ウォール伝、はてなバージョン。

革命家/修道士による日々の思索を頭をクリーニングするかの如く書き連ねるブログ。

令和スペシャル・エクストラ2。

ってことで続きなんだけど新曲できたんで貼るわ。

 

https://soundcloud.com/mimisemi/angelic-chant

 

ってことで続きです。

 

まぁそれでも今みたいなインプットがハイパーになればすげー生産性じゃないか!っつっても逆にそこでハイパーになり過ぎて心臓ダメになってぽっくり逝ったりしたら学問とか神の道どころじゃないですからね。確かに人生は短いけど常に頭を使って地頭をある意味自分の唯一のリソースだと思えばむしろ死守するじゃないですか?脳がぶっ壊れたりするようなことをしようとは思わなくなるんだよね。

 

日々の進歩がスローでも死ぬまで現役で脳を使えるというサステイナビリティと何よりその強度を維持していけるが故にそれが生きていけるということにそのまま繋がるということになるとまぁある種の解決ですよね。そんなに生き急がなくても時間はあるという考え方は好きじゃないしそれってまぁダラける理由にもなるんだけどまぁ脳がシャープな状態でなるべくそれを維持したままインプットなりのパフォーマンスを維持したいですよねってことになると基本的にまぁヘルスコンシャスになっちゃうよね。

 

なんかでもあれなんだよね、安定剤とコデインとアルコールのカクテルで脳梗塞になって全身まひとか普通にあるからまぁダメだよあれは。あの俺が前やってたような無理に寝るみたいなんでアルコールと安定剤と眠剤の併用とかただいきなり死ぬだけでも迷惑なのに下手すると麻痺とかになる場合もあるわけでまぁそれだとね、本当にアレですよね、家族にも迷惑かかりますし。事故とかならしょうがないけど自分のそういうミスとかでそういう感じになるっていうのは一番ダメだよね。

 

まぁなんかブーバーもそうなんだけど基本的に神の道を究めるとか行こうとする器というかvesselという英語がぴったりなんだけどそれだとまぁやっぱり魂の器が必要なんだよね。それでまぁ特に邦訳すると独特な癖のあるニュアンスってのが「肉」なんだよね。肉となりという意味での肉という感覚には魂と肉体はセットじゃないっていう魂が宿っているvesselなんだっつーニュアンスが凄くあるよね。まぁそれは元の聖書でもそうなんだろうけどってまぁぶっちゃまだ聖書自体読んでないですからね(笑)

 

まぁだからその究めようとする器としての肉体を大事にしないでどうなるのか?って話でしょう。で、ブーバーの色々ある思想の中でも特にまぁ名物みたいなのが我と汝という概念なんだけど決定的なのがこれがブーバーが言うように究極的にキリスト的なんだよね。

 

つまりは恐らくエックハルトとかも含む神と同一化しようとするような感じでのまぁある種の梵我一如とかっていうような神と一体化するというような概念での神っていうのは我と汝じゃないんだよね。愛というのがどう存在するのか?っていうと自己愛というのはあっても例えば誰かを愛するように自分を愛するということは不可能だよね。それこそ自己を溺愛するというのはありえないよね。で、その愛の契機というのは何なのか?っていうと究極的に神と対峙している自分という我なんだよね。ただそれはそういうキリスト的な意味での神との対峙という次元においてのみ可能になる我という認識だよね。

 

キルケゴールが世間との断絶みたいな意味での引きこもり的な隠者というところで究極的な個としての我という契機が発生するというのが断絶にあるというところだよね。神と一体になろうとする感じだと断絶はプロセスで契機ではないよね。ただ一体化しようとするためにより効果的な環境を得るために出家するとか隠遁するということだよね。でもキルケゴールの場合、オントロジーのレベルでの断絶というのが実存的な個を規定する究極的な契機になっているということだよね。そこでのシュテルナーが自己を突き詰めて燃やした果てに無くなるというような究極的な個という意味でこれはどちらかというとイスラム教における神と自分という概念に近いと思うんだよね。

 

そこが神と自分というところの関係性の契機において絶対的な個としての存在が規定されているといっても誰かに規定されるのではなくてそれを知るとか気づくとか悟るしかないっていうそれがまぁようは宗教的な契機ということになるんだけどぶっちゃけいきなり聖書なりコーランなり教典とされるようなものを読んで理解できるようなものではないしはっきり言っていきなり読んでも理解することはほぼ不可能なんだよね。でもまぁ今は人類の英知が半端じゃないわけでそこまでの超天才だ!って感じじゃなくても相当な人力と時間の暴力でそこまでたどり着ける可能性があるんだよね。

 

まぁそこにたどり着くということが言わばスタート地点に立てるということでもちろんそれがゴールなわけではないんだけどね。

 

ただまぁヤバいっしょ。この認識は。宗教のようで宗教ではないというようは宗教という言葉が垢に塗れてて政治だの戦争だのテロだのっつーイメージが近代だけではなく歴史を見てもそういう血とか暴力とかイデオロギーっつーところにどっぷりでしょ?で、まぁそういうのとは本当に関係ないんだよね。何しろそれが個であるということなんだったらもうそれは宗教云々ではないでしょう。もちろんただその契機を与えてくれるのが所謂宗教なわけで俺の場合まぁそれがキリスト教に始まりヘブライ的なものとギリシャ的なものっていう気づきからユダヤとかヘブライの世界観のディープなところっていうことでラッキーなことにピンポイントでそういうのが絶妙なタイミングで入ってくるっていうまぁ先人の知恵と凄まじい労力にただ感謝するしかないですよね。そこには神の恩寵とその恩寵を知っている人間による知の結晶である思想という恩寵があるわけで神と偉人達のダブル効果なんですよね。

 

そこに偉人を挟まないと成立するわけがないのが俺がイエスだったりブッダじゃないっつーところですよね。凡夫だからこそ偉人の力を必要とするしさらに神の恩寵も必要とするんだよね。だからまぁぶっちゃ凡夫であるということは幸いであるとも言えるよね。恩寵とかオントロジーとか神の契機とか人類の英知の素晴らしさというのを最初は知らなかったっつーただのどこにでもいるNPCだったっつーところでそこには覚醒するという余地が残されているという意味で最初から色々恵まれててあんま苦労しなかったからそういうのに気がつかないんだけどなんとなくやってこれたっつーより全然良くない?っていうことになるよね。まぁあくまで結果論だけどね。

 

ただまぁそれに気がつくとその結果論をまさにそれは結果論なんだ!という条件を満たそうとするからself fulfilling prophecy的な力学が働くよね。特にそれがまぁ意味は違うとは言えprophecy的であるという意味ではそれはまぁちょっとズレればただのヤバいやつなんだけど合ってるとそれはprophecyそのものになるよねっていうことなんだよね。それはこの先どうなるか?ということが見えるわけではなくて自分という個である存在がこうなのだということが分かるということだよね。

 

でも分かったからといってそれが悟り的なものなんではなくてようやくそれが分かった!というスタート地点でしかないということだよね。その先に涅槃があるかどうかは別として仮に涅槃があってもまたずーっと色んな格闘をしていかないといけないんだよね。でもその先に約束されたものがどうやらありそうだということだとまずちゃんと生きてそれにたどり着こうということになるよね。それがまぁコペ転的などう生きるか?ということからそこまで行くという歩みに変わるっていうかね。その歩みこそが生きるということにそのまま繋がっているっていうその歩みと生きるということが一体であればあるほどシンクロ率が高いっつー感じだよね。マインドと行きたい先と身体とのバランスとシンクロ率が上がるということだよね。

 

ってここまで書いてて続きが無いってことはここで終わったんだなとか思いつつまぁとりあえずこんな感じでいいですかね。まぁなんか適当に話が続けばいいなとは思いつつも書きたいこと結構書いた感じですかね。

 

ただまぁあれだわ、本読んでて思ったんだけどブーバーショックがデカかったからこそ思うのはあんま面白くないのを頑張って読んで疲れるよりつまんないのは速読とまではいかないけどそこまで精読しなくていいかなっていうかエッセンシャルなことと聖書っつーと細かい文献学的なことが永遠と続くようなやつとかあんまり関心がないからまぁでも金出して買ってるから読まないわけにはいかないんでまぁサラッと読んだ方がいいかなっていうか疲れたら終わりだからね。

 

ただまぁブーバーほどの強度を読書から得ようと思ったらまぁ無理だよね。なんかまぁ神ゲーやってすげー!ってなってんでまぁ他にもないかな?って探してもまぁそんなに神がかったゲームなんて滅多にないでしょう。映画然りだけど。

 

まぁいいや。そんな感じで読書に戻るんだけどまぁちょっとペースを上げようかなってのはあるね。ちゃんと読もうと思って遅すぎる感じがあったんでね。

 

んじゃまた。