野崎廣義について。

なんか妙に疲れてるというか気が滅入るのはDJに熱を入れすぎて全く体がオフになってないからなんだなと思ったのでしばらくここ数か月ずーっと見てなかった映画とかを見て休憩した歌を歌うことにしました。

 

なんかレコードも聴いてないのが山ほどあっても「楽しみ!」というよりかは「覚えなきゃ!」という感じが強くなってくると楽しさがなくなってくるよね。ただまぁジャンルが広すぎるってのは本当に金銭的にも大変だなーと思っててとりあえず打ち込み系はやってて一番しっくり来る昔のミニマルテクノをなるべくアナログでやるってのとあとまぁやろうと思ってた生音系ですよね。

 

他にもハウスとグライムとドラムンベースと・・・ってやりたいのはあるんだけどやり過ぎると疲れるよね。金がいくらあっても足りないし。だからまず買ったやつを聴きこんでちゃんとプレイできるようになってから次のレコードを買うとかたまにドラムンベースとかグライムやるとかって感じですかね。

 

ハウスは正直、キリないからっつーのもテクノと違ってクラシック以外にも現代にも良い曲があるからディグるとキリないってのがあるよね。まぁだったらBeatportでいいだろうという気もするんだけど歌モノとかだと繋ぐ場所とかがほぼ決まってるからかけててつまらないってのがあるからインストのテックハウスっぽいやつとかディープハウスみたいなのはテクノの言わばベーチャンみたいなドープなやつと混ぜたら面白いなとかって思うてはりますけどね。

 

ってなわけで11月頃に書いてレコ記が始まったんで貼ってなかったやつを貼るわ。

 

上田閑照先生が編集した本に西田の教え子で夭折したという人が3人いてその一人の野崎廣義という人の遺稿集みたいなのがあって「懴悔としての哲学」っていうタイトルなんだけど田辺のそれとは全然関係なくて昭和17年に出たっきり再発とかされてないんだけど西田が評価をしていたのも頷ける内容でまだ途中までしか読んでないんだけど現代風に言えばリア充の世界じゃ全く分からんし関係ないことかもしれないけど自分が述べていることは闇から闇へと伝わることだろうみたいなことを言っててまぁようは真理という十字架を背負うということについて色々書いてたりするんだよね。

 

で、明確にキリスト教への言及があるわけじゃないけど影響は恐らく凄くあってエックハルト的な真理への献身が何よりの徳である的な、かといっても教義的ではないというか結局まぁそうだから悩み続けるしかないんだよねっていうこととこれまた直接は書いてないけど哲学者の天性というものがあるとすればそれはメランコリー気質だっていうようなことを端的に述べてる気がするんだよね。

 

直接的なんじゃなくてつまりはニヒリズムからの出発なんだっていうことなんだけどそれは思想的にニヒリズムにかぶれた感じではなくて論理的にそうならざるを得ないっていう無底性があってでもそれを十字架を背負うことで悩み続けていくということをやるんだっていうヤコブ・ベーメはその無底に基礎を作るのが神への道っていう神秘主義的思想もあるんだけど面白いのが恐らくベーメなりエックハルトとかを読んでいたにしても特に強いキリスト教的影響があるわけでもないという思想的に中立なようはイデオロギー臭くないところから無底性についての思索というのが出てきているというところなんだよね。

 

それは野崎がべらぼうに聡明ということもあるし実存的にあの若さであそこまで悩めるというのも凄いしそこである意味何もかもを捨てて哲学に献身するという言わばコミットメントの誓いみたいなのを立てているというところなんだよね。あとこれは西田からの影響だと思うけど哲学を勉強するんじゃなくてやるんだっていう行為の直接性だよね。

 

アカデミックに哲学研究をやるのではなくて自分の実存とか悩みとか引っ掛かりを元に五里霧中の中で無底性を感じながらそれでも目を背けずに真理の追究をするっていうね、ただそれは象牙の塔でやるようなものではなくて世俗でそれを続けていくっていうことなんだよね。

 

俺的にもこの世俗に塗れてっていうあたりがやっぱり響くよね。隠者とか修道僧とか象牙の塔に籠っている学者とかって抽象的な世界に没入できるという利点はあるにせよ研究ではない実践としての哲学というのを切り開けないと思うんだよね。

 

そこは別に哲学が必ず社会性を持ってないといけないということではないんだけど言わば普通の生活をしながら内面では常にそういう思想的な格闘と闘争をしているっていうことだよね。で、低きに流れずにそれに向かい続けるっていう精神的なタフネスだよね。

 

その精神的なタフネスってフィジカルで言うところのネイビーシールズみたいなもんなんだよね。エクストリームな環境でもサバイブできたりするように過酷なトレーニングをするっていう、あとまぁ何十キロの荷物を背負ってアフガニスタンとかの獣道の山なんかを上り続けるとか常人では考えられないフィジカルなタフネスなんだけど哲学に必要なのはまさにこういうタフネスのメンタルバージョンなんだよね。読書は体力だって結構言われると思うけどまさにその通りで低きに流れようとすれば今なんて色々あるもんね。

 

いや、娯楽が豊富だしね、酒でもギャンブルでもなんでもいいけどまぁやろうと思えば楽しいことはいくらでもあるでしょう。でもこの野崎が言う闇というのは一旦それに気づいてしまったものは光の世界には戻れないっていうことなんだよね。光の世界といってもそれは覚者の世界ということではなくて実存的な悩みとかに永遠にSan値を削られるような世界ではない軽い世界っていうことだよね。

 

で、闇の世界というのはかっこつけずに言えば非リア充の孤独な世界ということだよね。パリピとかインスタとかとは程遠い世界で(笑)かといってもパリピとかリア充に憧れるようなルサンチマンは無くてただひたすらニヒリズムに悩まされるっていう哲学病と言うと安っぽくなるけど結局、今の俺ぐらいの理解でも分かるのはキリスト教でもドグマティックなものではなくて思索的なものとか神秘的なものとかってまぁようはエックハルトとかベーメとか中世の修道的神学とかってのの根底にはやっぱりニヒリズムがあると思うんだよね。それは19世紀に出てきたような文明の成熟と共に出てくるようなものではなくて「まぁどの道死ぬよね」とか「毎日同じだよね」っていうような、現代人にも御馴染みのあの感覚よね。

 

禅僧の南さんが「苦しさ」というようなところだよね。「恐らく苦しかったのでしょう」って南さんが言うようなところの苦しさというのは多義的な意味合いがあるけどやっぱり大きなものの一つは存在自体の苦しさだよね。そこを克服するでもなく開き直るでもなく逃げるでもなく対面し続けるっていうことだよね。

 

そこで不可避的に禅的思想やキリスト教的神秘主義とかキルケゴール的な宗教的実存というのが生まれてくるんだよね。どっちが先なのか?っていうと明らかにそれは苦しさなんだよね。

 

それに敏感な人が何らかの契機を境に世俗的であったりスピリチュアルであったり胡散臭いようなものであったりただの逃げみたいな宗教ではなくて本質的な宗教の道に入っていく場合もあるということだよね。あとまぁ言わずもがな哲学だけど俺みたいに哲学から宗教って場合もあれば宗教から哲学って場合もあるけど西田を読んでいて思うのは西田ってのは善を西洋哲学の言葉で表したというよりかはそういう境地から色々なものの影響の元に自分自身の哲学を生み出したっていうことだと思うんだよね。

 

で、それってのは宗教的なものというのはエッセンシャルなんだよね。でも見えないものとかわけの分からない神秘的なものっていうことではなくて理性的なものなんだけどただやっぱり言葉に出来ない何かってのは絶対にあるんだよね。ただその「何か」が中心を占めるようなものになるとそれは結局は世俗的な宗教になっちゃうんだよね。その何かを目指しましょう!とか崇めましょう!とかそれは結局はその「何か」への崇拝でしかない。

 

でもその「何か」は論理を突き詰めたところから自然と顕在化するようなものなんだよね。もしくは啓示とされるものも論理を突き詰めた結果、発見してしまう無底に対してこういうものがあるのだっていうメッセージなのかもしれないよね。これが啓示だって言い切れるものはないしこれは偶発的というか蓋然性のものだからなんとも言えないけどそれ言い出すと悟りとか見性とされるものもまぁそんなもんでしょう。

 

何を持って禅門を叩くのか?ということだよね。でも何かをやったところで見性が得られるわけではないんだけどそこで野崎が遺稿集で書いていることが凄く示唆的でつまりは高次な見性ではなくても人間に本来備わっている力としての恩寵を受けられる力ってのがあるってことを言ってるんだよね。

 

それに気がつくということも言わば見性でしょう。俺が野崎が凄いと思ったのは西田とか京都学派と比べて凄くキリスト教色が強いんだけど押し付けがましいドグマティックな宗教論ではなくあくまで哲学としての恩寵とかつまりはそれが懺悔としての哲学ということになるんだよね。

 

懺悔という言葉が持っている宗教性を取り除くならそれはずばり内省ってことになるわけで言わばまんまデカルトなんだけど下手な西洋哲学よりよっぽど精神性が高いというか逆にあの時代の日本人が書いたものなのか?というぐらいキリスト教的なエッセンスが強いんだよね。そこに凄く感動したわけでこれは文庫とかで復刊されて現代語訳されて広く読まれるようになればいいなーとかって勝手に思ったんでしたね。

 

ってことで次回はあんま頑張らずに続き貼るわ。相当しばらくオフモードにして充電するというか最初にも書いたけど休憩した歌を歌うことにするわ。

 

んじゃまたね。