La Tentation de Saint-Antoine雑談。その2。

ってことで続きね。

 

まぁそもそものコンクレート的概念ってまぁ波の音を表した旋律とかって観念的なコンクレートよね。革命の曲とかレクイエムなんかもある種のコンクレートだよね。前に散々書いたモンドだけどモンドってまぁそれを逆説的に利用してるわけじゃん?スペーシーな音といってもその音は実際の宇宙とはなんの関係もないっていうそもそも宇宙って無音だしっていう(笑)

 

概念や心情なんかを音で表現するってまぁすんげー陳腐になりがちだけど別にそこまで好きになったわけじゃないけど前にも書いたけど歴史を知るって意味でクラシックを一通り聴いたりしてもまぁ本当にそういうものに腐心してきた歴史なんだよなっていうまぁそもそもモチーフが無いと作曲できないからだからまぁ古典だの自然だの物語だのっていうのをベースにして音楽を作るっていうね。

 

逆にでもまぁそれは結構当たり前でまぁポップスなんかでは歌詞がダイレクトに曲を表すわけなんだけどダイレクトではないインダイレクトな方法で表すってのもミュージックコンクレートの一面なんだよなって今さら思ったわけよ。まぁ自明だけどね。よく考えてみれば。ただ物語をミュージックコンクレートで表現するっつーことがなんでこんなに特異なのか?っていうとそもそもの録音っていうミュージックコンクレートが成立している時代では映像ってのがあるからあえて音だけで作る必要もないというか、映像のほうがより分かりやすいってことになるよね。

 

でもそこで最初に書いたような最近見てるような昔の所謂アート映画ってメタファーとかこっちのリテラシーとかが試されるっていう感じで自明な映像ではないっていうこれまたインダイレクトな感じなんだけどんじゃあインダイレクトだからいいのか?とか抽象性が高いか?ということでもないんだけどただこういう手法のものはインテリ受けするからインテリがこぞって評価したり何より評価する文章を書くからそれで地位が固まるみたいなところがあるよね。

 

なんかでもそこでの芸術としての評価ってのがいかに言葉とか分かりやすい表象に頼らないか?っていうところだよね。かといっても抽象に走り過ぎてわけわからなくなってもしょうがないんだけどそこで例えば元のモチーフには無かったような美しさみたいなのがその直接的ではない表現から生まれえることがあるということだよね。そういう意味でChionのLa Tentation de Saint-Antoineは成功しているかどうかは別としてすげー試みだなってのを今さら思ったのね。

 

ラジオドラマとかオペラみたいにして分かりやすくセリフがあるとかね、悪魔が私を誑かそうとしている!みたいなことを分かりやすく執拗に言うだとかまぁそれが無いわけでもないんだけど場の情況とアントワヌの心情とか幻覚ってのをミュージックコンクレートで表すってのもある種究極だよなって思ったんだよね。

 

ただまぁChion自体が映画批評家でもあるからやっぱりゴダールのソニマージュとかの影響を受けているのかもっていうか受けていないわけがないなと思ってだからまぁなんか雰囲気が昔のヨーロッパのアートフィルムっぽいんだなって妙に納得したんだけどね(笑)

 

なんかでもそこでゴダールっぽい!みたいなスノビズム満載の表層的なハイブロー感があってもそれこそスノビズムの塊みたいになるわけで、そういうアカデミズム臭い感じというか理屈っぽい感じになり過ぎずに映像なり音がどうなってるのか?っていうことだよね。それで言うとまぁ今回長々と喋ってるLa Tentation de Saint-Antoineに関しては買った当初はわけがわからないしコンクレートとしてもつまらないし台詞が多いっつー感じだったんだけどまぁ今みたいに思い出したように聴いてみてライナーも読んだりなんかして聴くと全く印象が変わるんだけどここがまぁコンクレートの特徴でもあるよね。

 

音がどうのというよりそれが何を意味しているのか?っていうシンボリズムというと大げさだけど結局映画とかも抽象的なものになるとシンボリズムとメタファーの塊だったりするわけでこっちの理解度が高まろうが低い時に見ようが映像自体は変わらないんだよね。ただこっちのリテラシーレベルで感じ方が変わるということだよね。

 

でも究極的に言えば映像がどうのとか音がどうのとかってのもどう感じるか?という主観でしかありえないわけだから多少理屈臭くても理屈を理解すると面白いという風に分かるという音なり映像の快楽もあるっていうことだよね。圧倒的な音響的快楽というのもいいんだけど理屈臭い知的快楽というのも捨てがたいものがあるなって思うんだよね。ただまぁそういうのをやり過ぎて音がつまらなくなり過ぎている現代音楽とかってのはやっぱりつまらないんでどうしようもないんだけどね。

 

まぁそこでやっぱりタルコフスキーってすげーなって思うんだよね。今書いたことを全部満たしてるよね。昔は映像がとにかく好きで分からなかったけど好きで今は理屈のほうからも好きになっているんだけど色んな理解の次元でも魅力があるということだよね。そういう意味でゴダールは青年の時期には背伸びしてわかったふりをするとかゴダールが好きですって言うことがステータス的なまぁ昔のポストモダン思想家とかを好きとか言ってればかっこいい的な美大生とか大学生的な青臭さだらけで自分もゴダールが大好きだったからこそゴダールのただのオナニーだなって今なら思えるものを改めて見ると恥ずかしくなるのは過去に心酔していた自分が恥ずかしいっていうことなんだよね。

 

グラサン禿親父のオナニーを芸術だ!って言っていた自分が恥ずかしいというのを想起させられるっていうそこは実存的なことなんだけどね、でもまぁそういうパーソナルなものってのは普遍性が無いけどっていうか普遍性が無いのは当たり前でそれが記憶ってもんなんだけどそこでブニュエルの皆殺しの天使は理屈ではないんだけど抽象的な部分で普遍性が無い個人的な記憶の想起をモンテカルロ法っぽい感じで突いてる感じでそれに刺さる人もいるってことだよね。そこがまぁ抽象の強みだよね。「これ!」という特定が無いからこそ可能な想起の近似っていうかね、普遍性はないんだけどでも人間は記憶があるからこそそこのどこかを突き刺そうとしているようなものってのは逆説的に普遍性があるというようなことだよね。

 

なんかそこは神学にも通じるものがあるんだよな。まぁあくまでもその「これ!」という特定の律法からの自由を宣言したイエスっていう意味の神学なんだけどね。ただこれがどれだけ理解されてるのかな?っていうことだよね。宗教は結局、開祖がどうであれ決まり事だらけの意味不明なパリサイ的なものになりがちで実は俺みたいなイエスへの傾倒のほうが原理主義的だったりすると思うんだよね。実存的神学っつージャンルがあるけどそういう意味だと世俗的なキリスト教を批判してたけどエックハルトのような神秘思想家は高く評価していたっていうニーチェとかもようは別にアンチクライストじゃないんだよね。すんげーキリスト原理主義的な人間だからこそ世俗的な原理とはかけ離れたキリスト教というのに我慢がならなかったんだろうっていうことだよね。

 

ってことで続きますんでまた。