数学に目覚めた以上によっしゃ!って思えるぐらいの人生で良かったことのトップそのものになるわけなんだけど結果それで人生観が変わっているという今の状態を見るともうそれはラッキー!としか言いようがないよね。ただそれは俺が凄いとか只ならぬ知性を持ち合わせているとかっていうことでもないんだよね。まぁその体験後のハマりっぷりは知性のドライヴの賜物だけど体験そのものに関しては自分の属性とか関係ないんだよね。

 

まさに神と自分というのを考えたときに自分というのが本当にある意味でどうでもいいと思うような意味での自分だよね。神が主なわけだから再生の機会を与えてくれた!と思えばそれは熱狂的な信仰心に繋がるしそう思っている部分もあるけど信仰が行き過ぎて狂信になってもアレだしそうならないという保証はないというかハマるとヤバい性質だからそこは従来のニヒリスティックな体験以前の自分のマインドってのは当然残してるんだよね。だからそのニヒルモードで言うとただ運がよかっただけということになるんだよね。熱狂的な信者モードだと神の恵みだ!ってことになるんだけどまぁその両方のマインドを持ってるっていう感じだよね。

 

その冷めきったニヒリズムに染まり切ったもうそれは思想の影響とか別としてそれこそ南さんが理性的に考えて死ねばいいのではないだろうか?って思うこともあったというような意味でのニヒルと言っていいか分からないんだけどまぁそんぐらい冷めたマインドってのがあるわけなんだよね。もうそれはデフォでそうなんだからしょうがない。でもそこが面白いところでデフォが超絶的に唯物論的でニヒリスト的だからこそ逆に一気に振り切った狂信者レベルのキリスト者にもなれるっていうところなんだよね。そういう冷めきった理性があるからこそ神の道を歩めるっていうのかな。

 

でも根がそんだけ冷めきっているから神の恵みがあるんだとすればもうそれは本当に救い以外のなんでもないと思うわけなんだよね。もうそれぐらいしか生きる理由が無いんだけどその生きる理由が今与えられているということがそれこそ色んなキリスト教関係の本とかでも書かれてるようなニヒリストとして死んだ後にキリスト者として蘇るっていうような、そういうものを読んだからそれに触発されてそう思い込んでいるんではなくてそういう体験があった後に色々と文献を読んでいると思い当たる節があるどころか「マジか・・・」って思うぐらいそのままだったりすることがあったりとかね。

 

あとまぁパウロの回心もそうなんだけどバルトにしても体験が無かったらここまで傾倒しなかっただろうなっていうバルトが言うような徹底的なキリスト中心主義っていうのがもうそのまま必然的な自分の体験の帰結としてそうなっているっていうところがあるっていうところとかまぁ細部に至るまで全部バルトの言う通りだ!とは思わないだろうしまずそもそも基礎やってる段階でバルト自体そんなに読んでないんだけど(笑)まぁバルト論みたいなのは読んでるわけなんだけどまぁそれは偉大な神学者がそう言っているのかっていうようなイデオロギー的傾倒ではなくてもうある意味で自分の中の帰結として落ち着いているものに近いことを言っている人がいるっていう感覚でしかないんだよね。

 

まぁ自分が哲学やる上でもそうだったってのはここでもよく書いてるけどね。「お前は俺か!」って思うようなそうそうそうなんだよね!っていう感動からしか傾倒しないんだよね。あくまで自分の先行した認識とか思考ありきなんだよね。だからイデオロギー的に染まることはないんだよね。客観的に見ると染まっているようでもそれはもう自分の中で行きついたものによりそれが言語的に鮮明化されて分節化された哲学書なり哲学者なりっていうのにさらに影響を受けることでそれが先鋭化するっていうことでしかないんだよね。だから自分ベース以外には何もないんだよね。

 

それは哲学がそうであったように神学でも同じなんだよね。逆に今はその体験があったということが凄まじいプラスになっているんだなっていうのを感じているわけなんだよね。んでそういうのが分かって色々読んでいくとくだらない護教論とか職業的ないかにもな学者っぽいようなくだらない言説とかはどうでもいいと思って読み流したりとか選別する感覚がどんどん冴えてくるよね。それは体験によるものなんだけどそれでさらに日々考えて色々と読んでいく中でそれがどんどん冴えわたってきてまぁようはこれっていうのは知的センスだよね。

 

まぁすげーDJ的な感覚というか音楽理論とかめっちゃ詳しくてピアノ弾けますギターも弾けますドラムも叩けます作曲もできますなんなら作詞もできますっつってもセンスが壊滅的だと全く意味が無いのと同じで知的なもの全般に関してもとりわけ思想的なものは理論を膨大にインプットして覚えて記憶しておけるような凄まじいメモリーを持ったような脳っつーよりかはむしろセンスが冴えわたっているほうが全然重要でそれは神学然りなんだなっていうことで安心してるんだよね。数学みたいに才能云々で悩むことはまずないだろうという確信があるからね。

 

志村五郎がどの本だったか忘れたけどヒルベルトだったかをある程度は評価しつつすんげーセンスの悪いネタを選んで論文を書いているとかってディスってたのをよく覚えてるんだけどこれには色々異論があるとは思うんだけど数学もマジでセンスなんだよね。めっちゃ計算できる!とか頭の回転が速い!っつーよりかはネタを選んで掘っていくセンスだよね。

 

まぁ自分が知っているのは限られているからなんとも言えないけど恐らく知的なもの全般について言えることなんじゃないかなと思うんだよねっつってもまぁ当然最低限その時代の最先端のことをやるぐらいだったら最低限の知性とか記憶力とかは必要である程度高スペックなのは当然としてまぁそのうえでスペックなのかセンスなのか?っていうところで見るとやっぱりそこはセンスでしょうってことになるんだよね。ただ音楽みたいにアウトプットですぐ分かるようなものではないから音楽的センスとか美的センスとかってのは音だったりビジュアルだったりして分かりやすいんだけど哲学的センスとか数学的センスっていうことになるとそこにセンスなんてあるのか?っていう感じになるよね。ただまぁあるんですよね。そこは。

 

だからまぁ例えばどういう哲学者が好きなのか?っつって色々と羅列するとまぁクソみたいなバンドとかDJとかをフェイバリットとして出したらそいつと口を利きたくなくなるのとと同じで思想家とか哲学者とかにしてもセンス悪いのばっか並べられたらそいつと話したいと思わなくなるよね。

 

まぁんでそのセンスで言うところの世俗化したキリスト教ってまぁアメリカのメガチャーチとかで演奏されるクリスチャンロックの果てしなきダサさみたいなのと同じでまぁアメリカの田舎者のダサさだよね。芋っぽくて洗練されてなくてとことんダサいという、ただまぁ世の中ダサい人のほうが多いからそのパイが多いというのは必然的でだからキリスト教も洗練されたものなんてのは一部のインテリとか学者しか知らないわけでまぁ別にバルトを読んでいないとダメ!なんていうつもりはないけどアメリカのバカな福音主義の連中とかなんてまぁ読んでも理解できないのは目に見えてるよね。

 

まぁそれ言い出すと仏教もそうなんだけどね。いや、仏教は明らかなんだよね。いや、絶対難解でしょうっていうまぁ葬儀とかは形式的に仏教の形を取るけど教義なんてのは難しくてとてもチャレンジしようと思えないわ!って感じになるけどキリスト教の場合極端に世俗化されててバカでも分かるように簡略化されたものがむしろドミナントになってましてやそれがイデオロギー化してるから超絶的に醜いものになってるよね。

 

まぁもうそれ自体が神への冒涜だと思うんだけど本人はそう思ってないから始末が悪い・・・っていうのがまぁその一番ひどい国がアメリカなんだけど他の国でもまぁ少なからず似たようなもんだろうなっていうか例えば例を出すとキリがないけど例えばなんで敬虔なクリスチャンって言う割にレイシストなんですか?ってこととかね、お祈りしているムスリムを異教徒だ!っつってマシンガンでハチの巣にしたのは「マクペラの洞窟虐殺事件」の犯人なんだけどこういうレベルになるとジーザス最高!っつってメガチャーチとかで盛り上がってる田舎の連中なんてみんな善人に思えてくるよね。

 

馬鹿だしたまに問題を起こしたりもするけど基本馬鹿で人畜無害だったらいいんだよね。まぁんで素朴ながらもジーザスを信じてる!っていう人の信仰をディスる必要はないわけでそこに真のキリスト教!なんてないんだよね。そこはまぁ南さんに習うわけではないが仮に自分が今後どんどん色々読んでいってキリスト教とか宗教の知識を膨大に積み重ねてもそれが真理だ!とは思わないよねってのがまぁ根本的に考えが相対主義的だからキリスト教モードの自分は絶対を信じているしまぁそれはネオプラトニズム的なプラトニストならびにロマン主義者の俺なんかは真理ってのを信じてるけどまぁニヒリストモードの場合言うまでもなく相対主義的だからその冷めた俺がいる限りこれが真理だ!なんて言わないと思うんだよね。まぁ思うことはあるだろうけども。

 

だからまぁそういう意味での世俗化したキリスト教ってのもまぁキリスト教の一つの在り方なんだよね。別にそれは自分と関係ないけどそれはそれで別に批判してもしょうがないし批判すること自体が的外れなわけでそれは同じ名前の別物だっていう認識のほうがいいんだよね。人畜無害なものに関してはまぁ基本的に無関心でいるしかないよね。だからこそまぁ問題は宗教の名のもとにテロを起こすような類のものなわけでそれは宗教云々以前に人間としてノー!って言わなきゃダメだよねっていう当然の倫理に行きつくよね。

 

行く着くというほどでもないぐらいの自明なことなんだけどまぁイスラエル関係はとにかく胡散臭いことだらけでキリストが誕生したとされる場所がイスラエルベツレヘムなのにジーザスの最大の敵がイスラエル国家という凄まじいイロニーは考えつくしても考えきれない感じだけどまぁでも別にそこでアンチユダヤってことではないからね。むしろ超正統派なんかは前にも書いたけど人工的にイスラエルに国家を作るような作為的なシオニズムには反対でむしろそれは真のメシアによって成されないとダメだ!って思ってたりするわけだしユダヤ系の思想家=イスラエル万歳!でもないからね。

 

それこそ今めっちゃ良いの見つけた!って思っているレアグルーヴ的哲学者のJacob Taubesなんかは徹底的にユダヤ的なキリスト者という自己意識だったわけでユダヤイスラエルじゃないんだよね。むしろ軍事的な複合体が絡んでる胡散臭いユダヤってのがイスラエルなわけでそれはユダヤ全体のことじゃないからね。

 

むしろユダヤ的というかヘブライ的な世界観っていうのがギリシャ的なものを止揚してそういう意味において旧約聖書新約聖書が世界観の止揚において統合される・・・みたいなところに真のキリスト教の道があるんじゃないかな?って思い始めてるんだよね。そういう意味でのヘブライ的世界観としての旧約聖書ってのは今まではくだらないと思ってたけど最近は一気に考えが変わったよね。まぁこれも敬虔な読書の賜物ですけどね。こういうところは自分はめっちゃ知的に誠実だからまずディレクションが狂うことはないんだよね。まぁそうでもない限り宗教にどっぷりつかるなんてことはできない
かもしれないよね。

 

あ、んで最後にあれだ、南さんが高名な坊さんの出家理由が結局はただの就職だったってことで「この人俺には関係ないな」って思うっつー話は「超越と実存」じゃなくてカトリック司祭の来住英俊さんとの対談本「禅と福音」に出てくる話でまぁこの本もおススメなんで良かったら読んでみて。

 

まぁそんな感じですかねっていうか読むのが多すぎて書く余裕がないんだけどいざ書くとなると相変わらず長文になるっていう更新がウィークリーベースでその代わり長文っつーのは今後のスタイルになるのかなっつってもまぁゲームの話とかも書きますよ。今先行でディヴィジョン2にハマり倒しているのでね。

 

ってことで今日はこの辺で。