レコハン記。その19。

アシッド作るためにBehringerのX-Touch Miniっていうツマミの入力とかをオートメーションできるフィジカルコントローラー買ったんだけど普通にやってたら気が遠くなるようなオートメーションの作業をほぼ一発録り!みたいな感じで出来るから最高だわね。

 

んでさ、前にBehringerからTB-303のクローンが出るって書いたけどそこは変なプロ精神があって(笑)マジモンに近くないとダメだろう!ってことでこれめっちゃ欲しくなったんだよね。

 

Acid LabのBasslineってやつなんだけど9万ぐらいするナリよ・・・。タンテのMK7も欲しいしどうしようかなーっていうかタンテはDJに飽きるということは無いと思うけどAcidは恒例のSMKの如くやり尽くしたらもうやらなくなる可能性があるから9万の投資はリスキーよね。ただまぁガジェットとしてめっちゃ欲しいのとあとまぁDawとの相性よね。基本ソフトのクローンの303使って1トラックのメインにする音だけBasslineにして際立たせると音色の違いとかバリエーションが増えて面白そうだよね。あとまぁ直にDawに録音しちゃえばいい話だから実質マルチ運営は可能なんだがね。

 

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ってことで日々アシッド熱はどんどん加速するばかりで相変わらず作り続けておるよ。まぁ作ってる時とかDJで集中してるときが一番楽しいわな。

 

ってことで新作を。

 

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アシッドって調べると10年ごとぐらいにリヴァイバルが来てるみたいね。最初が言わずもがなピエールの86年だか87年だかで最初のリヴァイバルがイギリスとかで93年ぐらいにあってんで2000年前半ぐらいに一回あってんで2010年代初頭ぐらいに一回あって、んで今はもう1ジャンルとして定着してるみたいな感じみたいね。まぁでもテクノのアナログ聴いてたらそりゃテクノ作りたくなりますよね。

 

ってことでレコハン記の続きです。そろそろこれも終わるので。

 

まぁただそれはオワコンシリーズで到達した自明なんだけどまぁ確定したというか結局は主観が世界を形成するよねっていうユクスキュル的な話になったじゃん?それは主観が世界に作用して客観的な変化を産むみたいなことではなくて人間であるから主観でしか世界を形成できないっていう人間の限界よね。まぁそのうち量子コンピューター的なデータ量を扱えるような何かが出来て人間の主観の定義も変わるかもしれないけど今のところはまぁ限界あるよね。

 

だからどれだけ客観性って言っててもようはめっちゃミクロじゃん?目の前のことに煩わされるし悩みもするし一喜一憂するわけよね。それ自体がもうある種の世界形成なんだよね。入ってくる情報に反応するということで世界への写像が成されているっていうかね、だから人間の数だけ世界があるってことなんだけどでもそれは客観的な世界ということではなくて主観的な世界ってことで別に本当に当たり前のことなんだけどね。ただまぁ同じ世界を見ているんだとかって勘違いするっていうような幻想もまぁ世界形成の一つよね。だから人同士の合意ってのは政治も含めて本当に難しいわけよね。

 

もうそれは価値観だろうとか感覚の問題だろうっていうところだったりとかね、ただまぁそこは別に合ってる必要はないし合わせる必要もないんだよね。ただそこで宗教というのはそこに決定的な原理を与えるんだよね。でもそれは主観においてのみの決定的な原理なわけでだからこそそれが宗教が宗教たる所以というかね、まぁキルケゴールですけどね。

 

ただまぁ最近レコードとかも買いつつメインは当然神学なわけなんだけど色々と読んでて思ったのは特にバルトとかもそうなんだけど護教的なのってダメだなっていうかあんまり身にならないなっていうのがあるよね。

 

田川建三がバルトは30ページぐらいで話が済みそうなのを何千ページも書いてるとかってディスってたけどまぁこれって哲学あるあるっていうかそれ言い出すとハイデガーとかもそうだしサルトルとかも同じような話を永遠としてるだけだったりしてあとまぁポストモダン哲学とかもそうなんだけどとりわけバルトに至っては「キリストのみ」っていう究極の命題があってそれを補強するように色んなものを持ってきたり論を組み立てているっていう感じで帰結ありきだと読んでてつまらないよね。

 

なんで「キリストのみ」なのか?というのに永遠と何百ページも使ってるっていうのはなかなか読んでて疲れるからもうスキミングでいいかなーって気がしてきちゃったりね、ただやっぱその辺でブルトマンみたいな実存を軸に神学を考えるっていうのはいかに神や福音やキリストというものが実存とかニヒリズムの克服に繋がるのか?っていう変な言い方になるけど実学的なところがかなりあるから読んでてためになるというと変なんだけど永遠とキリストは偉大だ!ってことばっか言ってるっていうのよりかは知的刺激があるよね。

 

護教の場合、護教という目的があるからそのための理屈という感じがしちゃうのはしょうがないし無駄に同じことを何回も書くっつーのもしょうがないのかなっていう気がするしバルトの場合の危機神学ってまぁ第一次世界大戦からナチスに至るまで「この世界ヤバくね?」っていう凄まじい絶望があったからこその護教という歴史的コンテキストを踏まえなきゃいけないのは分かっててもやっぱり哲学的じゃないとつまらないってのはあるよね。

 

その辺だとやっぱりキルケゴールってすんげー偉大なんだなって今さら思ってるのよね。そういう護教だの神学だのっつーよりかは世俗的な教会とか世俗化したニーチェがディスってたようなキリスト教とかってのに痛烈な批判を加えつつ自分はどうしたらマジなキリスト者になれるのか?っていうことを求道的に追求していたっていうのがエックハルトとかに通じるものがあってんでまぁニーチェとかスピノザなんかもエックハルトがお気に入りだったみたいでやっぱりまぁ俺のフィールドってここなんだよね。心にグッと来るのが哲学的神学なんであって護教のための神学じゃないんだよね。

 

そういう意味でベルジャエフなんかもやっぱり哲学的なわけだし変な言い方になるけど世俗的な宗教とは違うキリスト教を求めるっていうのは超マイナーな行為なんだろうけど先人はいるからそういう先人から学べるところってのは多分にあるっていうところなんだよね。

 

だからまぁ神学をやるからには基本文献は全部読まないと!ってのがあったけど最近はもうなんかそういうのはどうでも良くなってきていてあくまで自分が引っかかるとか気になるっていうそういう勘所といっていいのか分からないけどそういうところを中心に攻めていく感じではあるよね。

 

あとまぁ個人が救われればそれが道元だったりブッダだったりしても良くない?ってところのキリストである必然性とかね。ただバルトを読んでてイライラするのがっていうかああいうタイプの神学者って大体そうなんだけどキリストは偉大だとか神は偉大だとか一人子がどうのとかっていうやたら偉大だのありがたいだのってことを最初に説いてんで「だからなんなの?」っていう中身が意外とスカスカっていうね。

 

バルトって著作が多いだけで過大評価されてんじゃね?って思うんだよね。なんつーか俺の思うキリスト教っていつも書くけどエックハルトが一番近くてまず最初に信仰ありきとか神は偉大だと認めるとか悔い改めるみたいなことではなくて真理を追究していった先にキリストが居るっていうようなある種の論理的な帰結なんだよね。

 

まぁ結局それはプラトニズムじゃん!って言われればそれまでだしプラトニストとしての俺はやっぱり変わらないんだなってのがありつつも理屈とかブキッシュな知識だけではない体験としてのキリストというのがあったから開眼したんだけどだからといって神は偉大だみたいなことを永遠に言い続けるみたいなことはナンセンスだと思うわけでなんで偉大なのか?とか西谷啓治みたいな京都学派で宗教学もハードにやってたような人たちが言うような神の感覚っつーのかね?

 

神学の神ってのがバルト的なやたら偉大だってばっか言ってて内容が無い空虚なもので護教的なものだとすれば哲学的な神というのは信仰の有無関わらずに必然的に見えてくる神だと思うんだよね。だから禅とエックハルトが比較されるというのも凄く分かるし
あとまぁエリアーデとかオットーみたいなやっぱり哲学寄りの人たちの神学とか哲学ってのが一番しっくりくるんだけど神学に一番必要なのは宗教的なもの全般に対するクリティークだよね。まぁ批判的神学っつーのかな?

 

やたら偉大だっていうけどなんで偉大なの?っていうことを問うというかさ、問うこと自体がタブーみたいになるのってもうただの崇拝で学問じゃないですよね。言葉を並べて実際は土人レベルのプリミティヴな神崇拝をしているのとあまり変わらないというね、そこはどれだけ大げさな言葉を並べても知性を全く感じないんだよね。

 

逆に威力のある神学というのは全く宗教とか興味ないどころかむしろ嫌いみたいな人が話なり論考なりなんなりを聞いたときに「なるほど!そこで神が来るんですね!」っていうハッとさせられるようなものっていうのかな?外部者には意味不明なジャーゴンと信仰はあって当たり前ですよね?っていう勝手にアプリオリになっているものを絶対崩さないっていうさ、そこの批評性が無いとどれもこれも結局はただの護教論に成り下がるよね。そういうのは自分も含めた真理を求める人にとっては全く価値が無いものだよね。

 

だから本質を見極めるというのは自分の実存的感覚と宗教的感覚とスピリチュアルというと胡散臭いけど唯物論的世界観ではどうにもならない何かがある世界っていうものに対する直感とか経験による洞察とかが無いといけないわけで勉強する時点で相当色々試される感じがあるよね。

 

信者になるのはアイドルのファンになるのと同じで簡単なんだけどキリスト教の本質を見定めるというのは本当に難しいと思うんだよね。だからこそ何回も書くけどそれは全く大衆に開かれていない狭き門なんだよね。でもその門を潜り抜けることができたものたちだけに神の国は約束されているっていうかなりユダヤ教チックな選民思想だけどそういう選民思想がユダヤ教ばりにあからさまに内在されているわけではなくて論理に必然的にそれが内在化させられてしまっているという感じだよね。

 

ってことで続きますんでんじゃまた。